the pain of strangers is shared.

Chris Mora of California sits in the art installation “In America: Remember,” which features flags representing every covid-19 death in the United States. (Craig Hudson for The Washington Post)(*Chris Mora is Aftersales Manager at Singer Vehicle Design. by S.Y.)

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Covid-19 memorial in D.C. gives Americans a place to reconcile their loss

The ongoing pandemic has left hundreds of thousands of Americans grieving in isolation. A public art installation on the National Mall provides a space to mourn as a nation.( By Vanessa G. Sánchez Today at 12:00 p.m. EDT)

Walking through the hundreds of thousands of white flags blanketing 20 acres of the National Mall to honor the Americans who have died of covid, visitors stop to write a few words of farewell on the flags themselves. They are goodbyes that many never had a chance to say in person. It is an intimate goodbye. And a national one.

Friends, families and other relatives of covid victims have made their way from all corners of the country to see “In America: Remember,” a public art installation by Maryland artist Suzanne Brennan Firstenberg, which honors the more than 680,000 people in the United States who have died because of the coronavirus. Each flag in the exhibit, which continues through Sunday on the grounds surrounding the Washington Monument, represents a life taken.

Hundreds of rows of flags distributed in 149 sections. Each flag a foot from the ground. A sea of white. The immensity of loss is breathtaking. Installation of the exhibit took workers, including more than 300 volunteers, three days to complete.(Omitted below)(https://www.washingtonpost.com/education/2021/09/29/covid-flag-memorial-washington/)

The shadow of the Washington Monument stretches over the memorial. (Craig Hudson for The Washington Post)

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 以下、記事の中からの抜粋です。

Firstenberg was inspired to create the art installation after hearing remarks that covid-19 deaths were just a statistic. “I thought that it’s my responsibility to do art, to stop people in their tracks and make them think about what is happening,” she said.(Firstenbergは、コヴィッド-19による死は統計でしかないという発言を聞いた時、「作品を作るのは私の仕事だと突き動かされた。作品を作り、多数の人たちの足を止めさせ、いったい何が起きているのかを考えさせるのが自分の責任だと考えたのです」と言うのだ)

Flags in the installation include personal messages. (Craig Hudson for The Washington Post)

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Visitors to the exhibit, situated across Constitution Avenue from the White House and the Ellipse stop at a table to pick up a marker to personalize a flag with a simple thought or a message for their loved one.

The public memorialization of the lives lost during the pandemic has shown people that they are not alone in their pain, Firstenberg said.(コロナ大感染の最中に亡くなったいのちを、みんなで記憶する、それというのも、苦悩しているのは自分だけではないということを明らかにするからです、と Firstenberg は言いました)

“People can bring their grief here. It’s a safe space,” she said.(「人はここきて、自らの悲しみを明かすことができる、心休まる空間なんです」と、」彼女は言った。

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Bethesda artist Suzanne Brennan Firstenberg at her flag installation marking COVID-19 deaths. Photo by Jonathan Thorpe(|Bethesda Magazine:MARCH 22, 2021 | 9:22 AM)

 さまざまな履歴を重ねて、自分の芸術的才能を確信し、開花させてきた女性、それがFirstenbergさんでした。詳細は略しますが、彼女は昨年の十月ころから、この「In America: Remember」を考えて、実行してこられたのでした。この the National Mall はおよそ20エーカーといいますから、約2万5千坪ほどの面積です。ここを、コロナで亡くなった全米の死者約68万人を超える方々を追悼する空間にしたのです。

 この空間は<gives Americans a place to reconcile their loss>、喪失を経験したアメリカ人に、それを受け入れさせる場となる、と。いまなお増えつづけている犠牲者は、毎日新たな「白い旗」として加えられていくのです。(参考までに、全米の感染者総数は43.341.542人、死者は695.232人です。九月二十九日現在)

 また全米各地から、この「空間(a space to mourn as a nation)」に来られない人のためにいくつもの方法が講じられていて、その役割を果たすのに多くの学生が参加しているという。

 このワシントンポストの記事を読んでいて、記事そのものがじゅうぶんに「死者を悼む」ための心持ちをもって書かれているということを痛感したし、その「悼み」を表現するにはこれだけのスペース(四百字詰め原稿用紙で十枚は軽く超えるか)が必要であるということもまた、ぼくは思い知らされた。(記者は「インターン」だと言いますから、見習い、あるいは記者になるための実習生です)「ひるがえって、この島の…」ということは言わない。すくなくとも、峻厳かつ厳粛な現実に、真っ向から向き合う姿勢というか態度というものがあります。それは「真摯」であり「誠意」でもあるというのでしょう。どこまでも貫けるような「人間の誠実さ」を、ぼくは自分の胸に問い続けたいと、あらためて痛感したのです。

( 記事を書いたのは、Vanessa G. Sánchezさん。 Sánchez is a reporting intern for The Washington Post´s Education department.)(まだまだ若い人のようです。期待したいですね)

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 大災害、大災厄の死者は「統計」の数字では表されない。ではどうするか、人間としての「責任」と「誠実」の表明が、一人の「芸術家」によって敢然と実行されたのです。「責任」も「誠実」も、けっして数値化はできないし、現金化も不可能なんです。その当たり前の事実を、ぼくは、ひとりで噛みしめている。

 見ず知らずの人であっても、理不尽な「死」というものがあるとすれば、その「死を悼む姿勢」というものがあるでしょう。ぼくは、このコロナ禍にあって、意に満たない「死」、受け入れがたい「無念の死」を蒙った多くの人に言い知れぬ「哀しみ」と「悼み」を痛感しています。死を受け入れるのは、関係者だけではない。あるいは、「ぼくの代わりに」「私に代わって」亡くなられたのかもしれないのです。ぼくの脳内に「犠牲(sacrifice)」という語が去来している。寿命が尽きてなくなるのとは違って、「無念の想い」を残して亡くなったという感情が湧き出る。それが「犠牲」であるとするなら、何のためであったのか、それをぼくは、つらつら考えている。

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 呼び名は「長月」でしたが、さまざまな「悲哀」を刻印して、あっという間に過ぎ去ります。明日からは「神無月」という。この島の出雲とかいう地だけは「神有月」だとするなら、好事はすべて「出雲」ということになります。そして「好事魔多し」ともいうのですよ。果たして、どうなりますか。この島社会の先行きは「不透明」どころではなさそうで、「暗黒の暗闇」に突入する「黒牛の集団」のような、前後左右の見分けすらつかない、暗澹たる漆黒の闇であり、さながら深さも知れず、手探りもならぬ「闇穴(あんけつ)」に、真っ逆さまに堕ちるが如くです。(追記 二日前から、猫が帰ってきません。今までも時にはあったのですが、今回は妙な気がしています。先程、小一時間ほど近間を探しがてら歩いてきました。この付近には「夜行性の動物」が文字通り、「百鬼夜行」をしているようです。果たしてわがネコ君(一歳半の♂)は無事に帰還できるか)

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空狭き都に住むや神無月 (漱石)  ・拍手もかれ行森や神無月 (横井也有)  

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 此世の田刈らるべきもの刈られ果て

 

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 【北斗星】薄墨で描いたような雲が赤く染まっていた。家路を急ぐ足が思わず止まる。美しい夕焼けに、一日の疲れが癒やされていく。日一日と秋の深まりを感じる。そんな季節だ▼県内では平年より早いペースで稲刈りが進む。黄金色の田んぼの隣には刈り終えた田。刈り株から青い葉が出ている。ひこばえだ。霜で大半が枯れたり、穂が出ても中身が空っぽだったりするという。それでも刈り田を青々と染めている。その様子に命の力を見る▼スーパーにはあきたこまちの新米が並ぶ。お気に入りの湧き水で炊いてみた。茶わんの中で粒々が輝く。口に入れるとコメの香りと甘さが広がった。塩ザケや漬物などで食べると、うまさが際立つ。「やっぱり新米だな」と笑みが出る時だ▼ただ不安もある。おいしいコメをこの先もずっと食べ続けられるのだろうか。心配なのは地球温暖化の影響だ。深刻になると、今世紀末に全国のコメ収量は20世紀末より約2割減少。粒が白く濁って割れやすい低品質米も大幅に増える―。国内の研究機関が約2カ月前、そんな予測を出したからだ▼今年の本県の作柄(8月15日現在)は「平年並み」の見込み。気候変動の中でも質の高い新米を食べられるのは農家が手をかけ、汗水を流して育ててくれたからだ。田んぼで作業する姿を見るたびに稲刈りの季節が待ち遠しかった▼新米のおむすびを頬張る。ゆっくり優しくかんで味わう。今はただ、1年ぶりの貴重なコメを感謝していただきたい。(秋田魁新報電子版・2021/09/28)

