
【余録】「今度の戦争に敗れた一つの理由は主観的な観念性に走って科学を媒介とした客観性、世界性から遊離したことにあった」。終戦から5日後の1945年8月20日。小紙に高坂正顕(こうさか・まさあき)・京都大人文科学研究所長の長文の談話が掲載された▲カント研究で知られた哲学者の高坂は日本人が抱いていた自信、自尊心について「外に目をふさいで己(おのれ)を高しというような趣はなかったか」と疑問を示し、「ひとりよがり」な日本の自己認識、世界認識に敗因を求めた▲今の日本も似た問題を抱えてはいないか。未曽有のコロナ禍にもかかわらず楽観論や希望的観測が横行し、五輪開催という国家目標の実現を優先するあまり、国民の安全を二の次にするような議論があった。科学的知見や客観性が重視されているようには見えない▲ワクチン敗戦、コロナ敗戦といった言葉も使われる。有効なワクチンを開発できず、科学技術の遅れを露呈した。当初は有効に見えたクラスター対策中心の「日本モデル」もデルタ株の流行で水泡に帰し、感染拡大が止まらない▲文部科学省の研究所によると、影響力の大きな自然科学分野の学術論文の数で日本が過去最低の世界10位に後退した。中国が初めて米国を抜き、世界1位になったことに今の国際情勢が表れている▲76回目の終戦記念日。米中に追いつけ、抜き返せという時代ではあるまい。ひとりよがりに陥らず、日本が置かれた現状を客観的に見つめ直すことが過去の失敗を今に生かす出発点ではないか。(毎日新聞・2021/08/15)
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久しぶりの「余録」だと、急いで読もうとした途端に仰天しました。いきなり高坂正顕さんです。どうして彼がここに登場しなければならないのか、まったく腑に落ちなかった。まさか、コラム氏は高坂信奉者だったのか。敗戦から五日後の高坂氏の発言が引用されている。実に信じられない思いをもって「余録」を読んだ。「「ひとりよがり」な日本の自己認識、世界認識に敗因を求めた」といっているのが高坂さんだとにわかに考えられなかった。その指摘を、コラム氏はどう受け止めたのか。それを真に受けたから、何の疑問も持たないで、臆面もなく、ここに高坂説を論ったのでしょうか。「科学的知見や客観性が重視されているようには見えない 」というのは、じつは高坂さん自身の戦中・戦後の一貫した発言であり哲学ではなかったかと、ぼくは問いかえしたいほどです。

敗戦後、五日間にして高坂正顕氏は見事に反省し、実に素早く「転向」したのだ、 というのではないだろう。高坂さんは、戦時下の言論活動等で「公職追放」に遭っている(二十一年)。以下に引いた辞典にあるように、彼は「中央公論の紙上座談会で、高山岩男らと戦争協力の哲学を説きジャーナリズムの寵児となり、大日本言論報国会の理事も務めた」人物です。それがどうしたという人もいるでしょう。どうもしないが、どう判断するかは問われるのだ。 大学に入ってから、次第に、思想や哲学あるいは教育などについて興味を持つようになっていた。いろいろなものに当たったが、高坂さんもその一つでした。彼が戦前・戦後を一貫した民族主義者だったという、その一点では疑問の余地はなかったと、ぼくは今でも思っているのです。(右の写真は敗戦直後の「買い出し列車」の混雑状況)
ぼくは戦時中の高坂さんの言動をじかに見たわけではなく、何かと書かれたものを通して感じだけです。だから、彼について言えるのは「管見のかぎり」という限定が付く。でもその後、彼が東京学芸大学学長になったり、中教審の主査として活躍していた当時、ぼくは何度か彼の言説を聞いたり見たりした経験があるのです。「期待される人間像」の如き、殆んど彼が中心になってまとめられたもので、「 「ひとりよがり」な日本の自己認識、世界認識 」「科学的知見や客観性が重視されているようには見えない」という彼の指摘は、まさしく自身にこそ妥当すると、心底「感心」したのです。なんとも厚かましい、それにしても「偉い」人物がいるものだと、若いぼくは、腹の底から軽蔑したことを今に至るまで忘れていない。カント学者だという、彼の研究書も読みました。カントの「永遠平和のために」はいまでも諳んじています(ぼくが読んだのは、高坂さんの翻訳ではありません)。卒業論文には、理解の足らないカントの「人間論」のようなものを書いた。


