教育改革の正体がこれだったんだ、という話

 【滴一滴】「こんな制度、本当にやるんですか?」。導入が決まったとき、岡山県内の学校や教育委員会、大学などの関係者を取材したら、逆に質問された。教員免許の更新制である▼第1次安倍政権が掲げた「教育改革」の一つだった。当時の本紙記事には地元大学の教授のコメントがある。「長い目でみると、教員のなり手が不足し、学校がもたなくなる可能性がある」。予想は的中し、導入から12年で行き詰まった▼更新制は終身制だった教員免許を10年の有期にした。数万円の受講料を自己負担して30時間の講習を受けないと失効してしまう。更新前に早期退職する人が増え、代替教員もなかなか見つからない。何より長時間労働が敬遠され、教員を目指す学生が減っている▼教員の質向上を狙った改革のはずが、必要な数を確保するのも難しくなった。文部科学省が制度廃止の方針を決めたのは、なり手不足がそこまで切実ということだろう▼かつて見たドラマで、官僚が政治家に進言する場面があった。「選挙も近いですから、教育改革を打ち出しましょう」。有権者にとって教育は身近で、政治家もよく口にする。だが、現場の実態を無視して政治が独断専行すれば、混乱だけが残る▼更新制が廃止されても元に戻るだけである。本来の仕事の魅力を取り戻すため、教員の働き方改革が急がれる。(山陽新聞Degital・20211/08/25)

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 教員免許更新制廃止を決定 文科相が表明 教員の負担大きく

文部科学省=東京都千代田区で

 教員免許に10年間の有効期限を設け、更新時に講習の受講を義務づける「教員免許更新制」について、萩生田光一文部科学相は23日、廃止する方針を表明した。中央教育審議会の小委員会がこの日、「発展的解消」という表現で事実上の廃止を求める方向性を示したことを踏まえて決定した。/ 教員免許更新制は、時代の変化に合わせた知識を身につけてもらうことで、教員の資質向上を図ろうと、2009年度に導入された。しかし、現職教員は土日や夏休み期間を使って講習を受けているため負担が大きい▽更新手続きをせずに免許の効力が停止する免許保有者が多く、産休・育休の取得者が出た場合の代替教員をすぐに見つけるのが難しくなった――などの課題が指摘されていた。【大久保昂】 (毎日新聞・2021/8/23)

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 「朝令暮改」という語があります。その言うところは、文科省の政策導入とその廃止の短絡愚行を指すのでしょう。「朝に出した命令を夕方にはもう改めること。方針などが絶えず変わって定まらないこと。朝改暮変」(デジタル大辞泉)表向きは現職教員の「資質」「力量」の向上、無能教員の排除、こんなことを目指して、大童で導入されました。現政権に先立つ十数年にわたる「無能かつ権力嗜好(志向・至高)政治家」たちの努力のたまものでした。これが、何はともあれ、廃止されるというのですから「朗報」に違いはありません。当の文科省自身が、その「有効性」が認められなかったというのですから、話にならない。その政策導入でどれだけの教員が金と時間を剥奪されてきたか、それを考えるだけでも「虫唾が走る」のです。現実には初任者研修、五年研修なっど、食べきれないほどの「研修定食」が準備され、否応なく摂取を強制されていたにもかかわらずでしたから。「教育は国家百年の計」というらしいが、そもそも「教育に国家が…」、それが間違いのもと。教育はだれのものか、そこから始めたいね。

 詳しいことは省きますけれど、戦後の教師の世界と文部省との関係は、一言でいえば「教育闘争」に尽きます。もっとあからさまにいうと、日教組VS一部政治家(と官僚連合軍)の熾烈な戦いでした。結果は、日教組の敗退(解体に近い負けようでした)、文教族武闘派の勝利だった。一戦ごとの勝利に「祝杯」を挙げたという話を聞きました。いわゆる政権与党の「文教族」が終始一貫、日教組攻撃を主張してきたのです。名前を出すのも汚らわしいが、五輪組織委員会の会長だったMを筆頭に、まるで愚連隊や半グレの如くに、学校教育界を「無人の荒野」にしてしまったのです。(もちろん、日教組も責任を免れられない)その挙句が「教員免許更新制廃止」でした。(もう一つの悪制度があります。「介護等体験」というもの。これも即刻「廃止」すべきです。「小学校及び中学校の教諭の普通免許状授与に係る教育職員免許法の特例等に関する法律」(平成9年法律第90号)に基づき、特別支援学校や社会福祉施設(老人福祉施設、障害者支援施設等)において、7日間障害者、高齢者等に対する介護、介助、これらの者との交流等の体験を行うことを、小学校・中学校教諭の普通免許状の授与の要件とするものです」(文科省)

 何年も前になります。「免許更新制」が導入されて間もなくでした。ぼくはたまたま、この講習の講師を担当することがありました。夏休みだったと思います。受講生は現職教員が三十名ほどだったか。言うまでもなく、ぼくはこの「愚制度」に反対していた。でも、務めていた職場が講習を引き受けたので、否応なく順番が回って来たので、「万やむなく」というわけです。受講された方に「制度の趣旨」と、これによって「教員の力量」が向上するなどということは、一ミリもないと述べ、こんなくだらない講習を受けないで、即座に自宅か図書館で教材研究をされることを勧めると、はっきりと述べました。もちろん、講習を中止して、皆さんお帰りになったのではなかった。ぼくは、さらに講習の成績は「全員合格」と冒頭に宣言し雑談を開始しました。その雑談を受けて、現在の教育課題や、自身の問題意識を自由に書いてほしいとお願いした。いろいろなレポートが提出され、それはそれで面白かった。でも、これは言うまでもなく、現職教員の負担増であり、受講料などの無駄遣いだったと、あらためて痛感したのでした。講習は、実に奇妙な「お笑の連続」になりましたね。犯罪に手を染めているようで、実にいやな気分がしました。いずれこれは亡くなると、その当時から、ぼくは確信していました。

 教師が現場を離れて、現場の外で、必要な力をつけるなどということは先ずあり得ない。まして、それが研修や講習だなんて言えば、カマキリだって笑うでしょう。「仕事のすべては現場」にこそあるのです。わざわざ、現場を知りもしないところ(講習受け入れ機関)で「講習」を実施するということは笑止千万の振舞いでした。「餅は餅屋で」ということですよ。残念ながら、この講習で「指導力不足」の教員が小数とはいえ、出てしまって現場から追放されたという。つまりは、現場が「ダメ教師」に鈴をつけられないから、他人に下駄を預けたというフザケタ話でした。講習会で「ダメ」というなら、「現場」でも「ダメ」は分かり切っていたはずではないですか。ぼくは、「教員(行政)研修」の実態を知っていましたから、これ(免許更新講習)は、教師の力量を育てるのではなく、教育委員会などの呆れた「いじめ」であり、さらに進んで「虐待」じゃないかと、教育委員会の担当者や研修担当教師(校長あがり)に対して直言したことがあります。今でも、一方の「行政研修」は揺らぎもしないで続いています。(これに関しても言いたいことはいくらかありますが、エネルギーロスになりますので、沈黙します)

 そもそも「教員養成」ということ自体が間違っています。教員は大学なんかでは「養成」できませんね。さらに言えば、教員は養成するものではないんですよ。「養成される教員」がいたら、それは「教員まがい」です。新卒で間違いも起こすかもしれませんが、先ず「現場」です。「現場」でこそ、力が試され、育てられるんですから。教師は「養鶏」とか「養豚」なんかと、わけが違うという自説を一度だって放棄したことはありません。「養鶏」「養豚」とは、人間の好みにあわせて、鶏や豚を飼育し加工することでしょ。だから「教員養成」も、誰かの好みに合わせて「型にはめる」「型にはめられる」ことが出来たら、一丁上がり(養成された)というらしい。なんというバカバカしい冗談でしょうか。教師が育つのは学校であり、教室です。教師を育てるのが現場の教師であり、教室の生徒(子どもたち)です。それ以外に、何処で教師は育ち育てられるのでしょうか。

 ぼくは、魔が差したのか、少しばかり教師の真似事をしていましたが、いつもぼくの学校は「飲み屋」だと言っていましたし、皆勤賞に値するくらいに通いました。行くのが嫌だと思ったことはなかった。ぼくが育った「現場(学校)」は飲み屋でした。そこにはさまざまな経験を重ねて苦労している仲間(同級生)、というか知り合い(同窓生)がいました。「社長」なども何人もいました。いろいろな職種の同級生だった。ぼくに言わせれば、そこは水平社会でしたね。つまらない「小社会(序列・身分・地位など)」を持ち込まない、それがルールのようなものでした。行くのも行かないのも、本人の選択。ぼくたちは、誰彼なしにどこかの集団・組織に所属しています。家であり、会社であり、サークルであり、…。でもそこで、大事なことは「あらゆる社会組織は、人間個体にとって外側的なものだということです」(久野収)

 その外的組織や集団から離れて(解放されて)自分を取り戻す、それが「ゆとり」であり「遊び」だとぼくは考えています。だから率直に言えば、学校や教室が「飲み屋」みたいになればいいんでしょうが、まずそれは不可能。ここで大事なのは、何のための学校、何のための教室ということを考えなおすことです。ぼくにとっての「飲み屋」という「夜間学校」は、自分の成長を図る場、というのは嘘で、所属している集団や組織の「融通の利かない原理」の強制を排するための「無駄に過ごす時間」でした。自分にとって外的でしかない組織や集団がもっている「原理」「論理」「大義」にからめとられると、ぼくたちは窒息してしまう。窒息を避ける「酸素吸入器」が、所属する集団の空気とは「別の文化・領域」の空気ではないかと思うのです。別の空気を吸うことが、自己表現を柔軟にさせてくれるという確信もありました。それにしても、よく通いました。惚れて通えば、千里も一里…。いまだに酔っているみたいです。

 例によって、雑談があらぬ方向に流れて行きそうです。ようするに、国家に代表される「外部組織」は、何処まで行っても「一本の原理」を突きつけてくる。それが「外側組織」の習性ですね。政府⇒文科省⇒教育委員会⇒学校⇒ ⇒ ⇒。これが如実に表れているのが「免許更新制」でした。「同じ原理の一貫性」(滅私奉公といえば、古いのかな)だったと言えます。何事でも、経験を積むほどに技術はあがる、上達するもの、十年の経験は五年よりも尊いということもできます。だから、経験を無視するような法律や制度はクズ・ゴミです。まるで運転免許更新講習(これもクズ)以下です。

 後期高齢者用の更新講習は「保育・幼児教育」なみで、人間を敬わないことおびただしい。(「今日は何月何日ですか」「今、何時何分ですか、時計盤を書いて、示してください」(上の)16枚の絵を見て、しばらくして「それを(思い出して)書け」という。ぼくは頭に来て、出鱈目を書こうかと一瞬迷いましたが、「認知症」の判定を下され医者送りにされるのが嫌だったので、泣く泣く妥協した。二年前でした。健康であれば、また来年あります。今から作戦を練っている)国家官僚は、「愚劣なことを真面目な顔で」しますね。怖いことですわ。真面目に戦争(人殺し)をする。ブレーキとアクセルを踏み間違えるのを「講習」で見つけることは不可能とは言わないけれど、実際は困難です。普段の運転ぶりを見ていれば、かならずわかるもの。教師の仕事も同じじゃないですか。何よりも、「現場主義」に徹することです。

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 (急いで付け加えます) 昨日から「パラリンピック」が開催されました。五輪同様に、ぼくは今でも開催反対です。その傍らで民衆が無念の命を奪われているのを尻目に見ながら、です。無観客を装っていますが、当初は首都圏の小中学校の児童生徒(数十万人)を競技場に無理にでも運び込むという。「学徒動員」らしい。徐々に参加強制された人数は少なくなっていますが、一定の児童生徒が「枯れ木も山の賑わい」の役に擬せられるのです。都教育委員会の委員全員(出席者の四名)が「反対」しているにもかかわらず、教育長と(「通称・教育委員会法」違反)都知事は強引に参加を強いている。まさに、教育への暴力政治の介入そのものです。オリンピックやパラリンピックの「感動」を「直に学んでほしい」と、痴事は言い放つ。自身がスポーツのなんであるかを一切学びもしないで、児童生徒を生贄に仕立て上げる。腐敗堕落の極にあるのがソーリと都痴事です。

 どんなにぼくたちは想像すらできないような狂気の政治社会に墜とされているかを、思い知るべきです。ここまでくれば、立派なファシズムの完成(陥穽)ではないでしょうか。この状況を受け入れず、別個の方向に変えるための闘いが求められているのです。学校教育が土足で踏みにじられている。こんなに腐敗した政治状況に、喜んで旗を振る「国民」が数多くいることを忘れてはならない。政治家だけが全体主義を作るのではない。それを導き、支える支持基盤はどうして生み出されてきたのか。ぼくたちの問題でもあります。

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 作品が背後に湛える「静かさ」はなにを語るのか

 【正平調】小紙夕刊で「ひょうごきり絵探訪」を連載中の前田尋さんの師匠は故加藤義明さんだ。日本の切り絵美術を切り開いた先駆者で「東の滝平(たきだいら)、西の加藤」と並び称された◆紙とナイフの芸術、切り絵。鋭い刃による描線が複雑な陰影を醸し出す。東京の滝平二郎さんは人々の暮らしや表情を詩情あふれる画風で表現した。加藤さんは大阪の街並みや祭り、民話、落語、文楽を描いた◆NHKドラマ「けったいな人びと」のタイトル画を制作し地下鉄淀屋橋駅ホームの巨大壁画も作った。高度成長期以降、著しく変貌する大阪に腰を据えて、守るべき上方の情景を大胆かつ繊細な線で描き続けた◆「切り絵の可能性を追求する」。七夕の下げ飾りや奥三河の花祭りの「ざぜち」など各地に伝わる紙の技を調べ歩いた。寡黙だったが、内に燃えるような情熱があった◆戦時中、疎開先の柏原中(現・柏原高)で学んだ。丹波市山南町出身で後輩に当たる前田さんは残された約60点もの名作群の保管や展示を各地の美術館などに依頼した◆しかし行き先は決まらず、梱包(こんぽう)された状態で大阪の喫茶店に保管されている。このままでは散逸しかねない。今年で没後11年、生誕90年になる。切り絵にかけた師の思いを未来につなぎたいと前田さんは願う。(神戸新聞NEXT・2021/08/23)(註・上記の展覧会は、コロナ感染拡大中のため、すでに中止が決定されています)

