「ガンバレの日」に、「ガンバラナイ」を言う

 【有明抄】ガンバレの日 きょう8月11日は「ガンバレの日」。1936年のこの日、ベルリン五輪の競泳女子200メートル平泳ぎで前畑秀子さん(1914~95年)が日本人女性として初の金メダルを獲得。NHKラジオでアナウンサーが「前畑ガンバレ」と連呼した実況中継にちなむ。きのうの甲子園でも、県代表の東明館に、テレビを見ながら何度も「ガンバレ」を口にした◆ただ、漢字で書く「頑張る」には、他人の声に耳を貸さない頑固なイメージがあり、追い込んでしまいそうな響きを伴う。英語では「Goodluck(幸運を祈る)」や「Youcandoit(君ならできるよ)」など軽い感じで背中を押す◆とはいえ長い人生の中で、自分を追い込むように頑張らなければいけない時はあるだろう。頑張ることは時にしんどい。だが、振り返るとつらく、しんどい時間は一瞬。逆に、挑戦しなかったことや必要な時に頑張らなかった日々は後悔となり、一生ついて回る気がする◆J1サガン鳥栖の松岡大起(だいき)選手が移籍し、林大地選手は海外に行く。人生にはいくつかの岐路がある。判断に迷った時は後悔しない道を選びたい。頑張れる環境、挑戦できる環境にあるのは幸せなことだ◆誰かの頑張る姿に力をもらうことは多い。受けるイメージはそれぞれでも言葉に罪はない。贈る言葉はやはり、「ガンバレ」。(義)(佐賀新聞Live・2021/08/11)

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 なんとも奇妙な日があるものです。出来のよくない冗談か洒落のような「悪趣味」といっておきます。ぼくには、暦どおりに生活を送るという習慣はありませんから、取り立ててどうということもないのですが、「ガンバレの日」と来たからには、ちょっと一言申し上げたいと思った次第。「ガンバレの日」というのは、誰が何のために言い出したのか。「日本人女性として初の金メダル」の前畑秀子さんの「力泳」を援護射撃したアナウンサーの「ガンバレ連呼」に因むというから、いかにもいやらしい。(ぼくはこの実況録音を聞いたことがあります。今でも聞けるでしょう。ぼくは二度と聞きたくないと思った。音声を消して、映像だけをひたすら観る、まったく違った印象が生まれます。人間の声っていうのは、怖いですね)

 「頑張る」「ガンバル」には、諸説ありますが、端的にいえば「我を張る」からでしょう。この語は戦前はいうまでもなく、戦後もしばらくは「使うこと」がためらわれた、避けられたものでした。あるいは女性が使うのは恥ずかしいこととされた。今では考えられないことですが、悪い言葉として敬遠されていたのです。「君がそんなところで頑張るから、みんな迷惑するじゃないか」という具合に。でも、多くの人は「頑張る」「頑張ります」と好んで使う。いろんな場面で耳にしてきました。そのつどぼくは、「ガンバラナイマン」と自分に言い聞かせていたほどです。「我を通す」という意味合いが強い語だったように思われます。口癖のように、若い人から「とにかく、ガンバリマス」「取り合えず、ガンバル」といわれて、いい気はしませんでしたね。いったい、何をガンバルんだ、と、いかにも虚仮にされたように感じられた。

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 学校でもっとも幅を利かせているのに「勉強」という語があります。でも、それはちょっと堅苦しい感じがつきまとう。むりになんかをさせられるような気がする。お店でものを買うときに、「おばさん、ちょっと勉強してよ」と、特に関西ではいいます。値段をまけてくれないかという要求。店に対して無理(損)をしてくれという気味があります。かりにお店の人が「しゃあないな、勉強するよ」といえば、利益を度外視してサービスするということでしょう。それほどに、勉強というのはする方もさせられる方も、無理がありそうです。「無理が通れば道理が引っこむ」といいますな。ぼくの好きじゃない言葉です。

 勉強を頑張るということ 学校とは「なにかを〈学ぶ〉場所」だというのが相場となっています。そんなことあたりまえじゃないか、とほとんどの人は疑いもしないけれど、はたしてどうですか。なにかを学ぶということ以上に、どのように学ぶか、つまり「学び方」が問われなければ、学ぶといってもことはすまされないとぼくにはおもわれる。ものにはいろいろな学び方がある。にもかかわらず、学校での学び方はどこでも似たりよったりで、まるで面白くもなんともない、じつに味気ないものじゃないですか。だれかに強いられて、数学や英語を学ぶということはあります。また、試験でいい成績をとりたいがためにこころはずまないけど勉強するということもある。入学試験などはその典型ではないですか。どっかで無理しているね。

 入試に必要だから、いやな科目でも勉強するのであって、それが不要な教科ならだれも勉強しないというわけです。大切なのは勉強の動機ということになります。モチベーションともいいます。それはじゅうぶんにかんがえられていないようです。たいていは否応なしに勉強する ― じっさいは勉強させられるのです。学ぶことの動機が、こういう言い方をして理解されるかどうかわかりませんが、みずからの内にあるか外にあるかで、その結果には大きなちがいが生じるでしょう。自分でするか、だれかにさせられるか、ここが分かれ目となるのです。それをすることが楽しいのか苦しいのか。