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 普段、徘徊に足を運んでいる田圃一帯は、もうすっかり刈り入れも終わりました。このあたり劣島でも最も早くに田植えがされ、したがって刈り獲りも早くに終わるのです、八月末には済んでいました。今日は、全農家がコンバインを使いますから、あっという間の「刈り獲り」「脱穀」「乾燥」です。これがすべて、たった一人でできる。昔日の感を深くするばかりという「浦島太郎」です。ぼくは農家の出ではありません。しかし田舎(新潟や石川)の親戚には農家があり、米を中心に盛んに農業を営んでいますから、まんざら、田植えや稲刈りに無縁でもなければ、無関心でもいられないのです。

 小学校に上がる前から、ぼくは農繁期には一人前のような恰好で「田植え」や「稲刈り」を手伝わされました。今から七十年以上も前のことです。石川県の中程にある能登中島という農村で、それなりの「カルチャ(culture)」経験を重ねていたのです。カルチャーの原義は「耕作」「栽培」です。荒れ地を耕し、そこに種をまき、水や肥料を与えて、育て、ついには収穫を得る、この一連の過程が「文化=カルチャー」でした。(その意味では、教育もカルチャーですね)幼少期の田舎の経験が、その後の人生にいかなる影響を及ぼしたかは定かではありません。しかし、ぼくは農業というか、種から育てて開化や結実を見る、その過程に大変興味をいだくようになったのは、実に幸いだったと思う。ものを育てる、「成長」「生長」というものが、それ本来の「素質の開化」であり、「結実」であるという実感が、大きくなってから教師の真似事をするようになって、大変な備えになっていたのではないかと考えたりします。農業(agri+culture)は、荒れ地を耕し、耕作に適した地にすることです。 野生を、人間の働きかけによって、よりいいものに育てるのでしょうね。だから「文化=culture」も、一つのART(人為)です。

 苗床で苗を育てる、苗代を作る。土起し、田の代掻き、田植え、草取り、虫封じ、稲刈、稲架掛け、脱穀、…。このような一連の作業が地域総出の日常であったことは、人間集団にさまざまな約束や性格を与えることになります。結・巻などという「結合の力」を示す言葉は多い。それが地名になったり、姓名になったりしている場合もあります。農(作)業は、個別・孤立しては立ち行かない側面を持っています。集合の力を得て初めて成立する。規律や協同を重んじる気風は、多くは農村社会から生まれたものでしょう。その規律を認めない者には「村八分」というサンクションが加えられてきたのです。小さいながらに、どこまでこの農業風土というものを理解したか、おおいに疑問ではあります。けれども、大なり小なり、この島社会の気風、それは前時代まで続いていたものです、それを自分も身に着けているとみなすと、なんだか奇妙な気もします。この社会は歴史の大半が「農業社会」として、時を刻んできました。史学者の網野善彦さんは「敗戦までは弥生時代」というようなことを言っておられた。

● 結(ゆい)=語源的には結う、結ぶ、結合、共同などを意味し、地域社会内の家相互間で行われる対等的労力交換、相互扶助をいう。地方によってはイイ、ユイッコ、エエなどとよばれ、また中国・四国地方のように手間換(てまがえ)、手間借(てまがり)と称する所もある。結は催合(もやい)とともにわが国の伝統的な共同労働制度の一つであるが、催合の慣行がかつて漁村で盛んで現在は衰退しつつあるのに対し、結は農山村で盛んで、現在も田植、稲刈りなどさまざまな機会に行われている。結における労力交換では、多くの場合、働き手として出動する個人の労働力の強弱はあまり問題とはされないが、一人前の人間が1日提供してくれた労力に対しては、かならず1日の労働で返済することが基本で、金銭や物で相殺することを許さない点に特徴がある。結は農耕作業で行われることが多く、起源もそこにあると考えられるが、実際の機会はそれにとどまらず、屋根の葺替(ふきか)え作業における茅(かや)の切出しや縄ないなどでもよく行われた。/ そのほか奇抜なものとして、秋田県では共同で按摩(あんま)の練習をすることを結按摩とよんでいたし、結で髪を結い合うなどの例もあり、結の意味が共同という範囲にまで拡大して解釈されることが少なくなかった。(ニッポニカ)

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 本日は午前九時前に「猫」を連れて病院へ。ワクチン接種でした。人間ではなく、猫の方です。ついでに「白血病」「猫エイズ」の検査をしてきました。無保険でしたし、「二人いっしょ」でしたから、大枚の金員が飛び出していきました。消えた金員を取り返すために、何か芸を教えるという魂胆もなく、この生後半年近くの「二人いっしょ」は、来週末には避妊と去勢の手術です。というわけで、荒れ庭の草取り(九割がたは終わっています)も残っているし、このところは散歩もできず、しかも週末には「台風」襲来が予想されています。この近辺の稲刈りは終わりましたが、これからというところは、大変に気がかりなことです。

 「はさ(はざ)」という語をご存じでしょうか。いろいろな漢字が当てられますが、元の意味は一つだったろうと思われます。「稲架」という字が一般的です。刈り獲った稲束を乾燥させるための「木組み」です。形式はいろいろで、各地で異なります。今は、どこにでも見られる景色ではなくなりました。ぼくはこの稲架の稲かけをさかんに手伝わされました。なかなかの重労働だったという感覚が残っています。(下の写真の中に、二枚ほど出してあります)ここで「天日干し」してから、脱穀します。これも今はコンバインですが、ぼくは「脱穀機」を使ってやらされました。(左の写真)

● はさ【稲架】=刈り取った稲束を乾燥するための木組み。手刈りまたはバインダーで刈取り・結束した稲束の乾燥法には,大別して地干し,立干し,架干し(かぼし)および棒掛けの4種類がある。このうち架干しのために用いられるのが稲架である。稲刈り直後のもみは約20%の水分を含むが,乾燥後のもみの水分は15%程度まで減少し,脱穀・調製やその後の貯蔵に好適となる。稲架には地方により種々の形式があり,その呼称も,はざ,いねかけ,いなぎ,いねぎ,かかけ,おだ,あし,だてなど多様である。(世界大百科事典第2版)

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 続けて行っても切りもありませんので、雑談はこれで終わり。最後に一つだけ。米の生産と消費問題です。よく指摘されていますが、コメの消費が年々減少していること、やがて、今以上に大量の輸入米が入ってくると、コメ農家は壊滅するかも知れません。外国産に、価格面で太刀打ちできないからです。TPPはどういう働きをするのか。農業危機の、その兆候は今もあります。

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 一人当たりのコメ消費量が右肩下がり。この島の米生産は「コシヒカリ偏重」、さらに「生産量」も右肩下がり、という状況は方向転換する兆しはありません。この先に展望があるのかどうか。今でもやっているのか、ぼくは知りませんが、文科省が一時期、大きな税金を投入して、「早寝早起き、朝ご飯」というキャンペーンを張っていました。(文科省は、農水省の下請け?)効果の程はどうだったか。

 つい数日前、ぼくはスーパーで、今年の新米「ふさおとめ」(5㎏)を買いました。夫婦二人で、おそらく二か月は持ちます。ぼくはほとんど(コメの)ご飯は食べないから、夫婦で、年間60㎏の消費がせいぜいでしょう。(半人前というところで)成人の一人分です。これでは消費量が減るはずです。ぼくは以前は「酒のみ」でしたから、お米(多くは山田錦)の消費量は相当なものでした。今はその反動かもしれない。 