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○ 切紙絵(きりがみえ)=紙を鋏(はさみ)や小刀で切り抜いて形をつくり、台紙に貼(は)り込んだもの。切絵ともいう。紙を切る切紙の手法には紋切り、切り抜き、ちぎり、中国の剪紙(せんし)などがあり、紙工芸の一つ切紙細工として古くから生活文化と結び付き、世界各地で行われてきている。これを絵画的表現の一つとして用いるようになったのは近代以降のことである。/ ヨーロッパでは、黒い紙を切り抜いてつくったシルエットの肖像画が、18世紀後半から19世紀のドイツやイギリスで流行し、当時高価であった写真にかわるものとして人気を集めた。デンマークの童話作家アンデルセンも、自作の登場人物を切紙で残している。

 日本では、江戸後期の喜多村筠庭(きたむらいんてい)の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』(1830序)に、寛文(かんぶん)年間(1661~73)行われた、紙を畳んで種々の紋を切る「はさみ切り」や、現在まで寄席(よせ)芸として伝わる「紙切」の祖のような芸が記されている。明治初年、三井高福は『剪綵(せんさい)大意』を著し、三井家伝来の剪綵(切抜き絵)の技法や秘伝を伝えた。

 近代以降では、染織家芹沢銈介(せりざわけいすけ)が型染めの技法を和紙に応用して優れた作品を残し、詩人高村光太郎(こうたろう)の夫人智恵子(ちえこ)(1886―1938)が晩年の病気療養中に制作した紙絵は、みごとな芸術作品として知られる。また、天才的な放浪画家、山下清(1922―71)にはユニークな「ちぎり絵」の作品がある(右)。フランスの画家マチスは、晩年の1943~48年のバンス定住時代に切紙絵に専心、その作品は『ジャズ』のタイトルで出版(1947)されている(左上)。

 今日では「きりえ」の名で新しい絵画表現のジャンルとして一般に普及しているが、この名称は1969年(昭和44)『朝日新聞』に滝平(たきだいら)二郎(1921―2009)の作品が連載されるに際して命名されたものである。(ニッポニカ)

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○ 芹沢銈介(せりざわけいすけ)(1895―1984)=染色工芸家。静岡市生まれ。東京高等工業学校図案科卒業。当初図案家を志したが、柳宗悦(やなぎむねよし)の著書『工芸の道』を読んで民芸運動に参画し、1928年(昭和3)には大礼記念国産振興博覧会で見た沖縄紅型(びんがた)に触発されて、染色の世界に入った。紅型を基礎にした型染めによる農村風景や生活周辺の器具のほか、とくに装飾文字「いろは」「春夏秋冬」には定評があり、染色のほか、版画装丁、家具設計、民芸品のコレクターとしても知られる。56年(昭和31)自ら創始した型絵染技法により重要無形文化財保持者に認定された。倉敷市の大原美術館芹沢館(1963開館)、静岡市立芹沢銈介美術館に多くの作品が集められている。(ニッポニカ)

○ 滝平二郎(たきだいらじろう)(1921―2009)=版画家、切絵画家、児童出版美術家。茨城県新治(にいはり)郡(現、小美玉市)の農家に生まれ、石岡農学校を卒業。18歳ころより版画に取り組み、第二次世界大戦後は人民美術を目ざして版画絵本『花岡ものがたり』(1951)を製作。1969年(昭和44)より9年間『朝日新聞日曜版にさまざまな主題の「きりえ」を連載、読者より絶大な支持を得て一躍切絵の第一人者となった。絵本作品では斎藤隆介(りゅうすけ)の短編に絵をつけた『八郎』(1967)、『三コ』(1969)、『花さき山』(1969)などが著名。[上笙一郎]『『滝平二郎きりえ画集』全7巻(1972~74・講談社)』▽『『滝平二郎作品集』全15巻(1983~85・岩崎書店)』(ニッポニカ)

○ シルエット=元来は黒紙を用いた切紙細工の人物肖像。のち影絵一般をさすようになった。18世紀フランスの財政監督官シルエットEtienne de Silhouette〔1709-1767〕の緊縮財政策により,高価な絵具を使わず切紙細工の人物肖像や黒く塗りつぶし,輪郭を主とした人物肖像画が流行したことからこの名が起こったといわれる。(マイペディア)

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 この分野の作品を意識して見始めたのは 芹沢銈介 氏のものだったと思う。早くから柳宗悦さんの仕事に目を奪われていたさなかだったように記憶しています。もともとは染色家だった。その芹沢さんは実に広範囲に活動を深めた人で、その一つ一つに目が洗われるような気がしたものです。作品は、実に素朴で実直そうな、生活に密着して「民芸」と称されるのふさわしい佇まいを示していました。また、彼の装丁した書籍も、何冊かいまだに本棚に並んでいます。こんなことを書いていると、柳さん、バーナード・リーチさん、浜田庄司さんなどなど、特に戦後の民芸運動の旗手たちが、懐かしく思い出されてきます。

 ついで、よく作品(複製)を手許において熟読玩味するがごとくに、鑑賞したのが滝平さんでした。ある新聞(今もあるかしら)の連載で何年も続けられた、その作品を「切り抜き」して、今も保存してあります。滝平さんの作品を前にして、熟読ならぬ熟鑑しているうちに、観ているぼくは作品の一部になってしまうような、そんな錯覚を何度か味わったものです。この間にも、ぼくは山下清さんの「貼りえ」を眺めつづけていました。夜空に高く上がった大玉の花火、その満開の瞬間の、なんという静けさだろう。沈黙する「花火」の爽やかさを教えてもらったように思います。

 ぬり絵でも貼り絵でも切り絵でも、それが扱う題材がどんなものであれ、いったん作品として出来上がると、なんとも形容のしようがないような「静謐」に満たされる。それは、ぼくには驚きであると同時に、観る人、読む人の「精神の浄化」とはこういう作品から感じ取る、深い印象の作用ではないかと感じ入ったのです。一つの作品がは背後に湛(たた)えている「静かさ」は、声高ではないが、きっと何かを語ろうとしているのです。それを聞きとるために、ぼくは作品の前にた佇(たたず)む。(少し前に、どこかで触れた相田みつをさんの仕事ぶりにも、この方々の作品には共通するものがあるように、ぼくには思われました。相田氏の「書画」には、少しばかり「元気」がありすぎるようですが)

 加藤義明さんの作品は、それほど熱心に見たのではありません。本日の「コラム」で、まるで不意打ちを食らったように、加藤さんに出合い頭でぶつかったという風でした。迂闊にも、死して十一年だったとは。申し訳ない。上方落語にも、一時期は相当にはまり込んでいましたし、まだ高校生くらいのときには、どういうわけだか「文楽」に目を奪われていたことがあった。そんな時に、きっと目にしたのが加藤さんの「切り絵」でした。派手ではない、誠実そうな人物が、今そこで仕事をしていると言った雰囲気を感じて驚嘆したほどでした。それにしても、紙の持つ柔らかさが、その作品が醸す柔らかさにも十分に生かされている。もっと丁寧に、加藤さんの仕事から学ぶ必要があったと、いまさらのように、彼の仕事の意味を考え出しているのです。壊滅寸前の「大坂」を偲ぶよすがとして。

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 かへりつる名残の空をながむれば…

 某(なにがし)とかや言ひし世捨て人の、「この世の絆(ほだし)、持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき」と言ひしこそ、真(まこと)に、然(さ)も覚えぬべけれ。(「徒然草」第二十段)

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 「世捨て人」とは、いろいろな解釈がありますが、要するに「出家した人」「桑門(そうもん)」をいう。「桑門」は梵語の「śramaṇa」、僧侶を指す。「沙門」に同じ。なかなか細かい取り決めがあるようですが、ぼくはスルーします。さらに言えば、「世捨て人」には二通りあって、一つは「出家者」=僧侶であり、他は無用者。世を捨てたのではなく、世の中から捨てられたきらいがある人です。世が捨てた人と世を捨てた人、でも似たようなものだという感もします。あるいは、「世が捨てた・世に捨てられた者」、こちらが圧倒的に多いのではないでしょうか。剃髪の有無は問わない。世の中と縁を切った(つもり)の人を指して言ったと、ぼくは捉えたいですね。いずれにしても、元来は仏門につながって、「善に努め、悪をなさず、身心を制御して悟りを得るために努力する人をいう」とあるように、釈迦の一党・一門の人でした。実際は、ご存じの通り、善行は忘れて、悪事に走るという始末。今もまったくその通りといえば、差しさわりがありますかな。

 兼好さんのいう「某」はどの程度の「沙門」だったか、少しもわからない。でも「この世の絆(ほだし=縛り)」を一切持たない人とありますから、出家か家出かは別として、世間との交渉を断った人です。その人にして、「ただ、空の名残 のみぞ惜しき」といっているのです。この「空の名残」は、ぼくには理解が届かない表現です。「空」は「天(そら)」であって、時間とともに刻々と動くような「空(雲をも含む)の移り行く変化」をいったとみてもいいでしょう。太陽が出ているうちは、移り変わる段階の区別もつかないが、やがて陽が沈みかけると、「空模様」が著しく変転する。あるいは千変万化という形容詞を使っていいかもしれない。「夕焼け小焼け」もその一種です。

○ 沙門(しゃもん)=出家者の総称。サンスクリット語シュラマナ śramaṇa に相当する音訳語で、勤息(ごんそく)、浄志(じょうし)などと漢訳する。剃髪(ていはつ)して善に努め、悪をなさず、身心を制御して悟りを得るために努力する人をいう。彼らは古代インドにおいて、正統的伝統的な思想家であるバラモンに対して、古来の階級制度やベーダ聖典の権威を否認した革新的な思想家であり、民衆のことばである俗語を使って教した。仏教の比丘(びく)たちも沙門の一部である。(ニッポニカ)

 「名残りの空」という言い方が思い出されます。「名残りの雪」と同様に、ある特定の瞬間に目にした「空」であり「雪」をいったのでしょう。名残は、名残りが惜しいといって、多くは「別れ・別離」を言いました。「名残り尽きない、果てしない」と流行り歌の一節にもありました。互いに手を振りながら、別れを惜しむ、しかし、姿が見えなくなってから、一層「名残り惜しい」という気が強まる物でしょう。それが、好きで仕方がない「想い人」「惚れた方」であれば、なおさらに、「ただ、空の名残のみぞ惜しき」という感情が募るのです。

 芭蕉に「いざさらば雪見にころぶ所まで」という洒落た一句がありましたね。ぼくの好きな句です。思い切り時代が下って、昭和の砌(みぎり)、イルカ(本名神部としえ)さんに「なごり雪」がありました。「今 春が来て 君はきれいになった 去年よりずっと きれいになった」と詠ったのは伊勢正三さん。ぼくは彼の出身校の玉名高校まで行ったことがありました。惚れたら、どんなものでもよく見えちゃんでしょうね。「あばたもえくぼ」なんていうじゃないですか。冷静ではいられないんですね。とにもかくにも、」名残りは、なにによらず尽きないのですね。これらについては、別の機会に。

 で、その「名残りの空」です。「別れ際の、空模様」といったところ、あっさり(下世話に)言えば、さしづめ「朝帰りの空」でしょうか。

 「かへりつる名残の空をながむればなぐさめがたき有明の月」(藤原兼実) もちろん作者は九条兼実であり、「玉葉」という日記文学の作者でした。弟に慈円。歌はなかなかの恋歌で、ぼくには手が届かいないような心持を歌ったものです、たぶん、別世界です。「あの人が帰った、その時の空を見ていると、有明の月ばかりが美しく、わが心はいささかも慰められない」とかいうのでしょうか。「有明の月」は名残が尽きないように、日付が変わってもかすかに見える満月の後の月です。しばしば「後朝・衣衣(きぬぎぬ)の別れ」とも言います。それ以上は、ぼくには理解不能で、経験もありませんので、残念ですけれども、ここまで。

 古今集にこんなのがありますね。「しののめのほがらほがらとあけゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき」(よみ人しらず)ここにも、「名残りの月」の諦めきれない、忘れ得ぬ慕情というか感情(色情といったら下品かな)が流れています。あるいは、まだ肌のぬくもりが感じられる、彼の人の衣の香が、さらに別れを悲しませる。このような場面に関してぼくは、おおくは志ん生演ずる「廓話」で学んだだけですから(学校では、先ず教えてくれません)、頭でっかちというか、観念論、上辺の知識といったところです。

 兼好さんに戻ります。この世に、一切の束縛を持たない身であっても、ただ「空の名残」ばかりはいかんともしがたく、「忘れがたい」こんなことを言う坊さんがいたが、ホントにその通りじゃないですかというのは、兼好です。さすれば、兼好さんも、世捨て人さんも「名残の空」ということを「空の名残」という「隠語で」言い換えてまで、遥かの往時、自らが味わった「後朝」の別れを偲んでいるということだった、と。それはいかにも「下司の勘繰り」じゃないかといわれるかもしれないね。でも「勘繰る」ものはすべて「下司」だと割り切ってしまえば、「当たらずといえども、遠からず」じゃないでしょうか。嗚呼…。

 「下司」という語を使いました。多くは平安期以降の「荘園」管理上の役職名でした。それを苗字にして「げし」という。これまでにも、何人かの「下司」さんに出会いました。「上司」=「上級」(都に鎮座していた)に対して、「下司」=「下級」(現地で汗をかいていた)という図式が成り立ちます。下司は下種、下衆ともいいます。人を店屋(丼)物のように「上・中・下」に分けるなんて(区分けの基準は「お金」のみ)、今も昔も、なんの代わり映えもしない、人間の性、卑俗(vulgarity)ですね。今日、「上級国民」とかいいます、それは、このような荘園の役職者を下から見た表現の模倣であり、同様に「下司の勘繰り」も、いろいろと含みを持った、上から目線とやらの侮蔑的表現だったと思います。

 政治権力者を罵倒し、打倒したくなる、そのための批判や非難の口吻も、この伝で行くと「下司の勘繰り」ということになるんでしょうな。下司で結構、下衆といわれるなら、なお結構。上級も下級もあるものか、と勢いよく啖呵を切りたいところですが、この「上級」がとんでもない「食わせ者」ですから、啖呵の切りようがないですね。悲しくなると「おつきさん こんばんわ」といってみる。まるで中世に生きている心地がします。だから、文字通り「空の名残」が切実に身に染みるのでしょう。

 ・有明の月になりけり母の影  (其角)

 ・こんなよい月を一人で見て寝る (放哉)

