拾った命。好きなことをしてみたい

「家族新聞70年」ギネス申請 高知市の松本さん一族、編集長100歳記念号発刊

編集長の松本健夫さん=中央=を執筆メンバーで囲む。おいっ子の孫の女の子=手前=らが手にする「百歳記念号」(写真はいずれも高知市一宮中町の松本さん宅)

 25人が多様な記事

 高知市一宮中町の松本健夫(たてお)さん(100)の一家親族が戦後70年にわたって書き継いだ家族新聞「マスコット」。3年前に休刊していたが、親族が久々に原稿を寄せ、100歳となった健夫さんを祝う記念号を8月に発刊。親族の一人はギネス記録にも申請した。「世界一長く続いたファミリーペーパー」と認定される日は近い?かもしれない。/ マスコットは南方戦線のラバウルから安芸郡和食村(現芸西村)へ帰還し、地域の川柳誌を発行していた健夫さんが「拾った命。好きなことをしてみたい」と、1949年8月に兄弟姉妹や母親、妻らと作り始めた。/ 高知市のほか四万十市、香川、岡山、大阪、北海道など各地の親族や子や孫にも広がり、年数回のペースで休まず発刊。50人以上が日々の出来事や文芸作品、漫画、コラムなどを思い思いに書き、健夫さんの家で冊子に編集。戦後の創刊号から2018年6月まで154号を作った。

(⇦)記念号の表紙や裏は10代の健夫さんの絵が飾る。カラー紙面も配し、「本当に面白くて毎日読んでます」と妻の幸恵さん。手前は平成半ばのマスコット

 「世界で一番長く続いた家族新聞ではないか」と考えた親族の1人はこの6月、英国のギネス・ワールド・レコーズ社に申請。先ごろ同社から、申請の登録が済んだことと、これから正式審査に入る旨の書面が届いた。/ 編集長の健夫さんは4月で100歳になり、妻の幸恵さん(92)と自宅で元気に過ごす。「もしギネスに認められたらびっくりじゃ。戦争から生きて帰って、こんなに続くと思わなかった」

 家族新聞の原点にあるのは草創期のメンバーが共有する戦争体験だ。兄と編集を担った松本紀郎(みちお)さん(92)=高知市東秦泉寺=は「今読み返すと、戦争を振り返る貴重な記録も多い。満州から奇跡的に生きて帰れた乳飲み子たちは、その後大きくなり、マスコットの書き手にもなった。みなの成長、近況を知る便りの場であり、自分を飾らずに出せる場でした」。

 記念号は週刊誌サイズで90ページ。100歳を祝う集まりをコロナ禍で持てず、「一番喜ぶ家族新聞を久しぶりに作ろう」と一決した。/ 小学4年生、大学生から100歳まで25人が寄稿。わが子を巡る爆笑記、母となった日の神秘体験や会社員時代の秘録、ライトな近況報告、時事コラム、戦争や戦後の随想など多種多様の記事を満載。紀郎さんらが編集し、40部を作った。/ 健夫さんは「見てオッと驚いたよ。ようできてます」とさわやかに笑った。(石井研)(高知新聞・2021.08.31)

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 「日記文学」というジャンルが、長期にわたって成立している社会です。おそらく数えきれないほどの「日記」がこの島のいたるところで蓄積されてきたし、今も営々と重ねられていると思います。自分だけの日記、これが本来の用途だったかもしれませんが、その自分の心覚えのような記録を、なんと八十何年も続けてきた方がおられました(このブログのどこかで触れています)。三日坊主の典型として「日記」の継続は困難であることが挙げられますが、理由はそれぞれです。書きたいものがホントにあるのか。とはいえ、人間は何かと「記録」に残したいという、ある意味では深甚な欲求を持っているともいえます。いろいろな人が日記を残しています。現代では、もっとも有名なのは永井荷風でしょうか。