 ようするに学ぶ意味をどこに見いだすかが問題なんです。なにかを学ぶというけれど、それはいったいどういうことなのか、そのなかみを問いたい。学校で学ぶのはいかにも強制されているようで、学んでいるのか学ばされているのか区別がつかない。いずれにしても気の重いことに変わりはない。学校の勉強は今も昔も似たようなもの、といえば世代をこえてうなずかれるはずです。

 「学ぶ」とはどんなことですか なにかを学ぶというのは、つまるところ自分を発見することです。今まで気づかなかった自分をさまざまな機会においてしることだとおもうんですね。そのための練習こそが学校でなされてほしい授業だと、つよくいってみたいのです。どんな失敗をしても、かならずとりかえしがつくという経験をする場、それが教室です。そのような貴重な経験を重ねるための練習が授業なのだといいたい。

 それはまた、ある物事について自分流にかんがえ、自分流に判断する、その判断がせまく偏ったものにならないようにするための訓練です。紋切り型の物言いや、みんないっしょといった「かたまりの思想」に毒されない柔軟な発想や把握ができるように自分を鍛える機会です。いうならば、この自分にも精神の自由があるということを身をもって経験するのが教室でおこなわれる授業であり、その可能性を開くのが教師の仕事ではないのかとおもうのです。

 教育とは自由の実践だ、とある人はいいましたが、現実はその逆で、教育を受ければ受けるほど不自由な人間になる(させられる)のではないかとさえぼくにはおもわれます。まるで強制されて山に登るようなもので、せっかくの経験が台無しになってしまう。それに比べて、学ぶ(学習)というのは、相手がどうであるというよりは、自分の意志で学ぶのだという気分がこめられているようにおもわれます。たんに言葉づかいの問題ではなさそうで、「勉強しよう」と「学習する」ではそこにはっきりしたニュアンスのちがいがあるようです。だから「勉強」という言葉を教室から追放したらどうかと提案してみたい気がします。教師も子どももずいぶん勝手がちがうことになるんじゃありませんか。ついでに「教室」という語も。教える・教えられる部屋。

 なによりも一人ひとりのちがいや差異といったものを認めなければ教育の筋が曲がってしまう。それとも、そんなことはできるはずがないのに、ちがいのある子どもを同質にするのが教育や授業の役割なんだろうか、といぶかしく思うのです。平等というものをとりちがえているんですね。教師と生徒の関係において、同化と異化というのはとても大きな課題となっているのではないですか。 

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  《 誰かの頑張る姿に力をもらうことは多い。受けるイメージはそれぞれでも言葉に罪はない。贈る言葉はやはり、「ガンバレ」》とコラム氏。どうしても「ガンバレ」といいたいらしい。猫も杓子も「がんばれ」という灼熱の下、「ガンバレ・ガンバロの祭典」は終わりました。ぼくはまったく見ませんでしたが、雰囲気は伝わってきました。「金メダル史上最高」「頑張ったぞ、ニッポン」という調子。ぼくは他人を押しのけて何かをするのは嫌ですね。たとえそれが競技であっても。でも、反対にそれが大好きという人がいても一向にかまわない。それを達者に強制さえしなければ。

 ワクチン接種は「自主的です」と言いながら、接種証明がなければ著しく行動が制限されるという、へんてこりんな現象が、洋の東西、あちこちで生じています。「すべてが、頑張ってワクチンを接種しろ」、「接種率で隣国に負けているじゃないか」という狂詩曲・狂騒曲・競争曲が響き渡ろうとしています。

 マエハタガンバレ、マエハタガンバレ、ガンバレマエハタ、ガンバレマエハタ、ガンバレニッポン、ニッポンガンバレ。こんな時代相がすっかち定着しそうですな。高校野球が甲子園で始まった。「ガンバレ、ガンバレ、球児が通る」と「旗振り」を唆(そそのか)している大朝日、だとか。させる方もする方も、いのちがかかっているというか、この島に似合う景色が甲子園なんですか、暑いのに、いかにも寒いですね。ひとそれぞれに背負っているものがありすぎるような気がします。その重荷が「たかが野球」を殺していますね。

 一人しずかに、身の行く末を愚考するばかりです。「腹に一物、背に荷物」なんかじゃありませんよ。

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   たくさんある児がめいめいの本をよんでる (尾崎放哉)

 「ガンバル」「ガンバレ」という、暴力的に払いのけるような「邪魔だからどけ」あるいは「傍若無人」の風を感じさせる、こんなにはしたない言葉ではなく、自分をも他人をも励まし、いささかの勇気を与える、猛々しくない表現、そんな言葉遣いを探したいね。ぼくには、いくつかあるんです、すでにどこかで使っていますよ。「ガンバラナイ」は「我を張らない」に通じますね。我を張る、その周囲にはきっと他人がいて、わっと引いてしまうか、「俺だって」と我を通そうとするのか、いずれにいしろ、自分とは別の人がいそうですね。「一人こっそりガンバル」というのもないではないんでしょうが、他人に隠れて「ガンバル」というのを、頑張るというのかな。やはり「マエハタ ガンバレ」「ガンバレ ニッポン」という口調になると、自ずと何かを語っていますね。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです