ただいるだけで…(これが真骨頂かも) 

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 【有明抄】温かい言葉のシャワーを 人間にとって一番大事なものは何か―。「没後30年 相田みつを全貌展」の会場を巡りながら、「原点」という作品が問いかけるものを考えた◆ある作品に答えを見つけた気がした。それは「いまここじぶん」。「今、この瞬間を生きている自分」。相田さんはその合計を「一生」とした。「命」とも表現できるだろう。佐賀市の県立美術館で開催中の同展は22日の閉幕まで残り4日。線の美も見どころだが、相田さんが「自分」に語りかけたであろう言葉はさまざまな形となって見る人の心に迫る◆筆者は娘と鑑賞した。娘が心に残った言葉は「懦夫(だふ)凜凜(りんりん)」と「馴(な)れ」。「懦夫凜凜」は臆病者の自分も自分なりに堂々と生きていこうという意味の造語。「馴れ」は初心を忘れるなと説く。言葉はその瞬間、道しるべのように影響を与えることもあれば、後になって「あの言葉に支えられた」と思うこともある◆これから相田みつを展を見にいく人は、見終わった後、どの言葉が心に残ったかを互いに話すのも一興。既に鑑賞した人は、元気をもらった言葉を豪雨被災者に贈るのもいい◆きのう、雨中の甲子園でプレーする球児を見た。新型コロナの集団感染が判明した学校は出場を辞退した。言葉は思いを形にする手段。冷たい雨とコロナに心が沈む人には「温かい言葉のシャワー」が必要である。(義)(佐賀新聞Live・2021/08/18)

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● 相田 みつを(アイダ ミツオ)=昭和・平成期の書家,商業デザイナー 生年大13(1924)年5月20日 没年平成3(1991)年12月17日 出生地栃木県足利市 本名相田 光男 学歴〔年〕足利中〔昭和17年〕卒 経歴昭和17年から曹洞宗高福寺の禅僧、武井哲応老師に在家のまま師事。宝仙学園短期大学長・紀野一義にも学ぶ。独特の書体と闊達な筆の運びで読む人の心をとらえた。平成8年9月“相田みつを美術館”が開設された。著書に「雨の日には雨の中を風の日には風の中を」「にんげんだもの」「一生感動 一生青春」ほか。(20世紀日本人名事典)

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 ぼくは相田さんのファンではありません。「嫌いか」といわれれば、「いいえ」と答えるでしょう。どんなものでも好きになったが最後、とことん騙される(変な言い方ですが)という人間ではないし、かといって嫌いな人とは付き合うこともないので、取り立てて言うほどのことでもないのです。相田さんの書かれたものは「書」でも「詩」でも、それなりに見たり読んだりしてきました。いまでも何冊もの著作が本棚にあります。そこからどんな感想を得たか、いわく言い難いというほかなさそうです。彼の「書」を、なんという下手なという人はたくさんいるでしょう。そういう人は手もなく相田さんにしてやられたのだということが出来ます。彼は実に多くの書体を持っているのかもしれません。しかし、上手いのに、下手に書くという言い方は正確ではない。だから、これを「書」と見ないで「画」とみるとどうでしょう。ぼくはそのように、勝手に見ているのです。そうなると、この画は端倪すべからざる技術の基に書かれていることが判然とする、そのように言いたいですね。もちろん、作品は完成したものであることは言うまでもありません。

 つまり、何処においても「花」は花であるように、相田さんの「書」も、いつでもどこでも、どんな形であれ、そこに相田さんの容貌が浮かんでいる、あるいは「眼光」が紙面から観るものを凝視していると言った風情です。それを床の間に掛けるという趣味は、ぼくにはありませんし、額縁に入れて飾るというものでもないという、作品それぞれに、扱いに向き不向きがあるのではないでしょうか。あくまでも、これはぼく個人の感想です。飲み屋によくかかっているのは好きではありません。何か場違いだと感じるんですね。「おめえ、それは自分の金で呑んでるのか」と詰問されているようです。だから、酒を飲んでも、ゆっくり酔えないという気がする。今は少なくなったでしょうが、一時期はどこもかしこも、飲み屋や蕎麦屋には武者小路実篤の「書画」(というのでしょうか)が相場のようになっていて、「仲良きことはいいこと」だというような額などがかかっていました。落ち着かなかったですね。たいてい、二度と、ぼくはそこには入ろうとはしなかったものです。

 相田さんは、大変な努力を重ねた人だということは、よく知られています。また宗教家の一面も忘れることが出来ません。自身で、「自分は書家でも詩人でもない、一介の家坊主だ」といわれていたそうです。名利を求めなかったとは言えませんでしょうが、それは別の問題です。自分で得心がいくものを生みだしたことと、それに結果(世評や人気・あるい所得等)が伴ったこととは、おそらく別物とみるべきなんでしょうね。彼には相当に力強い後援者(パトロンか)がいたことも知られています。それもまた、いいことではないでしょうか。苦心惨憺、いつしか自分だけの世界にたどりついたという精進だったように思われます。

 もうずいぶん昔になりますが、東京駅に美術館が開館した直後くらいに、その前を、偶然に通ったことがありました(東京国際フォーラム地下)。しかし入館はしなかった。その勇気(?)がなかったのだ。正直に言えば、美術館の雰囲気が、どう見ても「相田みつを」という人の風貌に似つかわしくなかった、とぼくは勝手に思い込んでいたからでした(あまりにも装飾が勝ち過ぎていたのです。立派過ぎる、と)。館長は(長男の)一人さんでしたから、父親の性格や生涯に見合った美術館を構想され、開かれたのかもしれませんから、相田みつをという人を、ぼくは何にも知らなかったということになります。人間性や生き方を知らなくても、作品はいいなあ、そう思われてくるなら、それはそれでいいんですよね。それでいいんだよなあ。

 「ただいるだけで」という、彼の「書」(言葉)があります。「(人間というものは)いるだけでいいのだ」というのか、あるいは「(自分はここに)いるだけのものだ」というのか。いずれにしても「ただいるだけで」、その存在が、誰かに認められるなら、それは、存在自体の「真骨頂」とも「真面目」とも言っていいのでしょう。例えば、生まれたばかりの赤ちゃんは「ただいるだけで」多くの人の喜びの源泉になるという具合に。でも、いつもそういうふうにいかないんだなあ、人間だもの。

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 相田みつをという人には、いくつもの顔があるようです。そして、どの顔にも、溢れるばかりの「自意識」が、その額には強靭な「自尊心」が滾(たぎ)っていたのではないでしょうか。それこそが「みつを」だなあ。(これは誉め言葉というか、賛辞のつもり・山埜)

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 チャンスは一度しかない

ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相(2021年4月21日撮影)。(c)ROBERT KITCHIN / POOL / AFP

 NZ、3日間のロックダウン 半年ぶりに市中感染確認 2021年8月17日 16:11 発信地:ウェリントン/ニュージーランド

【8月17日 AFP】ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン(Jacinda Ardern)首相は17日、変異株「デルタ株」が疑われる1件の新型コロナウイルスの市中感染が確認されたことを受け、3日間のロックダウン(都市封鎖)を実施すると発表した。市中感染が確認されたのは半年ぶり。/ テレビ演説でアーダーン首相は、デルタ株を「ゲームチェンジャー」だと指摘。「打ち勝つことができなければ、何が起こるかをわれわれは他国で見てきた。チャンスは一度しかない」と訴えた。(c)AFP

 緊急事態宣言、対象地域拡大 東京パラ開幕まで1週間2021年8月17日 22:31 発信地:東京

【8月17日 AFP】政府は17日、緊急事態宣言の対象地域に7府県を追加した。東京パラリンピック開幕まで1週間となる中、国内の新型コロナウイルス感染者数は連日のように最多を更新しており、政府は対応を迫られている。/ 緊急事態宣言は、飲食店やバーに酒類の提供禁止と午後8時までの営業時間短縮を要請するもので、すでに東京など6都府県に発出され、今月31日が適用期限となっていた。/ しかし、菅義偉首相は、対象地域を拡大し、全対象地域で期限を来月12日まで延長する方針を示した。  最近は、全国の1日当たりの感染者数が過去最多の2万人を超える日もある。16日にはパラリンピックをめぐり、児童・生徒らが観戦するプログラムを除く無観客開催が発表された。/ パラリンピックの選手や関係者は、定期的な検査や移動制限など、新型コロナウイルス対策による制限の対象となる。/ 政府は東京五輪とパラリンピックの開催が感染者急増の一因と裏付ける証拠はないと主張。最近の世論調査では、国民の多くが五輪開催に好意的な考えを持つ一方、五輪が感染拡大を加速させたと考える国民も多くいることが分かった。/ 一部の専門家からは、大規模な国際イベントである五輪の開催が人々の外出や飲食店などの営業継続を促し、政府のコロナ対策に影を落としたとの指摘も上がっている。(c)AFP

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 上の三枚の写真(右から昨年4月7日・感染者は87名、中は本年5月21日・感染者649名、右は8月13日・感染者5773名。いずれも都内で)から、何が読みとれるのでしょうか。いろいろなことが言えそうですが、こと感染拡大を防ぐという観点から見れば、政府も行政も民衆も、揃いも揃って「無知」であり、「知らぬが仏」であり、「怖いもの知らず」というところかもしれません。Ignorance is bliss.(無知は至福である)と、洋の東西で同じような人情・世相が見て取れます。でも、コロナ禍において「無知は至福」、あるいは「知らぬが仏」というのは穏当ではありません。いずれ、きっと後悔する。そして「後悔先に立たず」という羽目になるのです。「後悔を先に立たして後から見れば、杖を突いたり転んだり」。では「転ばぬ先の杖」とは、この危難にあってはどういうことを指すのか。

 大勢が船に乗り込んで、いきおいよく船出した。誰も知らないが、船底にはいくつかの穴が開いている。その上に茣蓙(ござ)が敷かれているので誰も危険であるとは気が付かないのです。やがて、沖に出ると、突如、船に水が入り込んできた。「知らぬが仏」といいますが、誰かはきっと、こうなることを知っているのですね。もちろん、船に乗り込むことはしなかった人に違いありません。ぼくは、この一年半の状況を、素人なりに眺めていて、つくづく考え込んでしまったことがいくつもあります。第一は、為政者というものが、けっして「国民の命を最優先にする」ということをしないという点。これは歴史が示してきたことです。もっとも大きな経験は戦時中でした。汝、臣民などと猫なで声をして、「一銭五厘の赤紙で」呼び出して、野末の露と消える定めを知っておりながら、戦地に放棄したのです。呼び出した側は決して「戦場」には赴かなかった。「転ばぬ先の杖」とは、「お上」の猫なで声に、尻尾を振らないことです。

 たった一人の「感染者」が都市に出た途端、全土をロックダウンするという為政者がいます。「(デルタ株は) ゲームチェンジャー」「打ち勝つことができなければ、何が起こるかをわれわれは他国で見てきた。チャンスは一度しかない」 と。NZのワクチン接種率は日本ほどではありません。「ワクチンは特効薬」と、国民を残らず「船」に載せようなどと、煽るようなことはしていません。彼我の政治家や為政者の比較をしようというのではありません。しても始まらないし、したところで、この島の政治家が劇的に変貌するハズもないからです。国民に似合った為政者というのでしょうか。NZは、人口が日本の二十分の一だからできるのだというなら、それはこの島で果断な政策をとらないための「下らぬ理由」にしかならないでしょう。 

 「一将功成りて万骨枯る」という。「[由来] 唐王朝末期の詩人、そうしょうの漢詩「がいの歳」の一節。戦乱に苦しめられる庶民の暮らしを心配した上で、「君にたのむ、かたかれほうこうの事を、一将功成りて万骨枯る(お願いだから、軍功を挙げて高い地位を得たいなどと言わないでくれ。一人の将軍が功名を上げる陰で、おびただしい数の人骨が朽ちていくのだから)」とうたっています」(ことわざを知る辞典)

 ぼくもここで、同じことを言いたいですね。「君にむ、かれ封侯の事を」と。何のために、その地位にいるのか。功名が辻にしか立たないような「一将」に、人材がいるとはとても考えられないのです。もっと有体に言えば、功名を挙げるためにこそ、災厄を起しているのではないか。さらには「民信無くば立たず」(「論語」)ともいっておきたい。今更、そんなことをいったところで無駄ですが。「猫に小判」か、「豚に真珠」か。あるいは「菅に政治」か。 そこにいることがもっとも危険な劇薬になる、そんな人間が椅子にしがみついている。ほとんど酩酊状態にあるのではないですか。一刻の猶予もない、直ちに去ってほしい。

 この島の無為無策を看板にしている為政者は「政府は東京五輪とパラリンピックの開催が感染者急増の一因と裏付ける証拠はないと主張」「国民の健康と命を最優先で守るのが責務」と空言・虚言をするが、実際には、何もしないでこのコロナ禍をやり過ごしてきました。ただ今は「Y市の市長選挙」に血眼で入れあげていると言われます。ある候補者が当選しなければ、己の地位が危ういと感づいているからです。国民の健康も命も、おのれが「座る椅子」よりも格段に低く見られているのです。でも、この猛々しい輩は、「長期政権を狙っている」という、卒倒するようなニュース(情報)が飛び交っています。(対立する陣営は「TK」という「ワクチン管轄」大臣を公認候補として担ぐそうです)(コロナ禍をそっちのけで、「権力争い」に終始しているという悍(おぞ)ましさです)

