【北斗星】1964年東京五輪で日本が獲得したメダルは金16、銀5、銅8の計29個だった。本県選手は9競技に15選手が出場し、重量挙げ、体操、バレーボールの3競技で6選手がメダルを手にした。初めての自国開催の五輪。その大舞台で県勢が活躍する姿に多くの県民が誇りに感じたことだろう▼能代市出身で元バレーボール男子日本代表の菅原貞敬(さだとし)さん(82)=静岡県住=は当時の県勢メダリストの1人。ピンチサーバーや守備要員として活躍、気迫あふれるプレーで日本の銅メダルに貢献した▼観客の声援が菅原さんを奮い立たせた。日本が劣勢になると観客席から「菅原を出せーっ」と声が飛び、「菅原」コールが起こった。「武者震いしたのを覚えている」▼2度目の東京五輪は大半の会場が無観客だ。57年前に菅原さんを後押ししたような大きな声援が響くことはない▼新型コロナウィルス感染が再拡大する中、五輪を開催する意義は何か。容易に答えは見いだせない。仙北市出身で東京五輪・パラリンピック組織委員会の荒木田裕子副会長(67)は開幕前のインタビューで「自分もずっと悩んできた。今も答えは出ていない。ただ、スポーツの力は信じたい」と述べていた▼日本勢のメダルラッシュが続く。バドミントン女子ダブルスのナガマツペア(北都銀行)は準々決勝で惜敗したが、素晴らしい粘りを発揮し県民に大きな感動を与えた。異例ずくめの五輪は後半戦に入った。選手たちの活躍に心から声援を送る。(秋田魁新報電子版・2021年7月31日)
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数えきれない難題・課題を抱えながら、「自称・東京五輪」は遮二無二進んでいる。まことにご同慶の至りとは言えないのが、はなはだ残念です。くりかえしてきたように、ぼくはスポーツは大好きですが、それを何かの手段や踏み台にしたくはない、そんな思いを小さいころからいつでも胸に秘めてきました。プロスポーツは華やかだし、多くのファンが歓喜し興奮するのも、ぼくは分かります。でも、それはあくまでも「職業」「飯の種」ですから。楽しみとか暇つぶしにスポーツをするのとはわけが違うのです。もう実地に運動ができなくなる年齢に達した今でも、その感情(何かの踏み台に「スポーツ」を利することに対する、ある種の距離感があるということ)は変わりません。前回の東京五輪が開かれた年の四月にぼくは都内のあまり上等でもない大学に入学しました。(これは今から考えても、ぼくの浅はかな選択だった)東海道新幹線に乗ったのも、その時が最初。通学に利用していた都電が邪魔者扱いされて撤去されたのも、首都高速道路建設・自動車社会のさらなる前進のためでした。「首都高」建設で神田川が埋め立てられ暗渠(廃墟?)になるのを自分の眼で見ることができた。ひどいことをするものだと、腹の底から驚いた。その後、あらゆる地域で、この破壊と建設が猛烈に展開された。これを「高度経済成長期」というらしい。 経済は、けっして成長なんかしないのに。
その肝心の東京五輪の競技の場面を、ぼくはほとんど記憶していない。テレビがなかったわけではないから視聴したのでしょうが、あまり覚えていない。後年になって「記録」として何度も観ることはありましたが、それで「大感動」ということはなかった。ぼくには他人のような「高ぶる情感」、つまるところは「愛国心」が欠けているのかもしれないとも思った。戦時下であったら、まちがいなく、ぼくは「国賊」であり「非国民」であることを覚悟していますね。五輪が終わったその秋、国立競技場で「大学の体育祭」があった。ぼくはサボるつもりだったが、競技場に来なければ、「体育の単位(必修科目)」は与えないという通告があったし、そのために卒業が延びるのも馬鹿らしかったので、不本意だったが、参加した。なんと現場で「二度も出席票」を書かされたことだけを覚えている。汚いことをするな、と腹が立った。こんなことはどうでもいいことで、ひたすら、この大学はくだらないという気持ちだけが育った。