 食糧自給率も4割を切っています。3割バッターですな。ぼくが心配しても仕方がない問題ではあります。もっとも、自給率のとらえ方、あるいは原料や材料の理解の仕方で数値がちがってきますから、この4割未満は正確ではないでしょう。しかし、「瑞穂の国」としては、根幹が揺らいでいるとも言えます。マックやケンタッキーをたらふく食べて、「大和魂」もいいかもしれない。国際色豊かというのか、ディアスポラも結構というのか。一国主義が抵抗を受ける時代になってきましたから、多方面での「国際色」というのは一つのトレンドなのかもしれないし、その方向に進むことに、ぼくは異論を持ちません。

 しかし、国籍や民族の魂とか何とか、五月蠅いことを抜きにして、国際的な人民の寄り合い(町内会)とでもいうような、そんな異質者との付き合い方は、じっくりと学んでおいた方がよさそうです。世界の政治地図は、ぬりかえられることになるのか、あるいは危機を孕んだままの膠着状態が「常態」となるのか、コメの問題をきっかけに考えてみるいいテーマかもしれないんですね。

 今日の夕食の食材を一つひとつ、これはどこ、あれはどこというように、丁寧に仕分けすると、じつに豊かな国際色が、テーブルの上で花開いていることを確認できるかもしれません。国産の野菜や果物だって、外国人が育てたのかもしれませんね。日本という島国は、孤立しては存続できないのです。自らの位置を知ることは、これからの生活に重要な契機となるでしょう。一人一人がすでに、自分の中に自分流の「世界地図」を持っているんですよ。

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此世の田刈らるべきもの刈られ果て(中村草田男)(意味深な句ですね)

稲を刈る音思ひ出のなかにあり (飯田龍太) (龍太氏は山梨産。往時を偲んで一句)

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 雲耶山耶呉耶越 水天髣髴青一髪

松浦直治

 【水や空】水や空60年 見分けがつかず、ぼんやりしていることを「髣髴(ほうふつ)」と言うらしい。江戸後期の史家で文人、頼山陽はこんな漢詩を残した。〈雲か山か呉か越か、水天髣髴 青(せい)一髪〉▲はるかに見えるのは雲か山か、それとも呉の国、越の国か。海と空の境目はおぼろげで、青く一筋の髪の毛を置いたような水平線がかすかに見える…。内輪の話で恐縮だが、この欄「水や空」の初回は、この詩の引用で始まった。きょうで開始から60年になる▲その前は別名だったが、本社の先輩である故松浦直治氏が主筆として他紙から本紙に迎えられ、改題した。松浦氏はコラムを13年続け、第1回日本記者クラブ賞を受けている▲水平線を表す「青一髪」を和風にしたら「水や空」になる、と初回のコラムは続く。海とも空とも見分けのつかない境目に引かれた、青い一筋。コラムはそうでありたいと願いを込めた▲政治であれ何であれ〈良識にもとづく批判や感想が水や空なる一線をつらぬいているとき、読者に信頼感をもたらす〉と。身を縮ませて、60年前の“宣言”を読み返している▲物事には光と影、ほんととうそ、本音とまやかし-と、境目があいまいで、見分けのつかないことはいくらでもある。微力と知りつつ、そこに青一髪を引き、はっきりさせること。往時の宣言は教訓でもある。(徹)(長崎新聞・2021/09/25)

 ◇ 松浦 直治(長崎新聞社論説室顧問)新聞界に入って以来半世紀、ジャーナリストとして健筆をふるってきた。朝刊コラム「水と空」は、その博識と時宜を得た論評で高い評価を受け、県民の社会的、文化的な知識の啓発に寄与したことも評価された。「日本記者クラブ賞」(第一回)受賞(1974年度)(日本記者クラブHP:https://www.jnpc.or.jp/outline/award)〔・「長崎の歴史 開港400年」(1970年)・「増補長崎の歴史」(1974年)・「長崎方言ばってん帳 : 唐・南蛮・紅毛なまり」(1974年)などなど〕

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 勤め人をしていた頃も、新聞は読んでいたし、とくに「コラム」には目を通すようにしていました。とはいえ、いまのように、ネット時代でもなかったこともあり、各地の新聞コラムを手当たり次第に読み込んでいくということはできませんでした。せいぜい、地方紙のいくつかを数日遅れで購読するというのが関の山でしたね。しかし、今のように、金はないが暇はあるという明け暮れになると、いきおい時間を浪費することになり、ついつい「ネット遊び」をするという堕落ぶりです。しかし、それでも各地の新聞コラムが居ながらにして読めるというのは、ぼくにとっては、いろいろな点で好都合です。それぞれの地域の状況がそれなりに分かるし、また各紙の性格というか特色、あるいは長短というものが手に取るように理解されてくるからです。

 この「雑(文)・駄(文)集録」を書きだして、もっとも世話になっているのが「地方新聞のコラム」です。どこかで触れましたが、新聞の「コラム」は、私見では、いわば客引きが狙い、販促品のようでもあり、御店の中に客を入れるための仕掛けでもあるというわけ。しかし、近年の風潮というか、どの店もほぼ同じような品ぞろえのなか、コラムの冴えが鈍ってきているように痛感します。また、このコラム欄は、たとえて言えばスーパーなどの店頭に並べてある「ティッシュ」や「トイレットペーパー」、あるいは「天然水」などの「目立たせ(客引き)商品」でもあると、ぼくは思っています。こんなに良質の品が、こんなに安い価格で、そんな商売っ気が各店舗独特の品ぞろえにつながる、それならば店内も見ようとなる。それにつられて入る客が多いのではないか、ぼくのように。

 ところが、セールスアイテムを堂々と「定価販売」するような風潮が、ネット上の「コラム」で生じてきました。「お店(新聞社)」からすれば当然ですが、冷かしの客からすればそれは困る。店に入る前に前金を獲られるようなもので、はなはだ不満ですね。商品を「読む」のだから、カネを払え、これはあまりにも当たり前すぎて、二の句がつげないという弱みが客にはあります。でも、少なくとも「コラム」はチラシやおまけのようなつもりで、新聞という商品を考えたい人間です。(あくまでも私見です。このように言って、「コラム」を見下げるという芸当はぼくにはできません。「社説」と違って、「コラム」は拡販商品です。屋台骨を支えているという意味です)(最初の何字までは読める、残りはカネを払ってからというのが嫌ですね。ズボンだかスカートの裾をたくし上げて、「ここまでしか見せません」と、追加料金をせびるようで実に嫌味重太郎です。落語にある「お直し」のようで、侘びしいし、さもしい感がします。

 「天声人語」「余録」「筆洗」その他、各地各紙の「販促品」が、現金正価となれば、「何、読まないでもいいや」となります。どんな品物でも、手に取って試すというか、手触りや肌触りを確かめてから購入の可否を判断します。新聞コラムには「試着」というか「試読」がないのはどういうことか。購読料をケチって言うのではない(いや、それも一部にはあります)、読んでからカネを払うのが当たり前じゃないですか。それに立ち読みは、本屋の楽しみの一つでもあった。新聞にも、それがあってもいいでしょう。ただでさえ、新聞は「月光仮面」のようなふり(近年は、その新聞、動きも勘も著しく鈍くなっています、「生活習慣病」に罹患しているとしか、ぼくには思えません)して、その裏で(しかも堂々と)「再販制度」の恩恵を貪っているではないですかと、言われかねないでしょ。(もちろん、ここで「新聞」と一網打尽のように扱っていますが、いわゆる「五大紙」といわれるものと、「地方紙」とでは、読者の側の位置づけがちがいます。ぼくも、同じように両者を扱っているつもりはないのです。機会を見つけて、もう少し詳しいことを書きたい)