 責任は取らない、権力だけは握っていたい、こんな人物が枢要なポストにしがみついている、その時間が長ければ、それだけ、ぼくたちの運命が危殆に瀕する度合いが高くなる。ぼくはこのところ、「未必の故意」という言葉を反芻しています。いや、ひょっとすると、それは「故意」かもわからない。要するに、この為政者たちは人民が苦しみながら死んでいくという結果を十分に予測しながら、無為・無策を決め込んでいる。「敗戦の日」を迎えたばかりの、あの「戦争」の指導者を想起せざるを得ません。この犯罪行為は断じて許せない、人民に対するハレンチな反逆に値する犯罪行為であります。国民を危険な状態に落とし込んだまま、逃げ出したある国の大統領と瓜二つで、度し難い輩です。

● 未必の故意=犯罪事実の発生を積極的には意図しないが、自分の行為からそのような事実が発生するかもしれないと思いながら、あえて実行する場合の心理状態。(デジタル大辞泉)

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「これから、ワクチン接種が40代、50代、さらには若い世代の方々へ進めば、明らかな予防効果が期待でき、はっきりとした明かりが見えてきます。10月から11月のできるだけ早い時期に、希望する全ての方への2回のワクチン接種の完了を目指してまいります。
 今回の宣言を解除する前提は、国民の命と健康を守ることができる医療提供体制の確保です。ワクチンの接種状況、重症者、病床利用率などを分析し、適切に解除の判断をしてまいります。その先には、飲食店の利用、旅行、イベントなど、社会経済活動の回復が視野に入ってきます。総力を挙げて取り組みます。皆さんの御理解と御協力を心からお願い申し上げます」(総理大臣記者会見の「一部」・2021年8月17日)

 「菅義偉首相は17日の記者会見で、あらかじめ用意した原稿を棒読みしているとの記者の指摘に対し「正確で速やかな情報発信は、国民の生命・財産を守るために極めて重要だ」と反論した。 大雨の被害が出た地域の避難所での新型コロナウイルス対策を巡り「緊急時は首相の分かりやすいメッセージが求められている。どのように伝えていくか」との質問に答えた」(東京新聞・2021/08/18)

 笑止千万とはこのこと。官僚(秘書官)によって書かれた原稿を棒読みすることが、どうして「 正確で速やかな情報発信 」になるのか、疑問なしとしませんし、それが「 国民の生命・財産を守るために極めて重要だ 」というところに、どうしてつながるのか。莫迦も休み休み言え、ということでしょ。記者から突然に、白紙状態のままで質問を受け、やおら「言語も意味も不明瞭な回(解)答」を捻りだすのと、あらかじめ書かれたものを(読み飛ばさないで、上手に読んだとして)、その差は一ミリというか、秒や分の単位でしょう。この質問もヤラセだった。「お芝居・記者会見」というべきです。ヤラセの政治にヤラセのマスコミ、両両相俟って、この島社会は奈落に向かって猛進しています。

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 いろいろな仕掛けが音を立てて崩れようとしている。でも、まだ破局には至っていいないと思いたいが、この災厄がもたらしたものは、災難ばかりではなかったとも、ぼくは受け止めている。政治や行政がどこを向いて仕事をしているか、それは前から分かっていましたが、さらにその実態が炙り出された。人命尊重は虚言であったという、この一点です。政治不信といわれるが、悪い者でも「政治」があればこそです。今のでたらめな連中のどこに「政治」が存在意するのか。利権に(たむろ)する魑魅魍魎を政治家と言わないのです。それどころか、人命にとって危機を生み出すという政治に名を借りた「暴力性」。民衆の、藁にも縋ろうという気持ちを、懐手をして嘲笑っている、そんな寒々とした「政治家風」を気取った連中の脂ぎった醜顔が、はっきりと見えている。政治を騙(かた)る輩こそが、何にもまして、人命にとって最も危険な暴力なのである。任にあらず、任に堪えず、それに気が付かないということが、ぼくには空恐ろしく思われる。こんなのを放し飼いにしておいては碌なことにならない。

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 人間は決してあのように死んではならない

 【水や空】 終戦の日に思う人 終戦の日を迎えると、ふと思い出す人がいる。20年近く前に旧深江町で取材した当時の社会福祉法人山陰会理事長、故本田哲郎さん▲1945年8月8日、日本に宣戦布告したソ連は翌日攻撃に踏み切り、満州に侵攻。関東軍の高射砲部隊だった本田さんらは、満州・新京でソ連軍との市街戦を覚悟する。爆雷を敵の戦車下に押し込み破壊する決死隊となり、待ち伏せ。そんな中で終戦となった▲今のウズベキスタンに抑留され強制労働に従事した。多くの仲間が栄養失調で死んでいった。48年ごろナホトカから船で舞鶴港へ。船上から日本の遠景を見て、ようやく終戦の実感がわいたという▲やがて障害者福祉などの道を歩んでいく。平和を願い、海外と日本の障害者施設同士の交流にも熱心だった▲引き揚げなどの時期がさらに遅れた人たちもいた。祖国の土を踏んでからの生活再建が過酷だったともよく聞く。国家が起こした巨大な戦争は、個々の人生に暗い影を落としたが、心身の傷を抱え、もがきながらそれぞれが何らかの信条を持って生きた▲終戦の日は全戦争犠牲者、戦争を体験した死没者を追悼し、反戦を決意したい。同時にコロナ禍や相次ぐ自然災害など新たな問題に向き合っている今、諦めず困難を乗り越えていった先人のことを改めて胸に刻もうと思う。(貴)(長崎新聞・2021/08/16)

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 世の中には端倪すべからざる生涯を送った人は実に多くいる。ぼく(たち)が知らないだけで、もし知っていれば、きっと襟を正さなければ生きられないような、そんな人生の流儀・姿勢があるのです。コラム氏が書かれているような、ふと思い出す人、いったいぼくにはいるだろうかと、何時でも考えています。時と場合によって変わることはありますけれど、この何十年、ぼくにとって、「終戦(敗戦)の日」になると、かならず「思い出す人」「声を掛けられた気がする人」は「石原吉郎」です。本田さんと同様に、過酷極まる戦時下に生き永らえ、やがてシベリア抑留、帰還してからも「抑留」が続いているような苛烈で鮮烈な人生を送った。

●石原吉郎(915―1977)=詩人。静岡県伊豆に生まれる。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。1939年(昭和14)応召。終戦の年、ソ連軍に抑留され、重労働25年の判決を受ける。53年(昭和28)特赦により帰還。詩作はこのころより始められ『ロシナンテ』を創刊。『荒地(あれち)』の最後期の同人で、64年『サンチョ・パンサの帰郷』(1963)によりH氏賞受賞受賞。シベリア体験は生涯のモチーフとして生の基準点となった。またキリスト者としての思念は深く、その詩語はいっそう贅肉(ぜいにく)を落とし極限的、断言的フォルムへと削られていった。詩集に『水準原点』(1972)、『礼節』(1974)など。評論集に『日常への強制』(1970)、『望郷と海』(1972)、『断念の海から』(1976)などがあり、戦後詩に独自の深い航跡を残した。(ニッポニカ)

