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諏訪中央病院の玉井道裕先生により作成された「新コロナウイルス感染をのりこえるための説明書」シリーズの最新版「デルタ株編」を公開しました。/ 第5波が押し寄せています。この第5波で流行しているのが、デルタ株と呼ばれる変異株。/ デルタ株は、従来のコロナウイルスとは別次元の感染しやすさと言われています。/ では、なぜデルタ株は感染しやすいのでしょうか。元祖コロナと何が違うのでしょうか。/ 再度確認しておきたい感染に対する「心構え」とあわせて、分かりやすいイラストとともに解説しています。
諏訪中央病院の玉井道裕(たまい みちひろ)医師が作成された「新型コロナウイルスの感染をのりこえるための説明書」シリーズを公開します。かわいいイラスト付きでわかりやすい説明書です。PDF版とウェブブック版を掲載しています。(茅野市HP)(https://www.city.chino.lg.jp/site/korona/corona-setsumei.html)
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ある地方都市で感染者数が5人とか7人と報告されている段階で、そこに在住っしている知り合いは「感染爆発や」と慄(おのの)いていました。デルタ株は異次元の感染力を持っていると言われているからです。それが「指数関数」的感染です。爆発(explosion)、あるいは噴火(eruption)といってもいいでしょう。発生した現象が、みずからのエネルギーを使い尽くして、自然に終末を迎えるまでは手が付けられないという恐ろしさを伴うのです。まるでハリケーンや地震のメカニズムに似通っています。科学者や医学者や企業家はウィルスに効果的なワクチンを作り出しますが、それを迎え撃つ第二段第三段の災害(病症・被害)を引き起こすエネルギー(感染性)を、ワクチンは生み出すのです。この戦いに終わりは見えない。ワクチンの毒性が衰える(弱毒化)とともに、人間の中に免疫抗体ができたときにはじめて、終戦というか収束ということになるのです。今回の闘いはまだまだ続くはずです。

デルタ株の感染力は強い。仮に一人の感染者がデルタ株主だったとすると、感染が10回繰り返されるだけで、千人を越えてしまいます。ぼくは千葉の山中に住んでいますが、東京の感染爆発を見ていて、多くの人が普段と変わらない振舞いに明け暮れているのを見ると、恐怖というか戦慄を覚えます。「人流」(などという怪しい言葉を使ってほしくないね。「人の物化・貨物並扱い」そのものですから)の増加状況をネットで見ると、よくも「出歩いて、怖くないのか」と驚嘆するのです。ところが、為政者どもは、その事態や状況をよく知っているから、自分だけはワクチン接種を早々と済ませ、感染防止を徹底し、(まるで自分だけの核シェルターを備えている気配です)そのうえで、いかにも心配顔で、白々しいことを言ってのけるのです。白けた演技だというほかない。「感染拡大をなによりも最優先」とか「不要不急の徹底」などと狂気じみた言葉をまき散らして、己は恬淡というか、コロナ禍にはまったく無関心、そんなものはどこ吹く風の風体です。しばらく前の都知事が書いた小説に「狂った果実」というのがあった。狂ったのは果実ではなくて、政治家気取りのゴミたちでしたね。こんな手合いに尻尾を振る「民間人」もいるんだから、始末に負えません。
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左上図は最近の東京の感染者状況です。実行再生産数は1.4。感染爆発というだけでは追いつかないほどの拡大ぶりです。右表は一週間単位の感染者数の推移です。このところ、五千人超で頭打ちのような状態ですが、たぶん、検査不能状態にあるのだと推定しています。検査数が一万検体前後で頭打ちじゃないかと推定しています。仮に一万として感染率は五割。あり得ない数値です。これを十倍して、十万検体を調べて、陽性者数が五千であれば、ようやく「感染率は5%」になります。検査しないということは、感染が野放しであるということを意味しています。これで、多くの都民が出歩くのだから、ぼくには気が知れないのです。「自粛疲れ」とか何とか、甘えですね。自分の命は自分で守れ、そのための知恵というか、工夫を絞り出すよりほかに方途がないでしょう。
特定の日の感染者数や感染率を割り出すことは相当に難しいので(できなくはないのだが、行政はサボっています)、一週間単位で扱っています。それにしても感染率は三割です。多分、検査されていない感染者はどこでも溢れているのであって、よくも出歩けるなあというのが、小心者のぼくの感想です。感染しても死なないと言いますが、場合によって重篤な後遺症が残るし、予測できない症状が現れる蓋然性が認められているのです。自分は大丈夫でも他人に感染する危険性は排除できない。ここにも、自分さえよければという、阿保みたいな利己主義が顔を出しています。検査と隔離、それを徹底するための感染拡大防止です。「自粛」が五年も続くのかしら、続けたいのかしら。
医療崩壊などといわれています、ホントにそうか。ぼくは疑っている。国立や公立の多くの病院がほとんど感染者を受け入れていないことは明らかで、私立や地域の開業医にのみ責任を負わせているきらいが見て取れます。以下の記事にある二つの「機構」の現状を調べているが、実に巧妙というか、汚い手を使って実態を隠しています。要するに、「牙城は揺るぎもしない、コロナなんかでは」、そんなふてぶてしい姿勢がアカラサマです。そんなもの(コロナ患者)を見る暇も興味もないと言わぬばかりの悪辣ぶりです。

