人間(じんかん)到る処青山(せいざん)あり

 【卓上四季】先祖の話 柳田国男が「先祖の話」(角川文庫)を書き始めたのは昭和20年4月のことだ。10万人以上が犠牲となった3月の東京大空襲の後も空襲は続いていた。このままでは戦死した若者を祀(まつ)る人もいなくなる。日本人の死生観や先祖への信仰をまとめた名著はこうした危機感から生まれた▼柳田は「国と府県とには晴の祭場があり、霊の鎮まるべきところは設けられてある」としつつ、「家々の骨肉相依(あいよ)るの情は無視することが出来ない」と記した。晴の祭場とは靖国神社と護国神社のことだ▼「靖国に英霊を祀り、それで死者の魂は慰撫(いぶ)されるのかと問うている書なのだ」とは、作家大塚英志さんの解説である。国に殉じた人を英霊と呼ぶ「死者の国家管理」に対する柳田の強烈な違和感がうかがえる▼人は死んでなお霊魂は故郷にとどまり、正月やお盆には家に帰ってくる。それが日本古来の民俗習慣や死生観であり、明治以降に作られた制度は「伝統」と思い込まされているにすぎないという▼亡くなった人々を悼む気持ちは純粋なものだ。死者の魂がとどまるという考え方の延長に「生まれ変わり」の信仰があったのも、残された人のよりどころとなったと考えれば自然ではなかろうか▼きょうから盆の入り。直系や血縁の者でなければ祀ってはいけないということもあるまい。心から思う人に悼んでもらう方が、魂も浮かばれるというものである。(北海道新聞電子版・2021/08/13)

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 【北斗星】周囲を田んぼに囲まれた夕暮れ時の墓地。墓前では複数の家族が敷物を広げ、重箱入りの手料理を囲んでいる。子どもからお年寄りまで約20人。運動会の昼食時を思わせるようなにぎやかな光景だ。今年の県美術展覧会(県展)で写真部門の特賞に輝いた作品「墓前供養」である▼大仙市の佐藤登さん(71)が一昨年8月13日、仙北市田沢湖小松の田中集落の墓地を撮影した。盆の墓参りの際に墓前でうたげを催す珍しい風習があると聞き、撮影に出掛けた。墓に料理を供え、先祖と食事を共にしているように見えたという▼仙北市文化財保護室によると、市内農村部に伝わる恒例行事で墓前供養や相伴などと呼ばれる。先祖供養の意味がある▼田中集落の女性(71)も例年、手作りの煮物や赤飯などを墓に供え、墓前で供養してきた。息子夫婦や孫、帰省した娘夫婦を含め10人近くになる時もある。一人一人が元気な姿を墓前に見せ、亡き夫ら先祖に対し「いつも見守ってくれてありがとう」と感謝を伝えている▼しかし一昨年、昨年は墓前供養を見送った。一昨年は猛暑のため自身の体調を考慮。昨年は新型コロナウイルスの影響で娘夫婦が帰省できなかったことなどが響いた。墓前でそっと手を合わせるだけにした▼コロナ禍で2度目の盆。いつもなら帰省するはずの家族と再会できず、寂しく思う人は少なくないに違いない。会えなくても家族の絆は変わらないと信じたい。墓参にそんな願いを込める人もいるだろう。(秋田魁新報電子版・2021/08/13)

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 この社会における最近のお墓、およしお墓参り事情、まことに多様多彩を究めています。あるいは隔世の感があるというべきか。ぼくは積極的にお墓参りに参加する方ではありません。でも、年中行事の如く、誘われては近間のお墓に出向きます。都会地においては、墓地も墓石も「近代化」「洗練」され、じつにあっけらかんとしています。そのいい悪いをいうのではない。時代の移り変わりは、人心のさま変わりを伴うのですから、昔はよかったというのは、いうだけの話です。うんと幼いころ、おふくろの田舎だった能登中島の実家で祖母がなくなり、その通夜と翌日の葬儀(葬礼)に座していたことを、きわめて鮮明に覚えています。遺体の上には包丁だったかが置かれていた。おそらく五歳かそこらだった。なんと、七十年以上も前のことです。この通夜の席で、年長者からいろいろなことを教えられた、それも記憶している。翌日の葬儀も、山の火葬場まで、亡くなった祖母の長男を始め、何人かの家族縁者が「遺体=仏」を担ぎ、かなり長い田舎道を歩いて行ったことも忘れていない。火葬場では、たくさんの薪がたかれ、骨上げまでに、かなりの時間をかけて焼いていた。その情景もほとんど記憶に残っています。焼き場(といっていた)に行く長い階段をゆっくりと登ったことも忘れない。上り切って、振り返ったとたんに海が目に入った。それが七尾湾であり、その先は富山湾でした。

 ぼくはこの「風景」を死ぬまで忘れないだろう。遠くには七尾湾が見え、そこには能登島が鎮座していた。その手前を汽車が煙を吐いて走っていた。今はない七尾線というのだったか。輪島まで行っていたと思う。汽車を見たのも海を見たのも初めてだった。遥かに霞む農山漁村の景色だった。今では温泉で有名になった和倉も隣町でした。能登中島は生まれ故郷だったが、両親の考え(漂泊に傾く)というか生活に追われていたからか、故里という感覚は、ぼくには皆無でした。これを書いている今、故久忘れるべからずというか、あるかないかの記憶の糸をたどって、自身の「想い出」のひだを勝手に広げているのではないかという気もするのです。(右上写真は七尾湾)

 ぼくには語るべき先祖もなければ、家郷の想い出というものもほとんどありません。いつでも根無し草のような生活観のようなものに動かされて生きてきたからでしょう。「定住と漂泊」というなら、まちがいなく、ぼくは漂泊派でした。これまで何度か転居しましたが、ある土地に根を張るということはなかった。そんな気持ちはまったくなかった。明日どうなるか、知れたものではないじゃないかと、なんとも展望のない明け暮れでしたね。語るべき「先祖」があるというのは、定住が決定的な生活様式であったでしょう。もっと言えば、稲作(農)民であることが定住を余儀なくし、「土地の神(産土・うぶすな)」に守られるという文化にくるまれて生きる、そのために先祖を祭るということに重なっていくのでしょう。その「産土」を持たない漂泊民にはおのずからなる「先祖祀り」の様式が生まれてきたはずです。それ現代風の「墓石」に関わる時代相(ポータブル墓石?・散骨・樹木葬などなど)になったのではないか。

 柳田國男さんに入れあげた時期がありました。かなり長かったと思う。その挙句に「柳田国男の●●●●」などという本まで書かされました。本はともかく、彼からたくさんのことを学んだのですが、こんなエピソードを記憶しています。ある時、バス停で待っていると、そこに孫を連れた老人もいて、「自分は田舎から出てきたが、東京で先祖になる(なった)」という話に感心し、それを柳田さんはどこかで書いていた。「先祖になる」というのは、先祖を祭る子孫が存在しなければあり得ないことだし、そこにもある種の「定住の生活思想」があるように思ったりしました。祭るべき先祖がいて、それを媒介する故里や一家一族の墓があることが前提になります。ぼくみたいに、ヤドカリのように棲み処を変える人間には祭るべき先祖(祖父母や両親)はいても、それを象徴する墓が遠くにあって(あるいは所在不明になっていて)、それこぞ「墓前供養」や「ご相伴」に与ることが出来ない相談です。しかし、いずれ存在している数多の「墓」も歴史の地中に埋もれていくのではないでしょうか。それでいいんじゃないですか。地上は、存在した命の墓場でもあるのですから。

・家はみな杖に白髪の墓参り 芭蕉

・夕月や涼がてらの墓参 一茶

・迎火や墓は故郷家は旅 子規

・菊の香や故郷遠き国ながら 漱石

・おはしたや墓参のむせぶ香煙り 蛇笏

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 余話ながら、です。 

 ・分け入っても分け入っても青い山 (山頭火)

 人口に膾炙した山頭火の句です。何処まで行っても「青い山」が続く。「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて行乞流転の旅に出た」と「まえがき」に書いた。山頭火、四十三歳。定住を拒絶し漂泊に赴く。浮雲の如く、往く川の水の如く、行雲流水に身を準えたか。それにしては、棄てきれない何ものかを背負って、山頭火は歩出す。「青い山」については多くの知者たちは見事な解釈をされています。ぼくは勝手に「人間の生きる場所=人間の死に場所=世間」だと思っています。何処に行こうが、どんなところに果てようが、それはすでに誰かが、何かをなし終えた地である。何処で生き死にしようが、それが世間なんだということです。

 身を焦がすばかりの悩みを持って、漂泊の旅に出た。何処に行こうが、死に場所はある。「青い山」は山頭火にとっては死に場所、つまりはお墓の在り処です。何処で息が絶えても構わない、そんな覚悟というか、、諦観があるとも思われてきます。(左上は山頭火の墓所、山口県防府市本橋町2–11 護国寺(曹洞宗)にある)(どうして、多くのお墓(墓石)は「立派」「豪華」なんでしょう。亡くなったものが造作するわけもないのですから、残された者たちの「心ない仕業・仕打ち」というほかありません)

 一代の僧、月照という人に「人間到る処青山あり」という作があります。ぼくの好きな人であり詩です。ここにある「青山(せいざん)」は、おそらく「青い山」詠む山頭火に同じでしょう。下に紹介しておいた「人間」は「にんげん」と読むのが相場でしょうが、ぼくは「じんかん」と読みたい。世間とも世界とも言っていいでしょう。人間のいるところ(世間)では、何処だって「青山=墓場」には事欠きませんよ。

 漂泊の旅人もまた、「青山」(それがビルの谷間や、コンクリートの道端であっても)に朽ち果てるのでしょう。ぼくたちが生きている地上には、死体や骨の埋まっていない場所はない。何処で死のうが、先祖(先人・先達)がいるではないか。ぼくの今に感じている「死生観」という(程ではありませんが)もののようです。誰かが遺言しました。「葬式はやるな、戒名も不用」というところ。それに加えて、ぼくは「墓もいらない」といいたいですね。

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● 月照 げっしょう(1813-1858)=江戸時代後期の僧。文化10年生まれ。大坂の人。京都清水寺成就院の住持。尊攘(そんじょう)運動にくわわり,安政5年梅田雲浜(うんぴん)らと水戸藩に密勅をくだすのに尽力。安政の大獄で幕府に追われ,西郷隆盛らと薩摩(さつま)へ逃亡。鹿児島藩から滞在を拒否され,同年11月16日西郷とともに錦江湾に身をなげた。46歳。俗名は玉井宗久。法名は忍鎧,忍向。号は中将房,無隠庵など。【格言など】くもりなき心の月と諸共に沖の波間にやがて入りぬる(辞世)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

● にんげん【人間】 到(いた)る処(ところ)青山(せいざん)あり=世の中のどこで死んでも、骨を埋める場所ぐらいはある。故郷だけが墳墓の地ではないのだから、大望を達するために郷里を出て大いに活動すべきである。※清狂遺稿(1892)〈釈月性〉上・将東遊題壁詩「埋骨何期墳墓地、人間到処有青山」(精選版日本国語大辞典)

● じん‐かん【人間】=〘名〙 人の住む世界。現世。世間。※続日本紀‐天平勝宝八年(756)五月丙子「禅師即誓、永絶人間、侍於山陵、転読大乗、奉冥路」 〔韓非子‐解老〕(精選版日本国語大辞典)

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 世は定めなきこそいみじけれ

羽田空港を離陸した直後とみられる写真。夕日に染まり始めた雲や、東京湾らしき海が写る。機内の写真は、被写体となった人の遺族の同意が得られず公開を見合わせるようになったという(小川領一さん提供)(朝日新聞・2020年8月12日)

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 【談話室】▼▽絶望的な大惨事だっただけに、生存者がいることに奇跡を感じた。1985(昭和60)年の日航機墜落事故。当時支局の記者をしており、1人の少女がヘリコプターに救出されるテレビ映像を凝視したのを覚えている。▼▽8月12日。当時中1の川上慶子さんは両親と妹の親子4人で北海道を旅行し東京から帰る途中だった。飛行機をキャンセル待ちし、最後尾に並んで4席の空きが出て滑り込んだ。だが運命の綾(あや)だろうか。小さな幸運は大きく暗転した。ただ慶子さんだけが奇跡的に助かった。▼▽「もし私も一緒に行っていたら5席が必要だったから乗らずに済んだかもしれない」。当時中2で部活を優先し自宅に残った兄の千春さんは6年前の手記で省みている。慶子さんはその後関西で看護師となり、阪神大震災では被災者を看護した。結婚し家族を持ったという。▼▽乗客乗員524人のうち生存者はわずか4人。事故は多くの人の人生を変えた。発生から36年の歳月の中で日航社員の顔触れは変わり、グループ全体の97%は事故後の入社という。520もの尊い命を失った教訓は重い。どう継承していくか。決して風化させてはならない。(山形新聞・2021/08/12付)

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事故の犠牲者の墓標に向かって手を合わせる遺族たち=2021年8月12日午前8時59分、群馬県上野村、関田航撮影(朝日新聞)

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 鎮魂の夏は続きます。もう三十六年が経過したというのでしょうか、あるいはほんの数日前に起った衝撃的な事故だったという気もするのです。その年の四月、ぼくたちは佐倉市内に転居した。まったく知り合いがなかったのですが、ただ静かな環境がいいと移り住んだのでした。そこから勤め先まで一時間半もかかりましたが、ぼくは平気でした。早起きは苦にならなかったし、朝帰りも大好きでしたから、なかなかスリルがある時代だったと思います。この大事故が起きたのは、夏、お盆まえのことでした。テレビでニュース速報が流されてから、事態の経過を固唾を飲まずに見入っていました。

