教育改革の正体がこれだったんだ、という話

 【滴一滴】「こんな制度、本当にやるんですか?」。導入が決まったとき、岡山県内の学校や教育委員会、大学などの関係者を取材したら、逆に質問された。教員免許の更新制である▼第1次安倍政権が掲げた「教育改革」の一つだった。当時の本紙記事には地元大学の教授のコメントがある。「長い目でみると、教員のなり手が不足し、学校がもたなくなる可能性がある」。予想は的中し、導入から12年で行き詰まった▼更新制は終身制だった教員免許を10年の有期にした。数万円の受講料を自己負担して30時間の講習を受けないと失効してしまう。更新前に早期退職する人が増え、代替教員もなかなか見つからない。何より長時間労働が敬遠され、教員を目指す学生が減っている▼教員の質向上を狙った改革のはずが、必要な数を確保するのも難しくなった。文部科学省が制度廃止の方針を決めたのは、なり手不足がそこまで切実ということだろう▼かつて見たドラマで、官僚が政治家に進言する場面があった。「選挙も近いですから、教育改革を打ち出しましょう」。有権者にとって教育は身近で、政治家もよく口にする。だが、現場の実態を無視して政治が独断専行すれば、混乱だけが残る▼更新制が廃止されても元に戻るだけである。本来の仕事の魅力を取り戻すため、教員の働き方改革が急がれる。(山陽新聞Degital・20211/08/25)

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 教員免許更新制廃止を決定 文科相が表明 教員の負担大きく

文部科学省=東京都千代田区で

 教員免許に10年間の有効期限を設け、更新時に講習の受講を義務づける「教員免許更新制」について、萩生田光一文部科学相は23日、廃止する方針を表明した。中央教育審議会の小委員会がこの日、「発展的解消」という表現で事実上の廃止を求める方向性を示したことを踏まえて決定した。/ 教員免許更新制は、時代の変化に合わせた知識を身につけてもらうことで、教員の資質向上を図ろうと、2009年度に導入された。しかし、現職教員は土日や夏休み期間を使って講習を受けているため負担が大きい▽更新手続きをせずに免許の効力が停止する免許保有者が多く、産休・育休の取得者が出た場合の代替教員をすぐに見つけるのが難しくなった――などの課題が指摘されていた。【大久保昂】 (毎日新聞・2021/8/23)

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 「朝令暮改」という語があります。その言うところは、文科省の政策導入とその廃止の短絡愚行を指すのでしょう。「朝に出した命令を夕方にはもう改めること。方針などが絶えず変わって定まらないこと。朝改暮変」(デジタル大辞泉)表向きは現職教員の「資質」「力量」の向上、無能教員の排除、こんなことを目指して、大童で導入されました。現政権に先立つ十数年にわたる「無能かつ権力嗜好(志向・至高)政治家」たちの努力のたまものでした。これが、何はともあれ、廃止されるというのですから「朗報」に違いはありません。当の文科省自身が、その「有効性」が認められなかったというのですから、話にならない。その政策導入でどれだけの教員が金と時間を剥奪されてきたか、それを考えるだけでも「虫唾が走る」のです。現実には初任者研修、五年研修なっど、食べきれないほどの「研修定食」が準備され、否応なく摂取を強制されていたにもかかわらずでしたから。「教育は国家百年の計」というらしいが、そもそも「教育に国家が…」、それが間違いのもと。教育はだれのものか、そこから始めたいね。

 詳しいことは省きますけれど、戦後の教師の世界と文部省との関係は、一言でいえば「教育闘争」に尽きます。もっとあからさまにいうと、日教組VS一部政治家(と官僚連合軍)の熾烈な戦いでした。結果は、日教組の敗退(解体に近い負けようでした)、文教族武闘派の勝利だった。一戦ごとの勝利に「祝杯」を挙げたという話を聞きました。いわゆる政権与党の「文教族」が終始一貫、日教組攻撃を主張してきたのです。名前を出すのも汚らわしいが、五輪組織委員会の会長だったMを筆頭に、まるで愚連隊や半グレの如くに、学校教育界を「無人の荒野」にしてしまったのです。(もちろん、日教組も責任を免れられない)その挙句が「教員免許更新制廃止」でした。(もう一つの悪制度があります。「介護等体験」というもの。これも即刻「廃止」すべきです。「小学校及び中学校の教諭の普通免許状授与に係る教育職員免許法の特例等に関する法律」(平成9年法律第90号)に基づき、特別支援学校や社会福祉施設(老人福祉施設、障害者支援施設等)において、7日間障害者、高齢者等に対する介護、介助、これらの者との交流等の体験を行うことを、小学校・中学校教諭の普通免許状の授与の要件とするものです」(文科省)