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 教えながら教えられながら

 これ(下の「文学史練習問題」)は、ある学校の試験(国語)問題でした。まさか、今でもこんな愚劣な問題を出し続けているとは思えないのですが。小学校以来、大学卒業まで、このような内容空虚な試験に感覚を摺り減らされているとすれば、大半の子どもたち・青年たちは、驚くべき残酷な扱いを受けていることになります。おいしいごちそうの写真を見せて、ひたすら、その料理名や材料や栄養価・カロエリーなどを覚えさせられるようなものです。このような残虐な扱いの結果は恐るべき頽廃を生むことになります。(左は千葉県の私立中入試風景。会場は幕張メッセだって)

 学校は社会をよくしようとしているのか、その反対を狙っているのか、その解答は考えるまでもないことなのでしょうが、ぼくには自明だとは思われません。学校の存在を根底から揺する必要があります。現下の生きることの不安や苦しみが続行する時にこそ、学校を再定義するといいのではないですか。教室に縛られる時間が短ければ、それだけ、子どもたちは大事なことを自分で考える力をつけるんですよね。同じことが教師についても言えます。教室から解放されて、教師は仕事の再吟味に取りかかれますから。

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文学史練習問題

一 次の①~⑤ の説明に当たる人物と作品を、それぞれ後から選び、記号で答えなさい。

① 江戸時代、一生を旅ですごし、多くの俳句を作り、東北地方の大旅行をまとめた紀行文もある。

② 奈良時代、日本最古の和歌集を編集した。

③ 明治時代、人間は皆平等であると唱え、自由民権の考えに大きな影響を与えた。

④ 江戸時代、蘭学がおこったころ、日本の古い書物を研究する国学という新しい学問もさかんになった。

⑤ 平安時代、世界最古の長編小説。のちのちの小説の手本とされた作品。

A 大伴家持 B 清少納言 C 紫式部 D 福沢諭吉 E 紀貫之 

F 松尾芭蕉 G 宮沢賢治H 本居宣長 I 杉田玄白

ア 源氏物語 イ 学問のすすめ ウ おらが春 エ 古事記伝 オ 万葉集

カ 古今集 キ 奥の細道 ク 雨ニモマケズ ケ 解体新書

二 次のA群の作品につながりのあるものを、B群、C群から一つずつ選び、記号で答えなさい。

〈A群〉     〈B群〉     〈C群〉

1 二十四の瞳        ア 夏目漱石   A 仙人

2 山椒太夫    イ 山本有三   B 大石先生

3 坊ちゃん    ウ 芥川龍之介  C 吾一

4 杜子春     エ 森鴎外    D 赤シャツ

5 路傍の石    オ 壺井栄    E 安寿

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 この問題、一問五点として、百点満点。さて、いったい何点取れるでしょうか。この試験で高い点数を取るというのは、どんなことを意味するか。このような試験を前提にしておこなわれる授業(教育)のねらいはどこにあるのか。また、こんな試験や授業を実施する教師という存在の特質はなんなのか。といったように、さまざまな疑問や批判がわき出てくるような教室の実態ですが、これに打つ手があるのでしょうか。この教室の教師と生徒はどんな関係なんですかねえ。

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 大村はまさん。こんなことをいっておられます。

 《 教室は、生徒を教えながら、教師である私も生徒に教えられながら、生徒が進むとともに、私もその日、何らかの意味で教師として成長する、そういう場所でなければならないと思います。そういう教師の成長ということのない教室というのは、いろいろ骨を折ってみても、結局、生きた教室にはならないでしょう。教師である私が何も成長しないで止まっているのに、子どもたちだけ成長させるというわけにはいかないと思います 》(大村はま『教えながら教えられながら』共文社刊、1989年)

 「育てる」ということのなかに「育てられる」という部分(要素)がなければ、なにも育たないし、育てられないね。例えば、建築資材のヒノキにカンナをかける、その技量を他人に教えることが出来るでしょうか。自分のからだや感覚で習得するほかないでしょう。教えられたところを覚えたって、意味をなしません。そう考えると、教師で学ぶというのは、なんともお気軽ですし、覚えて終わり。家を建てるのに、建て方を、本で読み、それを覚えて、お終いとはなりませんね。試験で満点取っても、家は建たない。学校の教育は、はっきり言って間違ってますねえ。 

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  外は灼熱の地獄です。思うように歩けず、草刈もままなりません。さて、どうするか。ぼくは歩けないけど、早くから歩き続けている先輩がいます。彼の後についていくことで、つまりは、後塵を拝して、真夏の歩行をしたつもりになろうという、ヴァーチャルウォーキングですね。果たして効果があるのかどうか。

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 踏みわける萩よすすきよ  この旅、果もない旅のつくつくぼうし  へうへうとして水を味ふ  

 落ちかかる月を観てゐるに一人  ひとりで蚊にくはれてゐる  投げだしてまだ陽のある脚  

 笠にとんぼをとまらせてあるく  歩きつづける彼岸花咲きつづける  まつすぐな道でさみしい  

 ほろほろ酔うて木の葉ふる  しぐるるや死なないでゐる  水に影ある旅人である

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 上に挙げた句たちの後に、「どうしようもないわたしが歩いてゐる」がくる。何処まで歩いても、どれだけ行乞を重ねても「どうしようもないわたし」という自覚は、彼を錐もみさせるのです。山頭火は正直な人だったと思う。自らの弱さを、一ミリも隠さずにさらけ出しいく。それが彼の「自由律句」という名の苦吟でありました。この放浪の二年後、熊本に落ち着くことを望んだがかなわず、「うしろすがたのしぐれてゆくか」と詠む、「自嘲」と前書していました。

 いつもぼくは考えてみる。いったい山頭火は何を念じて歩いているのか、と。若くして人生の劇薬を飲まされた彼は、居ても立ってもおられないままに、家を出た。はじめは少しばかり、次には長く長く歩き続ける。もちろん、方々に彼を好いている友人や知己がいたことは、彼には頼りだったし、ときたま身を寄せては、また英気を養っていたに違いない。彼の句を繰り返しなぞっていると、ぼくは山頭火という人間が愛しくなってくるのを拒むことが出来なくなる。いい気なもんだ、何を甘ったれてるんだという横槍と、堪らないさみしさなんだろうなという温情のようなものが、ぼくにしては珍しいが、(今では年下になった)山頭火に懸けたくなるのです。

 おそらく彼にも身を立てる志はあった。しかし、学業半ばで心が折れた。それからはやることなすこと、凶と出る。そして忌まわしい幼時の思いと重なるような不幸に背中を押されて、家をでる。いわゆる半俗半僧の身におのれをやつしたのです。「笠にとんぼをとまらせてあるく」という何気ない句でさえ、彼の 凝視する視線を感じてしまう。何処まで行っても、自意識は消えてなくならない。かえって強くなるばかりです。

 (山頭火「草木塔」昭和二年、三年、山頭火は山陽道、山陰道、四国や九州を歩き続けます。考えるとは歩くことだと言わぬばかりに)(*ここで出題 上の俳句の中から任意に一句を選び、その詠まれている情景や作者の感情などについて、五十字程度で書いて下さいな。これなら、だれだって答えられそうですね)

○ 種田山頭火【たねださんとうか】=俳人。本名正一。山口県生れ。早稲田大学文学科中退。荻原井泉水に師事,《層雲》で活躍した。生家破産や父弟の死にあい,1925年熊本報恩寺にて得度,翌年より生涯にわたる行乞(ぎょうこつ)放浪の旅に出る。句集に《草木塔》《山行水行》,紀行文集に《愚を守る》など。その漂泊の生涯と独特な自由律句によって知られる。(1882-1940)(マイペディア)