 『断腸亭日乗』はしばしば、いろいろなところで何かと引用されてきました。ぼくも何かの折に、何度も読みだしたことがあります。「断膓亭日記巻之一大正六年丁巳九月起筆 永井荷風」と記して、「日乗」を開始しています。ここまでくると、一つの文学といってもいいのでしょう。偏屈男、四十二年間の時代史でもありました。

〇九月十六日、秋雨連日さながら梅雨の如し。夜壁上の書幅を挂け替ふ。碧樹如烟覆晩波。清秋無尽客重過。故園今即如烟樹。鴻雁不来風雨多。姜逢元等閑世事※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)。万古滄桑眼底収。偶□心期帰図画。□□蘆荻一群鴎。王一亭先考所蔵の畫幅の中一亭王震が蘆雁の図は余の愛玩して措かざるものなり。
◯九月十七日。また雨なり。一昨日四谷通夜店にて買ひたる梅もどき一株を窗外に植ゆ。此頃の天気模様なれば枯るゝ憂なし。燈下反古紙にて箱を張る。蛼頻に縁側に上りて啼く。寝に就かむとする時机に凭り小説二三枚ほど書き得たり。


◯九月十八日。朝来大雨。庭上雨潦河をなす。
◯九月十九日。秋風庭樹を騒がすこと頻なり。午後市ヶ谷辺より九段を散歩す。
◯九月二十日。昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石国手の来診を待つ。そも/\この陋屋は大石君大久保の家までは路遠く徃診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんが為めに借りたるなり。南鄰は区内の富豪高嶋氏の屋敷。北鄰は待合茶屋なり。大石君の忠告によれば下町に仮住居して成るべく電車に乗らずして日常の事足りるやうにしたまへとの事なり。されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀ふのみ。此夜木挽町の陋屋にて独三味線さらひ小説四五枚かきたり。深更腹痛甚しく眠られぬがまゝ陋屋の命名を思ふ。遂に命じて無用庵となす。

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▽ 断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)=永井荷風(かふう)の日記。1917年(大正6)9月16日から死の前日59年(昭和34)4月29日に至る42年間の記録。46年3~6月の『新生』掲載の「罹災(りさい)日録」で注目され、その後『中央公論』などに数次発表、また刊行された。起筆当時の住居「断腸亭」にちなむ命名。傍観者的な眼(め)によって、四季の風物、時勢のようす、風俗の推移、女たちとの交渉の顛末(てんまつ)、読書感想などが記されている。記録者の「偏奇」を貫く強烈な個性が、観察のいちいちに沁(し)み透(とお)っている。しかし、45年(昭和20)3月10日東京大空襲・偏奇館(その後の住居)炎上に始まる罹災日記は、一個の特異な文学者の記録であるだけでなく、国民的体験を写し残したものというべきであろう。[竹盛天雄]『『永井荷風日記』全七巻(1958~59・東都書房)』▽『『断腸亭日乗』全七巻(1980~81・岩波書店)』(日本大百科全書)(右は「日乗」中に挿入されている荷風自筆の挿絵)

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 高知の松本さんたちの「家族日記」は、当初はいざ知らず、ついには一家眷属の「総合雑誌」の感がしてきます。多分、このような種類の記録も、世に知られていないだけで数限りなく残されているし、今もなお記録されているでしょう。実に貴重なことだと思います。これと類似した「記録」に写真があります。まして今日のような誰もがスマホを持つ時代になると、何でもかでも「写」ですから、人それぞれに、自分史家族史友人̪史などを記録していることになります。ぼくの好みから言えば、記録は「文字」に限るとは言わないまでも、文章にはいろいろな余韻が漂うという点で、写真よりも好ましいように思われます。昨日駄文をのこした「徒然草」も、一面では兼好さんの「日記」であるし、「方丈記」もまた長明の日録であるとも言えます。短編長編取り混ぜての文学作品は、その多くは、筆者の「日記」だと理解できなくもありません。それほどに人は「自分の内側」を語りたいだけではなく、他人の目に触れてほしいという願望を持っているのかもしれません。