すべてが、厚労省の医系技官が目論んでいる策略通りです。感染症のイロハは、検査と隔離。それに尽きるのに、両方を見捨てているという、首尾一貫した「非道」の振舞いです。尾身さんとかいうタヌキ(鼠という説あり)(彼もその一派です)は、この感染病の始末をどう考えているのか。誠に残念ですが、この島社会は「終わったね」という実感が、ぼくには強い。だから「終わったところから、始めよう」という気になるのです。そのためにも、仆れるわけにはいきません。これは政治でも何でもありません。自分の命を自分で守るための生活に過ぎないのです。あえていえば「人権」問題でしょうが、そんな高尚な言葉はいらない。「いのち」を粗末にしたくない、粗末にしない、誰の物であっても。ここからすべてが始まるのです。
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新型コロナウィルスの感染が再び急拡大し、入院ができずに自宅療養を求められる患者が増えている。急に酸素吸入が必要な状態になっても救急搬送先を見つけるのが難しいケースもあり、命の危険と隣り合わせの状態だ。コロナ患者用のベッドの不足は民間病院の受け入れが進んでいないせい、ともされるが、国が管轄する病院の受け入れも低調で、その役割が問われている。

厚労省が管轄する「国立病院機構」(NHO)は、旧国立病院が独立行政法人化した組織で、全国に140病院を持つ日本屈指の病院グループだ。同じく、厚労省管轄の「地域医療機能推進機構」(JCHO)は旧社会保険病院、旧厚生年金病院、旧船員保険病院の三つの病院グループを統合した独立行政法人で、理事長は政府対策分科会の会長を務める尾身茂氏だ。
両機構のコロナ患者の受け入れ状況をまとめた内部資料を記者は入手した。それによると、NHO系列の病院は計約3万9千床(4月現在)あるが、コロナ病床がある病院は95で計1854床。全体の4.8%だ。/ JCHOは全国57病院の計約1万4千床(同)を持つが、コロナ病床は43病院の計816床。5.7%にとどまっている。実際の受け入れ患者数は8月6日時点でNHOが695人(1.8%)、JCHOが345人(2.4%)と、なぜもっと受け入れられないのかと疑問に思う水準だ。

東京都の直近の状況を見てみよう。新規感染者が過去最高を記録し続けている危機的な状況で、18日現在でみると、コロナ療養中の約4万人のうち、入院できているのは1割に満たない約3800人。そのほかは、1万2千人余が「入院・療養等調整中」で、自宅療養が2万2千人余。自宅療養中に死亡する例も目立ち、患者が抱いているだろう心細い気持ちは決して人ごとではない。/ その東京都内で、両機構の受け入れ状況はこうだ。NHOは3病院の1541床のうち、確保病床は128床(8.3%)、JCHOは5病院1455床のうち、158床(10.9%)にとどまっている。(以下略)(朝日新聞・2021/08/19)
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読み間違いだとか言って「訂正」が入りましたが、それは「嘘・偽り」であって、この自動読み手(ソーリ)は、「本音を正直に」言ったに過ぎない。あるいは言わされたに過ぎません。これまでの言動を見ていれば一目瞭然です。この人間に人民を救いたいとか救ってやろうという「政治家の本領」「惻隠の情」などという動物に固有の感情は、爪先の垢ほどもない。自力呼吸が出来なくなるまで「自助」だと、これは紛れもない、正真正銘の「狂気(insanity)」ですよ。一気に消えてほしいねえ。

