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本題に入る前に、伊勢新聞のコラム「大観小観」について一言。このコラムもかなり前から読んでいますが、地方紙の中でも特筆したくなるほどの特異なコラムであると、ぼくには思われます。いずれ発行主体の方針かもしれませんし、新聞企業の地域における位置に関係するのかもしれません。ほとんどが以下のような(スキャンダルまがいの、汚職ネタ)記事で埋められています。三重という土地柄かどうか、ぼくには見当もつきません。(それを非難しているのではない、どうしてそうなのか、事情が分からないだけですから、余計なことは言わないつもり)そうは言うけど、奇妙だと思うのはぼくひとりで、事情通にはよくわかっているのでしょう。一昔前の多くの地方紙は、おおむねこのようでもありました。

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余談(このブログに積み重ねている駄文・雑文は、すべて余談、余話、蛇足、無駄話です)はさておき、下に掲げたコラムを読んでみると、ぼくの言いたいことが無駄なく書かれている。この新聞に、こんなコラムの一面があったんだという、意外性に驚いています。そんな一地方新聞の「名物・特異コラム」を取り上げたのは、通例にない、まったく読み慣れていない記事内容に遭遇したからです。ぼくには、昨日(八月二日)の「大観小観」は、とても読みごたえがあると感心したし、この新聞の、もう一つ「別の顔」を見た気がしました。いつもこの「顔」が見たいな。このようなコラムが続くといいんですがね。本題(という蛇足)の前に、さらに蛇足ですが。
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【大観小観】▼昭和7年のロス五輪で、200メートル平泳ぎ銀の前畑秀子に祝賀会の席上、永田秀次郎東京市長から「なぜ君は金を獲らなかったのか。0・1秒差ではないか。無念でたまらない」と涙を流さんばかりに雪辱を求められた。3年後のベルリン五輪で金を獲った前畑は、負けたら日本へ帰れないと思った、と書いている▼テレビ全局が五輪一色さながらで、新聞も含め、まず日本のメダル獲得数が報じられる。永田市長の声涙下る励ましは、今も形こそ違え日本に脈々と流れているのだろう。柔道以外はほとんど見ていないので何のオーソリティーも主張しないが、銅を獲得し、関係者と抱き合って涙を流して喜ぶ海外の実力者を見ると、銅で悔し涙を流す日本選手とはずいぶん違う気がする▼国際大会で優勝した吉田沙保里さんが日本のファンへのコメントをテレビ記者に促され「国民のみなさん」と切り出したのに吹きだした。五輪憲章の「国家間の競争ではない」という定めに最も遠いのが日本の政府であり選手であり、マスコミかもしれない▼五輪選手への誹謗(ひぼう)中傷が会員制交流サイト「SNS」で広がり、日本オリンピック委員会(JOC)が監視チームを発足させたという。昭和59年のロス五輪女子マラソン代表の増田明美さんは「非国民」「国賊」などの言葉を路上で浴びせられた。前回の東京五輪マラソン銅の円谷幸吉は重圧で自殺した▼バッシングは励ましと日本の場合、表と裏。世論の動向で時に激しく現れ、時に沈黙して出番を待っている。JOCの対策は遅きに失するが、ことはJOCだけの問題でない。(伊勢新聞・2021/08/02)
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●永田秀次郎=明治35年郷里の州本中学校長を振り出しに、大分県視学官、福岡県内務部長、京都府警察部長、三重県知事などを経て、大正5年内務省警保局長となり、7年の米騒動に対処、退官して貴院議員となる。その後、東京市長後藤新平に請われて助役となり、12年市長に就任して大震災に遭遇、いったん辞任し、昭和5年市長に返り咲いた。その後、帝国教育会長、教科書調査会長、拓殖大学長などを歴任。11年選挙粛正連盟理事長から広田内閣の拓相となり、さらに阿部内閣の鉄道相を務めたあと、17年陸軍の軍政顧問としてフィリピン滞在するが、マラリヤにかかり帰国。三高時代から高浜虚子と親しくして俳句をよくし、著書に「青嵐随筆」「浪人となりて」「永田青嵐句集」(遺句集)がある。(20世紀日本人名辞典)
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永田という人はなかなかの政治家でした。どういう経緯で、和歌山県橋本出身の前畑さんに「なぜ君は金を獲らなかったのか。…無念でたまらない 」といったのか。強く励ましたつもりだったのか、あるいは何をしていると、あろうことか、彼女を脅したのか。見知らぬお父さんが「前畑さん、金を逃して、悔しい」といったのとは、きっと雲泥の差というか、受ける風圧は違っていたでしょう。高名な有力政治家からの受けた「ストレス」は想像を絶して強かったと思われます。そのおかげで、「ベルリン五輪で金を獲った前畑は、負けたら日本へ帰れないと思った」といっそうです。いったいその悲壮感が漂う思い、それにはどのような感慨が籠められた述懐だったのでしょうか。