 理屈はこれくらいにして、「マスコット」の初期は、やはり戦争体験であり、戦友の消息便りでもあったでしょう。「大文字の歴史」などと称して、権威や権力がある意図をもって書く歴史がありますが、とくに「戦争史」になると、読むに堪えないものが多くあるのは理由のないことではありません。「戦事武勲」を求めて、軍人らが記録者に無理難題を要求したという話はよく耳にします。戦争そのものの是非ではなく、己の勲功を競って膨らませるのが「戦史」であったからです。こんなに「優秀な軍人たちがいた」にもかかわらず、なぜ負けたのかという奇怪な事態を招来してきました。大将たちが勲章をもらうための「戦争」だったという、実に怪しからん成り行きだったかもしれません。

 そこへ行くと、「マスコット」に限らず、個人レベルの、戦争体験の記述は、「それなりに正確」であったろうと思われます。たとえ誇張や歪曲があったとしても及ぶ影響は、公的な「戦争史」の比ではなかったのです。この「マスコット」はまた、戦後を一貫した「家族を核とした世代間の精神の交換」ともなったであろうことは容易に想定できます。機会を見つけて、このような様々な立場で書かれた「日記」の読書体験をゆっくり楽しみたいものだと願っているのです。

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<中隊長は開口一番「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだのだから、おまえも死ね」と言う。体は疲れてフラフラだったが、一日の休養もくれない。それ以来、中隊長も軍隊も理解できなくなり、同時に激しい怒りがこみ上げてきた。>

これは、「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)に書かれた、漫画家の水木しげるさんの回想だ。

2015年に93歳で亡くなった水木さんは、太平洋戦争の最前線であるニューブリテン島のジャングルで、九死に一生を得た経験がある。ゲリラの襲撃で所属部隊が水木さんを残して全滅、命からがら生還したのだ。当時22歳だった。(https://www.huffingtonpost.jp/entry/mizuki-shigeru_jp_5f37817dc5b6959911e4dd57)

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〇総員玉砕せよ!=水木しげるによる漫画作品。ラバウル10万の将兵の捨て石としてバイエン支隊500名が玉砕するまでを描いた、自伝的戦記。描き下ろし作品。講談社から1973年に全1巻で刊行された。副題は「聖ジョージ岬・哀歌」。2009年アングレーム国際マンガ祭遺産賞、2012年アイズナー賞国際賞アジア部門受賞。2007年NHKで「鬼太郎が見た玉砕水木しげるの戦争」のタイトルでドラマが放映された。(デジタル大辞泉プラス)

 戦時下の昭和十五年、内地では「南洋航路」という唄が流行りました。後に「ラバウル小唄」と改題されて、昭和二十年に再発売されました。この時期、現地では死線を彷徨(さまよ)いながら、死地に活路を見出すべくもない、数多の兵士が死に向かって行進していたのです。今なら断言できます、「いい気なもんだ、銃後の連中は」と。銃後の守りとか、「欲しがりません、勝つまでは」という威勢ばかりがよくても、根拠も何もなかった、「空元気」で、内地も殺気立っていたのではなかったか。それを見抜いていても、大ぴらには言えなかった。じつに狂気が充満・沸騰していた時代でした。(昭和二十年、ぼくは「虫けらのような状態」で生かされていた)これを「軍歌」(どうみたって、「お座敷小唄」でしょう)とは言わないでしょうが、ぼくは小学校入学前には口遊(ずさ)んでいたのです。何が、ぼくの受信機に届いたのでしょうか。いまもって、「謎」です。 

