人は何歳からでも挑戦できるのだ

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  マック店員 日本最高齢93歳 週4夜勤「働くことが好き」

 全国のマクドナルド店舗約2900店の最高齢スタッフ、薮田義光さん(93)=富山県砺波市=が、同県高岡市駅南の高岡駅南店で働いている。2019年から勤務を続け「働くことが好き。一緒に働く仲間の存在がとても大きい」とやりがいを語る。精力的な仕事ぶりは店を支えるばかりではない。同僚が「人は何歳からでも挑戦できるのだと感じる」と話すなど、その存在が周囲を元気づけている。(牧田恵利奈)

 薮田さんは定年退職までは電気工事士として、その後はゲームセンターの深夜スタッフとして働いてきた。24時間営業のマクドナルド高岡駅南店では夜の時間帯を含めて好きな時間に勤務できることに魅力を感じ、求人に応募。「家で時間を持て余していた。体も動くし、夜勤の仕事をしていたので大丈夫だろうと思った」と振り返る。/ 2019年に90歳で同店のアルバイトスタッフとして勤務をスタート。週4日、夜に5時間、客席の清掃やメニューの下ごしらえなどを担当している。/ 薮田さんの働きぶりについて、井本恭兵店長(36)は「店舗の清潔さが高いレベルで維持され、朝シフトに向けた準備もスムーズ。縁の下の力持ち的な存在」と太鼓判を押す。


 自身が全国最高齢のスタッフであることについて、薮田さんは「ピンとこない」と言う。同店の最も若いスタッフは15歳の高校生。働くメンバーの年齢差が一番大きい店舗でもある。若いスタッフと一緒に仕事することについては「もし意見が食い違っても、お互いを理解し合うようにしている」と語る。/ 勤務時間外に店舗に来てポテトとドリンクを買うこともある。健康の秘訣(ひけつ)は「水分補給と体を動かすこと」とし、「体が動くうちは働きたい」と意欲を語る。/ 日本マクドナルド(東京)は、日本第1号店オープン50周年を記念したウェブサイト「日本全国のいちばん店を訪ねて」で同店などを紹介している。(北日本新聞WEBUN・2021.08.30)

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 拙宅の前のMさんは元軍人で、女学校の教師だった方です。当地に来られる前は熊本におられたという。当年、九十七歳(昭和元年生れ)と言われます。今でも、ごくたまにですが、車を運転されて出かけられる。家の前を行き来するぐらいの散歩(約五百メートルほど)も欠かさない。会えば、必ず声をかけて下さいます。ぼくの周りでも相当に「高齢」の方が目につきます。病院や施設に入っておられる方もいないわけではありませんが、多くは「人生現役」というのでしょうか。高齢化社会というのか、「長生き時代」を実感しているところです。健康で長生き、それが「長生き時代」の根っ子になるといいと、ぼくは願っています。

 おふくろは百歳直前(四日ほど前)で亡くなりました。九十過ぎまで一人で暮らしていました。やがて脳梗塞を起こして入院、それから六年ほどは病院暮らしだった。その間数度、ぼくは帰京しつつ、見舞いに行った。記憶も意識も確かでしたが、だんだんと小柄になっていくのを見て、いろいろなことが浮かんできました。さすがに、最晩年は昏睡状態というか、呼びかけに対する反応がなくなっていたと言います。「長く生きる」ということについて、なにかと考えないわけではありませんが、なんとか元気で(健康体で)、あんまり人の迷惑にもならず(存在していること自体が目障りなんでしょうが、それは許してもらうことにして)、自分の足で立って歩けるように暮らしたいと、それだけを願っているような塩梅です。

 昨晩、京都の友人が電話をくれました。同い年です。「世捨て人」とか「隠居」というが、「君はどう考えているんだ」ということでした。世捨て人の「世」は世間でしょう。世間を捨てるというのは、口で言うほど簡単ではなく、自分では捨てたと思っていても、世間が放っておかないことがほとんどです。これとは別口に「世が捨てた人」というのもありますよ、とぼくは言いました。簡単に言うと、世を捨てた人は「出家」、つまり坊さんを指しましたが、今は違うでしょう。坊さんほど世のなかに食い込んでいる存在もないものだと言いたくなるような「僧侶」もいますから。「世が捨てた人」は、別の言い方で「無用者」です。世の中から「無用」と烙印を押された存在です。ぼくたちは、どこまで行っても、生きている限りは世の中から出られないんですね。口では言いますが、縁は切れないもののだ、そんなことを彼に話したのでした。

 出家遁世という表現の内容はさまざまでしょう。でも、それほど厳密にこの表現が使われてきたとも思われないのです。なかなか、世の中とは縁切りはできないからです。人生には、率直にいうと、「現役(働く時期)」と「引退(働かない時期)」という二通りに分けられる生き方の流儀(学校を終わるまでは働かない時期)があり、それで十分だとも言えます。そべては「生き方の流儀」「生かされ方の流儀」ですね。

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✖ とんせい【遁世】=世間を逃れること。世を捨てること。〈とんぜ〉ともいう。遁世した人のことを,〈とんせいしゃ〉〈とんぜいじゃ〉といい,中世には多くの遁世者が現れ,宗教者としてだけでなく,文学,芸能の面でも活動した。仏教のたてまえからすれば,出家して寺院に入ることは,遁世することであった。しかし,仏教を高度な外来文化を総合するものとして受容した日本では,寺院と僧侶は国家や貴族社会からさまざまな規制を加えられたために,寺院は第二の世俗というに近く,出家することは遁世にならなかった。(世界大百科事典第2版)

