人間(じんかん)到る処青山(せいざん)あり

 【卓上四季】先祖の話 柳田国男が「先祖の話」(角川文庫)を書き始めたのは昭和20年4月のことだ。10万人以上が犠牲となった3月の東京大空襲の後も空襲は続いていた。このままでは戦死した若者を祀(まつ)る人もいなくなる。日本人の死生観や先祖への信仰をまとめた名著はこうした危機感から生まれた▼柳田は「国と府県とには晴の祭場があり、霊の鎮まるべきところは設けられてある」としつつ、「家々の骨肉相依(あいよ)るの情は無視することが出来ない」と記した。晴の祭場とは靖国神社と護国神社のことだ▼「靖国に英霊を祀り、それで死者の魂は慰撫(いぶ)されるのかと問うている書なのだ」とは、作家大塚英志さんの解説である。国に殉じた人を英霊と呼ぶ「死者の国家管理」に対する柳田の強烈な違和感がうかがえる▼人は死んでなお霊魂は故郷にとどまり、正月やお盆には家に帰ってくる。それが日本古来の民俗習慣や死生観であり、明治以降に作られた制度は「伝統」と思い込まされているにすぎないという▼亡くなった人々を悼む気持ちは純粋なものだ。死者の魂がとどまるという考え方の延長に「生まれ変わり」の信仰があったのも、残された人のよりどころとなったと考えれば自然ではなかろうか▼きょうから盆の入り。直系や血縁の者でなければ祀ってはいけないということもあるまい。心から思う人に悼んでもらう方が、魂も浮かばれるというものである。(北海道新聞電子版・2021/08/13)

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 【北斗星】周囲を田んぼに囲まれた夕暮れ時の墓地。墓前では複数の家族が敷物を広げ、重箱入りの手料理を囲んでいる。子どもからお年寄りまで約20人。運動会の昼食時を思わせるようなにぎやかな光景だ。今年の県美術展覧会(県展)で写真部門の特賞に輝いた作品「墓前供養」である▼大仙市の佐藤登さん(71)が一昨年8月13日、仙北市田沢湖小松の田中集落の墓地を撮影した。盆の墓参りの際に墓前でうたげを催す珍しい風習があると聞き、撮影に出掛けた。墓に料理を供え、先祖と食事を共にしているように見えたという▼仙北市文化財保護室によると、市内農村部に伝わる恒例行事で墓前供養や相伴などと呼ばれる。先祖供養の意味がある▼田中集落の女性(71)も例年、手作りの煮物や赤飯などを墓に供え、墓前で供養してきた。息子夫婦や孫、帰省した娘夫婦を含め10人近くになる時もある。一人一人が元気な姿を墓前に見せ、亡き夫ら先祖に対し「いつも見守ってくれてありがとう」と感謝を伝えている▼しかし一昨年、昨年は墓前供養を見送った。一昨年は猛暑のため自身の体調を考慮。昨年は新型コロナウイルスの影響で娘夫婦が帰省できなかったことなどが響いた。墓前でそっと手を合わせるだけにした▼コロナ禍で2度目の盆。いつもなら帰省するはずの家族と再会できず、寂しく思う人は少なくないに違いない。会えなくても家族の絆は変わらないと信じたい。墓参にそんな願いを込める人もいるだろう。(秋田魁新報電子版・2021/08/13)