 やがて事態が明らかになり、未曽有の飛行機事故だということが判明した。それから数日たって、事故機のクルーの一員に同じ町内のFさんが搭乗されていると伝えられた。もちろん、ぼくは一面識もない方だったが、ごく近所だったこともあり、なおさらこの事故は「他人事」とは思われなくなりました。以来、ことあるごとに、この大惨事に関して、いろいろと丹念に記録に当たり、刊行された書物にも目を通すことが、まるで習慣のようになった。事故に至る経過にもいくつかの問題があったと報じられていました。いまでは、いわゆる「陰謀説」なるものが大きく報じられています。その当否に関して、ぼくは何も語ることが出来ません。一言でいうなら、事故の原因究明は不可欠であるが、それはいまとなってはすべてが解明されないままで、歴史の闇に消え去るかのようになっていくことを留めようがありません。

 しかし事件や事故にかかわりのある人々が、犠牲者に対する追悼の意を失わず、それを自覚を持って語り続ける限り、「出来事」は古びないというか、消し去ることはだれにもできないでしょう。ぼくにとって、表向きは、この事故は他人事です。たしかに事故に遭遇した人に縁者や知人はいなかった。それは幸いというべきでしょうが、もしその飛行機にぼくが乗っていたら、家族の誰かが乗っていたら、そのように考えると、不幸は紙一重のところで入違っていたばかりで、その不思議を思うと、身につまされるのです。御巣鷹山のそば(ふもと)を、事故以前には何度も車で通ったことでした。事故の後に、如何したことか、ぼくは一度も通ることはなくなった。そして、毎夏、八月十ニ日に、不思議にも「手を合わせるがごとくに」、首(こうべ)を垂れているのです。機会があれば、この山にきっと登ろうと、いまでも心に秘めている。広島や長崎にも同じ想い(「また行くのだ」)を描いています。フクシマには事故直後に行きましたが、さらに自分の足で歩けるうちに、また訪れようと考えている。

 生きていると何事が迫りくるかわかりません。自覚のあるなし、注意不注意に無関係に、起るときにはさけられません。そんな、諦観ではないつもりですが、気分に駆られることがしばしばです。今年の夏は、ことのほかに「鎮魂」の思いが深まったようです。実に殊勝なことと、苦笑するばかりです。でも、生き永らえるというのは、死者に相対するということでもあるのではないでしょうか。五輪競技の四百メートルリレーでどこかのチームの走者がバトンを落としたように(目撃はしませんでした)、人生において、バトン渡しがうまくいかないこともあるし、あえて、それ(受け渡し)を拒否することもあるでしょう。でも、大きなところでは、歴史というのは世代間のバトンリレーによって生み出されてきたのです。この歴史におけるバトンリレーの、もっとも肝心なところは「競争」「勝ち負け争い」じゃないというところです。一周遅れだって、何周遅れだって、何構うものか。でも、いつかは、誰かから「バトンを受け取り」誰かに「バトンを渡す」のです。「ぼくだけはごめんだ」、そんなわがままな気持ちには、勝手人間のぼくだって、今でもなれませんね。(合掌)

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 あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからん。/ 世は定めなきこそいみじけれ。/ 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。

 かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。/ 住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。(「徒然草」第七段)

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 「ガンバレの日」に、「ガンバラナイ」を言う

 【有明抄】ガンバレの日 きょう8月11日は「ガンバレの日」。1936年のこの日、ベルリン五輪の競泳女子200メートル平泳ぎで前畑秀子さん(1914~95年)が日本人女性として初の金メダルを獲得。NHKラジオでアナウンサーが「前畑ガンバレ」と連呼した実況中継にちなむ。きのうの甲子園でも、県代表の東明館に、テレビを見ながら何度も「ガンバレ」を口にした◆ただ、漢字で書く「頑張る」には、他人の声に耳を貸さない頑固なイメージがあり、追い込んでしまいそうな響きを伴う。英語では「Goodluck(幸運を祈る)」や「Youcandoit(君ならできるよ)」など軽い感じで背中を押す◆とはいえ長い人生の中で、自分を追い込むように頑張らなければいけない時はあるだろう。頑張ることは時にしんどい。だが、振り返るとつらく、しんどい時間は一瞬。逆に、挑戦しなかったことや必要な時に頑張らなかった日々は後悔となり、一生ついて回る気がする◆J1サガン鳥栖の松岡大起(だいき)選手が移籍し、林大地選手は海外に行く。人生にはいくつかの岐路がある。判断に迷った時は後悔しない道を選びたい。頑張れる環境、挑戦できる環境にあるのは幸せなことだ◆誰かの頑張る姿に力をもらうことは多い。受けるイメージはそれぞれでも言葉に罪はない。贈る言葉はやはり、「ガンバレ」。(義)(佐賀新聞Live・2021/08/11)

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 なんとも奇妙な日があるものです。出来のよくない冗談か洒落のような「悪趣味」といっておきます。ぼくには、暦どおりに生活を送るという習慣はありませんから、取り立ててどうということもないのですが、「ガンバレの日」と来たからには、ちょっと一言申し上げたいと思った次第。「ガンバレの日」というのは、誰が何のために言い出したのか。「日本人女性として初の金メダル」の前畑秀子さんの「力泳」を援護射撃したアナウンサーの「ガンバレ連呼」に因むというから、いかにもいやらしい。(ぼくはこの実況録音を聞いたことがあります。今でも聞けるでしょう。ぼくは二度と聞きたくないと思った。音声を消して、映像だけをひたすら観る、まったく違った印象が生まれます。人間の声っていうのは、怖いですね)

 「頑張る」「ガンバル」には、諸説ありますが、端的にいえば「我を張る」からでしょう。この語は戦前はいうまでもなく、戦後もしばらくは「使うこと」がためらわれた、避けられたものでした。あるいは女性が使うのは恥ずかしいこととされた。今では考えられないことですが、悪い言葉として敬遠されていたのです。「君がそんなところで頑張るから、みんな迷惑するじゃないか」という具合に。でも、多くの人は「頑張る」「頑張ります」と好んで使う。いろんな場面で耳にしてきました。そのつどぼくは、「ガンバラナイマン」と自分に言い聞かせていたほどです。「我を通す」という意味合いが強い語だったように思われます。口癖のように、若い人から「とにかく、ガンバリマス」「取り合えず、ガンバル」といわれて、いい気はしませんでしたね。いったい、何をガンバルんだ、と、いかにも虚仮にされたように感じられた。

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 学校でもっとも幅を利かせているのに「勉強」という語があります。でも、それはちょっと堅苦しい感じがつきまとう。むりになんかをさせられるような気がする。お店でものを買うときに、「おばさん、ちょっと勉強してよ」と、特に関西ではいいます。値段をまけてくれないかという要求。店に対して無理(損)をしてくれという気味があります。かりにお店の人が「しゃあないな、勉強するよ」といえば、利益を度外視してサービスするということでしょう。それほどに、勉強というのはする方もさせられる方も、無理がありそうです。「無理が通れば道理が引っこむ」といいますな。ぼくの好きじゃない言葉です。

 勉強を頑張るということ 学校とは「なにかを〈学ぶ〉場所」だというのが相場となっています。そんなことあたりまえじゃないか、とほとんどの人は疑いもしないけれど、はたしてどうですか。なにかを学ぶということ以上に、どのように学ぶか、つまり「学び方」が問われなければ、学ぶといってもことはすまされないとぼくにはおもわれる。ものにはいろいろな学び方がある。にもかかわらず、学校での学び方はどこでも似たりよったりで、まるで面白くもなんともない、じつに味気ないものじゃないですか。だれかに強いられて、数学や英語を学ぶということはあります。また、試験でいい成績をとりたいがためにこころはずまないけど勉強するということもある。入学試験などはその典型ではないですか。どっかで無理しているね。

