原爆のことはやっぱり忘れ切らんね

 【天風録】人間の弱さを知る 苦しむ人を前に、手を差し伸べることなく見捨てた自分…。罪の意識を背負いながら、「人間の弱さ」と向き合い続けてきた一人の長崎原爆の証言者が今年4月、93歳で息を引き取った。カトリック修道士の小崎登明(おざき・とうめい)さんだ▲17歳のときに爆心地から2キロの兵器工場で被爆し、唯一の家族だった母を失った。アウシュビッツ強制収容所での犠牲で知られる、長崎ゆかりのコルベ神父を慕い、足跡などを掘り起こした。一方で、亡くなる直前まで自らの被爆体験を語り続けた▲伝えようとしたのは、あの日の凄惨(せいさん)な出来事だけではない。被爆直後、自分に暴力を振るった工場の先輩が大けがで苦しむ姿に「ざまあみろ」とののしり、見捨てて逃げた「心の痛み」も包み隠さず話した▲きのう長崎市長は平和宣言で小崎さんの手記を引いた。〈核兵器は普通のバクダンではない〉〈二度と繰り返させないためには「ダメだ、ダメだ」と言い続ける。核廃絶を叫び続ける〉▲小崎さんにとって原爆の恐怖は極限下であらわになった人間の弱さだったと振り返る。威力だけでなく、人の心をも壊してしまう。それこそが核兵器の非人道性だろう。完全に廃絶しなければ、平和は来ない。(中國新聞デジタル・2021/08/10)

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[ 戦後に撮影した外国人神父らの写真を紹介する企画展で、笑顔を見せる小崎登明さん=2019年撮影(長崎市で2019年8月14日午前10時12分、浅野翔太郎撮影・毎日新聞)]

 《 被爆者のの小崎登明さん、93歳で死去 /「罪」の意識を背負った被爆者として、長崎のカトリック史を掘り起こす修道士として、病と向きあう一人の人間として。15日に93歳で死去した小崎登明(おざきとうめい、本名=田川幸一)さんは、死の間際まで出会いを広げ、発信を続けた。ゆかりの人は感謝の言葉で見送った。◇小崎さんは1928年、現在の北朝鮮生まれ。三菱兵器製作所の少年工員として働き、長崎市赤迫のトンネル工場で被爆した。爆心地から約500メートルの家にいた母とは二度と会えず、孤児となった。/ 最期まで、8月9日に感じた自分の『弱さ』と向き合っていた」。国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の横山理子(みちこ)さん(47)は振り返る。昨秋から毎週、面会やビデオ通話を重ねた。/ 自分に暴力を振るった年長の工員がうめいているのを見て「ざまあみろ」とののしり、助けを求める手を振り払って逃げた。無事だった自分に「エリート意識」を感じた――。「人間とは悲しい存在」。最後となった2月の講話でそう語った。

 戦後、聖母の騎士修道院(長崎市)に身を寄せ、修道士に。ポーランド人のコルベ神父(1894~1941)に希望を見いだした。長崎で布教し、アウシュビッツ強制収容所で身代わりを申し出て亡くなった神父の生き方を、自らの体験と対置。30代から長崎やポーランドで足跡を調べ、雑誌や著作で発表した。/ 80年代初頭には神父の資料を作家・遠藤周作に提供。遠藤の代表作の一つ「女の一生――二部・サチ子の場合」に結実した。/ カトリック長崎大司教区の高見三明大司教(75)は「多くの人に、魂の糧になることを伝えつづけてくれた」とねぎらった。/ 2009年には「人生を語りたい」とブログを始めた。思い出や、度重なるガンとの闘病をつづった。亡くなる前日に「もう、チカラが無い」と書くまで、諫早市の老人ホームや入院先の聖フランシスコ病院(長崎市)からほぼ毎日更新していた。