運動会であれ、村祭りであれ、元は何のために(開催する理由)という目的とか理由があったのでしょうが、始まってしまえば、クラス対抗だの、町内(村内の各地域)対抗に早変わりする、これが楽しみで参加する人が圧倒的なんでしょうけれど、ぼくは、なによりその「勝ち負け争い」が嫌いでした。運動すること自体が目的というつもりはない。何かのために体を鍛えるのでしょうから、いろいろな理由や目的を認めます。それをしたうえで、メダルのランキングを挙って報道する、郷土の代表の活躍を大見出しで刷り込む、それはまた競技者自身とは異なった、岡目八目の自尊心を誇示する狙いがあるのは見え透いています。ぼくは、そんなの関係ないよと、一言の下に否定したくなります。民衆や観客にもいろいろあるでしょうが、「贔屓の引き倒し」だけはご免被るのです。「お前も感動しろ」と、どうして言いたくなるんだろうねえ。
広く見れば、世界の国々が参加しているのだから、必然的に「国別対抗」が眼目になるというのでしょう。ぼくはそのようには、五輪を考えないけれど、現にそうですから、この醜悪な対抗戦には目を瞑ります。どこの国が金メダルをいくつ奪おうが、それはスポーツそのものとは類を異にします。問題は「メダルを取りたい」その選手の背中に国旗が縫い付けられている、そんな「平和な戦争(IOCのバッハ氏が言ったこと)」は、スポーツの精神(があるなら)に反するというばかりです。

毎日、地方紙を一瞥します。そこには、こと五輪に関しては「お国自慢」「出身地贔屓」が溢れています。郷土愛は、愛国心の震源地であり、エピセンターだと、図らずも思い起こしたほどです。微笑ましいという人もいるが、ぼくは微笑まないな。野球が好きだけれど、「都市対抗野球」とかいうゲテモノは忌み嫌う(今では、サッカーのJリーグも「都市対抗」なんですか)。野球は選手がするのであり、それを誰かが応援するのはいい。でも、手を尽くして「一つの都市」の勝ち負けをめぐる闘いなんて、なんともグロテスクですね。今でもやっているのでしょう、「国民体育大会(国体)」。皇族もお出ましになるという。何せ、「国体」ですから。主催県が天皇杯だの皇后杯だのを獲得するために、八方手を尽くして「強い選手」集めに奔走している。見苦しいというほかありません。地域エゴは国家エゴに直結している、という以上に相似形なんですね。ここでいわれる「スポーツ」には、何かが常に付着しているのです。選手の背中には国から地域、企業からスポンサーに至るまで、いつも「一つの弾)の如くに、弾かれていないでしょうか。国を背負い、地域を背負い、企業を背負い、会社を背負う、なんとも清々しくないというほかありません。「スポーツ」の範囲を超えて、何かの手段、踏み台になっていると言えると思う。
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真面目ではなかったが、先輩から頼まれたので、若いころから「看護学校」の授業を、まじめ腐って、担当していた。通算でも三十年にはなるでしょう。それでも飽きなかった・辞めなかったのは、授業のための調べもの・準備(おざなりでしたよ)が楽しかったし、医学や看護、あるいは病気や健康など、普段では手を出さない(関心が湧かない)分野の学習がついて回ったからでした。看護といえば「ナイチンゲール」一辺倒、というのは視野が狭いでしょうね。これも痛感させられた。そのくだりで言うと、ある時、そうとう前になりますが、一人の女性の名前を文献で見つけていたく心を動かされた。その人が「イーデス・キャベル」でした。新聞にも、珍しく彼女の記事がコラムに出ていました。「筆洗」はよく読んでいましたし、キャベルに触れてくれたので、大いに気を強くしたことを記憶しています。そんな時は、なんとも楽しい。
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【筆洗】英国人の看護師イーディス・キャベルが銃殺されたのは、第一次世界大戦のさなか、一九一五年の十月だった。ドイツ占領下のベルギーで、彼女は敵味方分け隔てなく献身的に手当てをした▼傷ついた英仏の兵士をかくまい、中立国に逃れるのを助けた。ドイツ軍は彼女を捕らえ、軍法会議で死刑を言い渡した。キャベルは処刑の前夜、自分が祖国のために喜んで命を捧(ささ)げることを、親しい人たちに伝えてほしいと、静かな口調で牧師に語った▼そして続けた。「けれど、私は申し上げたいのです…愛国心だけでは不十分なのだと、つくづく分かりました。誰に対しても、憎しみも恨みも持ってはいけないのです」▼自分が育った土地と人々に絆を感じ、守ろうとするのは、自然な感情だろう。しかし、その心に他の国や民族への憎しみや恨みが交じった時、政治がそれを巧みに利用する時、愛国心が危険な力を放つことは、歴史が教えてくれる▼国民の知る権利を損なう特定秘密保護法を成立させたと思ったら、今度は外交・防衛の基本指針・国家安全保障戦略に「愛国心」を盛り込むという。国の大事は知らなくてもいいと言いながら、国を愛せと言う。随分と、政府に都合のいい国民をご所望のようだ▼政府が「愛国心」と言う時は、よくよく吟味した方がいい。実は「政府を愛する心」を求めているだけかもしれない。(東京新聞・2013/12/13)