コラム氏は高坂氏をまったく知らなかったとは思えないし、知らなかったら、救いがたい記者だというほかない。高坂氏が紆余曲折を経て(追放から)「復活した経緯」もご存じだったと思う。それをあえて、コラムで引用した意図は何か、怪訝の念は消えません。 沖縄戦の最後の日から、八月十五日の「戦没者追悼」の日に至るまで、ぼく自身のささやかな「不戦の誓い」と「犠牲者への追悼」を重ねてきて、角を曲がったところで、いきなり「近代の超克」などという亡霊に出くわしたような、驚嘆と同時に落胆の思いが強烈にぼくを襲ってきました。誰を好もうが、嫌おうが、それは構わないことです。でも、それがなにがしかの問題を持っていたとされたなら、それについて一定の評価を加えるのが当然ではないか。「自分は高坂さんの、このようなところが好きだ」「この点について、矛盾しているではないか」というべきでしょ。高坂氏の著作も、若さに任せて読んだ者として、彼の一貫した哲学観や世界観はともかく、彼の示していた言辞は、ぼくには許容できなかった。哲学としても、埒を外していると痛感したものです。(本日、こんな展開・仕儀になるとは想定外のことでした。高坂さんの名前を見、京都学派とか、「近代の超克」などというものにふいに出会ったのだから、ぼくの驚きは半端なものではないのです)
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● 高坂 正顕・コウサカ マサアキ=昭和期の哲学者 東京学芸大学学長;京都大学教授・人文科学研究所所長。生年明治33(1900)年1月23日 没年昭和44(1969)年12月9日 出生地鳥取県鳥取市 学歴〔年〕京都帝国大学哲学科〔大正12年〕卒 学位〔年〕文学博士 主な受賞名〔年〕勲一等瑞宝章〔昭和44年〕経歴三高、同志社大学、京都帝大講師、東京文理科大学助教授を経て、昭和15年京都帝大教授、16年京大人文科学研究所所長。中央公論の紙上座談会で、高山岩男らと戦争協力の哲学を説きジャーナリズムの寵児となり、大日本言論報国会の理事も務めた。21年公職追放。26年解除後は関西学院大学教授、30年京都大学教授を経て、36年東京学芸大学学長。41年中教審特別委主査を兼任。同年「期待される人間像」、また44年には「当面する大学問題への対応策」をまとめた。42年には国立教育会館館長も務めた。哲学者としてはカントの研究、西田幾多郎らの影響を強く受け、高山岩男らと京都学派を形成。主著に「民族の哲学」「カント学派」「歴史的世界」「高坂正顕著作集」(全8巻 理想社)などがある。(20世紀日本人名辞典)

● 京都学派(きょうとがくは)=西田幾多郎および田辺元の哲学探究の伝統を引継いだ京都大学哲学科出身の哲学者たちのグループの総称。 1919年田辺が西田によって京大に招聘されて以来両者はともに自己の哲学を創造し,「個体存在の論理」としての西田哲学に対し「社会存在の論理」としての田辺哲学は決定的に対立するようになるが,その真摯な相互批判を通して京大哲学科には活気に満ちた独自な学風が形成され三木清,戸坂潤らをはじめとする多くの哲学徒が参集した。三木,戸坂らはやがてマルクス主義に傾斜しこの学派の中心から離れるが,次いで高坂正顕,西谷啓治,高山岩男,鈴木成高らのグループが現れ,第2次世界大戦期において世界新秩序論としての「世界史の哲学」を提唱し同戦争の合理化を行いこの学派の旗幟を鮮明にした。普通この高坂,西谷,高山,鈴木らのグループをさして狭義に京都学派と呼ぶことが多い。(ブリタニカ国際大百科事典)
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【正平調】亡くなる前日のことだ。「起きてる?」と、作家半藤一利さんは布団の中から妻へ声をかけた。驚いて飛び起き「どうしたの?」と尋ねてみたら◆「二千五百年前の人だけど、中国に墨子(ぼくし)という人がいた。あの人はその時代から戦争に反対し続けた。偉いだろう」と言う。「うん」と返したら、「『墨子』を読みなさいよ」と。それが最期の言葉だった◆妻でエッセイストの半藤末利子(まりこ)さんが、インタビューに答えて週刊文春で語っている。東京大空襲を経験し、90歳で没するまで平和を願い続けた。どんな戦争にも正義はない。そう説いた墨子を仰ぎ見ながら◆心の底から平和を求めるのに年齢は関係ないだろう。しかし半藤さんに限らず、戦争を肌で知る人の言葉には揺るぎない信念がある。その世代が一人、また一人と去る。語っていた一言一句を胸に刻んでおきたい◆慶応大教授の片山杜秀(もりひで)さんは、戦争体験を「涙の貯金」とたとえる。平和を保ってきたその貯金が尽きたらどうなるだろう。「平和主義の見直しやファシズムの復活も」と考えたくもない想像が膨らむそうだ◆半藤さんはこんなことも言っていた。「日本人は毎年8月に『正気』を取り戻さないと」。私たちは危うい道を歩んでないか。問い直したい、8月15日。(神戸新聞NEXT・2021/08/15)
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半藤さんについても一言したい気がしますが、別の機会に譲るとして、本日は止めておきます。またこの「最後の瞬間」もいわくありそうで、そうかなあという気もします。でも、それはまた別の問題。図らずも、二つの記事を(「毎日」と「神戸」の)二つの新聞の「コラム」から引きました。どちらも八月十五日でなければ意味をなさないような、忘れがたい「日付」をもって書かれたものとして、ぼくは並べたくなったのです。他意はありません。(ものを書いたり話したりするとき、多くの場合に「日付」が欠けています。書いたり反sっしたりしているときはいいのですが、その後に読んだりするとき、「日付」がないというのは、いかにも気が抜けた気になります。随意分と昔、鷗外だったかが、誰かに対して「葉書(手紙)には必ず日付を入れなければだめだ」と註しているのを読んで、なるほどと納得したことを覚えています)
取り上げた「二つのコラム」のどちらが優れているとか何とか言いたいのではない。それは読む側の自由です(コラムを読んだら、おのずから判然とするでしょう)。とはいうけれど、歴史に対する姿勢・態度(それが思想というものです)の真率性があからさまに表れているではないかと、ぼくの感じたままを出しただけです。(ここでは、高坂氏と半藤氏という人物を、一例としてとらえて見ると、こんなこと(歴史に対する態度の在り方)が言えないかという問題提起の真似事をしたに過ぎません)(左上の写真は林忠彦氏撮影の「煙草を吸う戦争孤児」東京上野にて。「当時は「浮浪児」と称されていました)
たしかに「戦後七十六年」というのは歴史の事実ですが、反面で、それはまた明確に、次なる「戦前」になるということをも、こんな小さなコラムを読むだけで、言いたくなってしまうのです。
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