〇 著作物の再販制度著作物(書籍、雑誌、新聞、音楽用CD、音楽用テープ及びレコード盤)について、出版社などのメーカー側が小売価格を決められる制度。独占禁止法では、メーカーが自社商品の販売価格を指示して守らせることを禁止しているが、著作物には適用されない。価格競争によって売れ筋に偏ることや、地域によって価格差が出ることを防ぎ、著作物の多様性や国民の知る権利を守る狙いがある。(朝日新聞 朝刊:2013年07月25日)

 どの店でも、全国一律に「大根一本、百円」というのはおかしくないですか。「コンビニ」が、新聞の真似をしています。どこで買おうが、同一チェーンの「肉まん」なら値段は同じ(だと思う、違うのかしら)というのは、いろんな地域の客からすれば、なんかおかしい気もするんです。ならば、買うのをよせばいい、そんなことを言う人が出てきます。問題は「商売という文化」に関わります。購読新聞なら、何年たとうが、同じ「記事(活字)」が読めます。カネはタダ。ぼくは「新聞」派ではなく、「旧聞」派です。しかしネットなら、何年たっても(古くても)、同一価格。これが不思議。値引きも何もしないのは、道理に合わないし、新聞記事は腐らないのに、何年か過ぎると、ネット上では読めなくなります。(ここでいうのも場違いですが。「社説」は、ネット上では、どうして無料なのでしょう)

 なにかと御託を並べて、イチャモンを付けているように見えて、わが心持は美しくないのですが、ようするに、カネを払わない客は立ち寄ってはダメといわれているようなもの。その昔、水飴やせんべいを買わないで「紙芝居」をただで観る子どもは嫌われました、それと同じようです。ぼくは、少なくともニ十紙くらいの「ネット会員」です、もちろん無料の。それでもカネを払ってまで読もうという記事は、ぼくの感覚から言えば、ほとんどない。映画なら鑑賞料を払う、だから新聞も購読料をという段取りですが、映画の「この一部だけ」は見たくないということはないが、新聞はこの「コラムだけ」読みたいというのがいくらでもあるのです。というわけで、大根は五本からしか売らないという店は、多分どこにも、ございませんでしょ。新聞もそうすればいかがか、「一つの記事はなんぼ」という段階からはじめて、いつだって読んだり読まなかったり、それ相応の料金を払う仕組みを考えてほしいですな。(今でも、「広告」を買わされてるような新聞ばかりではないですか)

 ぼくの住んでいるような不便なところには「無人販売所」というのがあります。野菜や果物を並べて、値段が書かれた札が置いてある。好きなだけ購入し、対価(料金)を払う。無人ですから、問題もあろうが、それでやっている。(それも、だんだんと少なくなってきた。どういう理由でか、分かりそう)新聞もそれをやるといいのではないか。あるいはライブの youtube で「投げ銭」システムがあります。スーパーチャットとかいうのでしょうか。「読んで」「見て」よかったら、「投げ銭」です。料金は一定ではない。昔の「おひねり」(今もありますね)、これだと、おひねりや投げ銭の多い記事が明白になりますから、新聞販売の現状形式は「溶解」します。身入りのいい記事や記者は「自律」「自存」が可能です、社屋もいらない。とかなんとか、これがぼくの想定する新聞業界の行方です。すでにそうなり始めています。新聞社から、どんどん早期退職する記者が増えている。ぼくの近辺にもいくらもおられます。「インディーズ記者≒ジャーナリスト」です。

 かくして新聞社の「展望」が見えてきました。この伝で行くと、次は「学校」でしょうね。各教師が個別指導の「チューター」となるか、あるいは個別の教室を構える個人授業(事業)主。学びたいものは、それぞれの門戸を叩く。往時の「寺子屋」か「私塾」です。ぼくはこれが願わしいと考えてきました。やがて、「学校」が遊び場・カタリバで、学習私塾が「本筋」となる時代が来る、いやもう始まっている。学校制度は形骸化してくるほかないし、この方向を曲げることはできないでしょう。(左は「御捻り(おひねり)」)

 (下に、頼山陽の話が出てきます。山陽の学歴というか、学習歴は「塾」でした。いろいろな師を求めて門弟になる。いくつかの「学習塾」を探し求め、師に出会う。最後はみずからが「開塾」し、多くの門弟を引き寄せたのでした。このような「私塾」の復活は、きっと来るに違いありません。(山陽とは関係ありませんが、同じ京都に伊藤仁斎の「古義堂」塾(跡)があった。今は、伊藤さんが「華道教室」を開いておられます。京都堀川にありました。ぼくの一家は、堀川中立売に暫時住んでいたことがあり、この塾跡には何度か出かけたことがあります)

● 古義堂(こぎどう)=江戸時代、伊藤仁斎(じんさい)が京都・堀川下立売(しもたちうり)に開いた儒学の私塾堀川学校ともいう。1662年(寛文2)創立。商人出身で古学を講ずる伊藤仁斎・東涯(とうがい)父子のもとに、多くの公卿(くぎょう)、医者、富商らが参集。『論語』『孟子(もうし)』『中庸』を中心とする聖賢の古典の徹底的究明によって、自らの道徳の完成を目ざした。同志、門弟茶菓を持ち寄り、温かい雰囲気のなかで、研究会や講義によって学習が行われ、独自の塾風が養われ、多くの人材が輩出した。為政者に対する批判はしないが、理念的に、幕府御用の朱子学派を批判し、幕藩支配を根本的に否定する主張を含む。[木槻哲夫]『加藤仁平著『伊藤仁斎の学問と教育』(1940・目黒書店)』▽『吉川幸次郎・清水茂編『日本思想大系33 伊藤仁斎・伊藤東涯』(1971・岩波書店)』▽『天理図書館編・刊『古義堂文庫目録』(1956)』(ニッポニカ)

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 ここまでは「まくら」に当たる部分。本題はここからです。(竜頭蛇尾に終わりますので、悪しからず)コラム「水や空」について、です。各紙のコラムの中でも、もっとも頻繁に目を通すのが「水や空」です。担当者は数人で、どの方がいいとかどうとかは言わない。すぐれた記事を書く人が一人いれば、おのずから周りは影響されます。それが、切磋琢磨であり、精進というものでしょう。「教育」が及ぼす無形の影響です。きっと、他の記者も「いい記事」や「いいコラム」を書かれるようになるのです。そこでぼくは、「どうしてこのコラムが面白いのだろう」と見当をつけたところ、松浦直治さんにぶつかったというわけです。

 「松浦」姓といえば、平戸藩主だった「松浦家」に言及せざるを得ません。平戸六万石の藩主。松浦直治さんが、この「松浦(まつら)家」と関係がありそうではと見当は付けているのですが、いまの段階では、それはわからない。地元新聞に勤務され、「水や空」コラムの生みの親のようでもありましたし、それを一つの「見識あるコラム」にまで育てられた方と、ぼくは推測しているのです。勝手な思い込みであり、まちがいかもしれませんが、このコラム名「水や空」の命名歴を知れば、何かと妄想が湧くというものです。(この点を含めて、当の新聞社に問い合わせをしました。担当者が答えられましたが、松浦家との関係はわからないそうです。それは当方が調べるべき仕事。「水や空」愛読のお礼を述べておきました)

 コラム名「水や空」の由来となった頼山陽の漢詩です。万里を旅し、今は、天草の舟上にある。夕もやが窓に映り、日没間近に。大きな魚が跳ねるのが見えた。宵の明星が戦場に明るく、まるで月のようだ。

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泊天草洋

雲耶山耶呉耶越
水天髣髴青一髪
万里泊舟天草洋
煙横篷窓日漸没
瞥見大魚波間跳
太白当船明似月

 この漢詩は、山陽三十九歳の折の、一年余の九州遊学に際して作られた。彼は五十三歳で亡くなります。

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●頼山陽 らい-さんよう =江戸後期の儒学者,詩人。安芸(あき)の人。名は襄(のぼる),字は子成,通称は久太郎。朱子学者頼春水の子。尾藤二洲に学ぶ。1800年脱藩するが連れ戻されて幽閉され,この間史書執筆を志し,《日本外史》を起稿した。のち廃嫡となり,菅茶山の塾の後継者として招かれ,1年余滞在ののち京都で開塾。詩文書画の名が高く,多くの文人墨客と交わった。簡潔な名文と名分論的な歴史観により幕末に愛読者を得た。著書は他に《日本政記》《通議》《日本楽府》《山陽詩鈔》《山陽遺稿》など 。(安永九~天保三年)(一七八〇‐一八三二)(マイペディア)