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● イーディス・ルイーザ・キャヴェル(Edith Louisa Cavell、1865年12月4日 – 1915年10月12日)は、イギリスの看護師。エディス・キャベルなどと表記されることもある。
概要 イングランド、ノーリッチ近郊のスワーデストンで4人兄妹の長女として生まれた。ノーリッチの女学校を卒業後、クリーブドンの学校へと進学。卒業後は、ベルギーのブリュッセルで家庭教師(ガヴァネス)として働いた。その後、父親が病気になり帰国して、父の介護に従事する。これがきっかけとなって、看護職の道を選択することになる。/ 父親の回復後、1896年、30歳で王立ロンドン病院の看護師だったエヴァ・ラッケスの元で看護師としての勉強を始め、イギリスの様々な病院で看護師として働く。その後自立し、個人看護師として、訪問看護師の仕事などを行った。1907年、それまでの実績が評価され、ブリュッセルに設立されたベルギー看護学校に42歳で看護の教師としてとして招聘された。最初は4人だけの生徒だったが、6年間で400人の生徒を送り出した。

第一次世界大戦時、両陣営の兵士の命を差別なく救い、200人以上の連合国軍兵士がドイツ占領下のベルギーから脱出するのに尽力した。そのためドイツ軍に捕らえられ、軍事法廷で反逆罪の有罪判決を受け、死刑を宣告された。赦免のための国際的な圧力にもかかわらず、キャヴェルはドイツ軍銃殺執行部隊によって1915年10月12日に射殺された。彼女の処刑は国際的な非難を受け、大々的に報道された。
キャヴェルは聖公会の篤い信徒で、その信念に従って、助けを必要とするすべての人々、ドイツ、連合国の両陣営の兵士に救いの手を差し伸べた。ナイチンゲールの事績に「敵味方の区別なく」という表現が使われるが、それはナイチンゲールではなく、キャヴェルのことである。「助けを必要とする命がある限り、私は働き続ける」 (I can’t stop while there are lives to be saved.) という彼女の言葉が知られている。/ イングランド国教会は彼女を列聖し、聖人暦の10月12日の聖人としている。/ キャヴェルはベルギーにおける近代看護の先駆者として、存命中からすでに知られる存在だった。

処刑の際の逸話 キャヴェルは彼女とともに活動していたベルギー人建築家のフィリップ・ボック(フランス語版)とともに処刑された。/ また、次のような伝説が残されている。/ 処刑される際、彼女は目隠しを拒否し、彼女に照準を合わせる小隊を前にして気絶した。地面に倒れた彼女の頭を、将校の命令を受けた小隊の一人がリヴォルバーで撃ち、死に至らしめた。/ 銃殺執行部隊のラムラー (Rammler) という隊員はキャヴェルに引き金を引くことを拒否したため、彼女の処刑が終わると将校にその場で裁判なしに銃殺された。ラムラーの遺体を収めた棺はキャヴェルとボックの棺に挟まれて埋葬された。/ 第一次世界大戦の出来事を伝えるポストカードには、キャヴェルの処刑の様子を伝える物のほかに、ラムラーの棺に入った遺体を伝える物が複数存在する。しかし、彼女らの処刑の様子やこれらの逸話に関する情報は錯綜しており、このラムラーと呼ばれる男の身元や本当に存在したのかすら明らかになっていない。(Wikipedia)(「ウィキ」を引用しました。ぼくは会員(サポーター)でもあり、ささやかながら、どなたかがぼくの記事(まだあるかどうか)を書かれていたせいもあって、よく見ることがあります。内容も徐々に充実してきたようにも思えます。引用の理由みたいになりましたが)(一時、キャベルはグーグルのロゴになっていました)