 ブログ読者だった看護師の塩沢美樹さん(38)とドイツ語講師の野々村哲さん(44)は何度も小崎さんを訪ねた。小崎さんが撮影した約1万カット分のネガの整理を手伝い、19年には長崎市で写真展も開いた。塩沢さんは「見たことのない世界を見せてくれた。思い出の中で、また会える気がする」と話した。/ 自らの信念を、生前の小崎さん自身はこう語っていた。「生きるとは、孤独と出会い」(榎本瑞希)(朝日新聞・2021年4月17日)

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 八月十日(火)。酷暑の盛りともいえる日ですが、劣島のいたるところで豪雨の被害が出ています。生きているというのは、さまざまな被害に遭遇し、数多の災害を目撃することなのだと思い知らされる日々です。夏の暑さと生きることの辛さの二重苦です。それに覆いかぶさるように、一層正体不明のコロナ禍が猖獗を窮めている。天災と人災というものの、転載は本の糸口、殆んどの傷口は「人災」であり、「無作為」である現実に慄然とする。忘れたころににやってくるどころか、忘れるいとまさえもない災厄の、陸続として襲い来る「令和の夏」の酣(たけなわ)の頃です。

 長崎のカトリック修道士だった小崎登明さん。本年四月に死去されました。ここにも、一つの人生があり、いのちのつながり、生命のバトンタッチを感じます。余計なことは言うまい。「人間は罪なるものだが、コルベさんのような人もいる。そこに希望があり、救いがある。孤独と出会い、愛といのち、これが人生だ」と。そして「孤独は生涯ある」と言い切る氏の表現は、終生それを実感しつつ生きてこられたかと思われる人の言だけに、身に迫るし、身につまされるように、ぼくは受け止めた。孤独は人間にとってかけがえのない、終生の友人、裏切ることのない友なんですよ。だからこそ、「出会い」が奇蹟になるんじゃないですか。

 「人間の弱さ」、これは完璧です。欠けたところはまったくない。立った一つ、人間が有している完璧性」、それが「弱さ」です。この弱さを、自他に晒すことができるかできないか。そこから大きな差が生じてきます。どんな人も、自分は弱い人間であることを知っている。知っているからこそ、それを隠したい、あるいは何かで覆いたくなるのです。簡単に言えば、虚名・虚栄・虚勢・虚業・虚飾・虚言などなど、さまざまに借り物の「洋服」をとっかえひっかえ身にまとって、自分の弱さを偽り隠したいのです。でも、自分にはその弱さを隠すことはできない。そこが救いなのかも知れません。ぼくたちが住む世界は、この「弱さ」をめぐる駆け引きで成り立っているようでもあります。「弱さが消える薬」「これで弱さは退散、有名学歴証」、自分は弱い、でもこうして弱くなくなったという、偽りの自分探しに明け暮れているともいえるのです。ぼくなどもその典型であったと、今から思うと冷汗も涙も出てきます。

 では、その弱さを克服しえたかと問われると、たちどころに、息が詰まる、心が萎える。かろうじていえるのは「自分は弱い人間だ。それを自分に隠さないこと」それだけです。それで強くなれるのではないけれど、自分の弱さを認めることで、すくなくとも「自分騙す」ことから解放されます。弱さの生み出す「二重苦」を、なんとか防ぐことができる。その分だけ、変な表現ですが「弱くなくなった」といえるようにも思えるのです。人間が強い、あるいは強い人というのは、「弱さ」を隠したり偽ったりしない人です。正直を貫こうとする人のことじゃないですか。人間の「強さ」はここにしか認められないように、ぼくは感じてきたのです。いかがでしょう。何処まで行っても「弱さ」は消えてはくれないということです。弱さは完璧です。

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 開始から一年半が経過しました。記憶細胞の劣化防止のための、効力の定かならぬ「自主トレ」も、いよいよ佳境に入ってきました。杖を突いたり転んだり、七転八倒というのではないでしょうが、まあ、それに近いようなものです。面倒は厭わないが、簡単・簡潔・単純を好むというぼくの弱すぎる性格からすると、いささかの辛酸を加えてきたかもしれません。でもまだ、ようやく「とば口」に立ったばかりのようでもあります。汗が出るのは暑さのせいだけではなさそうですな。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)