 入試に必要だから、いやな科目でも勉強するのであって、それが不要な教科ならだれも勉強しないというわけです。大切なのは勉強の動機ということになります。モチベーションともいいます。それはじゅうぶんにかんがえられていないようです。たいていは否応なしに勉強する ― じっさいは勉強させられるのです。学ぶことの動機が、こういう言い方をして理解されるかどうかわかりませんが、みずからの内にあるか外にあるかで、その結果には大きなちがいが生じるでしょう。自分でするか、だれかにさせられるか、ここが分かれ目となるのです。それをすることが楽しいのか苦しいのか。

 ようするに学ぶ意味をどこに見いだすかが問題なんです。なにかを学ぶというけれど、それはいったいどういうことなのか、そのなかみを問いたい。学校で学ぶのはいかにも強制されているようで、学んでいるのか学ばされているのか区別がつかない。いずれにしても気の重いことに変わりはない。学校の勉強は今も昔も似たようなもの、といえば世代をこえてうなずかれるはずです。

 「学ぶ」とはどんなことですか なにかを学ぶというのは、つまるところ自分を発見することです。今まで気づかなかった自分をさまざまな機会においてしることだとおもうんですね。そのための練習こそが学校でなされてほしい授業だと、つよくいってみたいのです。どんな失敗をしても、かならずとりかえしがつくという経験をする場、それが教室です。そのような貴重な経験を重ねるための練習が授業なのだといいたい。

 それはまた、ある物事について自分流にかんがえ、自分流に判断する、その判断がせまく偏ったものにならないようにするための訓練です。紋切り型の物言いや、みんないっしょといった「かたまりの思想」に毒されない柔軟な発想や把握ができるように自分を鍛える機会です。いうならば、この自分にも精神の自由があるということを身をもって経験するのが教室でおこなわれる授業であり、その可能性を開くのが教師の仕事ではないのかとおもうのです。

 教育とは自由の実践だ、とある人はいいましたが、現実はその逆で、教育を受ければ受けるほど不自由な人間になる(させられる)のではないかとさえぼくにはおもわれます。まるで強制されて山に登るようなもので、せっかくの経験が台無しになってしまう。それに比べて、学ぶ(学習)というのは、相手がどうであるというよりは、自分の意志で学ぶのだという気分がこめられているようにおもわれます。たんに言葉づかいの問題ではなさそうで、「勉強しよう」と「学習する」ではそこにはっきりしたニュアンスのちがいがあるようです。だから「勉強」という言葉を教室から追放したらどうかと提案してみたい気がします。教師も子どももずいぶん勝手がちがうことになるんじゃありませんか。ついでに「教室」という語も。教える・教えられる部屋。

 なによりも一人ひとりのちがいや差異といったものを認めなければ教育の筋が曲がってしまう。それとも、そんなことはできるはずがないのに、ちがいのある子どもを同質にするのが教育や授業の役割なんだろうか、といぶかしく思うのです。平等というものをとりちがえているんですね。教師と生徒の関係において、同化と異化というのはとても大きな課題となっているのではないですか。 

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  《 誰かの頑張る姿に力をもらうことは多い。受けるイメージはそれぞれでも言葉に罪はない。贈る言葉はやはり、「ガンバレ」》とコラム氏。どうしても「ガンバレ」といいたいらしい。猫も杓子も「がんばれ」という灼熱の下、「ガンバレ・ガンバロの祭典」は終わりました。ぼくはまったく見ませんでしたが、雰囲気は伝わってきました。「金メダル史上最高」「頑張ったぞ、ニッポン」という調子。ぼくは他人を押しのけて何かをするのは嫌ですね。たとえそれが競技であっても。でも、反対にそれが大好きという人がいても一向にかまわない。それを達者に強制さえしなければ。

 ワクチン接種は「自主的です」と言いながら、接種証明がなければ著しく行動が制限されるという、へんてこりんな現象が、洋の東西、あちこちで生じています。「すべてが、頑張ってワクチンを接種しろ」、「接種率で隣国に負けているじゃないか」という狂詩曲・狂騒曲・競争曲が響き渡ろうとしています。

 マエハタガンバレ、マエハタガンバレ、ガンバレマエハタ、ガンバレマエハタ、ガンバレニッポン、ニッポンガンバレ。こんな時代相がすっかち定着しそうですな。高校野球が甲子園で始まった。「ガンバレ、ガンバレ、球児が通る」と「旗振り」を唆(そそのか)している大朝日、だとか。させる方もする方も、いのちがかかっているというか、この島に似合う景色が甲子園なんですか、暑いのに、いかにも寒いですね。ひとそれぞれに背負っているものがありすぎるような気がします。その重荷が「たかが野球」を殺していますね。

 一人しずかに、身の行く末を愚考するばかりです。「腹に一物、背に荷物」なんかじゃありませんよ。

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   たくさんある児がめいめいの本をよんでる (尾崎放哉)

 「ガンバル」「ガンバレ」という、暴力的に払いのけるような「邪魔だからどけ」あるいは「傍若無人」の風を感じさせる、こんなにはしたない言葉ではなく、自分をも他人をも励まし、いささかの勇気を与える、猛々しくない表現、そんな言葉遣いを探したいね。ぼくには、いくつかあるんです、すでにどこかで使っていますよ。「ガンバラナイ」は「我を張らない」に通じますね。我を張る、その周囲にはきっと他人がいて、わっと引いてしまうか、「俺だって」と我を通そうとするのか、いずれにいしろ、自分とは別の人がいそうですね。「一人こっそりガンバル」というのもないではないんでしょうが、他人に隠れて「ガンバル」というのを、頑張るというのかな。やはり「マエハタ ガンバレ」「ガンバレ ニッポン」という口調になると、自ずと何かを語っていますね。

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 原爆のことはやっぱり忘れ切らんね

 【天風録】人間の弱さを知る 苦しむ人を前に、手を差し伸べることなく見捨てた自分…。罪の意識を背負いながら、「人間の弱さ」と向き合い続けてきた一人の長崎原爆の証言者が今年4月、93歳で息を引き取った。カトリック修道士の小崎登明(おざき・とうめい)さんだ▲17歳のときに爆心地から2キロの兵器工場で被爆し、唯一の家族だった母を失った。アウシュビッツ強制収容所での犠牲で知られる、長崎ゆかりのコルベ神父を慕い、足跡などを掘り起こした。一方で、亡くなる直前まで自らの被爆体験を語り続けた▲伝えようとしたのは、あの日の凄惨(せいさん)な出来事だけではない。被爆直後、自分に暴力を振るった工場の先輩が大けがで苦しむ姿に「ざまあみろ」とののしり、見捨てて逃げた「心の痛み」も包み隠さず話した▲きのう長崎市長は平和宣言で小崎さんの手記を引いた。〈核兵器は普通のバクダンではない〉〈二度と繰り返させないためには「ダメだ、ダメだ」と言い続ける。核廃絶を叫び続ける〉▲小崎さんにとって原爆の恐怖は極限下であらわになった人間の弱さだったと振り返る。威力だけでなく、人の心をも壊してしまう。それこそが核兵器の非人道性だろう。完全に廃絶しなければ、平和は来ない。(中國新聞デジタル・2021/08/10)