このコラムが、珍しく(というと失礼に当たりましょうが)「いいね!」となったのは、次の一行でした。《 国際大会で優勝した吉田沙保里さんが日本のファンへのコメントをテレビ記者に促され「国民のみなさん」と切り出したのに吹きだした 》、この部分でした。やはり「国を代表している」という意識に縛られているのは沙保里さんだけだったのかどうか。選手の強化費に税金が使われ、競技団体にも税金が投入されていることを考えれば、「金(きん・かねの両方か)を獲れ」という無理筋も出てこようというもの。ぼくは「スポーツはアマチュア」が何よりだと言い続けるのも、いつか、かならずや国の威信にスポーツは踏みにじられるからであり、アスリートもまた、同じように使い捨てにされるかもしれないと考えるからです。それは選手らの勝手次第だから、無関係のぼくがとやかく言う筋合いはないのですが、背にも腹にも「国旗」を縫い付けて泳いだり走ったり、ボールを追っかけたり蹴ったりというのは、素人のスポーツ好きとして、ぼくにはしっくりこないね。(コラム氏は先刻承知だったんでしょうが、因縁です。吉田さんは三重県津市の出身。国民栄誉賞受賞者であり、「霊長類最強女子」の「勲章」をも冠せられています)

この駄文作成中、隣の部屋でかみさんが「五輪特番」を大音量でテレビ観戦している。時に拍手が起こることもあります。してみれば、彼女は相当な国粋主義者だと言いたくなります。ぼくはアナーキズムだから、拙宅では深刻は内乱状態がつねに勃発するのです。仲介者はない。猫は呆れている。五輪を巡る意見の相違は、いたるところにあるんですね。アナウンサーが「ニッポン、がんばれ」と言っているのが聞こえてきました。爽やかではないし、自分の立場を忘れて「国威発揚」に毒され、してやられているというのは、やはり異様でもあり異常でもありますね。
いよいよ「東京五輪狂詩曲」も佳境を通り越した感があります。ぼくはまったく見ていませんが、ネットを開くと目障りなほど、ちらちら、ちゃらちゃら「五輪狼藉」の痕跡が、ほんの一瞬とはいえ、目に入るのです。それを見せつけられるだけでも、どういうわけだか、「戦い済んで日が暮れて」という寂寥感に襲われます。この「戦後処理」に、きっと「増税」が目論まれています。

加えて、コロナの惨禍は、留まるところを知らないように、無能無策無責任の感染拡大防止策の「バブル」を突き破って、強靭なウイルスは四散、四散、また四散。どのような結末が来るのでしょうか。(とにかく、迂遠なようですが、検査(PCR)、感染者発見、病院隔離、治療。これを徹底するしか外に方策はないのです。そのPCRをしないというのですからお手上げです。いまや、「露営病院」「野営病院」「陋屋病院」の巷と化している都会地です、何かに追われるように、最悪の方角にひた走る。「安心安全、ワクチン接種、五倫万歳、安心安全、阿毘羅吽欠蘇婆訶(アビラウンケンソワカ)」
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●前畑秀子・まえはたひでこ(1914―1995)=オリンピックで優勝した水泳選手。和歌山県橋本町生まれ。1932年(昭和7)のオリンピック・ロサンゼルス大会200メートル平泳ぎでデニス(オーストラリア)に敗れて2位。選手になって初めての敗戦で、4年後のオリンピック・ベルリン大会まで毎日2万メートルを泳いで雪辱を期し、大会では強敵ゲネンゲル(ドイツ)と息詰まる接戦を演じたが、1ストローク差で優勝。実況中継したNHKの河西(かさい)アナウンサーが「前畑がんばれ」と声援した話は有名である。結婚して兵藤(ひょうどう)姓となる。83年(昭和58)4月水泳教室で指導中脳出血で倒れたが、1年余の闘病生活を終えて社会復帰した。1981年オリンピック功労賞(銀賞)を日本女性として初めて受賞した。[石井恒男](日本大百科全書・ニッポニカ)
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もう一人の女性アスリートについて。その人は前畑さんのさきがけのような人だった。五輪が醸しだす「個人を超えた霊力」に、じゅうぶんに憑依された人だったのだろうか。 「負けました、と云(い)つて日本の地を踏める身か、踏む様な人間か」 と自らを叱咤する、人見絹枝さん。二十四歳の生涯を生き切った人でした。東京五輪までの歴史には、語り尽くされてこなかった、たくさんの「なぜ君は金を獲らなかったのか」)という、有形無形の激励や脅迫意味での「国の威信をかけた戦い」だということでしょう。