(本駄文の「冒頭部」はパプアニューギニアの海中写真)
ラバウル小唄 作詞:若杉 雄三郎 作曲:島口 駒夫

さらばラバウルよ 又来るまでは
しばしわかれの 涙がにじむ
恋しなつかし あの島見れば
椰子の葉かげに 十字星

船は出てゆく 港の沖へ
愛しあの娘の うちふるハンカチ
声をしのんで 心で泣いて
両手合わせて ありがとう

波のしぶきで 寝れぬ夜は
語りあかそよ デッキの上で
星がまたたく あの星見れば
くわえタバコも ほろにがい

赤い夕陽が 波間に沈む
果ては何処ぞ 水平線よ
今日も遙々 南洋航路
男船乗り かもめ鳥
(元歌は昭和十五年の「南洋航路」(作詞・作曲は同じ)

 この「ラバウル小唄」を、ぼくはさかんに歌っていた記憶があります。歌詞も何もわからないままで「椰子の葉かげに十字星 ♪」「 声をしのんで 心で泣いて ♪」などと唸っていたのです。今考えても、ゾッとしますね。空恐ろしいというべきか。ぼくだけがこのような趣味を持っていたのではなかっただろう。周りの大人たちが事あるごとに酒宴を開き、そこで蛮声を張り上げて歌っていたのを、門前の小僧、習わぬ「小唄」を歌うということだったか。あるいは「南の島に雪が降る」という芝居(俳優・加東大介作)によって、その記憶が増幅されたのかもしれません。ぼくはこの芝居を観たように思います。加東さんは沢村貞子さんの弟でした。ニューギニアで戦争体験がありました。戦後しばらくは、この島では「戦時体験」の嵐だったようにも思われてきます。

 その後の水木しげるさんの「ラバウル戦記」が、決定的な影響を多くの人に与えたのでした(初版は1994年)。水木軍曹の描く戦時体験は、およそ「ラバウル小唄」とは似ても似つかない、阿鼻叫喚の世界でした。戦地での全滅を隠蔽するための、内地における「陽動小唄」だったという感が強くしてきます。「侵略」が「進出」に、「全滅」が「玉砕」に、これもまた、なまなましい「歴史改竄」の現場風景であったのです。

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✖ 教科書事件(きょうかしょじけん)=1982年と 1986年に日本の歴史教科書をめぐって生じた日中間の外交事件。1983年から高等学校で使用される歴史教科書の検定(→教科書検定制度)において,文部省が,「華北侵略」を「華北進出」に,「中国への全面侵略」を「中国への全面進攻」に修正させ,南京大虐殺発端を「中国軍の激しい抵抗にあい,日本軍の損害も多く,これに激昂した日本軍は多数の中国軍民を殺害した」と変更させたと,1982年6月に報じられた。これはのちに誤報と判明したが,中国はこの歴史教科書検定の報道をうけて「歴史の真相を歪曲するものであり,同意できない」と抗議し,文部省の検定した教科書の誤りを正すよう日本政府に要求した。この問題は同 1982年9月以後,日本側が教科書を修正するかたち決着をみた。また 1986年,中国は「日本を守る国民会議」が編集した高等学校用教科書『新編日本史』の多くの記述が歴史の事実に反するとして日本に抗議し,修正を求めた。中曽根康弘内閣総理大臣は文部省に再検討を要請し,教科書の修正によって問題の発展は回避された。(ブリタニカ国際大百科事典)

✖ 玉砕(ぎょくさい)=第2次世界大戦中の 1943年5月 30日,アッツ島の戦いで日本軍守備隊が全滅したことを大本営が発表するときに使った言葉。以後部隊が全滅したり,壊滅すると,「瓦でまっとうするより,玉のように美しくける」というの「瓦全」「玉砕」という言葉を用いた。『北斉書』元景安伝から取ったもの。(「寧ろ玉砕すべきも瓦全する能(あた)わず」(同上)

(藤田嗣治画・1943年5月の北太平洋アリューシャン列島「アッツ島における戦闘」を描いた「Final Fighting on Attu」1943年制作)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。