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 感染拡大を最優先にしながらそこについて…

  

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  諏訪中央病院の玉井道裕先生により作成された「新コロナウイルス感染をのりこえるための説明書」シリーズの最新版「デルタ株編」を公開しました。/ 第5波が押し寄せています。この第5波で流行しているのが、デルタ株と呼ばれる変異株。/ デルタ株は、従来のコロナウイルスとは別次元の感染しやすさと言われています。/ では、なぜデルタ株は感染しやすいのでしょうか。元祖コロナと何が違うのでしょうか。/ 再度確認しておきたい感染に対する「心構え」とあわせて、分かりやすいイラストとともに解説しています。

 諏訪中央病院の玉井道裕(たまい みちひろ)医師が作成された「新型コロナウイルスの感染をのりこえるための説明書」シリーズを公開します。かわいいイラスト付きでわかりやすい説明書です。PDF版とウェブブック版を掲載しています。(茅野市HP)(https://www.city.chino.lg.jp/site/korona/corona-setsumei.html)

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 ある地方都市で感染者数が5人とか7人と報告されている段階で、そこに在住っしている知り合いは「感染爆発や」と慄(おのの)いていました。デルタ株は異次元の感染力を持っていると言われているからです。それが「指数関数」的感染です。爆発(explosion)、あるいは噴火(eruption)といってもいいでしょう。発生した現象が、みずからのエネルギーを使い尽くして、自然に終末を迎えるまでは手が付けられないという恐ろしさを伴うのです。まるでハリケーンや地震のメカニズムに似通っています。科学者や医学者や企業家はウィルスに効果的なワクチンを作り出しますが、それを迎え撃つ第二段第三段の災害(病症・被害)を引き起こすエネルギー(感染性)を、ワクチンは生み出すのです。この戦いに終わりは見えない。ワクチンの毒性が衰える(弱毒化)とともに、人間の中に免疫抗体ができたときにはじめて、終戦というか収束ということになるのです。今回の闘いはまだまだ続くはずです。

 デルタ株の感染力は強い。仮に一人の感染者がデルタ株主だったとすると、感染が10回繰り返されるだけで、千人を越えてしまいます。ぼくは千葉の山中に住んでいますが、東京の感染爆発を見ていて、多くの人が普段と変わらない振舞いに明け暮れているのを見ると、恐怖というか戦慄を覚えます。「人流」(などという怪しい言葉を使ってほしくないね。「人の物化・貨物並扱い」そのものですから)の増加状況をネットで見ると、よくも「出歩いて、怖くないのか」と驚嘆するのです。ところが、為政者どもは、その事態や状況をよく知っているから、自分だけはワクチン接種を早々と済ませ、感染防止を徹底し、(まるで自分だけの核シェルターを備えている気配です)そのうえで、いかにも心配顔で、白々しいことを言ってのけるのです。白けた演技だというほかない。「感染拡大をなによりも最優先」とか「不要不急の徹底」などと狂気じみた言葉をまき散らして、己は恬淡というか、コロナ禍にはまったく無関心、そんなものはどこ吹く風の風体です。しばらく前の都知事が書いた小説に「狂った果実」というのがあった。狂ったのは果実ではなくて、政治家気取りのゴミたちでしたね。こんな手合いに尻尾を振る「民間人」もいるんだから、始末に負えません。

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 左上図は最近の東京の感染者状況です。実行再生産数は1.4。感染爆発というだけでは追いつかないほどの拡大ぶりです。右表は一週間単位の感染者数の推移です。このところ、五千人超で頭打ちのような状態ですが、たぶん、検査不能状態にあるのだと推定しています。検査数が一万検体前後で頭打ちじゃないかと推定しています。仮に一万として感染率は五割。あり得ない数値です。これを十倍して、十万検体を調べて、陽性者数が五千であれば、ようやく「感染率は5%」になります。検査しないということは、感染が野放しであるということを意味しています。これで、多くの都民が出歩くのだから、ぼくには気が知れないのです。「自粛疲れ」とか何とか、甘えですね。自分の命は自分で守れ、そのための知恵というか、工夫を絞り出すよりほかに方途がないでしょう。

 特定の日の感染者数や感染率を割り出すことは相当に難しいので(できなくはないのだが、行政はサボっています)、一週間単位で扱っています。それにしても感染率は三割です。多分、検査されていない感染者はどこでも溢れているのであって、よくも出歩けるなあというのが、小心者のぼくの感想です。感染しても死なないと言いますが、場合によって重篤な後遺症が残るし、予測できない症状が現れる蓋然性が認められているのです。自分は大丈夫でも他人に感染する危険性は排除できない。ここにも、自分さえよければという、阿保みたいな利己主義が顔を出しています。検査と隔離、それを徹底するための感染拡大防止です。「自粛」が五年も続くのかしら、続けたいのかしら。

 医療崩壊などといわれています、ホントにそうか。ぼくは疑っている。国立や公立の多くの病院がほとんど感染者を受け入れていないことは明らかで、私立や地域の開業医にのみ責任を負わせているきらいが見て取れます。以下の記事にある二つの「機構」の現状を調べているが、実に巧妙というか、汚い手を使って実態を隠しています。要するに、「牙城は揺るぎもしない、コロナなんかでは」、そんなふてぶてしい姿勢がアカラサマです。そんなもの(コロナ患者)を見る暇も興味もないと言わぬばかりの悪辣ぶりです。

 すべてが、厚労省の医系技官が目論んでいる策略通りです。感染症のイロハは、検査と隔離。それに尽きるのに、両方を見捨てているという、首尾一貫した「非道」の振舞いです。尾身さんとかいうタヌキ(鼠という説あり)(彼もその一派です)は、この感染病の始末をどう考えているのか。誠に残念ですが、この島社会は「終わったね」という実感が、ぼくには強い。だから「終わったところから、始めよう」という気になるのです。そのためにも、仆れるわけにはいきません。これは政治でも何でもありません。自分の命を自分で守るための生活に過ぎないのです。あえていえば「人権」問題でしょうが、そんな高尚な言葉はいらない。「いのち」を粗末にしたくない、粗末にしない、誰の物であっても。ここからすべてが始まるのです。

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 新型コロナウィルスの感染が再び急拡大し、入院ができずに自宅療養を求められる患者が増えている。急に酸素吸入が必要な状態になっても救急搬送先を見つけるのが難しいケースもあり、命の危険と隣り合わせの状態だ。コロナ患者用のベッドの不足は民間病院の受け入れが進んでいないせい、ともされるが、国が管轄する病院の受け入れも低調で、その役割が問われている。

 厚労省が管轄する「国立病院機構」(NHO)は、旧国立病院が独立行政法人化した組織で、全国に140病院を持つ日本屈指の病院グループだ。同じく、厚労省管轄の「地域医療機能推進機構」(JCHO)は旧社会保険病院、旧厚生年金病院、旧船員保険病院の三つの病院グループを統合した独立行政法人で、理事長は政府対策分科会の会長を務める尾身茂氏だ。

 両機構のコロナ患者の受け入れ状況をまとめた内部資料を記者は入手した。それによると、NHO系列の病院は計約3万9千床(4月現在)あるが、コロナ病床がある病院は95で計1854床。全体の4.8%だ。/ JCHOは全国57病院の計約1万4千床(同)を持つが、コロナ病床は43病院の計816床。5.7%にとどまっている。実際の受け入れ患者数は8月6日時点でNHOが695人(1.8%)、JCHOが345人(2.4%)と、なぜもっと受け入れられないのかと疑問に思う水準だ。

