10人の未来と1人の未来
【天風録】まな娘は、もうこの世にいない。脳裏には姿も鮮やかなのに…。身を引きちぎられる痛みから、「肉親」と呼ぶのかとの思いに駆られる手記である。北海道旭川市で春先、凍死体で見つかった中学生のご母堂が真相を知りたい一心で先ごろ公にした▲読み返すたび、文面をたどる目が思わず止まる一節がある。「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか」。いじめの果ての悲劇と疑われ、居直った教頭の言い草▲この国の、それも教育者たる人の言葉だろうか。あろうことか、二の矢で「どっちが将来の日本のためになりますか」とも。後ろ暗いのか、暴かれたやりとりを学校側が打ち消す動きは見られない▲断ち切られた命の重みに、まず向き合わぬ神経がどうにも解せない。人ごと感は拭えず、高をくくっている節さえある。凍死問題の行方は、いまや列島中の耳目を集めている。人々は学校教育の未来も危ぶんでいよう▲いじめなどで学校をはかなむ子どもにとって、夏休み明けは戦々恐々の時期だという。NPO法人の全国不登校新聞社も緊急アピールで警鐘を鳴らす。心の重しはコロナ禍で増している。子どもという「未来」が危うい。(中國新聞デジタル・2021/8/29)
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部外者であるので、この問題を軽々に判断することはできませんけれど、いつでも起こるいじめ事件と、それをめぐる当局の対応には「判で押したような類型」が認められます。いくつかの新聞や雑誌の記事を参考にして、問題の概要などを把握していただくとして、とにかく「学校といじめ」は密接不離なんですね。起こるべくして起るものでもあるのです。ぼくは拙い経験でしたが、「いじめ問題」に関していろいろな関りを持ってきました。いじめに遭っている当事者や関係者からの相談、あるいは「生徒たちのいじめ問題」の渦中にある教師からのSOSなど。いずれのも場合も、こうすればいいとか、これが解決策なんだという「特効薬」のような方法は先ずなかったし、またある意味では、体当たりでぶつかるほかに策はないという、情けない始末に陥ることがほとんどでした。そんな為体(ていたらく)でしたが、問題を隠そうとしたり、発覚を遅らせるような姑息な態度は、先ず取り得なかった。人間同士の関係は、複雑であり怪奇でもあるケースがほとんどではないでしょうか。なんでもないところに、大きな穴が開くという、信じられないような事態が実はひそかに起っているんですね。
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<ことば>旭川の中2女子死亡問題 今年2月、旭川市の市立中学に通っていた当時中学2年の広瀬爽彩さん(14)が自宅から失踪し、3月に市内の公園で遺体で見つかった。4月、週刊文春の電子版「文春オンライン」が「女子生徒はいじめを受けていた」と報道した。/ 捜査関係者らによると、死因は低体温症で、事件性はないとみられる。広瀬さんは2019年に校外で中学生らとトラブルになり、市内の別の学校に転校したが、市は当初、トラブル発生時に通っていた学校が本人や関係する生徒に聞き取ったものの、いじめは確認できなかったとしていた。/ だが、今年4月27日、市教委が開いた教育委員会の会議で、広瀬さんがいじめで重大な被害を受けた疑いがあるとして「重大事態」に認定された。現在、弁護士や小児科医、臨床心理士で構成する市の第三者委員会が調査している。(北海道新聞・2021/08/19)
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・「「ママ、死にたい」自慰行為強要、わいせつ画像拡散……氷点下の旭川で凍死した14歳女子中学生への“壮絶イジメ”《親族告発》」https://bunshun.jp/articles/-/44766
・「旭川女子中学生凍死事件はなぜ起きたのか「心のホームレス状態」を見逃さないで」(https://dot.asahi.com/dot/2021042400029.html?page=1)
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これまでにしばしば、「いじめをなくすには、どうすればいいか」という質問を受けてきました。ぼくの答えというか反応は、いつも同じ。「学校をなくせばいいではないか」というものでした。訊いた人は呆れかえったり、冗談じゃないと、怒り出す始末。でも、ぼくの言い方はぶっきらぼうというか、あっけないということだったかもしれませんが、間違っているとは思わなかったし、今でもそうです。「学校をなくす」というのは、文字通りに、学校の存在を消すことを意味しますが、それだけではないでしょう。ここで、改めて考えなければいけないのは「学校とは何か」という、当たり前の前提です。生きていく中で、それは必要不可欠の場所かという問題。さらに言えば、学校がある(あった)期間より、それがなかった期間の方がはるかに、比較を絶して長かった。もっと言えば、学校に行って「幸せ」に(結果として)なれたという人は、もちろんいるでしょう。けれどもその反対に、いかなければよかったという苦さを(結果として)味わった人もそれに相当するほどいるのです。