 何年も前になります。「免許更新制」が導入されて間もなくでした。ぼくはたまたま、この講習の講師を担当することがありました。夏休みだったと思います。受講生は現職教員が三十名ほどだったか。言うまでもなく、ぼくはこの「愚制度」に反対していた。でも、務めていた職場が講習を引き受けたので、否応なく順番が回って来たので、「万やむなく」というわけです。受講された方に「制度の趣旨」と、これによって「教員の力量」が向上するなどということは、一ミリもないと述べ、こんなくだらない講習を受けないで、即座に自宅か図書館で教材研究をされることを勧めると、はっきりと述べました。もちろん、講習を中止して、皆さんお帰りになったのではなかった。ぼくは、さらに講習の成績は「全員合格」と冒頭に宣言し雑談を開始しました。その雑談を受けて、現在の教育課題や、自身の問題意識を自由に書いてほしいとお願いした。いろいろなレポートが提出され、それはそれで面白かった。でも、これは言うまでもなく、現職教員の負担増であり、受講料などの無駄遣いだったと、あらためて痛感したのでした。講習は、実に奇妙な「お笑の連続」になりましたね。犯罪に手を染めているようで、実にいやな気分がしました。いずれこれは亡くなると、その当時から、ぼくは確信していました。

 教師が現場を離れて、現場の外で、必要な力をつけるなどということは先ずあり得ない。まして、それが研修や講習だなんて言えば、カマキリだって笑うでしょう。「仕事のすべては現場」にこそあるのです。わざわざ、現場を知りもしないところ(講習受け入れ機関)で「講習」を実施するということは笑止千万の振舞いでした。「餅は餅屋で」ということですよ。残念ながら、この講習で「指導力不足」の教員が小数とはいえ、出てしまって現場から追放されたという。つまりは、現場が「ダメ教師」に鈴をつけられないから、他人に下駄を預けたというフザケタ話でした。講習会で「ダメ」というなら、「現場」でも「ダメ」は分かり切っていたはずではないですか。ぼくは、「教員(行政)研修」の実態を知っていましたから、これ(免許更新講習)は、教師の力量を育てるのではなく、教育委員会などの呆れた「いじめ」であり、さらに進んで「虐待」じゃないかと、教育委員会の担当者や研修担当教師(校長あがり)に対して直言したことがあります。今でも、一方の「行政研修」は揺らぎもしないで続いています。(これに関しても言いたいことはいくらかありますが、エネルギーロスになりますので、沈黙します)

 そもそも「教員養成」ということ自体が間違っています。教員は大学なんかでは「養成」できませんね。さらに言えば、教員は養成するものではないんですよ。「養成される教員」がいたら、それは「教員まがい」です。新卒で間違いも起こすかもしれませんが、先ず「現場」です。「現場」でこそ、力が試され、育てられるんですから。教師は「養鶏」とか「養豚」なんかと、わけが違うという自説を一度だって放棄したことはありません。「養鶏」「養豚」とは、人間の好みにあわせて、鶏や豚を飼育し加工することでしょ。だから「教員養成」も、誰かの好みに合わせて「型にはめる」「型にはめられる」ことが出来たら、一丁上がり(養成された)というらしい。なんというバカバカしい冗談でしょうか。教師が育つのは学校であり、教室です。教師を育てるのが現場の教師であり、教室の生徒(子どもたち)です。それ以外に、何処で教師は育ち育てられるのでしょうか。

 ぼくは、魔が差したのか、少しばかり教師の真似事をしていましたが、いつもぼくの学校は「飲み屋」だと言っていましたし、皆勤賞に値するくらいに通いました。行くのが嫌だと思ったことはなかった。ぼくが育った「現場(学校)」は飲み屋でした。そこにはさまざまな経験を重ねて苦労している仲間(同級生)、というか知り合い(同窓生)がいました。「社長」なども何人もいました。いろいろな職種の同級生だった。ぼくに言わせれば、そこは水平社会でしたね。つまらない「小社会(序列・身分・地位など)」を持ち込まない、それがルールのようなものでした。行くのも行かないのも、本人の選択。ぼくたちは、誰彼なしにどこかの集団・組織に所属しています。家であり、会社であり、サークルであり、…。でもそこで、大事なことは「あらゆる社会組織は、人間個体にとって外側的なものだということです」(久野収)