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[ 戦後に撮影した外国人神父らの写真を紹介する企画展で、笑顔を見せる小崎登明さん=2019年撮影(長崎市で2019年8月14日午前10時12分、浅野翔太郎撮影・毎日新聞)]

 《 被爆者のの小崎登明さん、93歳で死去 /「罪」の意識を背負った被爆者として、長崎のカトリック史を掘り起こす修道士として、病と向きあう一人の人間として。15日に93歳で死去した小崎登明(おざきとうめい、本名=田川幸一)さんは、死の間際まで出会いを広げ、発信を続けた。ゆかりの人は感謝の言葉で見送った。◇小崎さんは1928年、現在の北朝鮮生まれ。三菱兵器製作所の少年工員として働き、長崎市赤迫のトンネル工場で被爆した。爆心地から約500メートルの家にいた母とは二度と会えず、孤児となった。/ 最期まで、8月9日に感じた自分の『弱さ』と向き合っていた」。国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の横山理子(みちこ)さん(47)は振り返る。昨秋から毎週、面会やビデオ通話を重ねた。/ 自分に暴力を振るった年長の工員がうめいているのを見て「ざまあみろ」とののしり、助けを求める手を振り払って逃げた。無事だった自分に「エリート意識」を感じた――。「人間とは悲しい存在」。最後となった2月の講話でそう語った。

 戦後、聖母の騎士修道院(長崎市)に身を寄せ、修道士に。ポーランド人のコルベ神父(1894~1941)に希望を見いだした。長崎で布教し、アウシュビッツ強制収容所で身代わりを申し出て亡くなった神父の生き方を、自らの体験と対置。30代から長崎やポーランドで足跡を調べ、雑誌や著作で発表した。/ 80年代初頭には神父の資料を作家・遠藤周作に提供。遠藤の代表作の一つ「女の一生――二部・サチ子の場合」に結実した。/ カトリック長崎大司教区の高見三明大司教(75)は「多くの人に、魂の糧になることを伝えつづけてくれた」とねぎらった。/ 2009年には「人生を語りたい」とブログを始めた。思い出や、度重なるガンとの闘病をつづった。亡くなる前日に「もう、チカラが無い」と書くまで、諫早市の老人ホームや入院先の聖フランシスコ病院(長崎市)からほぼ毎日更新していた。

 ブログ読者だった看護師の塩沢美樹さん(38)とドイツ語講師の野々村哲さん(44)は何度も小崎さんを訪ねた。小崎さんが撮影した約1万カット分のネガの整理を手伝い、19年には長崎市で写真展も開いた。塩沢さんは「見たことのない世界を見せてくれた。思い出の中で、また会える気がする」と話した。/ 自らの信念を、生前の小崎さん自身はこう語っていた。「生きるとは、孤独と出会い」(榎本瑞希)(朝日新聞・2021年4月17日)

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 八月十日(火)。酷暑の盛りともいえる日ですが、劣島のいたるところで豪雨の被害が出ています。生きているというのは、さまざまな被害に遭遇し、数多の災害を目撃することなのだと思い知らされる日々です。夏の暑さと生きることの辛さの二重苦です。それに覆いかぶさるように、一層正体不明のコロナ禍が猖獗を窮めている。天災と人災というものの、転載は本の糸口、殆んどの傷口は「人災」であり、「無作為」である現実に慄然とする。忘れたころににやってくるどころか、忘れるいとまさえもない災厄の、陸続として襲い来る「令和の夏」の酣(たけなわ)の頃です。

 長崎のカトリック修道士だった小崎登明さん。本年四月に死去されました。ここにも、一つの人生があり、いのちのつながり、生命のバトンタッチを感じます。余計なことは言うまい。「人間は罪なるものだが、コルベさんのような人もいる。そこに希望があり、救いがある。孤独と出会い、愛といのち、これが人生だ」と。そして「孤独は生涯ある」と言い切る氏の表現は、終生それを実感しつつ生きてこられたかと思われる人の言だけに、身に迫るし、身につまされるように、ぼくは受け止めた。孤独は人間にとってかけがえのない、終生の友人、裏切ることのない友なんですよ。だからこそ、「出会い」が奇蹟になるんじゃないですか。

 「人間の弱さ」、これは完璧です。欠けたところはまったくない。立った一つ、人間が有している完璧性」、それが「弱さ」です。この弱さを、自他に晒すことができるかできないか。そこから大きな差が生じてきます。どんな人も、自分は弱い人間であることを知っている。知っているからこそ、それを隠したい、あるいは何かで覆いたくなるのです。簡単に言えば、虚名・虚栄・虚勢・虚業・虚飾・虚言などなど、さまざまに借り物の「洋服」をとっかえひっかえ身にまとって、自分の弱さを偽り隠したいのです。でも、自分にはその弱さを隠すことはできない。そこが救いなのかも知れません。ぼくたちが住む世界は、この「弱さ」をめぐる駆け引きで成り立っているようでもあります。「弱さが消える薬」「これで弱さは退散、有名学歴証」、自分は弱い、でもこうして弱くなくなったという、偽りの自分探しに明け暮れているともいえるのです。ぼくなどもその典型であったと、今から思うと冷汗も涙も出てきます。

 では、その弱さを克服しえたかと問われると、たちどころに、息が詰まる、心が萎える。かろうじていえるのは「自分は弱い人間だ。それを自分に隠さないこと」それだけです。それで強くなれるのではないけれど、自分の弱さを認めることで、すくなくとも「自分騙す」ことから解放されます。弱さの生み出す「二重苦」を、なんとか防ぐことができる。その分だけ、変な表現ですが「弱くなくなった」といえるようにも思えるのです。人間が強い、あるいは強い人というのは、「弱さ」を隠したり偽ったりしない人です。正直を貫こうとする人のことじゃないですか。人間の「強さ」はここにしか認められないように、ぼくは感じてきたのです。いかがでしょう。何処まで行っても「弱さ」は消えてはくれないということです。弱さは完璧です。

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 開始から一年半が経過しました。記憶細胞の劣化防止のための、効力の定かならぬ「自主トレ」も、いよいよ佳境に入ってきました。杖を突いたり転んだり、七転八倒というのではないでしょうが、まあ、それに近いようなものです。面倒は厭わないが、簡単・簡潔・単純を好むというぼくの弱すぎる性格からすると、いささかの辛酸を加えてきたかもしれません。でもまだ、ようやく「とば口」に立ったばかりのようでもあります。汗が出るのは暑さのせいだけではなさそうですな。

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 ”彼等果して人間なりや”