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 山陽についても、さらに書きたいこともありますが、何時間もパソコンの前に座り続けていますので、ここらで、打鍵中止、余裕があればまた書き加えます。ここで言いたかったのは、新聞各紙の「コラム」がどうして面白くなくなったのか、反対に、あるコラムがいつでも面白く、興味深く読める理由はどこにあるのか、そんなことでした。百年の歴史を誇るコラムや新聞は、二代三代と代替わりしています。あるいは、いずこも「権力のまやかし・あやかし」に憑(と)りつかれているのかもしれない。

 当節は流行りませんが、ぼくの好きな川柳です。「売り家(いえ)と唐様(からよう)で書く三代目」(「初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると没落してついに家を売りに出すようになるが、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれている。遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったもの」・デジタル大辞泉)

 世に世襲が蔓延しています。世代交代は、おおくが「世襲」であることが多いのであり、そのすべてが悪いわけではな。家柄や仕事柄が継承されるのは、一面ではいいことでもあります。しかし「三代目」となると、政治家で商家でも、やはり崩れたり、消えたりします。これを矯める方策がないものでもなかろうが、多くはうまくいかない。理由は単純、「切磋琢磨」というか「精進」の意味が失われるからです。「苦労は金で買え」「可愛い子には旅をさせよ」と、昔はいわれたもの、今でも、そう考えている人は多いようにも思えるのです。だから、「猫かわいがり」は本人も周囲も不幸にします。この様相は、現代社会の多くの領域で(「名門」とか「一流」とかいわれるところ、そんな「門」や「流」があるんですかね)、やたらに多く見られる、著しい「人間精神」の衰退現象です。(上・下に掲げた看板も「唐様」文字、これは絵ですか)

 この島のあちらこちらで、「明治は遠くなりにけり」「大正昭和は消えにけり」「平成令和に歴史なし」という、恐ろしい刹那主義がはびこっているように思われる。歴史と歴史意識を見失って路頭に迷うという、そんな状況が各紙を襲っているのではないでしょうか。小さな「コラム」という窓から見た風景です。暗澹たる気分に誘われています。「水や空」に「青一髪」を見る所以です。(この衰退減少は新聞屋さんだけではありません)どなたにとっても、余計なお世話かもしれませんが、いささか気がかりでもありましたから、思いつきを書いてしまいました。

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降る雪や明治は遠くなりにけり (草田男、昭和六年作)

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 蝶々、それは何の化身だろうか

 優雅にアサギマダラ、満開のフジバカマに 旅するチョウが羽休め 豊岡市 「旅するチョウ」として知られるアサギマダラが、今年も兵庫県豊岡市加陽の加陽水辺公園に飛来した。同公園では、「秋の七草」の一つで、アサギマダラが好む植物フジバカマが満開を迎えており、周囲を飛び交い盛んに蜜を吸う様子が見られる。10月2日には、現地で「秋の観察会」が開催される。(阿部江利)

 アサギマダラは体長5~6センチで、黒や茶色の縁取りがある浅黄色の美しい羽を持つ。夏には涼しい地域へ北上し、秋には南西諸島など暖かい地域に向けて南下するのが特徴で、移動の途中にフジバカマの咲く地域に立ち寄る姿が見られる。/ 市から同公園の管理委託を受ける「コミュニティなかすじ」の加陽水辺公園部会によると、フジバカマは元々、円山川と奈佐川の合流点付近に自生していたが、護岸工事から守るために移植されたもの。2018年からは同湿地などで住民らが保護の取り組みを始め、昨年は100株を湿地に移植。有志らによる「フジバカマを育む会」も発足し、今年も500株を新たに植えて増やしている。

 今年は9月上旬からチョウの目撃情報が寄せられ始め、同部会でも9月中旬に飛来を確認。上坂孝一部長(67)は「円山川水系でのフジバカマの生育地は中筋地区だけ。日によって差はあるが、優雅に舞う姿が見られる」と話す。/ 観察会は同部会などが主催。10月2日午前10時からで、加陽水辺公園交流館に集合。専門家ら3人が、アサギマダラやフジバカマの生態、香りなどについて解説する。無料。同交流館TEL0796・21・9119(2021/9/26 05:30神戸新聞NEXT)(*実に見事な写真」でした。これを目にすることが出来たことを感謝します。S.Y.)

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スナビキソウに群がるアサギマダラの大群(中国新聞デジタル・2015/6/14)

◎ アサギマダラ(あさぎまだら / 浅黄斑蝶)chestnut tiger [学] Parantica sita=昆虫綱鱗(りんし)目マダラチョウ科に属するチョウ。日本では北海道から沖縄諸島に至る全土に発見される。北海道、東北地方などの寒冷地では、例外的な場合を除いて夏に少数の個体が発見されるのみであるが、これはより南方地域からの移動個体、あるいは移動個体による一時的な発生と考えられる。西南日本では夏季に山の頂上に群飛することが多い。日本以外では朝鮮半島、台湾、中国から西北ヒマラヤにわたって分布する。はねの開張は90~100ミリメートル程度で大形。雌雄の色彩や斑紋(はんもん)は同様であるが、雄では後ろばねの後方に表裏ともに黒斑状をなす光沢のない性標があり、これによって雌雄は容易に見分けられる。西南日本では5月ごろから11月ごろまで成虫の飛翔(ひしょう)をみるが、奄美(あまみ)諸島や沖縄諸島では冬を挟んで秋から春にかけて多く、夏季にはほとんどその姿をみない。飛び方は緩く、各種の草花に集まる。幼虫の食草はカモメズル、キジョラン、サクラランなどのガガイモ科植物である。アサギマダラは九州以北の日本本土に土着する唯一のマダラチョウ科の代表であるが、吐噶喇(とから)列島以南の南西諸島にはさらにリュウキュウアサギマダラ、カバマダラ、スジグロカバマダラ、オオゴマダラの4種の土着種がある。なお、マダラチョウ科のチョウは東南アジア地域より迷チョウとして日本に飛来するものが多く、現在まで日本、とくに南西諸島で発見されたものはマルバネルリマダラなど17種にのぼる。(ニッポニカ)

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 朝から一冊の文庫本を探している。二時間たっても見つからない。日高敏隆著「チョウはなぜ飛ぶか」(岩波少年文庫)。昨日付けの神戸新聞、このアサギマダラの写真を見て、胸がどきどきしていたのです。この「旅するチョウ」の生態を追いかけている人は実にたくさんいるそうです。なんと、数千キロも飛翔する。このチョウに代表される「ちょうちょう」の不思議、あるいは神秘を解き明かそうとして、少年時代から取りつかれていた、チョウ探求の第一人者が日高さんでした。彼については、どこかで触れていますが、亡くなってもう十年余になります。日高さんのものは何かと読んでは教えられたり楽しんだりと、いい経験をしたと、感謝しているのです。ぼくには、昆虫に向かう興味が人一倍に優れていなかったのは、今から見れば悔しいことでもあり、残念という気もしてきます。でもささやかではあれ、セミやトンボやチョウを追っかけて、「今日はどこまで行ったやら」という少年時代を過ごしたことは、しかし、今になって幸福でもあったと感じています。(「蜻蛉釣り今日はどこまで行ったやら」 江戸時代の俳人、加賀の千代女の作とされています)