蛇足 このところ、あらゆるところから「医療崩壊」という汚い蛮声合唱が聞こえてきます。たしかに報道される医療現場は「目いっぱい」「手いっぱい」という状況でしょう。でも、果してそれ以外も、つまり劣島全体が「医療崩壊」に陥っているのか。ぼくは田舎に住んでいますから、都会と同列には断じられないでしょうが、崩壊している部分もあるけど、正常に機能している医療機関も圧倒的に多い。通常の診察や医療行為をしている医者が圧倒的です。搬送されない、入院拒否というニュースばかりが飛び込んできます。でも、とぼくは疑う。現在の医療現場は、ぼくの見立てでは「教育現場(学校)」とよく似ていると言いたいですね。異常事態が生じているところもあれば、のんびりとゆとりをもって教育を謳歌している学校(それは数えるほどもない、少数です)もある。それが日常なんです。「戦時」と平時」といわれますが、それこそが、ぼくたちの日常なんじゃないですか。
ある時期になると、都心などでカルガモの親子が道路を横切ろうとしているのが話題になります。そこへ、優しそうな面持ちの警官が出て来るし、車も停車して、無事渡り終えるのを、多くの人間たちが「あどけない顔をして」眺めている。時には「拍手」さえ出る、そんな場面を何度も目にしました。なんという気高さか。あほくさいネ。ぼくは言いたい、カルガモ親子に対して見せるだけの「微笑み」を、どうして人間仲間に示せないんですか。カルガモ以下の扱いですよ。情けないし、恥ずかしい。(これは動物愛護ですか。人間虐待の裏がえしではないですか)せめて「カルガモの命並みに」人間の命を大切にしたい、してほしい。ささやかだけれど、ぼくの切実な願いでもあります。

問題は「不登校」あるいは「登校拒否」、さらには「いじめ」をどのように定義(把握)するかということです。伸ばしもできれば、縮めることもできるアコーディオンの蛇腹みたいで、何処を見るかによって、「いじめ」もあれば「不登校」もあるし、それを含めて学校だというとらえ方が欠けているんじゃないですか。こんなことを言えば、不謹慎とくるから、いじめも不登校も「深刻」になるばかりなんだな。問題が起こったら、机を並べて、カメラの前で「責任者づら」が頭を下げ、それで一件落着ですか、ということです。(*ちょっと休憩、ここでかみさんが買い物に出るというので「アッシー」です。暫時中断します。帰ってから、再開予定)(*約四十分経ちました。少しばかり気分を変えて、手を入れてみました。ほとんど代り映えはしない。問題が問題だからなあ。ただいま午後四時数分前。以下に追加分を)
医療崩壊が叫ばれる背景や理由は何でしょうか。救える命が救えなくなるとも言われます。果たしてそうか。救える命があることはその通りでも、その命を救う意思があるのか、それをぼくは問いたい。医療崩壊だから、自宅で亡くなっても責任を問われぬ、あるいは問われても仕方がなかったで済まされる、きっとその程度のいい加減な態度で、たかをくくっているんじゃないでしょうか。これは現場の問題ではない。現下の状況に最も大きな権限と責任を有している者たちの卑怯な態度こそ非難され、追及されるべきでしょう。医療従事者の渾身の救命活動や医療行為を疑うものではありません。そのほかに、まだ医療には余力があるのではないですか。

確保されたベッドが満床になったから医療崩壊なのか。政治家や行政側の責任逃れのためでしかない、医療崩壊の合唱だと、ぼくはどうしても考えてしまう。はっきり言って、サボタージュです。救いたくない命を放置・放棄した。いつでも、危機的状況が生じた際に見られた「棄民政策」が闊歩するさま、それがまさにいまも罷り通っているのです。臨時の露営病院を作ろうとするなら、いくらでも可能でした。それをしなかった。「無駄な金(であるはずがない)」を使いたくなかっただけだと思います。「五輪」で三兆円余の税金をぶち込み、延べ人数で約七千人の医療従事者を現場から引きはがしてまでしながら、それを開催した理由は何だったか。「金も人も」目いっぱい投入しても、それを惜しく思わないのは、そこからの見返りが確実に得られたからです。医療は崩壊なんかしていない。偉いさんが熱を出して検査入院だという。いくらでもとは言わないが、病床(ベッド)はあるところにはあるんですよ。都は6千床余を確保しているという。しかし埋まっているベッド数は4千にも至っていません。入院する者の選別、それこそが「トリアージ(triage)」、命の選別です。
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