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五輪は「国別対抗戦」であり、「国民体育祭」なんだ。国家の闘いであり、地域の闘いに使われるのが「スポーツ」です。これにはぼくは賛意を示せません。闘うのは選手個人であり、それを応援するのも観客個人です。それが「束」「絆」になれば、奇妙なことが起こってしまう。《 観客の声援が菅原さんを奮い立たせた。日本が劣勢になると観客席から「菅原を出せーっ」と声が飛び、「菅原」コールが起こった。「武者震いしたのを覚えている」》(「北斗星」) 《「けれど、私は申し上げたいのです…愛国心だけでは不十分なのだと、つくづく分かりました。誰に対しても、憎しみも恨みも持ってはいけないのです」》《 自分が育った土地と人々に絆を感じ、守ろうとするのは、自然な感情だろう。しかし、その心に他の国や民族への憎しみや恨みが交じった時、政治がそれを巧みに利用する時、愛国心が危険な力を放つことは、歴史が教えてくれる 》(「筆洗」)故里を大事に思うのではなく、故里出身や関係のある選手を応援する、それは分かります。でもその時、選手と故里がくっついていませんか。その自覚があるかどうか。故里が「祖国」に重なるのはわけもありません。「ニッポン、がんばれ」「フレーフレー 日本」と声をからすが、選手の存在が消えているんじゃないですか。旗や国歌に感動するのは大いに結構でも、それを他人に強いるのは戴けないですね。

何のための五輪開催か。《 仙北市出身で東京五輪・パラリンピック組織委員会の荒木田裕子副会長(67)は開幕前のインタビューで「自分もずっと悩んできた。今も答えは出ていない。ただ、スポーツの力は信じたい」と述べていた 》(「北斗星」)、荒木田氏の意見に異論はないが、「スポーツの力は信じたい」というところが分からない。スポーツには、不可能事を可能なものにするような「神通力」でもあるのでしょうか。このところは意味不明です。ぼくがスポーツマンじゃないからでしょうか。「スポーツの力を通じて、平和を」とも言われるが、それもわからない。一時期、「たかがスポーツ、されどスポーツ」という言い草が流行りました。ぼくは、その表現を好まなかったが、運動(スポーツ)が持っている潜在力・魔力とでもいうものの底知れなさ、つまるところは「神通力」を言い当てようとしたのでしょうか。ぼくにいわせれば、どこまでいっても「たかがスポーツ」「遊び(play)」じゃないか、そうとらえているし、それ以上のものとは考えていないですよ。名誉も金もついてこない、「たかがスポーツ」です。ぼくの個人の好みでいうなら、スポーツはアマチュアりズムが華。プロは別物ですよ。
プロ野球やゴルフ、あるいはサッカーや柔道、水泳など、今回も五輪種目に入っているそれぞれのスポーツは「たかがスポーツ」ではないように、ぼくは見ているのです。あえて言えば、「(人間が)不純なスポーツ(にしてしまうんだ)」なのかもしれない。なぜなら、「国旗」や「国歌」、それが暗示し明示する「国威」がついて回っているからです。少年の頃に近所の野原でやった野球には「旗」も「「歌」もなかった。「純粋(単純)なスポーツ(プレイ)」だったし、「たかがスポーツ」だったと、今でも思っている。(右上の写真はベラ・チャスラフスカさん。一例として、彼女に言及したくりました。彼女の演技に引き付けられて、ついには「国」も「勝ち負け」も消えてしまったという経験をしました。これまでにも、わずか数人でしたが、そんな選手にお目にかかれたのは望外の喜びだったと思う。彼女の「演技」にひたすら目を奪われていた。そこに「スポーツの力=美しさ」があったように思った。これは嘗ても、それ以降もないことでした)

●ベラ チャスラフスカVéra Čáslavská(1942.5.3 -2016.8.30)=チェコスロバキアの体操選手。プラハ生まれ。カレル大体育学部卒。1964年東京オリンピックで個人総合、跳馬、平均台でそれぞれ金メダルを獲得する。’68年メキシコ・オリンピック個人総合、跳馬、段違い平行棒、床の演技で優勝を飾る。プラハの春では、ドプチェクの支持者の一人であった。’90年大統領顧問、五輪委員長となる。夫のオドロジルも陸上選手である。(20世紀西洋人名辞典)
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