想像されたものの正しい大きさの感覚

 ことばは道具であり、道具以上のものです

  わたしたちは「ことば(言葉)」というものをどのようにとらえようとしているのか。「ことば」は覚えて使えればそれでいい、それはまるで道具みたいなものだと考えていませんか。木を切るにはノコギリが、板を削るにはカンナが便利な道具であるように、なにかをだれかに伝えたいときに使う便利な道具(ツール)が「ことば」だととらえているのではないでしょうか。そのような意味合いがあるのはたしかですが、それだけではないように思われます。ノコギリがあれば、なんだって切れるというものではないでしょう。カンナでも、同じことが言えます。ことばには、一面では道具性もあります。しかし、他面では、ことばを尽くしても語り得ない(表現できない)物事もあるのです。道具としてのことばが有効ではない、しかし、それに代わるものがないなら、その「ことば」で語り尽くそうとするほかないのです。ことばの持つ「限界」であり、同時に、ことばの示す「不思議」でもあります。

 どんな事柄も「ことば」で表現できるというのは正しくない。道具としてのことばはけっして万能ではないのです。なにかと言葉を尽くしても、それを表現できない事柄がある。ありすぎるくらいあるというのが正確ではないでしょうか。しばしば「筆舌に尽くしがたい」という。では、ことばで表現できないと、どうするか。事物で表す、絵などを描いて示す、それも一方法です。でも、それでも、「自分のいいたいこと」が伝えられ(伝わら)ない場合であっても、どうしても伝えたいとき、ついには「物理的力(暴力)」を使うことになるかもしれない。たいていの「事件」は「ことばを失った」から生み出されるのです。

 一例を挙げてみます。よく使われる「歴史」ということばについて考えてみてください。「これが歴史だ」と指でさすことも手で触れることもできない。「自動車」なら簡単です。実物があるからです。目で見、手で触れることができる。反対に、目に見えないけれど、たしかにある、しかもだれにも共通する「歴史」という感覚でとらえようとしたり、観念で理解しようとすることはあります。そんな場合、往々にしてこちらの意図が相手に伝わらないことがしばしば起こります。単なることばでは伝えきれない、でもなんとかそれを表現しようとする、その時には、やはりぼくたちは、誰もが使う「歴史」という言葉で表現される内容を伝えようとする。ぼくたちの、「伝えようとする働き」は、ことばによってのみ支えられているのです。「のどまで出かかっているんだけど、上手く言い表わせない」という経験は、いつだってぼくたちに生じています。

 「人権」ということばは、だれでも読み書きできる(ようになる)、でもそれが何であるかは容易に語りがたい。または、自分では「人権」だと考えている内容が、相手にはまったく「人権」として通じない、こんなこともよく見られます。そもそも、「人権問題」と称されるものは、そのような通じ合わない状況下で起こるのです。伝えがたい内容を言い表すことが可能になるには、自分が実地に積んだ経験が必要です。「経験をことばにする」、あるいは、「ことばを経験する」といってもいいでしょう。恐ろしいことですが、そのような、めいめいの「経験・実地体験」がいちじるしく欠如しているのが「情報化」といわれる、いまの時代です。(読み書きができるという程度に)知っているだけのことばが多くなると、自分を表現するためのことばはたえず失われてしまい、それに気づかない事態に陥ってしまう。読み書きできることばはふえても、自分の感情や「観念」をつたえることばに不自由するという、逆説に見舞われる。ことばから逆襲されるのです。

 《 言葉というのは、どこかに転がっているのではなくて、いつのときも心の秤(はかり)に載っています。秤はバランスでできているので、こちら側に言葉を載せると、反対側におなじ重さをもつ何かを載せなければならない。秤の反対側に載っているのは、経験です。/ 経験というのは、かならず言葉を求めます。経験したというだけでは、経験はまだ経験にはならない。経験を言葉にして、はじめてそれは言葉をもつ経験になる。経験したかどうかでなく、経験したことも、経験しなかったことさえも、自分の言葉にできれば、自分のなかにのこる。逆に言えば、言葉にできない経験はのこらないのです。/ その言葉によって、自分で自分を確かめ、確かにしてゆく言葉。経験を言い表すことができる、あるいはとどめることができるのが言葉ですが、言葉にするというのは、問いに対して、正しい答を出すということとは違い、正しい答をこしらえるということではなくて、自分について自分で、よい問いをつくるということです。正しく問いを受けとめないで、正しい答を探すから、わたしたちは過つのです

 言葉と経験を載せている心の秤が、感受力です。感受力というのは、だれかに教えられて育つというものではなくて、自分で、自分の心の器に水をやってしか育たない。そういうものです。しかし、自分で自分というものを確かめてゆく方法でしか、確かにしてゆくことができないとすれば、どうすればいいか 》(長田弘「今、求められること」「読書からはじまる」所収、NHK出版刊、2001年)