あまりにも陳腐すぎて、誰も「学校とは何だ?」という問題に真剣に取り組もうとはしません。でも、本当に「学校って何ですか」と訊かれて、ぼくたちは、どこまで、この「(楽勝するしかない)質問」に応えられるか。分かっているようで、ほとんどなにも考えていなかったことが明らかになるのがオチですね。よく調べると、誰かに吹きこまれた「学校観」に呪縛されてきたにちがいない。「とにかく行かなければ、ダメ」とか何とかいうのが、大人です。テキトーに誤魔化しているだけではないですか。

いま、学校がしていることを列挙してみる。子どもたちの中で優劣を競わせる。試験の結果で序列をつける。序列に従って分類する。(一方で「友情」「仲間」を強調しながら、「油断するな」あれは敵だ」と言わぬばかりの競争意識を、もう一方で煽ってきたではないですか。今でも、そうでしょ。さらには、誰にでも通用する「規則」を守らせるが、きっとある特定の生徒には規則順守の例外を認める(「特待生扱いと劣等性扱い」)。教師集団にも階級制が認められる。学校そのものは、独自の存在理由を持たないように仕組まれている。教育委員会や議会、あるいは政党などの、外野の圧力を受ける。要するに、学校は「競争と序列」によって支配されているのです。「学校をなくす」とぼくがいうのは、このような顔をした「組織」や「集団」の「顔つき」そのものを変えるということでもあります。
成績評価を何よりも重要視するという「したり顔」を止める。「成績による序列」を根本から改める。学校の独自性や独立性を、自ら獲得するように最大限の工夫をする。その他、いろいろ、さまざま。「当たり前の学校」を「当たり前ではない学校」にすると、どうなりますか。もっとも困るのは、あるいは教師かもしれない。教師が教師の顔を押し通せなくなると、どうなりますか。「教える人」が「難局に直面して、困り切った人」になるのも、一計じゃないでしょうか。ぼくが言いたいのは、優劣を明らかにするためという、人間であることのために不合理でさえある、あらゆる決まり、それを即座に、あるいは徐々に捨てていくことです。「優劣の彼方」に、教師も生徒も手を携えて向かっていく。社会や学校を一変させるのは、不可能です。そうであるなら、自分を変えることです。自分が変わることです。他人よりも点数が高い、そのような順位を争うことのどこに価値がありますか、と自問自答する。人がどのように考えるかは、ここでは問わない。大事なのは自分が変わることですからね。
何時も同じようなことを言います。芸がないというか能がないというか。その通りですから、お許しをいただくほかありません。ぼくは小さいころに、そんなことを理解していたのではなかったが、学校は好きじゃなかった。ここでいう「学校」とは、上に述べたような「当たり前の、したり顔の学校」でした。だから試験も嫌だったし、命令するばかりの教師も嫌いだった。成績を誇らしげにする級友も他人でした。「その程度の事で自分を誤魔化すんじゃないよ」と言ってやりたかったですね。

これもどこかで触れたと思いますが、女優だった沢村貞子さんの逸話に引きつけられたことがあります。彼女が小学生の頃は優等生だった。__ その日もテストで百点を取った。家に帰って「隣りの何ちゃんは、点数が悪くて残されてるんだよ」と、さも得意げに母親に言った。それを聞いていた母親は、「なにを言ってるんだ、この子は。何ちゃんは、お家の手伝いをしっかりするし、何でも自分でしているよ。それなのになんだ、おまえは。ちょっとばかり点数がいいからって、いい気になるんじゃないよ。みっともない」といったそうです。「点数がいい」のを「みっともない」といったのではないでしょう。それを鼻にかけるのが癇に障ったんでしょうね。沢村さんは、この親の批判を生涯忘れなかったと、後年の自伝の中で書かれています。浅草育ちだったから、なおさら気風がよかったんですね、お母さんは。
試験というのは、その子がどこがわかって、どこがわからないかを自分(本人)で知っておくための手当、見当です。それを間違って、自分を偉く見せる道具にするというのは、じつに恥ずかしいですね。ぼくは学校が気安い場所に思われなかったのは、小さいころに、すでに「世の中の価値観に屈する」というか、世の中に受け入れられる姿が、格好良くなかったからでした。世間に自分を委ねるという、その根性が美しくなかったからだった。もちろん、当時はそう思っていたのではない。なんだか、体が動かなかっただけでした。でも長じていくうちに、ああ、こういうことだったんだと納得が行ったのです。