 東京都の直近の状況を見てみよう。新規感染者が過去最高を記録し続けている危機的な状況で、18日現在でみると、コロナ療養中の約4万人のうち、入院できているのは1割に満たない約3800人。そのほかは、1万2千人余が「入院・療養等調整中」で、自宅療養が2万2千人余。自宅療養中に死亡する例も目立ち、患者が抱いているだろう心細い気持ちは決して人ごとではない。/ その東京都内で、両機構の受け入れ状況はこうだ。NHOは3病院の1541床のうち、確保病床は128床(8.3%)、JCHOは5病院1455床のうち、158床(10.9%)にとどまっている。(以下略)(朝日新聞・2021/08/19)

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 読み間違いだとか言って「訂正」が入りましたが、それは「嘘・偽り」であって、この自動読み手(ソーリ)は、「本音を正直に」言ったに過ぎない。あるいは言わされたに過ぎません。これまでの言動を見ていれば一目瞭然です。この人間に人民を救いたいとか救ってやろうという「政治家の本領」「惻隠の情」などという動物に固有の感情は、爪先の垢ほどもない。自力呼吸が出来なくなるまで「自助」だと、これは紛れもない、正真正銘の「狂気(insanity)」ですよ。一気に消えてほしいねえ。

 蛇足 このところ、あらゆるところから「医療崩壊」という汚い蛮声合唱が聞こえてきます。たしかに報道される医療現場は「目いっぱい」「手いっぱい」という状況でしょう。でも、果してそれ以外も、つまり劣島全体が「医療崩壊」に陥っているのか。ぼくは田舎に住んでいますから、都会と同列には断じられないでしょうが、崩壊している部分もあるけど、正常に機能している医療機関も圧倒的に多い。通常の診察や医療行為をしている医者が圧倒的です。搬送されない、入院拒否というニュースばかりが飛び込んできます。でも、とぼくは疑う。現在の医療現場は、ぼくの見立てでは「教育現場(学校)」とよく似ていると言いたいですね。異常事態が生じているところもあれば、のんびりとゆとりをもって教育を謳歌している学校(それは数えるほどもない、少数です)もある。それが日常なんです。「戦時」と平時」といわれますが、それこそが、ぼくたちの日常なんじゃないですか。

 ある時期になると、都心などでカルガモの親子が道路を横切ろうとしているのが話題になります。そこへ、優しそうな面持ちの警官が出て来るし、車も停車して、無事渡り終えるのを、多くの人間たちが「あどけない顔をして」眺めている。時には「拍手」さえ出る、そんな場面を何度も目にしました。なんという気高さか。あほくさいネ。ぼくは言いたい、カルガモ親子に対して見せるだけの「微笑み」を、どうして人間仲間に示せないんですか。カルガモ以下の扱いですよ。情けないし、恥ずかしい。(これは動物愛護ですか。人間虐待の裏がえしではないですか)せめて「カルガモの命並みに」人間の命を大切にしたい、してほしい。ささやかだけれど、ぼくの切実な願いでもあります。

 問題は「不登校」あるいは「登校拒否」、さらには「いじめ」をどのように定義(把握)するかということです。伸ばしもできれば、縮めることもできるアコーディオンの蛇腹みたいで、何処を見るかによって、「いじめ」もあれば「不登校」もあるし、それを含めて学校だというとらえ方が欠けているんじゃないですか。こんなことを言えば、不謹慎とくるから、いじめも不登校も「深刻」になるばかりなんだな。問題が起こったら、机を並べて、カメラの前で「責任者づら」が頭を下げ、それで一件落着ですか、ということです。(*ちょっと休憩、ここでかみさんが買い物に出るというので「アッシー」です。暫時中断します。帰ってから、再開予定)(*約四十分経ちました。少しばかり気分を変えて、手を入れてみました。ほとんど代り映えはしない。問題が問題だからなあ。ただいま午後四時数分前。以下に追加分を)

 医療崩壊が叫ばれる背景や理由は何でしょうか。救える命が救えなくなるとも言われます。果たしてそうか。救える命があることはその通りでも、その命を救う意思があるのか、それをぼくは問いたい。医療崩壊だから、自宅で亡くなっても責任を問われぬ、あるいは問われても仕方がなかったで済まされる、きっとその程度のいい加減な態度で、たかをくくっているんじゃないでしょうか。これは現場の問題ではない。現下の状況に最も大きな権限と責任を有している者たちの卑怯な態度こそ非難され、追及されるべきでしょう。医療従事者の渾身の救命活動や医療行為を疑うものではありません。そのほかに、まだ医療には余力があるのではないですか。

 確保されたベッドが満床になったから医療崩壊なのか。政治家や行政側の責任逃れのためでしかない、医療崩壊の合唱だと、ぼくはどうしても考えてしまう。はっきり言って、サボタージュです。救いたくない命を放置・放棄した。いつでも、危機的状況が生じた際に見られた「棄民政策」が闊歩するさま、それがまさにいまも罷り通っているのです。臨時の露営病院を作ろうとするなら、いくらでも可能でした。それをしなかった。「無駄な金(であるはずがない)」を使いたくなかっただけだと思います。「五輪」で三兆円余の税金をぶち込み、延べ人数で約七千人の医療従事者を現場から引きはがしてまでしながら、それを開催した理由は何だったか。「金も人も」目いっぱい投入しても、それを惜しく思わないのは、そこからの見返りが確実に得られたからです。医療は崩壊なんかしていない。偉いさんが熱を出して検査入院だという。いくらでもとは言わないが、病床(ベッド)はあるところにはあるんですよ。都は6千床余を確保しているという。しかし埋まっているベッド数は4千にも至っていません。入院する者の選別、それこそが「トリアージ(triage)」、命の選別です。

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 感染拡大を最優先にしながら(俺は仆れるぞ)

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 【水や空】全域で緊急事態宣言 とりわけ印象に残ったのは「密です、密」。ステイホーム(家にいよう)に東京アラート(警告)と横文字が多い。東京都の小池百合子知事の新型コロナにまつわる“語録”は、やけに目立っている▲漢字8文字を用いて「難局を乗り越えよう」と訴えたこともある。「感染爆発 重大局面」。昨年3月下旬の会見でそう繰り返した▲このままでは感染が爆発的に広がる、という深刻な呼び掛けだったが、この時の都内の1日の感染者数は41人。今では都内でその百倍を超え、多くの都道府県で「爆発的な感染拡大」という極めて厳しい局面にある▲長崎県もまた「爆発的」となり、きのう初めて県内全域に県独自の緊急事態宣言が発せられた。県外との行き来や飲食での感染が多く、若い人が感染する割合が増えている▲会見で中村法道知事は「いろいろな要請をしてきた経緯もあり、ご協力を頂きにくい状況になりつつある」と述べた。あれこれ自粛をお願いしてきたが、届かなくなってきた、と▲何かを大きく変えるのではない。いつもは共に生活していない人と触れ合う場を、なるべく減らしてゼロに近づける。私たちにできること、必要なことは少しの心掛け、少しの行動の変化に尽きる。地方に及んだ「感染爆発 重大局面」に皆が「少し」を持ち寄りたい。(徹)(長崎新聞・2021/08/20)