 【水や空】感謝の思い 急に態度を変え、従来とは正反対の対応をすることを意味する「手のひら返し」。先月23日の東京五輪開幕前から、この言葉がSNSなどで話題になった▲「五輪の選挙利用」などと開催に反対していたテレビコメンテーターらの態度が、開幕と同時に「感動した」へ変わったことへの反応である。予想通りとはいえ、確かにその変わり身の早さには驚いた▲でも、と考えてみる。そのどこが悪いのかと。人は周囲の意見を聞き、現場を見て、自らの考えを構築する。一貫性がないとも言われそうだが、それぞれの、その時々の考え方を否定する権利は誰にもない▲そんな不安定な世論の中でも、選手たちのプレー、コメントはすがすがしかった。浮かれず、開催への「感謝」を強調する選手が多かった▲中でも体操会場の一こまは印象的だった。競技終了後、日本チームは「運営スタッフの皆様ありがとう」と書いた横断幕を掲げた。涙が止まらなかったスタッフもいたという▲きょう8日、緊急事態宣言下で開かれた歴史的五輪が閉幕する。予想される手のひら返し返しはどうあれ、医療現場への影響や感染爆発との因果関係などは徹底検証されるべきだろう。でも、今はただ、全力を尽くした選手やスタッフのみなさんをねぎらいたい。「たくさんの感動をありがとう」と。(城)(長崎新聞・2021/08/08)

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 本日は八月九日。台風の余波なのか、くりかえす突然の降雨に、湿気がさらに増して気分はすこぶる快調です、とはいきません。ぼくにとってはじつに鬱陶しい、目障りな催事もようやくにして終わりました。五輪=二輪開催に反対であって、選手たちに何の恨みもないことは明らかです。なんで五輪=二輪開催に反対か、それについては愚見を述べておきました。スポーツは好きでも、それが職業や金銭が絡むと「たかがスポーツ」ではなくなる、それが嫌なんですね。かみさんは、ぼくの意図にお構いなしで、テレビで観戦していましたので、食事時など、どうしても目に入ってきます。若いゴルファーが「日の丸を背負っていたので、銀メダルが取れてよかった」という趣旨の発言が耳に入って、驚愕しました。なんで、そんなもの背負うんですか、背負わされるんですか、いくつもの愚問がおのずと湧きました。国旗を背負うと、それは「たかがゴルフ」ではなくなります。ぼくは下手なりにクラブを振りまわしますが、「たかがゴルフクラブ」だから、ぼくは勝手にふりまわせるんです。誰に気兼ねもいらない。職業がスポーツ、いうまでもなく、それはなんの問題もないのであって、それが好きか嫌いか、観戦する側の問題。

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 野球チームは「侍ジャパン」だとか。ここにも「たかが野球」じゃない、「勝ってくるぞと勇ましく」という戦闘集団がいる。サッカーは「なでしこジャパン」とか…、というわけで、「闘い済んで日が暮れて」、やれやれと思うのもつかの間、また「熱闘甲子園」とかいう(朝日新聞社主催の乱痴気)狂騒曲が始まる。学校を背負い、地域を背負う野球、だからと、いっさい面倒なこともいわないし、ケチをつけることもしません。「たかが野球」に憧れもし、実地にやってみて、これを飯の種にしようとは考えもしなかった、心身共に貧しかった、いまも貧しい「かつての野球少年」の独り言です。PLAYBOYだった頃が霞んで見える。

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 長崎に「原爆が投下された日」です。広島から三日の後に再び襲った惨事。広島も長崎も、かかる惨状を見ないで済ますことが出来たと考えるのは空想であり、幻想でしょう。敗色濃厚どころか、敗戦が決定的であったにも関わらっず、体裁や見栄(虚栄心)に気をとられて、あたら終結の決断を遅らせた結果です。二個の爆弾投下で、無辜の民十数万の命が破壊された。原爆被害は終わらないで、今に続いています。

 この時期の新聞報道は、厳しい統制下にあったから、真実の報道は不可能だったとされる。そうですか。統制下になかったら、ありのままの報道がなされていたのでしょうか。「(米の使用した新型爆弾について)防御さへしつかりやれば決して恐るべきものでないことがわかつて來た」「白い着物は熱線から受ける火傷を確実に防ぐ」「(この爆弾を落とした米国人に)”彼等果して人間なりや”の疑問を感ぜざるを得ない」このような記事を統制下で書いたのか、あるいは書かされたのか。いずれにしても「報道ではなく、広報だ」といわざるを得ないのです。今回の「二輪開催」に際しても、そっくり同じような「広報」が垂れ流された。傍らで、病院にも入れず、自宅で孤独死する人が放置されていたのに、です。大感染状態はそっちのけ、「そこのけそこのけ、二輪が通る」かね。

 《予想される手のひら返し返しはどうあれ、医療現場への影響や感染爆発との因果関係などは徹底検証されるべきだろう。でも、今はただ、全力を尽くした選手やスタッフのみなさんをねぎらいたい。「たくさんの感動をありがとう」と》

 「江戸の仇を長崎で」じゃないんですか。 いろいろと問題やおかしなところ、出鱈目のケースはあったが、もう終わったんだから「たくさんの感動ありがとう」というべしと、いうべしですか。これは「手のひら返し」とは言わないでしょうが、「終わりよければすべてよし(All’s well that ends well.)」という、実に陳腐な「チャラにする論法」じゃないですか。あんまり好きではない「ノーサイド」の強制ですよ。

 あるいは「一億総懺悔」を彷彿とさせるような「帳消し論法」がいたるところで見聞される。その足元にはまったく手付かずどころか、さらに悪化の一途をたどる「コロナ禍」に拱手傍観している、為政者もどきの狂喜乱舞が見て取れるのです。「さあっ、選挙だ」と魑魅も魍魎も、例外なしに浮き足だっている。選ぶ側も選ばれる側も、目先鼻先の利害得失を量るばかりで、この先の展望というものには目を閉じているのです。国政選挙の形骸化は「政治家の形骸化」に拍車をかけるばかりです。「彼等彼女等、はたして人間なりやの疑問を感ぜざるを得ないのです。

 広島・長崎の災厄(もちろん、この島全体が被った被害であります)、この痛ましくも残酷な歴史的事実は、この先どのようにして人民の記憶に刻され続けるのでしょうか。先を見ない刹那主義が蔓延している現実にあって、いまこそ「蔓延防止特別措置」 が施され 、「緊急事態宣言」が出されるべきです。教育の出番でもあるのですが、これもまた、まことに心もとない。まず、核に関して、アメリカの核はいいけど、それ以外のものはどうかといわぬばかりに、核兵器禁止条約には口をつぐんでいる政治家どもが権力の座についている。抜け目なく「五輪は大成功」と恥ずかしい自画自賛です、けれども、肝心の核問題に関して、被爆地ではまったくの無視を貫いたのです。あまたの「選挙民」が愚弄されている明白な証拠じゃないですか。

