【水や空】 終戦の日に思う人 終戦の日を迎えると、ふと思い出す人がいる。20年近く前に旧深江町で取材した当時の社会福祉法人山陰会理事長、故本田哲郎さん▲1945年8月8日、日本に宣戦布告したソ連は翌日攻撃に踏み切り、満州に侵攻。関東軍の高射砲部隊だった本田さんらは、満州・新京でソ連軍との市街戦を覚悟する。爆雷を敵の戦車下に押し込み破壊する決死隊となり、待ち伏せ。そんな中で終戦となった▲今のウズベキスタンに抑留され強制労働に従事した。多くの仲間が栄養失調で死んでいった。48年ごろナホトカから船で舞鶴港へ。船上から日本の遠景を見て、ようやく終戦の実感がわいたという▲やがて障害者福祉などの道を歩んでいく。平和を願い、海外と日本の障害者施設同士の交流にも熱心だった▲引き揚げなどの時期がさらに遅れた人たちもいた。祖国の土を踏んでからの生活再建が過酷だったともよく聞く。国家が起こした巨大な戦争は、個々の人生に暗い影を落としたが、心身の傷を抱え、もがきながらそれぞれが何らかの信条を持って生きた▲終戦の日は全戦争犠牲者、戦争を体験した死没者を追悼し、反戦を決意したい。同時にコロナ禍や相次ぐ自然災害など新たな問題に向き合っている今、諦めず困難を乗り越えていった先人のことを改めて胸に刻もうと思う。(貴)(長崎新聞・2021/08/16)
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世の中には端倪すべからざる生涯を送った人は実に多くいる。ぼく(たち)が知らないだけで、もし知っていれば、きっと襟を正さなければ生きられないような、そんな人生の流儀・姿勢があるのです。コラム氏が書かれているような、ふと思い出す人、いったいぼくにはいるだろうかと、何時でも考えています。時と場合によって変わることはありますけれど、この何十年、ぼくにとって、「終戦(敗戦)の日」になると、かならず「思い出す人」「声を掛けられた気がする人」は「石原吉郎」です。本田さんと同様に、過酷極まる戦時下に生き永らえ、やがてシベリア抑留、帰還してからも「抑留」が続いているような苛烈で鮮烈な人生を送った。
●石原吉郎(915―1977)=詩人。静岡県伊豆に生まれる。東京外国語学校(現東京外国語大学)卒業。1939年(昭和14)応召。終戦の年、ソ連軍に抑留され、重労働25年の判決を受ける。53年(昭和28)特赦により帰還。詩作はこのころより始められ『ロシナンテ』を創刊。『荒地(あれち)』の最後期の同人で、64年『サンチョ・パンサの帰郷』(1963)によりH氏賞受賞受賞。シベリア体験は生涯のモチーフとして生の基準点となった。またキリスト者としての思念は深く、その詩語はいっそう贅肉(ぜいにく)を落とし極限的、断言的フォルムへと削られていった。詩集に『水準原点』(1972)、『礼節』(1974)など。評論集に『日常への強制』(1970)、『望郷と海』(1972)、『断念の海から』(1976)などがあり、戦後詩に独自の深い航跡を残した。(ニッポニカ)


彼の詩作品や評論を手当たり次第に読んだ。おそらくよくわからなかったに違いない。彼がどのように生きようとしてきたか、その体験自体が、ぼくには手が届かないと思ったからでした。「読む」ということは、作者を経験することだというのなら、ぼくの「石原体験」はお話にならない陳腐なものだったと、この歳になっても考えています。いまでも思い出したように、彼の全集を手にする機会があります。でも、それを開いて読みだすことはできない。何故か、その理由は明らかです。
たまたま「水や空」という、ぼくの愛読コラムに誘われて「思い出した人」として紹介してみたのです。しかし、それは「思い出す」などという生易しいものでは語れない(思い出せない)詩人の生涯だったと言わなければならない。「シベリア抑留」にかかわっても、いろいろと触れなければならないことがあります。若いころに盛んに見て回った香月泰男さんも、その一人。この戦争の、語られない一面・一場面も、ほとんど片が付いていません。

● 香月泰男・かづきやすお(1911―1974)=洋画家。山口県生まれ。1931年(昭和6)東京美術学校油画科に入学、藤島武二(たけじ)に学ぶ。39年文展で特選、国画会で国画奨励賞、翌年佐分(さぶり)賞を受け国画会同人となる。43年応召し、シベリア抑留ののち47年(昭和22)帰郷。国画会展に毎年出品のほか、サンパウロ・ビエンナーレ展、カーネギー国際美術展にも出品。69年シベリヤ・シリーズに対して新潮文芸振興会の第1回日本芸術大賞が贈られた。山口県立美術館に香月泰男展示室がある。(ニッポニカ)
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「 国家が起こした巨大な戦争は、個々の人生に暗い影を落としたが、心身の傷を抱え、もがきながらそれぞれが何らかの信条を持って生きた」というのは本当でしょう。有名無名を問わず、もがきながら、信条を持って生きていきたいと、だれしもが願うのす。経験した出来事が凄惨であればあるほど、もがきは大きくなるし、悶えながらの生きざまも深刻なものとなるはずです。惰弱そのものの生活に流されてきたぼくのような人間には、石原氏の送った(送らざるを得なかった)人生を語ること自体が笑止であるという気恥ずかしさの入り混じったためらいがあることを、ぼくは隠しません。ぼくが過酷な人生に立ち至らなかったのは、ただの偶然であって、それを嘆くのも喜ぶのも当たらないでしょう。要は生きているその「時と場」で、誠実であること、それが何よりだと、ぼくはひとり合点しているのです。そして、ときには、不正や不実に対して、自らの心持ちに即して怒りを忘れない、そんな心ざしをもって生きていきたいと、願い続けています。
「終戦の日は全戦争犠牲者、戦争を体験した死没者を追悼し、反戦を決意したい。同時にコロナ禍や相次ぐ自然災害など新たな問題に向き合っている今、諦めず困難を乗り越えていった先人のことを改めて胸に刻もうと思う」というコラム氏の姿勢に満腔の賛意を贈ります。昨日の、ある新聞のコラムに愕然とした分、この「水や空」を読むことが出来ただけ、ぼくは得をした(忘れ物を思い出した)ような気になりました。
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「…ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばに見はなされるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体である私たちを見はなすのです。/ いまは、人間の声はどこにもとどかない時代です。自分の声はどこへもとどかないのに、ひとの声ばかりきこえる時代です。/ 日本がもっとも暗黒な時代にあってさえ、ひとすじの声は、厳として一人にとどいたと私は思っています。いまはどうか。とどくまえに、はやくも拡散している。民主主義は、おそらく私たちのことばを無限に拡散していくだろうと思います」(石原吉郎・1972年)
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