 【水や空】相変わらず〈週4回出掛けていた買い物を週2に、5人の会合を2人にできれば、接触機会を半分にできる〉-政府が緊急事態宣言のエリア拡大を決めた一昨日、新型コロナ対策分科会の尾身茂会長が記者の囲み取材でこんなふうに訴えたそうだ▲コロナの流行が本格化して「新しい生活様式」が提唱され始めた昨年の春ごろ、こんな話をよく聞いた気がする。だから、目新しさはない。「既に実践済み」の人も多かろう。ただし、とても具体的で分かりやすい▲第5波の猛威が止まらない中、自身の行動を再点検してみるための物差しにはなりそうなメッセージである。ただ思う。言葉で人々を動かしたり、逆に動きを止めたり、もう何回も何回も書いたが、本来それは政治の仕事だ▲同じ日の首相の会見。どこを見ながら誰に話しているのか分からない、力のこもらない話しぶりは相変わらずだ。何かを変えたい、と本気で考えているのだろうか、あれで▲もう演説の巧拙ではなく、実は総理大臣としての“向き不向き”の問題なのではないかとさえ感じる。すっかり自信を失って見えるのは気のせいか。カラ元気も元気のうち…そんな言葉を思い出した▲雨が続く。迫力も覚悟も感じられない政府の対策よりも感染防止には効果的か、と複雑な気分で雨雲を見上げてみる。(智)(長崎新聞・2021/08/19)

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 大変に珍しいことですが、一年半、駄文の粗製乱造を継続してきて、初めて同じコラム(二日分)を使うことになりました。これはあくまでもぼくの好みの問題であって、他意はありません。また雑文や駄文の切り口に「コラム」を使うのも、要するにぼくの手抜きのせいです。高尚な学理や高等論文はまったく性に合わないし、文学趣味も薄っぺらなものですから、他人様にお読みいただけるような代物(家電ではありません)ではないのが、残念です。各紙のコラムは、いわば「マクラ・まくら・枕」のようなもの、まくらの振り方次第で、駄文雑文はどこにでも飛んでいくのです。行方不明になる。計画性は皆無だし、校正は一切やりません。流行作家並みに「書き下ろし」の、ぶっつけ本番というのも烏滸(おこ)がましいのですが、なにこれは「自主トレ」なのだからというわけで、なにかと勝手次第でやり放題を通しています。

 多くの方にお読みいただくようなものが書けないのは、身の丈に合った能力のしからしむるところです。一人でも二人でもお目を通してくださるだけで、書き手であるぼくは望外と喜ぶのです。肝心なのは「自主トレ」の質と量ですね。両方ともなかなか底が上がらないのは、小生の活力そのものが切れかかっているからでしょうか。ともかく、始めた動機(動悸)は、記憶力(ぼくにあるとして)の下落防止、その一点です。ここまで来て、トレーニングの効果はあったか、ぼくの自己判定では著しく不調、救いがたいほどの乱調です。理由はわかっています。扱う素材が悪いこと、これが最大の原因というか、理由です。ホントか?

 本来、政治ネタは好きではありません。社会問題と一括りにすれば、何でも入りますから、時には政治や政治家に触れる程度と、当初は予測していたのですが、暗に相違して、書けば政治家罵倒みたいなことになるのは、まことに不本意です。花鳥風月、猪鹿蝶々・山紫水明、行雲流水、空即是色などというわけのわからない呪文を唱えていたいのです。しかし、その呪文の効力も、近年頓(とみ)に不調・乱調、唱える甲斐もないというほどに悲惨なことに成り下がっています。だから、つまらない文章になるのだというのは、意味不明の弁解のようで、愚愚愚昧千万。

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 この島全体を一つの「学校」に準(なぞら)えてみます。大小交えて47クラス。まるで赤穂義士の数のようです。建前は民主主義ですから、選挙権は平等が原則。しかし、やたらに大きいクラスが偉そうにしているし、害悪を垂れ流す張本人でもあります。それぞれのクラス担任も所属教員も校医も保健師もいます。出来のいいもの悪いもの、それぞれが自前で選んだことになっていますから、出来の悪い担任を辞めさせるのも簡単ではありません。

 だらだらと無意味なことを言っていても仕方がありません。要するに、この島の学校は学級崩壊ではなく、学校崩壊を起しているのです。校長は、気もそぞろで、もう仆れる寸前だし、各クラスの中には、校長の後釜を狙おうなどという不届き者もいる始末。クラスの生徒たちは、そんな担任からみれば、邪魔なだけで、少しも言うことを聞かない。面倒をかけるばかりと悪しざまに罵しられているような状態です。一番大きなクラス担任は、一時は「女帝」とか「女王」などという珍奇な称号を贈られていましたが、最近はほとんどクラス経営にやる気を失っています。この担任も、仆れる寸前という噂が飛び交っています。

 学校の経営者はだれか、これがよくわからない。おれだ、私だと、有象無象が名乗りを上げるのですが、じつは学校崩壊を防ぐ手立てを考えているのかと思いきや、校長の跡目争いに、徒党を組んで参加しているだけという調子です。悪いことに、感染病が流行っている最中に、大運動会を開く開かないで揉めていたのです。しかし「私は主催者ではありません」ととぼけた口をきいていた現校長が「とにかく開くんだ」と、押切り、その始末のめどさえ立っていません。この運動会に全国民から集めた税金をぶち込んだのです。今判明している分だけで三兆円余。

 学校崩壊を防ぐ方法はただ一つ、学校をなくすこと、そうです、「蔓延防止措置」ではなく「学校廃校措置」をとることです。校長は首(馘首≠ギロチン)、担任はクラスごとに選挙(状況が少し落ち着いてから)。学校を取り巻いて、上げ足ばかりをとっていた学校周辺者(いわゆる官僚や政府周辺者たち)は総て解雇(希望者は各地区の学校に転校・編入)要するに、大きな政府も議員たちも官庁連もいらない、各地域に根差した行政が機能すればいい。タリバンのようになるのは望みませんが、かといって中国みたいに「中央集権」も御免被ります。地方分権でも地方主権でも、名称は何でもいい。D通だのPA✖✖Aだのという、税金をかすめ取る盗人のような企業が仕事にありつけないような、当たり前の経済社会をつくる第一歩を踏み出す時期じゃないですか。

 日本全体が一つの学校だったのを、各地域が一つの学校になるような仕組みを作り出す。今のままで十分に可能です。政府や官僚が崩壊しているのですから。自給自足・自前主義を立て、さらに他地域と協力しながら、必要な手当てを眼に見える形において遂行する、そんな普段着のままでできる政治風土を育てたいですね。地域同士が「結い」を育てること(地域合併)も可能にする。それが出来なければ、将来は見えてきません。そこでは、一人一人の住民は、納税者として地域政治に参画する権利と義務を持つのです。ここにきて、ようやく「江戸幕府」が終焉を迎えたということです。もう一度、「(明治)維新」をやり直す(「大阪維新」とか「日本維新」とかいうのは、金輪際ごめんだ)。今日までの百五十年の「まちがい」を踏まえれば、なにか新しい社会、小さな社会が作れるのではないでしょうか。人口二十万くらいの集団社会なら、もう少しましな行政が可能でしょう。山片蟠桃の「夢の代」は、装いを新たに、どこかに存在しているような気がします。(詳しいことは別の機会に)

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