 その外的組織や集団から離れて(解放されて)自分を取り戻す、それが「ゆとり」であり「遊び」だとぼくは考えています。だから率直に言えば、学校や教室が「飲み屋」みたいになればいいんでしょうが、まずそれは不可能。ここで大事なのは、何のための学校、何のための教室ということを考えなおすことです。ぼくにとっての「飲み屋」という「夜間学校」は、自分の成長を図る場、というのは嘘で、所属している集団や組織の「融通の利かない原理」の強制を排するための「無駄に過ごす時間」でした。自分にとって外的でしかない組織や集団がもっている「原理」「論理」「大義」にからめとられると、ぼくたちは窒息してしまう。窒息を避ける「酸素吸入器」が、所属する集団の空気とは「別の文化・領域」の空気ではないかと思うのです。別の空気を吸うことが、自己表現を柔軟にさせてくれるという確信もありました。それにしても、よく通いました。惚れて通えば、千里も一里…。いまだに酔っているみたいです。

 例によって、雑談があらぬ方向に流れて行きそうです。ようするに、国家に代表される「外部組織」は、何処まで行っても「一本の原理」を突きつけてくる。それが「外側組織」の習性ですね。政府⇒文科省⇒教育委員会⇒学校⇒ ⇒ ⇒。これが如実に表れているのが「免許更新制」でした。「同じ原理の一貫性」(滅私奉公といえば、古いのかな)だったと言えます。何事でも、経験を積むほどに技術はあがる、上達するもの、十年の経験は五年よりも尊いということもできます。だから、経験を無視するような法律や制度はクズ・ゴミです。まるで運転免許更新講習(これもクズ)以下です。

 後期高齢者用の更新講習は「保育・幼児教育」なみで、人間を敬わないことおびただしい。(「今日は何月何日ですか」「今、何時何分ですか、時計盤を書いて、示してください」(上の)16枚の絵を見て、しばらくして「それを(思い出して)書け」という。ぼくは頭に来て、出鱈目を書こうかと一瞬迷いましたが、「認知症」の判定を下され医者送りにされるのが嫌だったので、泣く泣く妥協した。二年前でした。健康であれば、また来年あります。今から作戦を練っている)国家官僚は、「愚劣なことを真面目な顔で」しますね。怖いことですわ。真面目に戦争(人殺し)をする。ブレーキとアクセルを踏み間違えるのを「講習」で見つけることは不可能とは言わないけれど、実際は困難です。普段の運転ぶりを見ていれば、かならずわかるもの。教師の仕事も同じじゃないですか。何よりも、「現場主義」に徹することです。

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 (急いで付け加えます) 昨日から「パラリンピック」が開催されました。五輪同様に、ぼくは今でも開催反対です。その傍らで民衆が無念の命を奪われているのを尻目に見ながら、です。無観客を装っていますが、当初は首都圏の小中学校の児童生徒(数十万人)を競技場に無理にでも運び込むという。「学徒動員」らしい。徐々に参加強制された人数は少なくなっていますが、一定の児童生徒が「枯れ木も山の賑わい」の役に擬せられるのです。都教育委員会の委員全員(出席者の四名)が「反対」しているにもかかわらず、教育長と(「通称・教育委員会法」違反)都知事は強引に参加を強いている。まさに、教育への暴力政治の介入そのものです。オリンピックやパラリンピックの「感動」を「直に学んでほしい」と、痴事は言い放つ。自身がスポーツのなんであるかを一切学びもしないで、児童生徒を生贄に仕立て上げる。腐敗堕落の極にあるのがソーリと都痴事です。

 どんなにぼくたちは想像すらできないような狂気の政治社会に墜とされているかを、思い知るべきです。ここまでくれば、立派なファシズムの完成(陥穽)ではないでしょうか。この状況を受け入れず、別個の方向に変えるための闘いが求められているのです。学校教育が土足で踏みにじられている。こんなに腐敗した政治状況に、喜んで旗を振る「国民」が数多くいることを忘れてはならない。政治家だけが全体主義を作るのではない。それを導き、支える支持基盤はどうして生み出されてきたのか。ぼくたちの問題でもあります。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです