
八つに成りし年、父に問ひて云はく、「仏は如何(いか)なる物にか候ふらん」と言ふ。父が云はく、「仏には人の成りたるなり」と。また、問ふ、「人は何として仏には成り候ふやらん」と。父、また、「仏の教へに因りて、成るなり」と答ふ。また、問ふ、「教へ候ひける仏をば、何が教え候ひける」と。また、答ふ、「それもまた、先の仏の教へに因りて、成り給ふなり」と。また、問ふ、「その教へ始め候ひける第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」と言ふ時、父、「空よりや降りけん、土よりや湧きけん」と言ひて、笑ふ。「問ひ詰められて、え答へず成り侍りつ」と、諸人(しょにん)に語りて、興じき。(「徒然草」第二百四十三段)(島内・既出)
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「徒然草」一巻の最終章。兼好さんと父親の「仏問答」です。父・卜部兼顕は治部少輔という下級神祇官でした。履歴はよくわからない。事情は兼好さんも同様で、生没年も、ほぼ不明に近い。弘安六年(1283年?)~観応三年(1352年?)。兼好は、おそらく三十前には「出家」していたとみられます。その理由は分かりません。若いころの宮廷人、歌人としての体験を背景にして、長く「思索と読書」にあけくれた、その集積が「徒然草」一巻にまとめられた。五十歳ころの完成でした。なお、その後二十年ほども生きたのでした。

最終章で「父親との思い出」を書き残したのはなぜだったか。確たる理由はなく、あるいは章段の配置の偶然であったかもしれません。ぼくに興味があるのは、この親子、なかなか「イケてる」という感じが読み取れることです。父親も、相当の「親ばかぶり」を発揮しているともとれます。今なら、小学校三年生の頃、「仏って、どんなものなんですか」と聞いたことがあった。父は答えた。「仏とは、人が成るのだ」と。「人はどのようにして、仏になるのでしょう」と、再び尋ねると、「仏の教えによって、成るんだよ」と父が答えた。
三度目に、また聞いた。「教えられた仏に、だれが教えたのですか」と。父はまた、答えました。「それもまた、その前の仏が教えたので、だから仏になったのだ」と。四度目に聞いた。(兼好は、小さいころから執拗だったんだ。「理屈」が立っていたともいえる)「その教へ始め候ひける第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」すると父は、「空よりや降りけん、土よりや湧きけん」といって破顔一笑した。参ったなあ!という図です。(「お主、くどいぞ」とは言わなかった。「なかなか、見込みがあるな」と思ったかもしれません)

「問ひ詰められて、え答へず成り侍りつ」と、あちこちの人に語って、面白がっていた。「倅(せがれ)に問い詰められて、音を上げたよ」と、いかにも自慢げに語っていたと、述懐するのは兼好自身です。この段で、兼好が語っているのは、遥かの昔、父親とのある日の「成仏問答」でありました。仏にはだれがなるのか。 誰でもなれるのか。仏の教えを守った(仏が教えた)人間が「成仏」するのだと言ったが、息子は「では、その(仏になるように人間に教えた)仏になったものには、誰が教えたか」と追及する。人間が仏になるのは、仏が教えたからだとすると、一番最初に「仏になるように教えた」、その「仏」は何者かと。問い詰められて、「頼もしい息子」だという父親、いかにも子煩悩な父の顔が見える。(右は兼好所縁の双ヶ岡長泉寺)
ここで「仏説阿弥陀経」を諳んじようとする兼好はいない。出家したのは僧侶になるためだったでしょうが、父親との思い出を語る彼には、自身の仏心を、父親が嘲笑したり、阻害するどころか、さらに関心を持たせようとするばかりの親心に、兼好自身がそこはかとない懐かしさを覚えていたという、ただそれだけの「親子物語」の一節だったと、ぼくは読むのです。(ちなみに、母親にも彼は言及していますが、極めてまれにです、残された一首。母の一周忌に際して詠む)

兼好法師が母身まかりける一めぐりの法事の日、ささげ物にそへて申し 前大納言為定 つかはし侍りし 別れにし秋は程なくめぐりきて時しもあれとさぞしたふらん (二二六一)
兼好法師 返し
めぐりあふ秋こそいとどかなしけれあるをみしよは遠ざかりつつ (二二六二) (新千載集・哀傷歌)
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● じょうぶつ【成仏】=仏(ほとけ)になること,〈さとり〉を開くこと。仏教の開祖釈迦(しやか)は,ブッダガヤーの菩提樹の下の金剛宝座で明の明星を見て仏陀(ぶつだ)Buddha,すなわち覚(さと)れるものとなった。〈さとり〉をさまたげる煩悩(ぼんのう)から解き放たれる意味で解脱(げだつ)といい,仏(覚れるもの)と成るという意味で成仏という。釈迦が入滅した後,仏弟子たちは成仏を求めて禅定(ぜんじよう)や止観(しかん)とよぶ宗教的瞑想につとめた。(世界大百科事典 第2版)
● よしだ‐けんこう【吉田兼好】=鎌倉後期から南北朝時代の歌人。俗名は卜部兼好(かねよし)。二条派。堀河具守の家司(けいし)となり、宮廷に出仕して蔵人・左兵衛佐に至ったが、のち出家。随筆「徒然草」に、その哲学的・宗教的人生観を展開する。二条家の藤原為世の弟子として、和歌四天王の一人と称せられ、「兼好自撰家集」がある。弘安六頃~観応三年以後(一二八三頃‐一三五二以後)(精選版 日本国語大辞典)
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(参考までに)【人の亡き後ばかり、悲しきは無し。/ 中陰のほど、山里などに移ろひて、便(びん)悪しく狭(せば)き所に、数多(あまた)会ひ居て、後の業ども営み合へる、心慌ただし。日数の速く過ぐる程ぞ、物にも似ぬ。果ての日は、いと情無う、互ひに言ふ事も無く、我賢げに物引き認(したた)め、散り散りに行き分(あ)かれぬ。基の住み処に帰りてぞ、更に悲しき事は多かるべき。「然々(しかしか)事は、あな、かしこ、後の為、忌むなる事ぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心は、猶、うたて覚ゆれ。
年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、「去る者は日々に疎し」と言へる事なれば、然は言へど、その際(きわ)ばかりは覚えぬにや、由無しごと言ひて、打ちも笑ひぬ。骸(から)は、気疎(うと)き山の中にを納めて、然るべき日ばかり、詣でつつ見れば、程無く、卒塔婆も苔生(む)し、木葉(このは)降り埋(うづ)みて、夕の嵐、夜の月のみぞ、言問(ことと)ふ縁(よすが)なりける。

思ひ出でて偲ぶ人有らん程こそ有らめ、そも、また、程無く失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、哀れとやは思ふ。然るは、跡訪(と)ふ業も絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心有らん人は哀れと見るべきを、果ては、嵐に咽(むせ)びし松も、千年(ちとせ)を待たで薪(たきぎ)に摧(くだ)かれ、古き墳(つか)は犂(す)かれて田と成りぬ。その形だに、無くなりぬるぞ、悲しき。】(「徒然草」第三十段)(左は、兼好所縁の「仁和寺」京都市右京区御室)
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余話ながら 本日で八月が終わります。何事もなく、と言いたいところですが、あまりにも多事多端だったというほかない、いかにもあわただしい「葉月」「葉落ち月」ではありました。九月もまた、多事多難であると想定(恐怖心を抱か)されます。陰暦で九月は「長月」とされます。もちろん、「秋の夜長を啼き通す」という時の「夜長月」の略称でもある。年々歳々、人も世も変わります。「月の満ち欠け」「日の出日の入り」は不易である習いですから、なおさらに「人事万般」の有為転変に驚嘆するばかりであります。

「陰暦9月の異称。語源は明らかではないが、中古以来、夜がようやく長くなる月の意の夜長月の略称といわれてきた。稲熟(いなあがり)月、稲刈(いなかり)月、穂長月などが変化したものとする説もあり、近時では、9月は5月と並ぶ長雨の時季で「ながめ」とよぶ物忌みの月だからとする折口信夫(おりくちしのぶ)の見解もある。この月は菊の花の盛りにあたるため菊月ともいい、また紅葉の季でもあるため紅葉(もみじ)月、木染(きぞめ)月などの称もあるほか、漢名では季秋、無射(ぶえき)、玄月(げんげつ)などともいう」(ニッポニカ)
時(月日)が行き過ぎるとともに、「時代」に生きるぼくたちの「精神の貧相」が隠すべくもなく顕在化してきます。その際、ある種「精神の危機」に処するに、ぼくは「歴史を(に)学ぶ」ということを繰り返してきました。「九月は長月」、そんなことをいって何の意味があるのじゃ、と非難する人が多いことは先刻承知だし、それに関わり合っている遑(いとま)もありません。たとえば、兼好さんの時代に豊かだったもので、ぼくたちの時代に失われたものは何だったか、七百年という時間を考えるための、いささかの一助ではあります。こんなことに気を取られるだけでも、自らの心持ちの貧しさに思いが及ぶのです。人間のこころざし、あるいは誠実さというものは、時世時節に左右されることがあっていいものだとは思わない、そんなことを、往時の兼好さんたちの残された文章を読んで、今このひと時に、痛感するのです。
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「晦日と朔日」のあわいに、たったひとりで「雑談」「雑念」を楽しもうとしているのです。
・長月の空色袷きたりけり (小林一茶)
・長き夜や千年の後を考へる (正岡子規)
・長月の空に亡びん国人あり (長谷川かな女)
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