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 拙宅の庭といっても、実に雑然として木や花や草が勝手に育っているし、その周囲は、前方(南側)を除けば、ヒノキとスギと孟宗竹の林です。鳥類も昆虫類も、さらには猛禽類やその他、どう猛な(と思われている)イノシシや蛇やモグラなど、好き放題に林野を荒らし、拙宅の庭にも入り込んできます。ごくたまには雉(きじ)が遊んでいたりしますから、年中賑やかな環境であると言えそうです。その中でも、四六時中やってくるのが「ちょうちょう」です。詳しくは知りませんが、おそらく十種類は超えるものがやってきては、ひらりひらり、ふわりふわりと、空中を「自由自在」に飛んでいます(と思いたくなります)。それを密かに、時間をかけて狙っているのが猫たちです。図鑑を手許において、あれはなに、これはなにという趣味がないのは、こういう時には悔しいのですが、いろいろなチョウが上になり下になりして「遊んでいる」風景は絵にもなり、写真にもなるでしょう。年中何かしら、庭木は花をつけているので、チョウが日参するのが習いとなっているのです。(勝手に、あちこち飛んでいるのではなく、必ず目的を持っているというのは、実に不思議です。色の識別が可能だと言われています。もちろん、雌雄の区別もつけている、凄いことです。ある点では人間を越えている)あるいは幼虫があちこちに出現するのも見かけます。時には室内の畳の上にも、のそりのそり。植木の葉の上にはたんまりと卵を産み付けています。

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(アサギマダラの飛来地、大分県姫島(左)、アサギマダラの飛翔範囲(中・右))

 下に出したのは、日高さんの「訃報」記事です。ぼくは、自分でまともに「研究」したという分野はありません。まったくの素人(ジレッタント)として、一貫して「素人の関心」を持ち続けてきました。そのような姿勢で、日高さんの書かれたものや発言に注意をしてきたものです。他人の訃報など、縁者でない限りは無関心を装うのを常としています。しかし、かりそめにも「学恩」を蒙ったという意味では、無関心でおられないという実感も強くあります。それ故に、「訃報」に加えて、さらに蛇足を承知で、何かを書きたいのですが、「猫を病院」に(ワクチン接種、二人です)連れて行く日でもあり、雨が降りだしそうな気配でもありますので、今はここまでにします。用事を済ませて、時間があれば、書き加えたいと思います。(それにしても、病院行きを察知したのか、出かけたまま帰ってこない。生後半年にもならないのに、一晩家に帰らないこともしばしば、不良ネコです。ただ今、十一時半過ぎ。病院は十三時(午前の部)までです。間に合わないかも)(雑用を済ませて帰宅。ただ今三時半過ぎ、不良ネコは、まだ遊びに夢中なのか、野原や林で何をしているのか帰ってきません。多分午後の部(五時まで)も無理。明日は休診日。あほらしくなるほど、半年にもならない猫たちにふりまわされています)

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日高敏隆さん死去 チョウはなぜ飛ぶか。ネコはどうしてわがままか。いずれも先日亡くなった動物行動学の草分け、日高敏隆さんが書いてきたエッセー集の題名だ▼文庫などが書店に並んでいるので読んだ人も多いだろう。生き物の行動観察を通して、自然界の営みの不思議さがタイトルの響きのように軽やかで平易につづられている。読後に、さわやかな幸福感が残る▼本紙のコラム「天眼」では10年以上も健筆を振るった。読み返すと、地球環境問題への言及が多い。問題の根源は「自然を支配して生きようとしてきた人間の生き方(人間文明)にある」(2008年1月19日付)とし、効率を重視する人間の価値観を変えていこうと説いた▼その考え方を、日高さんは単なる環境保護ではなく生活の向上もあきらめない「未来可能性」と名づけた。自ら初代所長を務めた総合地球環境学研究所(京都市)で、その理念を実践する研究プロジェクトを立ち上げた▼京都大を退官するとき江戸っ子の日高さんに里帰り話も持ち上がったが「関西には学問をする風土がある」と見向きもしなかった。滋賀県立大学長を引き受けて後進育成に力を注ぎ、京都市青少年科学センター所長として子らに科学の面白さを語った▼数々のエッセーそのままに温かで軽妙洒脱(しゃだつ)な人柄だった。取材の折には本題より脱線話が楽しみだった。最後となった24日付朝刊の「天眼」をしみじみ読んだ。(京都新聞「凡語」・09/11/25)

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◎ 日高敏隆【ひだかとしたか】1930-2009=昆虫生理学者・動物行動学者。東京都生れ。東京大学理学部動物学科卒業。初め昆虫を材料とした生理学的研究(昆虫生理学)を行い,次第に動物行動学に進んでいく。東京農工大学教授,京都大学教授,滋賀県立大学初代学長を歴任し,京都大学名誉教授。1973年から日本昆虫学会会長を務め,1982年の日本動物行動学会創設に伴い初代会長となる。主著として《チョウはなぜ飛ぶか》《ネコはどうしてわがままか》《動物と人間の世界認識》《人間はどこまで動物か》などがある。(ニッポニカ)

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● 化身(けしん)=がかりに現した姿をいう。サンスクリット語ニルマーナカーヤnirmāakāyaの訳。変化した身体の意。変化身(へんげしん)ともいう。仏の三身(法身(ほっしん)、報身(ほうじん)、化身(けしん))の一つで、仏が生きとし生けるものを救済しようとして、その生きものと同じ姿をとったものをいう。教化すべき人々の能力や素質に応じて現れる身体という意味から、応身(おうじん)とも漢訳される。/ 英語のインカーネーションincarnationの訳語としての広義における化身の概念は、神や仏、あるいは超自然的、超人間的存在が、ある目的のために、一時的ないし継続的に人間や動物などの形相(けいそう)をとってかりに姿を現したものの意。キリスト教では、イエスは人間救済のための神の化身とみなし、インカーネーション(託身(たくしん)、受肉(じゅにく))と称する。(ニッポニカ)

● け‐しん【化身】=〘名〙① 仏語。仏の二身(法身・化身)、または三身(法身・解脱身・化身あるいは法身・応身・化身など)の一つ。仏が衆生を救うために、それぞれに応じて人や鬼などの姿で現われたものの一つで、釈迦仏などをさす。応身・応化身・変化身・化仏などと呼ばれることもある。〔解深密経‐五〕② 仏語。転じて、菩薩や鬼神、高僧などが人などの姿で現われたもの。※霊異記(810‐824)中「是れ化身の聖なり」※高野本平家(13C前)六「件の入道はただ人にあらず。慈恵僧正の化身(ケシン)なり」③ 歌舞伎などで、妖怪変化のこと。また、これに扮(ふん)する時に用いる隈取り。(精選版日本国語大辞典)

「仏が生きとし生けるものを救済しようとして、その生きものと同じ姿をとったものをいう」「仏が衆生を救うために、それぞれに応じて人や鬼などの姿で現われたものの一つ」「インカーネーションincarnation」というのなら、さしずめ「アサギマダラ」は、それではないでしょうか、チョウを見ると、ぼくは無性に心持がゆったりするのです。イラついたり、怒りに襲われることは、生きている限りなくならないもの、それならば、「こころに、いつもちょうちょうを」といいたくなるのです。おそらく、ぼくの家の貧しい庭には、まだこの「化身」は姿を現してはいない、と思う。いや君が怒りに襲われ、冷静さを失ったた時に、きっと静かに、このチョウは遥かな彼方から「まだまだダメだ、青の男は」と、一瞬にしてみて取り、そのまま姿を消してしまったに違いない、そんなことがあるいは何度もあったのかもしれない。ぼくの短気が、その姿をとらえそこなってきたのでしょう。

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 村がなくなっても、「村八分」は残る

【資料写真】水田が広がる曽我谷地区

 村八分されたと提訴 「あいさつ無視、ごみ回収されず」 京都府南丹市園部町の曽我谷地区に住む男性が、地元の集落から村八分のような扱いを受けたとして、同地区などに対し、区民であることの確認や慰謝料など340万円の支払いを求める訴えを21日までに京都地裁に起こした。/ 訴状によると、同地区は南丹市区設置規則によって設置され、39世帯ほどが暮らす。男性は1975年に結婚し、同地区に住む妻の両親と養子縁組をした。83年に長岡京市から同地区に移り住み、消防団長や農家組合長などを歴任したが、2001年に離婚、妻の両親とも離縁した。