 彼の詩作品や評論を手当たり次第に読んだ。おそらくよくわからなかったに違いない。彼がどのように生きようとしてきたか、その体験自体が、ぼくには手が届かないと思ったからでした。「読む」ということは、作者を経験することだというのなら、ぼくの「石原体験」はお話にならない陳腐なものだったと、この歳になっても考えています。いまでも思い出したように、彼の全集を手にする機会があります。でも、それを開いて読みだすことはできない。何故か、その理由は明らかです。

 たまたま「水や空」という、ぼくの愛読コラムに誘われて「思い出した人」として紹介してみたのです。しかし、それは「思い出す」などという生易しいものでは語れない(思い出せない)詩人の生涯だったと言わなければならない。「シベリア抑留」にかかわっても、いろいろと触れなければならないことがあります。若いころに盛んに見て回った香月泰男さんも、その一人。この戦争の、語られない一面・一場面も、ほとんど片が付いていません。

● 香月泰男・かづきやすお(1911―1974)=洋画家。山口県生まれ。1931年(昭和6)東京美術学校油画科に入学、藤島武二(たけじ)に学ぶ。39年文展で特選、国画会で国画奨励賞、翌年佐分(さぶり)賞を受け国画会同人となる。43年応召し、シベリア抑留ののち47年(昭和22)帰郷。国画会展に毎年出品のほか、サンパウロ・ビエンナーレ展、カーネギー国際美術展にも出品。69年シベリヤ・シリーズに対して新潮文芸振興会の第1回日本芸術大賞が贈られた。山口県立美術館に香月泰男展示室がある。(ニッポニカ)

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 「 国家が起こした巨大な戦争は、個々の人生に暗い影を落としたが、心身の傷を抱え、もがきながらそれぞれが何らかの信条を持って生きた」というのは本当でしょう。有名無名を問わず、もがきながら、信条を持って生きていきたいと、だれしもが願うのす。経験した出来事が凄惨であればあるほど、もがきは大きくなるし、悶えながらの生きざまも深刻なものとなるはずです。惰弱そのものの生活に流されてきたぼくのような人間には、石原氏の送った(送らざるを得なかった)人生を語ること自体が笑止であるという気恥ずかしさの入り混じったためらいがあることを、ぼくは隠しません。ぼくが過酷な人生に立ち至らなかったのは、ただの偶然であって、それを嘆くのも喜ぶのも当たらないでしょう。要は生きているその「時と場」で、誠実であること、それが何よりだと、ぼくはひとり合点しているのです。そして、ときには、不正や不実に対して、自らの心持ちに即して怒りを忘れない、そんな心ざしをもって生きていきたいと、願い続けています。

 「終戦の日は全戦争犠牲者、戦争を体験した死没者を追悼し、反戦を決意したい。同時にコロナ禍や相次ぐ自然災害など新たな問題に向き合っている今、諦めず困難を乗り越えていった先人のことを改めて胸に刻もうと思う」というコラム氏の姿勢に満腔の賛意を贈ります。昨日の、ある新聞のコラムに愕然とした分、この「水や空」を読むことが出来ただけ、ぼくは得をした(忘れ物を思い出した)ような気になりました。

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 「…ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。/ いまは、人間の声はどこにもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。/ 日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散していくだろうと思います」(石原吉郎・1972年)

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 主観的な観念性に走って科学を…

 【余録】「今度の戦争に敗れた一つの理由は主観的な観念性に走って科学を媒介とした客観性、世界性から遊離したことにあった」。終戦から5日後の1945年8月20日。小紙に高坂正顕(こうさか・まさあき)・京都大人文科学研究所長の長文の談話が掲載された▲カント研究で知られた哲学者の高坂は日本人が抱いていた自信、自尊心について「外に目をふさいで己(おのれ)を高しというような趣はなかったか」と疑問を示し、「ひとりよがり」な日本の自己認識、世界認識に敗因を求めた▲今の日本も似た問題を抱えてはいないか。未曽有のコロナ禍にもかかわらず楽観論や希望的観測が横行し、五輪開催という国家目標の実現を優先するあまり、国民の安全を二の次にするような議論があった。科学的知見や客観性が重視されているようには見えない▲ワクチン敗戦、コロナ敗戦といった言葉も使われる。有効なワクチンを開発できず、科学技術の遅れを露呈した。当初は有効に見えたクラスター対策中心の「日本モデル」もデルタ株の流行で水泡に帰し、感染拡大が止まらない▲文部科学省の研究所によると、影響力の大きな自然科学分野の学術論文の数で日本が過去最低の世界10位に後退した。中国が初めて米国を抜き、世界1位になったことに今の国際情勢が表れている▲76回目の終戦記念日。米中に追いつけ、抜き返せという時代ではあるまい。ひとりよがりに陥らず、日本が置かれた現状を客観的に見つめ直すことが過去の失敗を今に生かす出発点ではないか。(毎日新聞・2021/08/15)

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 久しぶりの「余録」だと、急いで読もうとした途端に仰天しました。いきなり高坂正顕さんです。どうして彼がここに登場しなければならないのか、まったく腑に落ちなかった。まさか、コラム氏は高坂信奉者だったのか。敗戦から五日後の高坂氏の発言が引用されている。実に信じられない思いをもって「余録」を読んだ。「「ひとりよがり」な日本の自己認識、世界認識に敗因を求めた」といっているのが高坂さんだとにわかに考えられなかった。その指摘を、コラム氏はどう受け止めたのか。それを真に受けたから、何の疑問も持たないで、臆面もなく、ここに高坂説を論ったのでしょうか。「科学的知見や客観性が重視されているようには見えない 」というのは、じつは高坂さん自身の戦中・戦後の一貫した発言であり哲学ではなかったかと、ぼくは問いかえしたいほどです。

 敗戦後、五日間にして高坂正顕氏は見事に反省し、実に素早く「転向」したのだ、 というのではないだろう。高坂さんは、戦時下の言論活動等で「公職追放」に遭っている(二十一年)。以下に引いた辞典にあるように、彼は「中央公論の紙上座談会で、高山岩男らと戦争協力の哲学を説きジャーナリズムの寵児となり、大日本言論報国会の理事も務めた」人物です。それがどうしたという人もいるでしょう。どうもしないが、どう判断するかは問われるのだ。 大学に入ってから、次第に、思想や哲学あるいは教育などについて興味を持つようになっていた。いろいろなものに当たったが、高坂さんもその一つでした。彼が戦前・戦後を一貫した民族主義者だったという、その一点では疑問の余地はなかったと、ぼくは今でも思っているのです。(右の写真は敗戦直後の「買い出し列車」の混雑状況)