 いまの時代や社会は「一面においては豊かであり、他面では貧しい」といわれます。物はあふれているし、金さえあれば、いつでもほしい物を手に入れられる。でも、実態はどうか。物質的には恵まれながら、どこか満ち足りない気分に襲われている人は少なくなさそうです。それは「豊かだとおもいこんでいるが、じつは貧しい」であり、「物は豊かでも、こころは貧しい」であり、「豊かであるということが、実は貧しいのだ」ということでもあるでしょう。「物足りなさ」「満ち足りない感情」に、ぼくたちは支配されていないかどうか。何不自由しないというのは、「物」について言えることではあっても、ぼくたちの心理や感情について言えることではないのです。その心理や感情の示そうとする内容を表現するには、どうしてもことばが必要です。ことばを追求する、あるいはことばで説明することができないと、どうなるか。「カッとなって」という激情に襲われてしまうことがしばしばです。ことばを持たない代わりに、激情が自己表現の手段となるのです。

 ことばに対する学校教育の状況は、まさしくそのように不安定な様相を示していないでしょうか。ことばはまわりに氾濫しているにもかかわらず、たしかなことばをつかう場面は極度に少なくなっていると思われるからです。夏目漱石も、源頼朝も、カントやヘーゲルということばでさえも知っています。でもそれが何を表わしているか、ぼくたちはほとんど無知で過ごしてきました。もっといえば、漱石や頼朝いう「名前」を覚えることが求められたのであって、その「内容(歴史)」を学ぶことは求められなかった。これが学校教育の実態ではなかったか。「名前」には歴史があるのですが、それを排除した名辞は、単なる「記号」です。歴石貫の「事実」は、単なる単語の羅列に過ぎません。

 いずれにしても、ことばは育てなければ豊かにならない。育てるのは「自分(わたし)」です。自分でことばの種を播いて、自分でそれを育てる。「教育」が関与するのは、そのような感受性の問題でもあるのです。

 《今日の日本は、識字率はずばぬけています。それはきわめて喜ばしいことですが、反面、ことばに対して、どれほど手前勝手にふるまっても、わたしたちはみずからあやしもうとはしないでいます。/ しかし、実のところ、識字率はずばぬけていても、わたしたちのもつ語彙、ヴォキャブラリィーはずいぶん落ちてきている。そして、日本語が突慳貪(つっけんどん)になってきている。くわえて国際化に伴って、カタカナでしか言えないことばが、わたしたちの語彙(ごい)、ヴォキャブラリィーにたくさん入りこんできています。仕方がないのかもしれませんが、ことばのもたらすイメージの喚起力が、そのぶんどうしても弱まってきていることも事実です》(長田弘『すべてきみに宛てた手紙』晶文社刊。2001年)

  長田さんのいわれるのは、つぎのようなことです。

(1)「ことば」というのはたがいに関連しあう意味のまとまりです。

(2)わたしたちは、「ことば」というものを自分の中にある「字引(辞書)」によって理解するのです。

(3)ところが、それぞれがもっている「字引」がだんだん薄くなってきています。

(4)みずからが感じ、考え、思うことを「自分のことば」で相手に伝えることがおどろくほど下手になってしまった。

(5)きょくたんにいえば、「面白い」「つまンない」という二語だけが語彙になっているような状況が生まれている。

 《ことばのすることというのは、結局のところ、名づけるということです。/ ことばをことばたらしめているものは、名づけることであり、また名のることでした。みずからことばのなかにすすみでる、ということです。/ 生まれた子どもがこの世で最初にもらうのは、名。つまるところ、この世の人を、またこの世で人と人をむすぶものは、ことばです。/ そして、人がめいめいちがった自分の名まえをもつように、ことばというのは、多様なものをたがいに認める方法です。ことばがあなどられるところに、人の、人としてのゆたかさはない。わたしはそう思っています》(同上)

 手紙であれレポートであれ、書くことは二人称を作りだす作業だと長田さんはいいます。「話す」も「書く」も、いずれも二人称を相手(想定)にしないと、じゅうぶんに意を通じえない行為です。目の前に相手がいるように、そのように書くというのは、眼前の人にむかって語るのとすこしもちがわないのです。手紙を書く機会がへったのは、書かなくてもいい、手紙以上にメッセージをよく伝える道具が開発されたからだと、ぼくたちは考えますが、事実はその反対です。ほんとうは、ことばの「字引」が薄くなった埋め合わせに、はやりの「道具」(ノコギリの類)が使われだしたのです。それは相手に伝えたい事柄が少なくなってきたことをも示しているのではないでしょうか。

 もっと言えば、「ことばが、たんなる道具に堕したた時代」に、ぼくたちは生きているのです。あちこちで、何度も言いましたが、ぼくは「スマホ(携帯)」という「道具」を所有していません。だから、その道具を使って行う「SNS」「Line」「twitter」などという「言語ゲーム」はまったくしたことがない。「スマホ」という道具を用いて、「ことば」という一種の道具を操る、便利に特化した、ことばの変質状況に、ぼくは遭遇したくないのでしょうね。(まるで、ノコギリでノコギリを切るような奇怪なことを、毎日、多くの人は、精魂込めてしている図が見えます。これが「貧しい」ということの実相ではないですか)

 このような道具の二重構造で生み出されているのは「ディスコミュニケーション」(=交流の切断、断絶)です。ことばを使って、ことばが通じないという不自由を経験しているのではないでしょうか。これが時代状況が表わしている最大の「皮肉」なのかもしれません。「ことばの道具化」を推進する時代の趨勢は、この先にどのような事態をもたらすのでしょうか。ぼくにはよくわかりませんが、「便利」「効率」「迅速」「現実の無化」「仮想現実の実体化」などは、この先もさらに一気呵成に進められていくことだけは確かです。その「時代の暴力」に、ぼくたちはよく拮抗しうるのでしょうか。

 現代人が歩かなくなったのは自動車が普及したからではなく、歩く力を失った(歩く必要を感じなくなった)から自動車が普及したのではないか。このように考えると、人間の備えているさまざまな能力が失われる(奪われる)のは、それを育てようとしないで、車を足代わりに使うように、なにが失われたちからかを当人に意識させないように、代用品がとって代わったからです。からだを動かさなくなるのに歩調を合わせるようにして、人はものを考えなくなる。そんな事態はますます加速しています。

 だとするなら、学校というものもなにかの代用品であることに気がつくはずです。つまり、学校に取りこまれることで失われたものがかならずある、という意味です。なにはともあれ、自分のなかにあるだろう「字引」を分厚くしたい。その「字引」の中にあることばは他の人と同じですが、そのことばについて想いえがくものはちがいます。先にも述べたように、「人権」ということば(漢字)はだれにも共通しているけれども、そのことばについていだくイメージ(感覚・経験)はひとそれぞれです、だからこそ、他者とていねいに「対話」を交わすことが大切なのだと思います。おのれの「字引」のことば(語彙)が貧弱になっても、いたるところで他者と交わることは断ち切れないのですから、貧相なことばの代わりに、暴力がちからをふるうのです。いまの時代の風潮は、寒々とした人間関係の現実の諸相を教えているともいえます。

(下に掲げたものは、すこし古い新聞の記事です。字が「読める」というのはどういうことか、その一例として)

 <週刊漢字>読めますか? 

(1)無辜(2)八海事件(3)布川事件   (後を絶たない冤罪(えんざい)事件)

(1)むこ。罪のないこと。「十人の真犯人を逃すとも一人の無辜を罰するなかれ」という格言が、痴漢冤罪を描いた映画「それでもボクはやってない」の冒頭に出てくる。(2)やかい。山口県の八海地区(現田布施町)で1951年、夫婦が殺害された事件。3度の死刑判決を受けた後に無罪となった男性がこのほど亡くなった。映画「真昼の暗黒」のモデルにもなった。(3)ふかわ。茨城県利根町布川で67年発生した強盗殺害事件。無期懲役が確定していた2人に24日、水戸地裁土浦支部は再審で無罪を言い渡した。この2人に迫ったドキュメンタリー映画「ショージとタカオ」が公開中。【校閲グループ】〈毎日新聞・二〇一一年五月三〇日)

 上に挙げた「三個の漢字」が読める・書けるというのは、どのようなことをいうのでしょうか。

 「八海」と読んだり書けたりするけれども、それがなにを指しているのか(意味・内容)がわからなければ、まことに不自由じゃないでしょうか。「なんだ、地名か」といって、それで終わりなら、じつにかんたんな話です。それでなにがわかったことになるのか。「知らない(無知)」というのは恥ずかしくない。知らないのに、知ろうとしないことが恥ずかしいのだと、いいたいのです。「知る」というのは、自分の愚かさ(無知)を覚ることでもあるのです。ことばには「歴史」が含まれています。だから、ことばを使うと言ったり、ことばを知るといったりするのは、そのことばが含む「歴史」を知ることを意味します。それを抜きにした「ことばおぼえ」は、たんなる記号の暗記にほかならないでしょう。暗記された「記号」の交換で他者と交われないことはありませんが、見るからに不自由を託つことは間違いありません。ことばに潜む、いろいろな側面を知る必要性を痛感します。

 ことばは道具ですが、道具以上のものでもあります。「やさしさ」「誠実」、これをぼくたちはことばで言い表さなければならない。ことばを拒否するようなものでも、明らかにするためには「ことば」は欠かせないのです。「ことば」を拒否するものもまた、「ことば」を求めているのです。「表現の自由」と言われます。いうまでもなく「表現」とは、第一義には「ことば」を用いて居のあるところを表わすことが誰にも認められているという意味でしょう。どんな事柄も、相手の意見(表現)を否定するような「ことば(表現)」でさえも認められなければならないのです。「ことば」は人間社会(集団)の命綱でもあるのです。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)