学校の「いじめ」で、ぼくがもっともいやだと思うのは、関係するする大人(第一義では教師たち)の隠しようのない「無責任」さです。それはどこに起因するか。まずは「組織・集団(学校教師・教育行政者集団)」の組織防衛というのでしょうか。防衛本能が働く。でもあからさまにいえば、組織や集団における「自己防衛」「自己保存」本能が働くのです。そうなると、被害者よりは加害者を擁護する、守勢に回るのです。加害者が存在することを認めるというのは、「いじめの実態」を明かすことになるからです。これは学校に限らない。企業でも同じです。会社を守るというのは便宜であって、本音は「自己防衛」です。インパール作戦の指導者の無責任、戦争が敗戦に至った際の無責任。現下の政治的不作為で多数の犠牲者が生まれていることへの「無責任」、これらすべてが同じ「感情」からの「自己保存本能」「自己防衛器官」の働き(機能)によるのもです。これらの人々は、すべて「器械」であって、迷ったり間違ったりする「生きている実感」を持たない存在なんでしょうね。「つまづいたっていいじゃないか、人間だもの」
事件の解明はなによりも必要ですが、この種の事件が起こるたびに「自己防衛器官」が発動するという、人間の本性を、先ずは鍛えなおすというか、育て上げることが求められています。そのためにも、「当たり前の学校」が「当たり前でない学校」に代わるように、学校との付き合い方を改めなければならないでしょう。

「いい学校に入る」という、その「いい」がぼくにはわからない。今は後悔しているのですが、大学に入ったことは間違いだったと思っています。ぼくがは入った大学は「いい学校」じゃなかった。じゃあどうして、と言われそうですね。事前の調査をしていなかったからでした。何にも知らなかった。だから、入ってから分かったが、自分の過ちだと、それは自分で理解していました。教師も学生も「いい」ではなったんですね。おそらく、世間では「ちょっとくらいは、いい」だったかもしれません。でも、ぜんぜん「いい」じゃありませんでした。その「いい」ってなんだ?
成績を上げて(競争に勝って)、「いい会社」や「いい役所」に就職する。さらにもっと「ガンバって」、社長になる、あるいは大臣になる。えっ、その程度が人生の目標なの? 社長になって「悪いことを、堂々としたい。会社の金で飲み食いしたい」「大臣なら、存分に権力振るえる」だってさ。これが人生の目的だとすると、いかにもセコい、セコすぎませんか。ぼくは、このように考えて生きています。もっと美しい目標というか、生き方を探したいね。「困っている人がいたら、先ず助けようとする」、そんな人間にぼくはなりたかった。現代版「宮沢賢治」流ですね。だから、大きな企業やソーリ大臣が悪いこと、恥ずかしいことを(格好いいと、錯覚して)やり放題なのは、実にセコの極地ですね。国家や役所、会社や学校を、自分自身と錯覚しているんですね。「自分が国家」「自分が会社」「自分が学校」、これは怖いことでしょ。こんな連中が大手を振っているような組織に、愛想をつかすことはあってもしがみつくようなことはしない方が大事、命をまっとうするためです。

あまり学校に近づきすぎると「学校の餌食」になると、言い続けてきました。「いじめ」で苦しむ、挙句に自らを追い込んでしまう、残念だけれども、まんまと「学校の餌食」になったと言えるかもしれません。学校の餌食になるために、餌食になるのがわかっていて、それでも学校に行くというのは「自虐」ですよ、ぼくからすれば。学校に通うことが、ある人には大切だというなら、行かないことも、ある人には大事なんですよ。行くほかに余地がないというのは、間違っていますね。「学ぶ」ことは学校でなければできないというのは、「神話」「作り話」だと、ぼくは言いたいんですよ。そ学校とは、つかず離れず、そんなつきあい方を、自分のものにする、あるいはできるといいですよ。これは学校から学んだ、なけなしの「学習」でした。「学校」にはたくさんの物や事がくっついています、あるいは、抱え込んでいる。(「いじめ」をした子も、された子も「学校のもの」でした。教師たちはもちろん、学校の付属物。その他たくさん。そんな学校から距離をとる、つまりは Social Distance ですね)(この旭川の「いじめ」問題については、もう少し取材をして、さらに考えていきたいと願っています)
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学校は、人間を作り変えてしまいます。ごく当たり前に生きている人間が、学校に入ったとたんに「校長」になり「教頭」に作り替えられます。そうなると、もはや、一人の人間としての、真摯な言を忘れてしまう。一人の人間として、自分の足で立とうとする意欲を失ってしまう。学校という人間加工工場の製品になればなるほど、人間性の心持ちから遊離してしまうのです。ついには、その組織の呪縛から逃げられなくなってしまう、その典型のような「教育者=教頭」の、人間性を破壊された存在の「組織防衛言語」「自己保存言語」ではなかったでしょうか。(こころざし半ばで、望洋たる大河の岸辺をたどりながら、死にいたるまでに追いつめられた、前途遼遠たる一人の女性の御霊に、深甚なる追悼の思いを届けたい。山埜)
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「10人の加害者の未来と1人の被害者の未来、どっちが大切ですか」「この国の、それも教育者たる人の言葉だろうか」「どっちが将来の日本のためになりますか」 (人間性を押し殺さざるを得ないと観念してしまった、悲しすぎる組織人の偽りの言辞)
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