 ぼくは戦時中の高坂さんの言動をじかに見たわけではなく、何かと書かれたものを通して感じだけです。だから、彼について言えるのは「管見のかぎり」という限定が付く。でもその後、彼が東京学芸大学学長になったり、中教審の主査として活躍していた当時、ぼくは何度か彼の言説を聞いたり見たりした経験があるのです。「期待される人間像」の如き、殆んど彼が中心になってまとめられたもので、「 「ひとりよがり」な日本の自己認識、世界認識 」「科学的知見や客観性が重視されているようには見えない」という彼の指摘は、まさしく自身にこそ妥当すると、心底「感心」したのです。なんとも厚かましい、それにしても「偉い」人物がいるものだと、若いぼくは、腹の底から軽蔑したことを今に至るまで忘れていない。カント学者だという、彼の研究書も読みました。カントの「永遠平和のために」はいまでも諳んじています(ぼくが読んだのは、高坂さんの翻訳ではありません)。卒業論文には、理解の足らないカントの「人間論」のようなものを書いた。

 コラム氏は高坂氏をまったく知らなかったとは思えないし、知らなかったら、救いがたい記者だというほかない。高坂氏が紆余曲折を経て(追放から)「復活した経緯」もご存じだったと思う。それをあえて、コラムで引用した意図は何か、怪訝の念は消えません。 沖縄戦の最後の日から、八月十五日の「戦没者追悼」の日に至るまで、ぼく自身のささやかな「不戦の誓い」と「犠牲者への追悼」を重ねてきて、角を曲がったところで、いきなり「近代の超克」などという亡霊に出くわしたような、驚嘆と同時に落胆の思いが強烈にぼくを襲ってきました。誰を好もうが、嫌おうが、それは構わないことです。でも、それがなにがしかの問題を持っていたとされたなら、それについて一定の評価を加えるのが当然ではないか。「自分は高坂さんの、このようなところが好きだ」「この点について、矛盾しているではないか」というべきでしょ。高坂氏の著作も、若さに任せて読んだ者として、彼の一貫した哲学観や世界観はともかく、彼の示していた言辞は、ぼくには許容できなかった。哲学としても、埒を外していると痛感したものです。(本日、こんな展開・仕儀になるとは想定外のことでした。高坂さんの名前を見、京都学派とか、「近代の超克」などというものにふいに出会ったのだから、ぼくの驚きは半端なものではないのです)

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● 高坂 正顕・コウサカ マサアキ=昭和期の哲学者 東京学芸大学学長;京都大学教授・人文科学研究所所長。生年明治33(1900)年1月23日 没年昭和44(1969)年12月9日 出生地鳥取県鳥取市 学歴〔年〕京都帝国大学哲学科〔大正12年〕卒 学位〔年〕文学博士 主な受賞名〔年〕勲一等瑞宝章〔昭和44年〕経歴三高、同志社大学、京都帝大講師、東京文理科大学助教授を経て、昭和15年京都帝大教授、16年京大人文科学研究所所長。中央公論の紙上座談会で、高山岩男らと戦争協力の哲学を説きジャーナリズムの寵児となり、大日本言論報国会の理事も務めた。21年公職追放。26年解除後は関西学院大学教授、30年京都大学教授を経て、36年東京学芸大学学長。41年中教審特別委主査を兼任。同年「期待される人間像」、また44年には「当面する大学問題への対応策」をまとめた。42年には国立教育会館館長も務めた。哲学者としてはカントの研究、西田幾多郎らの影響を強く受け、高山岩男らと京都学派を形成。主著に「民族の哲学」「カント学派」「歴史的世界」「高坂正顕著作集」(全8巻 理想社)などがある。(20世紀日本人名辞典)

● 京都学派(きょうとがくは)=西田幾多郎および田辺元の哲学探究の伝統を引継いだ京都大学哲学科出身の哲学者たちのグループの総称。 1919年田辺が西田によって京大に招聘されて以来両者はともに自己の哲学を創造し,「個体存在の論理」としての西田哲学に対し「社会存在の論理」としての田辺哲学は決定的に対立するようになるが,その真摯な相互批判を通して京大哲学科には活気に満ちた独自な学風が形成され三木清,戸坂潤らをはじめとする多くの哲学徒が参集した。三木,戸坂らはやがてマルクス主義に傾斜しこの学派の中心から離れるが,次いで高坂正顕,西谷啓治,高山岩男,鈴木成高らのグループが現れ,第2次世界大戦期において世界新秩序論としての「世界史の哲学」を提唱し同戦争の合理化を行いこの学派の旗幟を鮮明にした。普通この高坂,西谷,高山,鈴木らのグループをさして狭義に京都学派と呼ぶことが多い。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 【正平調】亡くなる前日のことだ。「起きてる?」と、作家半藤一利さんは布団の中から妻へ声をかけた。驚いて飛び起き「どうしたの?」と尋ねてみたら◆「二千五百年前の人だけど、中国に墨子(ぼくし)という人がいた。あの人はその時代から戦争に反対し続けた。偉いだろう」と言う。「うん」と返したら、「『墨子』を読みなさいよ」と。それが最期の言葉だった◆妻でエッセイストの半藤末利子(まりこ)さんが、インタビューに答えて週刊文春で語っている。東京大空襲を経験し、90歳で没するまで平和を願い続けた。どんな戦争にも正義はない。そう説いた墨子を仰ぎ見ながら◆心の底から平和を求めるのに年齢は関係ないだろう。しかし半藤さんに限らず、戦争を肌で知る人の言葉には揺るぎない信念がある。その世代が一人、また一人と去る。語っていた一言一句を胸に刻んでおきたい◆慶応大教授の片山杜秀(もりひで)さんは、戦争体験を「涙の貯金」とたとえる。平和を保ってきたその貯金が尽きたらどうなるだろう。「平和主義の見直しやファシズムの復活も」と考えたくもない想像が膨らむそうだ◆半藤さんはこんなことも言っていた。「日本人は毎年8月に『正気』を取り戻さないと」。私たちは危うい道を歩んでないか。問い直したい、8月15日。(神戸新聞NEXT・2021/08/15)

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 半藤さんについても一言したい気がしますが、別の機会に譲るとして、本日は止めておきます。またこの「最後の瞬間」もいわくありそうで、そうかなあという気もします。でも、それはまた別の問題。図らずも、二つの記事を(「毎日」と「神戸」の)二つの新聞の「コラム」から引きました。どちらも八月十五日でなければ意味をなさないような、忘れがたい「日付」をもって書かれたものとして、ぼくは並べたくなったのです。他意はありません。(ものを書いたり話したりするとき、多くの場合に「日付」が欠けています。書いたり反sっしたりしているときはいいのですが、その後に読んだりするとき、「日付」がないというのは、いかにも気が抜けた気になります。随意分と昔、鷗外だったかが、誰かに対して「葉書(手紙)には必ず日付を入れなければだめだ」と註しているのを読んで、なるほどと納得したことを覚えています)