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 白玉の…酒は静かに飲むべかりける

 【雷鳴抄】アルコール依存症 山男が酒に溺れるはずがないと勝手に思い込んでいた。中高年向け季刊誌に20年近く県内里山歩きのコース紹介を連載してきた増田俊雄(ますだとしお)さん(72)=宇都宮市=が、最終回で自身のアルコール依存症を告白し、驚いた▼年間80日も山に登り、自著も複数ある元県庁職員。数々の団体の役職を降りて時間ができ、酒量が増えた。日中から飲んで周囲に迷惑も掛け昨夏、群馬県の赤城山麓にある専門病院に3カ月入院した。依存症は誰でもなり得ると思わざるを得ない▼病院には各種プログラムが用意されていたが、それ以上に周囲に広がる緑豊かな環境が救ってくれた。入院9日目から毎日、森林散策を日課にし、楽しんだ。その思いを最終回に書いた▼依存症であることを告白すれば周囲から酒を勧められずに済む。新型コロナウイルス禍で飲酒を伴う会合がなくなったのも幸いした。退院後は「なぜか」飲みたいと思わず現在に至るという▼ただ、真に克服するには一生、誘惑に負けず断酒を続けるしかない。これから本当の闘いが始まる▼酒を断つには、通院の継続、抗酒剤の服用、自助グループへの参加の三つが重要とされる。もう一つ、四つ目に挙げられるのが依存症であることの告知だ。根強い偏見もあり、ちゅうちょする人は多い。依存症者の努力を支えられる社会でありたい。(下野新聞・2021/08/06)

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 こんなことを書いてもあまり価値があるとは思えませんけれど、「アルコール依存症」と聞くと、ぼくは「果たして、自分はアルコール(薬物)依存症だったか」と、しばしば反省することがあります。かなり長期(半世紀以上)にわたって、飲みつづけていたし、途中で「止めなければ」と一度だって考えたことも、そのような行動に出たこともなかった。飲んで暴れたということも記憶にないし、飲んで管をまくということもまずなかったし、と悪いことは何もなかったように聞こえますが、けっしてそうじゃないでしょう。二日酔いはのべつだったし、家族をはじめ、多くの人間に迷惑をかけたに違いない。違いないというのは「自覚がない」証拠のようで、まるで寝覚めが悪いですね。「君はアル中だ」とかみさんにはいつも言われていた。「酒臭い」とも。そういわれれば「そうかもなあ」という程度の認識というか、受け止めしかしませんでした。酒の上での失敗は当たり前に限りなくありました。でも、その多くは他愛ないもの、本人はそのように受け取っている。周りに重度の依存症の人間がいたわけではないけれど、「これが、依存症なんだ」と思われるような人も何人かいました。

 酒はうまいから飲む、それがぼくの常套句だった。憂さ晴らしのために飲むなんて、お酒さんに申し訳ないという心持ちでした。値段ではなく、味でいうなら、まずい酒は飲んだことがない。若い時は、アルコールなら何でも口にしたし、量も半端ではなかった。ある年齢を過ぎ、五十前頃からだったか、ほとんど日本酒しか飲まないようになった。それも年中、常温のお酒専門だった。ビールは口にしない。性格は几帳面ではなかったから、毎日何合という量り飲みはしたことはなかった。気分のままに、好きなだけ飲んだということです。五十を過ぎてからは五合程度。ほぼ毎晩でした。同じ銘柄だった。夕方になると、飲みたくなるのですから、りっぱな「依存症」だっただろう。それを心配したことはなかったし、第一「睡眠中は飲まない(当たり前)」のだから、大丈夫などと嘯いてさえいました。アルコール(薬物)類を横に置いて飲みつづけ、飲み疲れたら(眠ろうとしないのに)眠る、目が覚めたら、また飲みつづける、その繰り返し。そんなことはなかったし、その恐れもないのだから、「酒飲み」ではあっても「依存症」ではないと信じていました。酒にまつわるさまざまな事件や騒動には関心がなかったし、酒がうまくて、調子が良ければ幸いとばかり、半世紀以上も飲酒を続けてきたのです。(「抗酒剤」というものが何種類もあります。一方でふんだんに酒を売り飛ばしながら、もう一方で「酒を断つための薬」と、なんという矛盾・逆説か)

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● アルコール依存症=アルコール依存症は、薬物依存症のひとつです。ほかの薬物依存症と同じようにアルコール依存症も「脳の病」であり「行動の病」です。/ 薬物依存症の主な症状は、「強化された薬物探索・摂取行動」と規定され、脳に行動の記憶として刻印され、完治することがない病気です。長期にわたる断薬(アルコール依存症では断酒)をしても、少量の再摂取から短期間に断薬(断酒)直前の摂取行動にもどります。ほかの慢性疾患と同様に再燃(再発)しやすい病気です。/ アルコール依存症は普遍的な病気ですが、誤解の多い病気でもあります。アル中(慢性アルコール中毒)と同義ではありません。アル中は社会的、道徳的、倫理的なラベリング(レッテル貼りの言葉)であり、医学用語からは排除されています。

(酒を飲まないのが「正常」だってか???)

 原因は何か 依存性薬物であるアルコールを含んだ嗜好品しこうひん、すなわちアルコール飲料を繰り返し摂取すると、脳内へのアルコールの強化作用(その薬物の再摂取欲求を引き起こす作用、アルコールでは飲酒欲求)に対する感受性が増大します。/ 強化作用の機序(仕組み)はすべての薬物依存症に共通で、脳内の側坐核そくざかくから神経伝達物質のドーパミンが放出されることによります。アルコールは、GABAガバ­A神経を介して側坐核からドーパミンを放出させます。/ この強化作用に対する感受性の増大が、飲酒行動を強化し、飲酒パターンが病的となって探索行動(何とかしてお酒を飲むための行動)を引き起こします。感受性の増大する速度は、強化作用に対する感受性のほかに、飲酒量、飲酒頻度などで変わってきます。/ 強化作用に対する感受性が高いと、飲酒量や飲酒頻度が高くなくても短期間で依存症に至ります。一方、感受性が低くても、飲酒量や飲酒頻度が高ければ短期間で依存症に至ります。すなわち、アルコールの強化作用に対する感受性と飲酒の反復とから、アルコール依存症が形づくられます。したがって、原因に性格や人格をあげるのは科学的ではありません。(六訂版 家庭医学大全科

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 人混みを避けるように、人里離れた山中(雑木林地帯)に移住してきて八年目を経過中です。これはどこかで触れましたが、越してきて二年目頃に、酒をぷっつりと飲まなくなった。以来、一滴も飲まない日が続いています。誰も信じようとはしないし、ぼく自身もそうだ、ということはない。欲しいとは思わないだけです。今だって、飲もうとすれば、いくらでも飲めそうな気がします。拙宅にアルコール類はかなりある。誰も飲まないから、「猫にでも」といっては、かみさんに叱られています。何故、止めたのか、理由はいくらもありそうでも、「ただ飲みたくなくなった」からさ、それがホントのところかもしれません。じゃあ、どうして飲みたくなくなったのか、そう訊かれれば、理由を探していろいろと論うことになる。それは無駄だから、ぼくは詮索しない。欲しなんですね、心身が。

 断酒も、理由はあるようで、じつはないともいえる。そういう時期が来ていたということでしょう。長年いっしょだった夫婦が離婚するみたいなもので、なによりも「別れたくなった」「いっしょにいたくない」ということ。どうして「別れたいの」と尋ねられれば、なんとかかんとか理屈をつける。でも「覆水は盆に返らず」、前を向いて歩こうじゃないかとなれば、それで一件落着(ではなく、いろいろと後悔やら斬鬼の念やら、文句の言い忘れ、離婚後の後始末やらが襲い掛かって来るのかも)。離婚は断酒とは違う。でもね、よくない習慣や生活は、一刻も早く断ち切ったらよい。それだけです。とはいえ、世の中は、何事も簡単にはいかないものらしい。

 「年間80日も山に登り、自著も複数ある元県庁職員。数々の団体の役職を降りて時間ができ、酒量が増えた。日中から飲んで周囲に迷惑も掛け昨夏、群馬県の赤城山麓にある専門病院に3カ月入院した」 「依存症であることを告白すれば周囲から酒を勧められずに済む。新型コロナウイルス禍で飲酒を伴う会合がなくなったのも幸いした」というのは増田さん。ここまで書いてくる間、ぼくの脳裏には「ストレス」という摩訶不思議な言葉が浮かんでは消え、消えては浮かんでいます。現代というか、近代の社会生活における「魔物」、それがストレスではないでしょうか。その浮き沈みする言葉(単語)にハンス・セリエという人が乗っています。若いころに、懸命に彼の著書を読んだことを思い出している。

● Hans Selye(ハンス・セリエ)(1907―1982)=カナダの内分泌学者。オーストリア生まれで、プラハのドイツ大学出身の医師である。若くしてアメリカに渡り、ジョンズ・ホプキンズ大学で研究生活に入り、のちカナダのマックギル大学に移り、1936年ストレス学説を発表した。1945年モントリオール大学の実験医学、外科学の教授となり、多くの医学賞を受けた。/ セリエの学説では、生体が細菌感染、薬物中毒、外傷、火傷、寒冷、精神緊張など、物理的、心理的な非特異刺激に当面したとき、その刺激に無関係な一連の個体防衛反応が現れることをストレスと称し、ストレスの原因をストレッサーとよんだ。ストレッサーは下垂体前葉→副腎皮質の内分泌系によって、ストレス反応を演じる。この反応は、生体が環境に適応するための現象で、汎(はん)適応症候群と名づけられ、警告反応、抵抗期、疲労困憊(こんぱい)期の3段階で進行する。この反応が過度になると、ストレス潰瘍(かいよう)のような病的状態になる。(日本大百科全書)

● ストレス(すとれす)stress=警告反応と訳される医学、生物学用語生体に有害刺激が加わると、脳の特定部位や下垂体前葉の分泌細胞の活動が高まり、それによって副腎(ふくじん)皮質刺激ホルモン(ACTH)の分泌が増加し、その結果、血中の糖質コルチコイド濃度が上昇する。この下垂体前葉―副腎皮質系の機能上昇は、有害刺激から生命を守り、生命を維持するためには不可欠なものである。カナダの内分泌学者セリエH. Selyeは、ACTH分泌を増加させる有害刺激をストレッサーstressorと定義した(1936)。これは生体諸機能にひずみstrainを生ぜしめるものという意味であるが、現在このようなひずみをおこすことを含めてストレスとよんでいる。

 その後、カナダの内分泌学者フォーティアC. Fortierは、ストレッサーをその有害刺激の作用の仕方から、神経性(音、光、痛み、恐れ、悩み)、体液性(毒素、ヒスタミン、ホルマリンなど)、ならびにこれら両者の混合した型の3種に大別した。これらの異常刺激に生体が曝露(ばくろ)されると、生体は視床下部―下垂体前葉―副腎皮質系の活動を高めて循環血液中に副腎皮質から糖質コルチコイド濃度を上昇させて自己を防衛する。その際、ストレッサーは、その種類によって生体にそれぞれ特異的な反応を引き起こすとともに、非特異的な変化を惹起(じゃっき)する。この非特異的変化は、生体がストレッサーに曝露されたときに生体に備わっている防衛機構を刺激して、生体に適応させて生命を維持するものである。しかし、有害刺激があまりにも強いと、適応機能は破綻(はたん)し、ついに疲憊(ひはい)に陥って死に至る。これら一連の反応過程を総括して、セリエは汎(はん)適応症候群general adaptation syndrome(GASと略す)と名づけ、次の三つの時期に区分した。(以下略)(同上)

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 台風が房総沖を通過中で、激しい雨が降っています。(ただ今、お昼過ぎ)面倒な話になったのも、この酷暑さなかの雨台風が「ストレス」になって、軽量級のわが脳髄に襲い掛かっているからでしょう。面倒になるのは、ぼくのもっとも苦手とするところ。余計なことはどなたかに任せて、大雨の通り過ぎるのを待つのみです。ストレスは「重くしない」のが最良の策ですから、重くなりそうな道を避けることにします。

 ストレスは人生には不可欠というか、なくせないものです。ストレスがないというのはどんな状態か。まったく刺激がないか、刺激を感じない状態です。空気がほとんど入っていない風船のようでもあります。これって、風船?生きているというのは「ストレスを感じる」状態をいう。問題は、「ストレス(負荷)」の軽・重です。乱暴な異説を言うと、仕事や人間関係などで心身に「重圧(pressure)」がかかると、それを軽減するため(express)に「飲酒」や「薬物摂取」に走るというのが、世人のよくとる方法です。他にいくらでも方法はあるのに、もっとも近づきやすいものに手を出す。「負荷」が軽くなることと「飲酒」「薬物摂取」が強く結びつくと、おそらく「依存症」という状況が生まれる。 「アルコール飲料を繰り返し摂取すると、脳内へのアルコールの強化作用(その薬物の再摂取欲求を引き起こす作用、アルコールでは飲酒欲求)に対する感受性が増大します」(上掲事典参照)

 そこを上手にコントロールできないと、過度の薬物摂取や飲酒が常態化し、「依存症」が顕現するとみられるのです。ぼくが、「依存症」とまで言われるような状態にいかなかった(と、自身では考えている)のは、負荷(ストレス)が軽かったから、あるいは「重くならない前に解放」されたからでしょう。ぼくは「睡眠」の名人です。不眠症にかかったことはありません。これも「ストレス」の重量・重圧化を避ける大きな要因だと言える。この「ストレス」という「負荷」「圧力」の程度には、人それぞれに事情や状況が異なりますから、一般化して、なんだかんだ云々しても始まらない。酒やたばこは「依存」を引き起こす黄信号というか、常に身近にある「誘惑物」です。誘惑に身を任せることも一計であり、そこからの背馳もまた一計です。過ちは、人間の常であり、それを回避するのは至難ですね。

 「酒は百薬の長」ともいうし、「酒は万病の元」ともいう。あるいは「酒は命水」とも「酒は涙か溜息か」とも。要するに、なんとでもいえるということ。腹が立ったといって飲み、いいことがあったからと飲む。雨続きだから飲み、猫が笑ったといっては飲む。なんだかんだと、飲む理由に事欠かないよと考えるのは、既に依存症の五段目あたり(中等症)まで来ている証拠。「酒は静かに飲むべかりける」と詠った若山牧水(1885-1928)は、紛れもないアルコール依存症だった。死因は肝硬変とか。「斗酒猶辞せず」、大層な酒豪だったとも言われています。終焉の地、沼津にて歿。享年四十三。(白鳥に「ストレス」はあったか) 

  白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ(牧水)

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