南丹市園部町の曽我谷地区

 男性はその後も地区で暮らしているが、道であいさつしても住民から無視され、自分が出したごみだけが回収されなかったり、地区の行事連絡や市の配布物が来なくなったりした。また、土砂災害警戒区域などが多い同地区に対し、市が各戸に防災無線を無料設置することになったが、同地区は男性だけを除外して市に申請したため、男性宅には設置されなかったとしている。/ 男性側は、組織ぐるみで男性をあたかも存在していないかのように扱って孤立させる行為は、人格権を侵害する不法行為に当たると主張している。/ 曽我谷地区側の代理人弁護士は「現時点で何もコメントできない」としている。(京都新聞・2021/09/21)

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 記事だけでは詳細は分かりませんから、この件について無責任なことは言えません、また、言おうとは思いません。結婚相手の両親と養子縁組し共に暮らしていたが、離婚したので縁組も解消、そのまま同地に住んでいたとありますから、「養子縁組」「結婚」という、二つの地縁が切れたから出て行けというのかどうか。あるいは離婚やその他の関係から、村人とうまくいかなくなっただけかも。「村八分」とされていますが、それは「ことば」だけのことで、実際は「いじめ」だったかもしれません。確かに、歴史に見られる多様な「村八分」には「いじめの要素」はじゅうぶんに備わっているし、そう言ってしまっても問題ないのかもしれませんが、そうなると「村八分」は不当なもの、旧弊の最たるもので、よくない悪習ということになり、逆に、それが長い間継続してきた歴史的な経緯や理由(肯定的側面)が見えなくなるのではないか。ぼくの率直な感想です。

 それとそっくりではなく、似て非なる者に「魔女狩り」という悪習が西洋には見られました。「魔女裁判」ともいわれてきたものです。しかも、今もしばしば起こっている学校を始めとする集団に見られる「いじめ」などには、どうしても「魔女狩り」的な要素が出てきていると、ぼくは感じているのです。「いじめ自殺」が後を絶たないのは、存在する余地を残さないような、抑圧や排除が働くからで、そこまでくると、「魔女狩り」と異ならないものになるのではないでしょうか。まるで「息の根」を止めるような、悪質な状況がみられるのは、慣習としての「村八分」ではなかったのではないかと、ぼくはまず考えてみます。村人の誰かを、死に追いやるような「制裁」は、そんなに加えられるものではないからです。地縁血縁でつながっているっ社会集団の特性から、ぼくはそのように考えている。多くの「いじめ」事象の場合、血縁や地縁関係は絶無か、あるいは稀薄です、だから惨(むご)いことも起こってしまうのでしょう。

 京都の園部に起った「村八分」事件、「男性側は、組織ぐるみで男性をあたかも存在していないかのように扱って孤立させる行為は、人格権を侵害する不法行為に当たると主張している」と報道されています。おそらくこれまでの類似の事案の裁判・判例からすると、これを訴えた側の主張が認められるとも思われます。今日でも地縁・血縁で結びついた「社会集団」は、一面では結束も強く、利害関係も密接に結ばれていますから、集団の秩序を乱す、あるいは壊すような行為をする成員に、なんらかの「制裁」を加えることはあるでしょうし、それを受け入れないと、さらに強い制裁として「村八分」に移行するというのです。いずれにしても、この段階で、軽々に「黒白」の判断を下すのは不当でもあります。裁判の行方を見たい。

 じつは、ぼくもこの地に移住してきた際に、自治会(町内会)に入るつもりで、「会長」にその旨を伝えていました。ゴミの収集や草刈りなど、なにかと町内でやる作業もあることでしたから、最低限度の責めを果たすつもりで、入会の旨を申し入れしていた。これが想定外の展開になり、結局、ぼくは今のところ未入会のまゝになっています。なにしろ、戸数が少なく、しかも、古くから住んでいる人たちが構成していますから(実際の戸数は五十戸くらいか、あるいは百戸くらい)、なにかと「掟」「規則」のようなものがありました。地域の神社(江戸時代に創建されたという「白幡神社」という)の氏子になるというのが条件のようで、あるいはそうではなかったかもしれないけれども、神社の維持・管理に会員が参加し奉仕しているのだから、氏子になるのは当然という雰囲気だった。その他もろもろ、ぼくは面倒になって、入るのを断った。「いじめ」に遭ってはいないと思いますが、実際のところはどうなんでしょうか。(ここでは書くのもはばかられるようなこともありましたよ、それは内緒)

 「いじめ」は普遍的です。それを肯定するのではなく、よくないものと認めてはいますが、起ってしまうという意味です。二人の場合だって、思うようにはいかない。夫婦を見るといい。ぼくなんかいつも「いじめられて」いるようなもの。制裁を受けていますよ。これが三人になれば、文殊の知恵ではなく、多数派が形成されるのです。さらに数が増えれば、体制ができる、つまり体制派と反(非)体制派、もっと大きな集団になれば、権力者と反権力者の対立が生まれます。少数対多数、あるいは多数派対少数派に。多数は必ずしも権力を持つとは限りません。ここに「民主主義」の問題が生まれるのでしょう。これについては、いろいろなところで拙論を振りまいています。

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*村八分(むらはちぶ)村社会秩序を維持するため,制裁として最も顕著な慣行であった絶交処分のこと。全体として戸主ないしその家に対して行なったもので,村や組の共同決定事項に違反するとか,共有地の使用慣行や農事作業の共同労働に違反した場合に行われる。「八分」ははじく,はちるのとも,また村での交際である・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の 10種のうち,火事,葬を除く8種に関する交際を絶つからともいわれ,その家に対して扶助を行わないことを決めたり,村の共有財産の使用や村寄合への出席を停止したりする。八分を受けると,共同生活体としての村での生活は不自由になるため,元どおり交際してもらう挨拶が行われるが,これを「わびを入れる」という。農業経営の近代化に伴い,各戸が一応独立的に生計が立てられるようになってからは,あまり行われなくなった。(ブリタニカ国際大百科事典)

*魔女狩り(まじょがり)(witchcraft trials)=中世末期以来,ヨーロッパのキリスト教会が行った,悪魔に魂を売った者(魔女)に対する徹底的弾圧 “魔女”とは,キリスト教の信仰を捨て,悪魔から得た魔力で人間社会に害毒を与えると信じられた者のことで,男も含む。魔女信仰の起源は,キリスト教以前の土俗的原始宗教にあり,教会はその初期には妥協的関係にあったが,教会内部の異端運動の激化に伴い,14世紀以降4世紀間にわたり,おびただしい犠牲者が“魔女”として裁判で血祭りにあげられ,特に宗教改革が起こった16〜17世紀,新旧両派によって行われ最盛期となった。しかし,1692年アメリカのマサチュセッツ州の「セーラムの魔女事件」を最後に,魔女狩りは急速に衰えた。(旺文社世界史辞典三訂版)

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 物好きを自称しているわけではありませんが、ぼくはこの手の「村八分」行為や事件のニュース(記録)を実にたくさん保管・保存しています。思い付きで取り出すと、以下のような事例が出てきました。「村八分」は江戸時代以来の慣習というようですが、もっと古くから、あるいは縄文時代からあると言っても、あながち的外れではないでしょう。集団があれば、きっとそこには対立、抑圧、排除などという力学が働くからです。排除の例としては、おサル集団の「孤立(はぐれ)猿」などに、あるいは淵源を持つものかもしれません理由はいろいろで、気に入らない、言うことを聞かない、弱い者いじめをする、秩序を乱すなど。集団から排除されることは「死」を意味しますから、やがて「詫び」を入れて、仲間に戻ることもあったでしょう。村八分の解除です。これがうまくいかないと、「追放」というか「逃散」ということになるのです。