 取り上げた「二つのコラム」のどちらが優れているとか何とか言いたいのではない。それは読む側の自由です(コラムを読んだら、おのずから判然とするでしょう)。とはいうけれど、歴史に対する姿勢・態度(それが思想というものです)の真率性があからさまに表れているではないかと、ぼくの感じたままを出しただけです。(ここでは、高坂氏と半藤氏という人物を、一例としてとらえて見ると、こんなこと(歴史に対する態度の在り方)が言えないかという問題提起の真似事をしたに過ぎません)(左上の写真は林忠彦氏撮影の「煙草を吸う戦争孤児」東京上野にて。「当時は「浮浪児」と称されていました)

 たしかに「戦後七十六年」というのは歴史の事実ですが、反面で、それはまた明確に、次なる「戦前」になるということをも、こんな小さなコラムを読むだけで、言いたくなってしまうのです。

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Hulton Archive via Getty ImagesThe ruins of Nagasaki after the dropping of the atomic bomb. (Photo by Hulton Archive/Getty Images)

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 よく見ると、「戦後」は「戦前」の形相をもつ

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 雨脚が強く、本格的な降りになってきた八月十五日です。

 鎮魂の夏は、ぼくにとっても、まだ続きます。人それぞれに「終戦」(「敗戦」)を迎えた。ぼくはまだ生後一年未満で、おそらく「虫けら」以下のような存在であったと思います。自分の足では立てず、自分でものを食べることも、話すこともできなかった。だから、というのですが、少しばかり大きくなって、いろいろなものを見たり聞いたりしながら、ぼくの生きている島の歴史、それは現代史であり同時代史でもありました、それを少しずつ知るようになった。学校教育がそれを示してくれることはなかった。どうして「終戦」であって、「敗戦」といわないのか(その反対も同様に)、こんなことすら納得が行くまでに相当な時間を要したのです。同じ事態に対して、いくつもの「歴史」が合わせて存在しうるということも学んだ。

 どのように言おうと、それぞれの判断だからいいじゃないかとも言えそうですが、果たして、それでいいか。自分の見たまま考えたまま、それが歴史になるというのか。「聖戦」といって、怪しい「大義名分」をかざしたが、相手国はそのようには捉えなかった。侵略戦争、植民地経営のための「戦争」だったというでしょう。戦争はけっして「独り相撲」ではありません。必ず戦う相手がある(必要とする)のです。相手となった国や地域は戦争に入るのを望まなかった、にもかかわらず、「西欧列強の植民地」からの解放という都合のいい「名目」で、他国を植民地にしたのが、発端でした。

 冒頭に何枚かの写真を掲げました。そのすべてを、ぼくが見たのは中学生になった後だったと思う。その前に見ていたかもしれませんが、記憶があいまいだし、それは見ていないに等しいからです。なかでも、皇居(宮城といった)前にたくさんの人民が集結し、頭を下げ土下座をし、滂沱と涙を流している姿、あるいは虚脱状態に陥っている様子、このような写真を、それからもたくさん観た。そしていつも思うのでした。なぜ土下座をしているのか、首を垂れて涙を流している、その理由は何だったのか。ぼくにはまったく分からなかったし、今もってその胸中、あるいは心中は推し量れないのです。そこにぼくはいたなら、どうしたか。多分、多くの人と同じように「敗戦を悲しみ」「亡国に至った不始末を天皇に詫びた」かも知れません。

 「皇国」が「聖戦」に負けたら、「宮城前」で「切腹」する人が何人も出るだろうと言われてもいた。(自分の努力が足りずに戦争に負けてしまった)「天皇に申し訳ない」というのだろうと想像した。想像しただけで、ホントのところはどうだったのか。毎年、この日に「戦没者慰霊祭(追悼式)」をするが、その日一日だけのことで、その他の日は、まったくそんな「慰霊」や「追悼」なんか忘れるることにしている、きっと多くの人々はそうなんでしょう。一面では、当たり前でもあります。そんな暇があるかよ、というのか。

 広島や長崎の慰霊祭に関しても同じようなことが言えそうです。「慰霊の日」だからお参りする、ということ、それだけなんでしょうね。すべてが「お気軽(お手軽)」「お義理」になり、やがて一切が歴史の淵に沈んでしまう。生き残されたもののなすべきことは何か。四角四面の表現をとれば、「戦争」が過ちであったと認めるなら、二度とそのような蛮行には加担しない、それを改めて(何度でも)思い起こし、覚悟するための日であり、無謀な戦争に駆り出され、生還し得なかった人々の霊を鎮める、そのための行いであるはずです。それはまた、あまたの「先祖」を祭るのと、ぼくには選ぶところはないと考えています。いろいろと複雑怪奇な問題はあります。でもそれに拘れば、何ごともできないようにも思われてきます。「非戦」の誓いを新たにする日であり、犠牲になった人々の霊を慰める日でもある。それだけです。

 首を垂れ、土下座をし、涙を流した人々は、この直後には、否応なしに「日常」に戻ったはずです。眠りにつき、朝ご飯を食べ、何かとしなければならない雑事に忙殺されたに違いありません。いいたいことは、どんなに非常事態下であって、日常の生活習慣は途切れることはないということです。炊事も洗濯も放棄することはできないのです。当たり前のことであって、そうなるのに不思議はありません。子どもの世話をしたり、家族の食い扶持を求めるために働く、やがて子どもたちは焼け壊された学校に行かなければならない。次第に、当たり前の生活が復活する。この時代、大半の人々(人民)は貧しかった。貧困が勲章(というのも変ですが)だった。戦争で両親を失った子どもたちもいたし、殆んどの人民は戦争の犠牲者でした。本土は焦土と化し、文字通り「焼野原」だったが、人民の心持ちもそう(焼野原)ではなかったか。この窮状から抜け脱すためにこそ、「戦後」があった、と思う。でもその「戦後」は一瞬のうちに終わり、たちどころに「戦前」に戻ってしまったのではなかったか、それがぼくの「戦後史」を見据える視点となりました。

 「戦後七十六年」といわれます。でもぼくは、この「戦後」は「戦前」というもう一つの顔を持つのだ、そのように今の時代を受け止めています。日糸つの形相(ぎょうそう)の表と裏でもあります。ギリシア神話の双面神(ヤヌス・Janus)のようでもあります。もっとはっきり言うなら、時代はいつだって「戦前」ではないか。そのための国家運営であるのだと、「政治」はぼくたちに明示しているではないか。国土防衛に備えるという理屈で、その一方では国を売っているにもかかわらず、です。この国には「外交」というものがなさそうで、宗主国である「米国」の一挙手一投足に心を奪われ、一ミリの反対もできなくなっているからです。おそるべき隷従ぶりです。もし、あえて「戦後」という語を使うなら、それは「アメリカへの隷従の道(The Road to Serfdom)」が出来上がるまでの期間だと言えそうです。それ以降はいつだって「戦前」です。

