
【春秋】 廣瀬郁実さんは小学6年のときに、いじめに遭った。誰も口をきいてくれなかった。友だちなんかいらない、と思った。死んでしまいたい、とも▼そんな気持ちのまま月日が過ぎ、中学3年のとき、大好きだったお父さんを病気で亡くした。冷たくなった体に触れ、初めて人の死を実感した。死ぬのが怖くなった。恐怖から逃れたいと思った▼足は自然にお寺に向いた。鎌倉の近くで育ったので寺は身近な存在だった。一人で旅もしたくて夜行列車で京都に行ったのは高校2年のとき。三十三間堂で1001体の千手観音を見ていると不思議に体が熱くなり、涙がポロポロ出た。14年前のことだ▼この話を最初はラジオで聴いた。小欄ですぐに紹介するつもりが細部の記憶がだんだん不確かになって書けずにいた。近著「仏像の旅」(山と渓谷社)があると知り、それを見ながら書いている▼悲しくて泣いたことはある。悔しくて泣いたこともある。感動して泣いたのは初めてだった。「つくった人がいて、守ってきた人たちがいて、拝んできた無数の人がいる」。そのことに心がふるえた。「人間ってすごい」と初めて思ったという▼大学で仏教美術を学んだあと、仏像を訪ね歩いた。昨年末に47都道府県を巡り終えた。行く先々でいろんな親切にも出合い、元気ももらった。人間なんか大嫌いだったはずが、気がつけば大好きになっていた。「仏像ガール」で通している。(西日本新聞・10/12/04)
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おやじのせなか 反面教師、感謝二つ 富野由悠季さん
父を情けない、恥ずかしい人と思っていました。ずっと。/ 化学の技術者で、戦中は小田原の軍需工場にいた。陸軍のために防毒マスクや戦闘機の防水布を開発する仕事です。それだけじゃない。僕は中学の頃、父の当時のスケッチを見つけた。「これ何」と聞くと、「潜水用空気袋。試作を命じられた」。米軍上陸を想定し、波打ち際に少年兵を潜ませて捨て身の突撃をさせるためのものでした。僕にとって「特攻」は神風のことじゃなかった。/ さらに。父が技術者を選んだのには理由があった。戦局悪化後に工場に入ったのは、軍の作戦に直結する仕事という計算から。徴兵逃れです。戦争で身内を亡くした友だちには絶対に話せない父の過去だった。/ 戦後は中学の理科の教師になったけど、「教員に落ちぶれた」と平気で言う。教え子に失礼だと腹が立ったし、現実から常に半歩ひいた、この志のない人生への態度は何なんだろうと子どもながらに思いました。/ 父の生家は東京・大島の大資産家。兄8人姉8人の末っ子で、腹違いの兄に育てられたそうです。家族の情愛を知らない生い立ち、半端者としての自意識。今なら理解できる。でも肯定はできない。うまく言えないな……。僕は父みたいにならないよう、夢中で働くだけだった。/ 96歳で逝きました。