一選手が勝利を挙げる(メダルを獲る)、それは紛れもなく報国の誉として、名誉の勲章になって来たし、今だってその「国益にかなう、模範の精神」はなくなっていないんです。それが顕著であれば、吉田紗保里さんのように「国民栄誉賞」ということになる。さらに、これも言わずもがなですけれど、金・銀・銅の獲得に応じて「報奨金」が払われる。金や名誉ではないという、そういわれるっ理由や感情、それは分かりますが、そういった「報奨」を辞退した例を、ぼくは寡聞にして(というのでしょうね)知らないのです。こんなことをとやかく言うのが本旨ではありません。スポーツは、個人の意思にのみ依存する、個人の一貫した精神に基づくものであると、ぼくは言うばかりです。職業スポーツは、また別の範疇で語られるべきだし、ぼくひとりだけは、その境目(素人と玄人)は曖昧にしたくないのです。わざと曖昧にしたままで、「平和の祭典」「公平公正」などと御託を並べること自体が、スポーツの冒涜だと、ぼくは言うのです。(右写真の左が人見さん)
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【正平調】1928(昭和3)年のアムステルダム五輪に、日本の女性アスリートが初めて出場した。伝説のランナー人見絹枝さんである。運命の8月2日、陸上800メートルで銀メダルを獲得した◆期待された100メートルは、準決勝でまさかの敗退を喫した。「負けました、と云(い)つて日本の地を踏める身か、踏む様な人間か」。日の丸の重圧に苦しんだらしい悲壮な心境を自伝「スパイクの跡」につづっている◆どうにか雪辱をと、急きょ800メートル出場を決めたが、この種目は経験がない。あすの1回でいい、どうか走る力を与えてください-決勝前夜は神様に祈り続けたという◆8月2日はその後の女性アスリートにとっても不思議な縁がある。有森裕子さんは92年のその日、バルセロナ五輪マラソンで「銀」に輝き、陸上では人見さん以来64年ぶりのメダリストとなった。きのうは村上茉愛選手が体操女子個人初の「銅」である◆人見さんは新聞記者として働きながら練習を休まず、五輪に出場したそうだ。本人いわく「クタクタ」だけど「非常に愉快です」。それなのに神様は残酷だ。きっと無理もたたったのだろう、程なく病に倒れた◆24歳で世を去ったのは五輪出場からわずか3年後の8月2日。それから90年、五輪の夏にその生涯をしのぶ。(神戸新聞・2021/08/03)

●人見絹枝(ひとみきぬえ》(1907―1931)=日本女性初の海外陸上競技参加選手。岡山県生まれで、二階堂体操塾(日本女子体育大学の前身)を卒業後、京都第一高等女学校の体操教師などを勤めたあと、大阪毎日新聞社に入った。スポーツセンスを認められ、1926年(大正15)スウェーデンの第2回万国女子陸上競技大会にただ1人で参加し、走幅跳び、立幅跳び一位、円盤投げ二位、100ヤード競走三位で、個人最高の総合得点15点をあげ、会長特別賞を受けた。28年(昭和3)の第9回オリンピック・アムステルダム大会では、800メートル競走では二位だったが、一位のラトケ(ドイツ)とは胸一つの差で、同タイムの2分17秒6(世界タイ記録)をマークした。[石井恒男] (日本大百科全書・ニッポニカ)
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第二、第三、…の前畑氏や、第二、第三、…の人見さんが、連綿と、あるいは陸続と生み出され(作られ)鍛え上げられて「檜舞台」に送り出されてきたことでしょう。それは個々の競技者が抱く意志でもありますし、それを根底で支える国威の発露でもあるでしょう。それに対して、ぼくはさんざん卑見を述べたし、これ以上、僻事を言う気も起りません。
「神様、私の競技にまだまだ運がありますなら、明日の一戦だけは勝を与えていただきたい、もし明日も負けるようなことがあったら、私は日本へ帰れません。また競技もこれが終りです」(人見「オリムピックでの涙の力走」より。『婦人公論』1928年11月号)「百年、一日の如し」
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