 だから、今もなお「戦前」に他ならないのです。アメリカが民主国だと人は言いますが、ぼくはそのようには考えていません。たくさんの「隷従国」を抱えた「わがままな国(人民主権国)」でしかないでしょう。この島の「戦前」は、あらたな隷従の道を築くための組織・制度を整えるために必要とされた時間でしたし、その道はまだ踏破されていないのです。「戦後七十六年」は表向きであって、実際には昭和三十五年から(というのは一例です)、その後はずっと「戦前」体制が続いているのでしょう。小さな島に、膨大な規模と最新を誇る軍備(軍事力)があるというのが、何よりの証拠です。

 「敗戦記念日」というのは、表現としては奇妙ですが、「終戦記念日」というよりはいい、というか、ぼくはそれを好んで使いたいのです。その理由は「終戦」という語には、物事(はじまり)をあいまいにしてしまうところがあるように思われるからです。電車に乗っていたら、「終点」に来たというような、どこか他人事のような意味合いがありませんか。なんだかわけのわからないうちに、終わった、といわぬばかりです。だあからこそ、「終戦」と言いくるめたい人々がいるのでしょう。それに反して「敗戦」という言い方には、「勝つ」「勝利する」「敵国を打倒する」という初志が貫徹されずに敗れたという気味がはっきりと刻印されています。誰かに唆(そそのか)されて「開戦」したのではなく、理屈ばかりではあっても、なにがしかの名分を掲げて突き進んだ「戦争」(という「自己評価」です。意義のある「戦争」だったのだ、と)であり、不本意にも、その目的が達成されなかったという、「開戦の」意味を見失わないための「係り結び」のような連鎖があると、ぼくは考えるからです。

 (不謹慎の謗りを免れませんけれど、もっと早く負ければよかったという思いは、ぼくの中にあるし、もちろん戦争など始めるべきではなかったという斬鬼の念も強くある。この戦争がはじめられた時、ぼくはこの地上には影も形もなかった)「敗戦を受け入れた日に、犠牲者に万感の思いをこめて哀悼の意を示す」のが、生き残った者、その後に生まれてきた者、この島社会に生きている者の、「戦争の歴史」に対する義務(務め)のような気がするのです。そして、この「戦前」をまたもや「戦後」にしないための誓いの日でもあります。願わくば、この「戦前」がどこまでも長く続くように。

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・沖に陽の長き沈黙敗戦日  伊藤文子

・はらからの死に風化なし敗戦忌  山本つぼみ

・敗戦を語らぬ夫や敗戦忌  松原みき

・敗戦忌都庁茜の空にあり  成島淑子

・遺されし母も逝きけり終戦日  古賀まり子

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 災害は忘れる間もなく、何時でもやってくる

 【水や空】五風十雨の願い「五風十雨(ごふうじゅうう)」という。5日に一度、風が吹き、10日に一度は雨が降る。農作物がよく育つにはそれくらいがちょうどいいと古人は教える。世の中が太平であることも意味するという▲小降りになったかと思えば、たたきつけるように激しく降りだす。いつ収まるとも知れないこの大雨は「十雨」から程遠い。県内各地で浸水、土砂崩れ、道路の陥没と、被害が広がっている▲〈私がいないと私を求め、私がいると私の前から逃げる。私はだぁれ?〉。東欧に伝わるなぞなぞの答えは「雨」。干天の慈雨は求めても、豪雨が迫れば逃げるしかない。県内では広く避難指示が出された。避難した先で心配を募らせる人も少なくない▲「災害級の大雨」はしばらく続くという。きのうはお盆の入りで、いつもなら帰省と墓参りの頃だが、コロナ感染の急拡大で帰省を控えた人、この大雨でお参りを見合わせた人も多いだろう▲実家に「ただいま」の声が響いたり、しんみりと物思いに誘われたりする例年の盆の光景とは違っている。首都の医療現場はコロナ禍で「災害レベルの非常事態」にあり、列島を「災害級」の危機や危険がすっぽり覆う▲程よく、ちょうどよく、例年のように。ささやかな願いのはずが切なる願いになっている。平らかな世を表す「五風十雨」を胸で唱える。(徹)(長崎新聞・2021/08/14)

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 たった今また、凄まじい「集中豪雨」が各地に大きな被害をもたらしています。「気候変動」とか「地球温暖化」という観点から、これまでにもさまざまな取り組みや計画が各地において実施されてきましたが、それ以上に、人間の活動による地球収奪行為とその結果の露見である「温暖化」現象が想定を超える規模と頻度で地球上のあらゆる分野をを襲っているということでしょう。大きく言えば、地球環境だけではなく、既に宇宙にまで環境破壊は及んでいるのです。「天に唾する」愚かしい行為といいますが、いたるところで特定の利益集団が吐いた唾は、いまやさまざまな地域を襲っているという、なんとも形容しようがない惨状です。因果はめぐるのです。

 少なくとも「集中豪雨」に関しても、早くからそのメカニズムや災害の規模や頻度(蓋然性)が警告されていました。以下に、相当に前の記事(十六年前)を出しておきます。この手の記録や指摘は、さらに遡って提示することが出来ます。(ぼくの悪趣味の一つで、このような分野における新聞や雑誌の記録保存は膨大な量になる)ということは、この環境破壊問題は何十年も前から議論され、その危険性がわかっていたということであり、それに対して「たかをくくっていた」各国政治や経済の世界は「我が道」を闊歩し、「我が世の春」を謳歌してきたということです。特に、この島国に限らず、政治経済界の傍若無人な振る舞いは許しがたいものがあり、彼等の主張や論拠には一分の正義もないというほかありません。まさしく「唾棄すべき輩」です。「利権・利益追求主義」が地球を壊滅させるということです。経済を軽んじるつもりはまったくありません。「衣食足りて、礼節を知る」という言葉の意味は、どのようなものだったか、それを改めて想起しようとしてるのです。

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 大雨増加:同一地域に集中傾向 地球温暖化が原因 1時間に50ミリ以上の雨が降る「短時間強雨」や1日の降水量が200ミリを超える「大雨」の回数が近年、大幅に増えていることが、気象庁の「地域気象観測システム(アメダス)」のデータ分析で分かった。地球温暖化の影響が主な原因とみられ、同庁気象研究所は「昨年の新潟県や福井県のように、同じ地域が繰り返し大雨に襲われるケースが増える可能性が高い」と警告している。(左は静岡熱海伊豆山の「大規模土砂崩れ」。土地造成業者などを相手に、被災者が裁判を起したという。八月十三日)