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 この社会における最近のお墓、およしお墓参り事情、まことに多様多彩を究めています。あるいは隔世の感があるというべきか。ぼくは積極的にお墓参りに参加する方ではありません。でも、年中行事の如く、誘われては近間のお墓に出向きます。都会地においては、墓地も墓石も「近代化」「洗練」され、じつにあっけらかんとしています。そのいい悪いをいうのではない。時代の移り変わりは、人心のさま変わりを伴うのですから、昔はよかったというのは、いうだけの話です。うんと幼いころ、おふくろの田舎だった能登中島の実家で祖母がなくなり、その通夜と翌日の葬儀(葬礼)に座していたことを、きわめて鮮明に覚えています。遺体の上には包丁だったかが置かれていた。おそらく五歳かそこらだった。なんと、七十年以上も前のことです。この通夜の席で、年長者からいろいろなことを教えられた、それも記憶している。翌日の葬儀も、山の火葬場まで、亡くなった祖母の長男を始め、何人かの家族縁者が「遺体=仏」を担ぎ、かなり長い田舎道を歩いて行ったことも忘れていない。火葬場では、たくさんの薪がたかれ、骨上げまでに、かなりの時間をかけて焼いていた。その情景もほとんど記憶に残っています。焼き場(といっていた)に行く長い階段をゆっくりと登ったことも忘れない。上り切って、振り返ったとたんに海が目に入った。それが七尾湾であり、その先は富山湾でした。

 ぼくはこの「風景」を死ぬまで忘れないだろう。遠くには七尾湾が見え、そこには能登島が鎮座していた。その手前を汽車が煙を吐いて走っていた。今はない七尾線というのだったか。輪島まで行っていたと思う。汽車を見たのも海を見たのも初めてだった。遥かに霞む農山漁村の景色だった。今では温泉で有名になった和倉も隣町でした。能登中島は生まれ故郷だったが、両親の考え(漂泊に傾く)というか生活に追われていたからか、故里という感覚は、ぼくには皆無でした。これを書いている今、故久忘れるべからずというか、あるかないかの記憶の糸をたどって、自身の「想い出」のひだを勝手に広げているのではないかという気もするのです。(右上写真は七尾湾)

 ぼくには語るべき先祖もなければ、家郷の想い出というものもほとんどありません。いつでも根無し草のような生活観のようなものに動かされて生きてきたからでしょう。「定住と漂泊」というなら、まちがいなく、ぼくは漂泊派でした。これまで何度か転居しましたが、ある土地に根を張るということはなかった。そんな気持ちはまったくなかった。明日どうなるか、知れたものではないじゃないかと、なんとも展望のない明け暮れでしたね。語るべき「先祖」があるというのは、定住が決定的な生活様式であったでしょう。もっと言えば、稲作(農)民であることが定住を余儀なくし、「土地の神(産土・うぶすな)」に守られるという文化にくるまれて生きる、そのために先祖を祭るということに重なっていくのでしょう。その「産土」を持たない漂泊民にはおのずからなる「先祖祀り」の様式が生まれてきたはずです。それ現代風の「墓石」に関わる時代相(ポータブル墓石?・散骨・樹木葬などなど)になったのではないか。

 柳田國男さんに入れあげた時期がありました。かなり長かったと思う。その挙句に「柳田国男の●●●●」などという本まで書かされました。本はともかく、彼からたくさんのことを学んだのですが、こんなエピソードを記憶しています。ある時、バス停で待っていると、そこに孫を連れた老人もいて、「自分は田舎から出てきたが、東京で先祖になる(なった)」という話に感心し、それを柳田さんはどこかで書いていた。「先祖になる」というのは、先祖を祭る子孫が存在しなければあり得ないことだし、そこにもある種の「定住の生活思想」があるように思ったりしました。祭るべき先祖がいて、それを媒介する故里や一家一族の墓があることが前提になります。ぼくみたいに、ヤドカリのように棲み処を変える人間には祭るべき先祖(祖父母や両親)はいても、それを象徴する墓が遠くにあって(あるいは所在不明になっていて)、それこぞ「墓前供養」や「ご相伴」に与ることが出来ない相談です。しかし、いずれ存在している数多の「墓」も歴史の地中に埋もれていくのではないでしょうか。それでいいんじゃないですか。地上は、存在した命の墓場でもあるのですから。

