世は定めなきこそいみじけれ

羽田空港を離陸した直後とみられる写真。夕日に染まり始めた雲や、東京湾らしき海が写る。機内の写真は、被写体となった人の遺族の同意が得られず公開を見合わせるようになったという(小川領一さん提供)(朝日新聞・2020年8月12日)

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 【談話室】▼▽絶望的な大惨事だっただけに、生存者がいることに奇跡を感じた。1985(昭和60)年の日航機墜落事故。当時支局の記者をしており、1人の少女がヘリコプターに救出されるテレビ映像を凝視したのを覚えている。▼▽8月12日。当時中1の川上慶子さんは両親と妹の親子4人で北海道を旅行し東京から帰る途中だった。飛行機をキャンセル待ちし、最後尾に並んで4席の空きが出て滑り込んだ。だが運命の綾(あや)だろうか。小さな幸運は大きく暗転した。ただ慶子さんだけが奇跡的に助かった。▼▽「もし私も一緒に行っていたら5席が必要だったから乗らずに済んだかもしれない」。当時中2で部活を優先し自宅に残った兄の千春さんは6年前の手記で省みている。慶子さんはその後関西で看護師となり、阪神大震災では被災者を看護した。結婚し家族を持ったという。▼▽乗客乗員524人のうち生存者はわずか4人。事故は多くの人の人生を変えた。発生から36年の歳月の中で日航社員の顔触れは変わり、グループ全体の97%は事故後の入社という。520もの尊い命を失った教訓は重い。どう継承していくか。決して風化させてはならない。(山形新聞・2021/08/12付)

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事故の犠牲者の墓標に向かって手を合わせる遺族たち=2021年8月12日午前8時59分、群馬県上野村、関田航撮影(朝日新聞)

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 鎮魂の夏は続きます。もう三十六年が経過したというのでしょうか、あるいはほんの数日前に起った衝撃的な事故だったという気もするのです。その年の四月、ぼくたちは佐倉市内に転居した。まったく知り合いがなかったのですが、ただ静かな環境がいいと移り住んだのでした。そこから勤め先まで一時間半もかかりましたが、ぼくは平気でした。早起きは苦にならなかったし、朝帰りも大好きでしたから、なかなかスリルがある時代だったと思います。この大事故が起きたのは、夏、お盆まえのことでした。テレビでニュース速報が流されてから、事態の経過を固唾を飲まずに見入っていました。

 やがて事態が明らかになり、未曽有の飛行機事故だということが判明した。それから数日たって、事故機のクルーの一員に同じ町内のFさんが搭乗されていると伝えられた。もちろん、ぼくは一面識もない方だったが、ごく近所だったこともあり、なおさらこの事故は「他人事」とは思われなくなりました。以来、ことあるごとに、この大惨事に関して、いろいろと丹念に記録に当たり、刊行された書物にも目を通すことが、まるで習慣のようになった。事故に至る経過にもいくつかの問題があったと報じられていました。いまでは、いわゆる「陰謀説」なるものが大きく報じられています。その当否に関して、ぼくは何も語ることが出来ません。一言でいうなら、事故の原因究明は不可欠であるが、それはいまとなってはすべてが解明されないままで、歴史の闇に消え去るかのようになっていくことを留めようがありません。

 しかし事件や事故にかかわりのある人々が、犠牲者に対する追悼の意を失わず、それを自覚を持って語り続ける限り、「出来事」は古びないというか、消し去ることはだれにもできないでしょう。ぼくにとって、表向きは、この事故は他人事です。たしかに事故に遭遇した人に縁者や知人はいなかった。それは幸いというべきでしょうが、もしその飛行機にぼくが乗っていたら、家族の誰かが乗っていたら、そのように考えると、不幸は紙一重のところで入違っていたばかりで、その不思議を思うと、身につまされるのです。御巣鷹山のそば(ふもと)を、事故以前には何度も車で通ったことでした。事故の後に、如何したことか、ぼくは一度も通ることはなくなった。そして、毎夏、八月十ニ日に、不思議にも「手を合わせるがごとくに」、首(こうべ)を垂れているのです。機会があれば、この山にきっと登ろうと、いまでも心に秘めている。広島や長崎にも同じ想い(「また行くのだ」)を描いています。フクシマには事故直後に行きましたが、さらに自分の足で歩けるうちに、また訪れようと考えている。

 生きていると何事が迫りくるかわかりません。自覚のあるなし、注意不注意に無関係に、起るときにはさけられません。そんな、諦観ではないつもりですが、気分に駆られることがしばしばです。今年の夏は、ことのほかに「鎮魂」の思いが深まったようです。実に殊勝なことと、苦笑するばかりです。でも、生き永らえるというのは、死者に相対するということでもあるのではないでしょうか。五輪競技の四百メートルリレーでどこかのチームの走者がバトンを落としたように(目撃はしませんでした)、人生において、バトン渡しがうまくいかないこともあるし、あえて、それ(受け渡し)を拒否することもあるでしょう。でも、大きなところでは、歴史というのは世代間のバトンリレーによって生み出されてきたのです。この歴史におけるバトンリレーの、もっとも肝心なところは「競争」「勝ち負け争い」じゃないというところです。一周遅れだって、何周遅れだって、何構うものか。でも、いつかは、誰かから「バトンを受け取り」誰かに「バトンを渡す」のです。「ぼくだけはごめんだ」、そんなわがままな気持ちには、勝手人間のぼくだって、今でもなれませんね。(合掌)

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 あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからん。/ 世は定めなきこそいみじけれ。/ 命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。

 かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。/ 住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。(「徒然草」第七段)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。