 同庁が76年に開始したアメダスの観測データを、10年ごとに区分して平均値を算出したところ、短時間強雨は76~85年が209回、86~95年が234回、96~04年が293回だった。大雨も76~85年が6.3回、86~95年が5.1回、96~04年が12.3回で、ここ数年の急増ぶりが目立つ。04年は短時間強雨470回、大雨30回を記録し、ともにアメダス観測開始以来最多だった。アメダスは全国約1300カ所にあり、設置個所数はほとんど変わっていない。

 気象研究所予報研究部によると、豪雨増加の原因は、温暖化で海水や河川の水の蒸発が盛んになって大気中の水蒸気が増え、発達した積乱雲を作るためと考えられる。/ また、理由ははっきりしないが、近年は年ごとに、湿った空気が流れ込む「水蒸気の通り道」が一定の場所に固定され、同じ地域で大雨を繰り返す傾向が強まっている。昨年7~9月に新潟県や福井県を繰り返し襲った集中豪雨や、今年6月28日と7月2日に新潟県や富山県などの北陸地方で相次いだ大雨も、この傾向の表れで、今後も同様のケースが多くなると考えられるという。/ アメダスのデータは陸上に限られるが、大雨の発生メカニズムを解明するには、海上での降雨データが欠かせない。同研究所は人工衛星を使って波や海水温を把握することで、海上の降水量を推測する研究を続けており「広いエリアの降水量の変動を観測することで、大雨の降るメカニズムの解明に努めたい」と話している。(毎日新聞・2005/07/05)

(細線(黒):各年の平均気温の基準値からの偏差、太線(青):偏差の5年移動平均値、直線(赤):長期変化傾向。基準値は1991〜2020年の30年平均値。)

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 昔は「雨が降ったら、桶屋(おけや)が儲(もう)かる」などといったものですが、近年では「雨が降ったら、山が崩れる、川が暴れる、人が死ぬ」のが避けられない事態となりました。「温暖化で海水や河川の水の蒸発が盛んになって大気中の水蒸気が増え、発達した積乱雲を作るため」ですが、さて、「温暖化」の原因はなんなのか。皆目わからないわけではなさそうですし、分かったところで、けっして一地域や一国の人間集団の諸活動だけによるものではないだけに、何処に活路を求めるか、容易ではないのでしょう。グローバルとは、こんなときに使うことばではないでしょうか。だからといって、一国が責任を逃れるものではないのですが。「宇宙船地球号」というのかしら?

 いまのような、政治に傾斜しすぎた「科学・技術」を駆使した、化石燃料に依拠した人間の諸活動が猛烈な勢いで、およそ百年ほどもつづいたのですから、それとまったくことなる生活スタイル(SDG’sというらしい)で長い時間をかけて生存活動をしてみなければ、さまざまな気候変動の原因を特定することはできない相談でもあります。ときどき、気象庁の公開されたデータなどを見ることがありますが、改善されるどころか、さらに悪化の一途をたどっているという、否定し得ない証拠を見せつけられている気がして、まことに暗澹たる気分にさせられるのです。そして、さらに、いよいよ「地球温暖化」「気候変動」のメカニズムを解明することと、それを克服するための方策の前途は限りなく困難であると思わされてしまいます。実際のところはどうなのか。ホントは簡単なことなのかもしれない。(ここにも「地球温暖化」陰謀説)があります。似非科学はどちらの味方・見方なんでしょうか)

 海面上昇も気候温暖化も、由るところは、化石燃料の無尽蔵を思わせる消費活動によるものです。その弊害は、半世紀以上も前からしばしば警告され、実害も生じていた。それを忘れたかのように、「脱炭素社会」「カーボンニュートラル」などと、今頃寝ぼけたことを言っているのがこの社会の政治家・官僚です。しかもそれは画餅であるとくるのですから、何をかいわんやです。

 国の借金が一千兆円を突破している、これをどうするか、いかなるっ処方もないのが実情です。「プライマリーバランス(PB)」という指標は繰り返し「改竄」されてきました。国の会計収支を均衡させるという夢物語は、いよいよ取り返しのつかない悪夢となってきています。(国民一人当たり「一千万円の借金」ということになる)脱炭素社会もそれと同じ道をたどるはずです。すべからく、要路の人間には真剣味がなく、あくまでも当座の儲け一辺倒がせいぜいであり、いわば刹那主義です。ツケを後代に廻すという、恥も外聞もない政治経済の運営を、一見まじめを装って展開していますが、早くもお里は知れています。線状降水帯は「超弩級の災害」をもたらし、コロナ禍は「超弩級の致命傷」を人命に負わせます。

 直言すれば、政治そのものが「超弩級の辛酸・災厄」を人民に与えているのです。天災といい自然災害というのですが、実のところそれは引き金を引いただけ、飽和点を示したに過ぎないのであって、根っ子には無作為という「人災」が温床になっているのはまちいありません。台風や豪雨は地球規模の災害をもたらしますが、その減少化や解決策作成のための協調(IPCCのような会議体もその一例)が、まったくなされないままで、ひたすら悪化の一途をたどるのでしょう。いわば、ここでも「総論賛成、各論反対」が常套手段です。

 「災害は忘れたころにやってくる」、このような意味のことを言ったのは寺田寅彦だとされています。何時のことでしたか。百年もたっていないうちに、なんと、災害は「忘れる間もなくやってくる」、そんな恐ろしい時代にぼくたちは棲息しているのです。誰も被災を免れることはできない。前から後ろから、上からも下からも、一寸の隙も無しに「災害」が狙いを定めて襲来しかかっています。いったい、これは何に起因するのでしょうか。

 「コロナ感染」拡大の渦中にあって、政治責任を有する者が「これはもう、災害です」「諸君、自分の命は、自分で守ってくれ」「もう面倒は見られない」といい出しています。不真面目極まりない、なんという背徳の言辞でしょうか。自力呼吸がある間は「自宅療養(これを療養というのか)で」と、頽廃のきわみを「顔色一つ変えないで」いえるという、真正の薄情筋です。人間の本性は、「いざ」という時に表されるというか、露見するんだね。この国に、政治も政治家も存在しないかの如くに終始しながら、いよいよ末期を迎えているような気がします。ついには、乾坤一擲、それが今です。

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●IPCC【アイピーシーシー】=気候変動に関する政府間パネルIntergovernmental Panel on Climate Changeの略。二酸化炭素の増加,オゾンホールの形成など人類による気候への影響を研究し,対策を立てるための資料を提供する目的で1988年に世界気象機関(WMO)と国連環境計画(UNEP)とによって設立された。1990年に報告書が出され,その中で二酸化炭素等の温室効果ガスの増加による気温の上昇,そのことによる海面の上昇,農作物の生産量などの見積もりを行い,これらのガスの排出規制について提言を行っている。1992年にはその後にわかったことについてのまとめが出されている。(マイペディア)

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