 「村八分」がなんであるかを知らなくても、つまりは街中でも学校でも企業内でも、「村八分」は起りえます。街や学校や企業も、この社会にあっては「一つの村」ですから、秩序維持のためには「制裁」は不可欠なんですね。保育園や幼稚園でだって、「村八分」は生じるでしょう。この名称はともかく、「いじめ」は個人間でも集団内でも起こります。これは「闘争本能」なのか「自己保存本能」がなせる業なのか。さらには「優勝劣敗」「適者生存」の例証でもあるのか。考えてみれば、つまらないとも言えますが、まかり間違えば「命を奪う・奪われる」ことにもなるのですから、仇やおおろそかにはできない問題です。

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朝日新聞・2007/07/06)

 「村八分」に賠償命令…新潟地裁支部判決
 集落の行事への不参加を理由に、回覧板を回さなかったり、ゴミ収集場を使わせなかったりして“村八分”にしたとして、新潟県関川村沼集落(36戸)の住民11人が区長ら3人を相手取り、計1100万円の損害賠償などを求めていた訴訟の判決が27日、新潟地裁新発田支部であった。松井芳明裁判官は「(原告は)生活上の不便を感じたのみならず、精神的苦痛を被った」として、区長ら3人に計220万円の支払いと、“村八分”行為を即刻やめるよう命じた。/ 判決によると、原告住民は2004年、毎年8月に開かれている「岩魚(いわな)つかみ取り大会」への不参加を、不明朗な会計処理や多忙を理由に区長らに申し出た。これに憤慨した区長や実行委員長らは「集落のすべての権利を放棄し脱退したものとする」と通告、同年6月1日から、〈1〉ゴミ収集場の使用禁止〈2〉山菜などの採取・入山禁止〈3〉広報紙や回覧板を回さない〈4〉違反者には罰金3万円――などの“村八分”行為を続けている。((読売・07/07/28)

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 試される憲法 『村八分事件』教訓生きず  竹沢尚司さん(73) 埼玉県川越市 出版業

 一九五二年、静岡県上野村(現富士宮市)で参院補選にからむ不正選挙を全国紙に投書し、告発した高校生の少女がいました。村の世話役格が投票用紙を集めて替え玉投票させていたというのが不正の実態でした。/ 告発で関係者は逮捕されましたが、少女の一家は「村人を売った」として「村八分」(火事と葬儀以外のかかわりを拒否されること)にされてしまったのです。過酷なその実態は報道を通じて社会問題化し、映画になりました。いわゆる「上野村村八分事件」です。 / 少女より一つ年上で、当時高校を出て働きながら学んでいた私は、この事件を知って大きな衝撃を受けました。仲間ともとんでもない事件だと話し合ったものです。実際に、多くの若者や心ある人が少女へ激励の手紙を送ったといいます。/ 終戦から七年がたち、軍国教育は完全に否定され、民主主義を高らかにうたう教育が熱っぽく行われていたころです。その影響を受けて、少女は悩みながらも正しいことをしたのでしょう。だが、素直な若者の心とは裏腹に、大人たちの間には抜きがたい封建的因習と人権軽視の感覚が残っていたのです。/ この五十五年前の人権状況が、現行憲法に沿うほどにまで改善されたとは、私には到底思えません。むしろ悪化しているのでは-。その代表例は「いじめ」。いじめも村八分も陰湿でなかなか表面化せず、告発者を責める傾向も似ています。/ いじめが学校だけでなく企業社会まで浸透し、関連する事件が続発しているのは、憲法の人権尊重理念が国民にとって血肉化していないことの証拠ではないでしょうか。/ 人権の確立なくして近代社会というものが成立しないとすれば、まずは憲法の理念に沿うまで人権状況を改善していくことが急務です。その改善なしに憲法を変えることは、ただの「退化」にほかならないと思います。(東京新聞・07/05/03)

(註 この「上野村事件」に関しては、どこかの雑文で扱っています)

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 「村八分、まかりならん」菰野藩のお裁き、意外に民主的

 時は江戸後期、転入者を「村八分」にして追い出そうと訴えた村人たちに、菰野(こもの)藩(現在の三重県菰野町)が下したのは、逆に重い処罰だった――。小さな藩で起きた訴訟についての古文書を、名古屋市博物館元学芸員の種田祐司さん(67)が読み解いた。「首謀者に下した『追放』は死罪に次いで重い処罰」といい、徒党を組んでのいじめや差別に、厳しい「お上の裁き」が下されたことが読み取れる。/ 「諏訪村入作喜七一件綴(つづり)」は、菰野町の旧家・横山家の土蔵で見つかった古文書に含まれていた。1822(文政5)年、菰野藩の目安箱に入れた奉行所あての訴状、被告側が出した弁明書、藩の裁決文書など、訴訟に関する一連の文書が残っていた。種田さんが判読して現代文に直し、解説を加えた。/ 訴訟は、当時の諏訪村の「百姓一同」26人の連名で起こされた。近くの村から引っ越してきた喜七を「村の風儀になじまない」と主張し、元の村に戻らせるよう求めている。それがだめなら、村人全員を別の村へ移住させよと、藩に難題を突きつけている。/ 喜七は、横山家の9代目久左衛門の息子で、諏訪村に持っていた土地に移住したが、村人と折り合いが悪く村八分にされていた。(以下略)(朝日新聞・2020/04/11:https://www.asahi.com/articles/ASN484560N41OIPE01K.html?iref=pc_rellink_03)

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 《 明治以降はね、村八分っていうでしょう。あれは二分残すってことで、ヨーロッパの魔女狩りみたいに殺してしまうのではないですよ。だから村八分は封建的だっていうけど、明治以降の全体主義のほうがはるかに凄まじいですね 》(俊)

 「村八分」という言葉は江戸期から使われているらしい。「村八部」説もあります、が、いずれにしても村落秩序維持に欠かせない規則(約束事・村の掟)を破る者に対する「制裁・sanction」の一つでしょう。「俊」氏は明治以降と言われていますが、どうでしょうか。ともかく、この指摘で大事だと、ぼくが考えるのは「全体主義」という語です。「いじめ」は、この「全体主義」に近いのではないか。「異論は許さない」「反論するな」というもので、「全体があるから個が存在するという論理によって国家利益を優先させる権力思想、国家体制、またそうした体制を実現しようとする運動の総称」(田中浩氏)というのは政治的定説に近い。

 いじめる側が「絶対的優位」にあり、恐怖心を掻き立て、服従を強いる。まるで「暴君の父親が支配する家庭」のようで、家族はひたすら隷従するばかり、これこそ「家族全体主義」というものでしょう。「いじめ」は「教室全体主義」ともいうべきで、一面では、暴力的権力行使の場でもあります。ここでいう「全体」は、いじめる側が支配する範囲を指します。だからとことん追い詰め、ついには(いじめられる者の)存在の抹殺にまで及ぶことがあるのです。「いじめ」は歪んだ、あるいは偏頗な「(小さな)全体主義」です。この島における「治安維持法下の虐殺」などはその典型。人民は、国家権力に対して「無条件降伏」状態でした。くどいようですが、別の表現をします。教室は一見すると、「村」のようなものでしょう。でも、村が紡いできた歴史というか、住民がそこに定住する土着性というものがありません。したがって、「村八分」的なものは起りますが、それはまた別の「いじめ」の発現と見たらどうでしょう。

 学校や企業などの集団における「いじめ」に「全体主義」の傾向・風潮を認めたい気が、ぼくには強くするのです。今から見ても、「村八分」は必要悪だったとも言えそうです。もちろん、無条件に認めるものではありません。秩序を乱す者を放置すると、村社会の崩壊(村民の共倒れ)をきたしますから、必要悪なんです。現在、村がなくなっても「村八分」の形式や要素は残存しています。それを「町八分」「教室八分」「市八分」などといわないのは、交際を断つ「二分(火事と葬儀の際の付き合い)」にあたるもの、さらにはいえば、「村内における付き合いのすべて(十分)」に相当するものが取りきめられていないからです。特に教室は、村のように永続することを前提とされた集団ではないということ、それがその集団における「暴力」を刹那的で残酷なものにしているのではないでしょうか。(この部分は、さらに考察を重ねます)

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