・家はみな杖に白髪の墓参り 芭蕉

・夕月や涼がてらの墓参 一茶

・迎火や墓は故郷家は旅 子規

・菊の香や故郷遠き国ながら 漱石

・おはしたや墓参のむせぶ香煙り 蛇笏

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 余話ながら、です。 

 ・分け入っても分け入っても青い山 (山頭火)

 人口に膾炙した山頭火の句です。何処まで行っても「青い山」が続く。「大正15年4月、解くすべもない惑ひを背負うて行乞流転の旅に出た」と「まえがき」に書いた。山頭火、四十三歳。定住を拒絶し漂泊に赴く。浮雲の如く、往く川の水の如く、行雲流水に身を準えたか。それにしては、棄てきれない何ものかを背負って、山頭火は歩出す。「青い山」については多くの知者たちは見事な解釈をされています。ぼくは勝手に「人間の生きる場所=人間の死に場所=世間」だと思っています。何処に行こうが、どんなところに果てようが、それはすでに誰かが、何かをなし終えた地である。何処で生き死にしようが、それが世間なんだということです。

 身を焦がすばかりの悩みを持って、漂泊の旅に出た。何処に行こうが、死に場所はある。「青い山」は山頭火にとっては死に場所、つまりはお墓の在り処です。何処で息が絶えても構わない、そんな覚悟というか、、諦観があるとも思われてきます。(左上は山頭火の墓所、山口県防府市本橋町2–11 護国寺(曹洞宗)にある)(どうして、多くのお墓(墓石)は「立派」「豪華」なんでしょう。亡くなったものが造作するわけもないのですから、残された者たちの「心ない仕業・仕打ち」というほかありません)

 一代の僧、月照という人に「人間到る処青山あり」という作があります。ぼくの好きな人であり詩です。ここにある「青山(せいざん)」は、おそらく「青い山」詠む山頭火に同じでしょう。下に紹介しておいた「人間」は「にんげん」と読むのが相場でしょうが、ぼくは「じんかん」と読みたい。世間とも世界とも言っていいでしょう。人間のいるところ(世間)では、何処だって「青山=墓場」には事欠きませんよ。

 漂泊の旅人もまた、「青山」(それがビルの谷間や、コンクリートの道端であっても)に朽ち果てるのでしょう。ぼくたちが生きている地上には、死体や骨の埋まっていない場所はない。何処で死のうが、先祖(先人・先達)がいるではないか。ぼくの今に感じている「死生観」という(程ではありませんが)もののようです。誰かが遺言しました。「葬式はやるな、戒名も不用」というところ。それに加えて、ぼくは「墓もいらない」といいたいですね。

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● 月照 げっしょう(1813-1858)=江戸時代後期の僧。文化10年生まれ。大坂の人。京都清水寺成就院の住持。尊攘(そんじょう)運動にくわわり,安政5年梅田雲浜(うんぴん)らと水戸藩に密勅をくだすのに尽力。安政の大獄で幕府に追われ,西郷隆盛らと薩摩(さつま)へ逃亡。鹿児島藩から滞在を拒否され,同年11月16日西郷とともに錦江湾に身をなげた。46歳。俗名は玉井宗久。法名は忍鎧,忍向。号は中将房,無隠庵など。【格言など】くもりなき心の月と諸共に沖の波間にやがて入りぬる(辞世)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

● にんげん【人間】 到(いた)る処(ところ)青山(せいざん)あり=世の中のどこで死んでも、骨を埋める場所ぐらいはある。故郷だけが墳墓の地ではないのだから、大望を達するために郷里を出て大いに活動すべきである。※清狂遺稿(1892)〈釈月性〉上・将東遊題壁詩「埋骨何期墳墓地、人間到処有青山」(精選版日本国語大辞典)

● じん‐かん【人間】=〘名〙 人の住む世界。現世。世間。※続日本紀‐天平勝宝八年(756)五月丙子「禅師即誓、永絶人間、侍於山陵、転読大乗、奉冥路」 〔韓非子‐解老〕(精選版日本国語大辞典)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。