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 さらに「隠居」という言葉がさまざま場面で使われてきましたが、要するに、「現役を退くこと」を意味していました。人によって、時代によって「現役」の内容は異なるのでしょうが、おおよそは「代替わり」「家督相続」を指していった言葉だと思います。これは男(主夫)でも女(主婦)でも同じ。息子やその嫁に「主役の座」を譲り渡すことでした。「隠居しました」というのは、「現役を引退した」と取られることでもあったのです。今日では、運動選手でも会社の役員でも政治家でも、「今ある地位・職業」から退くことです。この言葉も古くから用いられてきましたが、いまでは、あまり使われなくなった。理由はしかるべき年齢になっても「現役続行」する人が多くなったからでしょう。実に慶賀すべき事態や現象でもありますが、背景には、いろいろな理由があるようで、一概に喜ばしいこととは言えないようにも思います。

✖ いんきょ【隠居】=煩雑な社会を逃れて山野に隠棲すること,官位を捨て家督を次代に譲って社会生活から遠ざかることを意味する。平安時代の貴族社会にあって隠居は退官を意味したが,武家社会では家督相続など家のあり方をあらわす重要な慣行となった。江戸時代の武家社会では,隠居と家督相続が同時に行われるのが普通である。隠居の契機は相続人の婚姻や,隠居人の年齢的肉体的諸条件による場合が多い。また江戸時代では公家・武家の不行跡者にたいする刑罰の一種で,不行跡者を現在の地位から強制的に退隠させ,法体させた場合も隠居と称されている。(同上)*法体(ほったい)= 僧形となること。剃髪(ていはつ)すること。また、その姿。僧の姿。僧体。(精選版日本国語大辞典)

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 昨日触れた「拾った命(百歳)」(「マスコット」編集長)の男性や、しばらく前に書いた「現役のインストラクター(九十三歳の女性)」など、バリバリの「人生現役中」の生き方をみていると、自分までもが「イキイキ」してくるような錯覚を持ってしまいます。多くの「現役人」は活計(たつき)(*「くらしを営むこと。また、そのための方法や手段。くらしむき。生計」精選版日本国語辞典)のための明け暮れを指して、そのように言ったのですが、生活の糧を得る得ないに関わらず、自分の足で立ち、自分の頭で考えることを止めていない人を、ぼくは「現役」といっても構わないと思っています。人生や生き方にランクを付けるのは嫌みたらしいし、美しくありません。もちろん自分の足で立てないから「現役ではない」などというつもりも、毛頭ありません。大事なのはご本人の気持ち(自立しようとする心構え)次第です。傍からとやかく言うことでもないのです。

 マックの薮田さんの姿を写真で見るだけで、「現役」というか、元気がいいなあ、健康だなあと言いたくなります。(今だに一度も、ぼく「マック」に入ったことがありません。「現役」でもないし、健康でもないんでしょうね)健康の秘訣は?と尋ねられた薮田さん、「 水分補給と体を動かすこと」、至言であり、「これぞ、実感」が籠められた表現だと思います。ものをいうより先に、体が動くというのはいいですね。「口より、手が早い」というのは困りもんですが。「勤務時間外に店舗に来てポテトとドリンクを買うこともある」というのですから、やはり「若い心」を持っておられるんでしょうね。

 働くというのは「金を稼ぐ」と同義ではありません。「自分で、自分を生かす」ことです。 その生かし方はそれぞれに経験から生み出されてきます。仕事というのも、今では「金銭ずく」になりましたが、「為すべき業」をいうのでしょう。年齢にかかわらず、「仕事」があるうちは「現役」だとも言えます。だから、ぼくは改めて自分に言い聞かせたんです。「後期高齢者」などという物理の本にでも出てきそうな不細工な表現は捨て去って、さらに「余生」とか「老後」などという、自分でも、他人からも「無用者」扱いする・されるような物言いを寄せ付けないないようにして、「その日を暮らす」、それが「人生の秘訣」かもしれないと言えるような気がします。「生きている」姿はいろいろですけれど、それこそが「人生現役」なんですね。

 (これから、かみさんの弟氏の何回忌だったかの「法要」が千葉市内の寺であります。雨が降っていますが、フットワークも軽く、出かけてきます。弟さんは、ぼくよりも二つほど年上でした。だから彼は、なんとも早くに「現役」を退いたことになります。合掌)(ただ今、午前八時過ぎ。帰宅してからまた書くかも。何時でも、ぼくは「書き下ろし」です)

 (午後一時過ぎに帰宅。適当な「校正」をしました。本文は変わり映えもしません。「年相応に」生きているつもりでも、それが他人には若いと言われる。そんな生き方ができないものかと思案しています。お寺の坊さんが「仏説阿弥陀経」を唱えられました。それに関してはなんの説明もされませんでしたから、蛇足ながら、以下に、「出だし」だけですが。「七回忌」だったそうです。帰路、お墓に参ってきました)

 仏説阿弥陀経
如是我聞。一時仏。在舍衞国。祇樹給孤獨園。与大比丘衆。千二百五十人倶。皆是大阿羅漢。衆所知識。長老舍利弗。摩訶目犍連。摩訶迦葉。摩訶迦旃延。摩訶倶絺羅。離婆多。周利槃陀伽。難陀。阿難陀。羅睺羅。憍梵波提。賓頭盧頗羅墮。迦留陀夷。摩訶劫賓那。薄拘羅。阿㝹樓駄。如是等。諸大弟子。并諸菩薩。摩訶薩。文殊師利法王子。阿逸多菩薩。乾陀訶提菩薩。常精進菩薩。与如是等。諸大菩薩。及釋提桓因等。無量諸天。大衆倶。(以下略)(ぼく流の解説を、つたないながら、いつかしてみたいですね。これまでに何回、この「お経」を聞かされてきたことか)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)