感謝していることが二つだけあります。育英会に借りた大学の学費を卒業後、知らぬ間に全額返してくれた。実家から工面したようだけど。 / もう一つ。父は焼却命令に反して2冊だけ設計ファイルを残した。その中に与圧服の写真があった。高高度の気圧からパイロットを守るもので、宇宙服の前身です。おかげでガガーリン登場前から、子どもの僕にとって宇宙旅行は夢でなく「現実」だった。身近にあった科学、宇宙が僕のアニメの原点になったのは間違いない。でも影響はそれだけです。/ ガンダムのヒーロー、アムロの父も軍の技術者。「父親の投影か」とよく聞かれる。違う。現実の戦争や人間は……もっとずっと救いがたいものです。(聞き手・石川智也)とみの・よしゆき アニメーション作家。虫プロで「鉄腕アトム」などの演出を担当。1979年、宇宙移民時代のロボット兵器による戦争を描いた「機動戦士ガンダム」の総監督を務め、その後もシリーズ化。(朝日新聞・10/11/24)
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この二つの旧聞は、今も新しい。旧聞は新聞であるということの証明でもあります。「いじめ」はなくならないと言っておいて、お終いではありません。どんなに努力しても「戦争」はなくなりませんと、多くの人は言うのですが、それでどうなるんですか。この二つは(比べるのも変ですが)いかに手を尽くしても、それはなくなりはしないでしょう、というほかありません。たしかに、どこかでそっくりの構造があるようです。優越感や闘争心、あるいは独占欲や征服欲というものは、太古の昔から、どんな人間の中にも厳然と存在し続けています。それを否定することも、無にすることも、きっと不可能でしょう。ぼくはそのように見ています。そんな個人が「束」(絆と言います)になっているのが「国」であり、「国民」なんですからね、いじめも戦争も、まずなくならない。そんなことを言う、それはお前の狭い了見であって、じゅうぶんに修行・努力を積めば、きっと争いをなくすることはできるという人たちがおられるかもしれない。でも、言うだけのことであるなら、それにはあまり迫力も真剣みもあるとは思えないのです。

仏像ガールのケースはどうでしょう。廣瀬さんが今もなお、本格的に仏像ガールとして活躍されておられるようですが、彼女がいじめから解放されるようになった理由は何だったのか。こうすればいじめられないという「特効薬」があるなら話は別です。しかし、何処の薬局を探してもそれは見つかりそうにありませんね。ぼく自身の経験(というほどではありませんけど)から言えるのは、「いじめられる」方の問題ではなく、「いじめる側」に原因や理由があると感じてきました。肝心なのは、「いじめられる」という恐怖心に打ち負かされないこと、でも、それが出来れば、対処は実に簡単だ。それじゃどうすればいいのか。人それぞれの「恐れに負けない」方法の発見にたどりつくのが何よりです。その場に遭遇して、初めて生み出される方法でもあるでしょうから、正解は一つではありません。その際に、信頼に足る人間(大人でも子どもでも)がいると、幸いですが。「非暴力」もまた一つの暴力であるというところまでしのげるかどうかでしょう。
つまらない話になりますが、ぼくは石川県で生まれ、「田舎丸出し」人間のまま小学校三年になる直前に京都に来ました。一学期は京都の堀川にあった「聚楽第小学校」に転校、夏休みを終えた段階で、「嵯峨小学校」に再転校。そこを卒業し、中学校は太秦にあった「蜂が岡学校」、高校は常盤にあった「嵯峨野高校」。嵯峨小時代に「田舎弁」「汚い(というのであったか、要するに垢ぬけていなかったというので)」を理由に、それにもかかわらず「生意気」であったという廉で、今でいう「いじめ」を受けた。複数人に、羽交い絞めにされて暴行を、その場面はよく覚えている。休み時間の廊下で、多くの人間がいる中でのことだった。そんなことが何度かあったなあと、今では記憶もあいまいです。いじめた人間の顔も仕草も忘れていません。しかし、ぼくは学校に行くのが嫌だとは一度も思わなかったし、助けを求めて、いじめを誰かに話したこともなかった。そんな必要はまったくなかった。「この阿保ども、ふざけんじゃない」という気分を自他にはっきりと示した。それ(暴行を受けたこと)は公然たる事実だったし、ぼくはいつでも「抵抗」「防御」を止めなかったから、いつしか、暴力も止んだ。今考えても、不思議ですね、その場から、すこしも逃げ(ようとし)なかったんだから。不埒な奴らに背中を見せるのが嫌だった、ということだったかもしれません。

中学校は「差別問題」の渦中にある学校(生徒数は二千人を超えていた)だったようで、ぼくはそれ(差別問題のホットスポット)を知らずに、「在日コリアン」の生徒たちに目を付けられ、強請を受けたこともあった。彼等は小さなプロだった。半端じゃありませんでした、その悪辣ぶりは。しかし、それにも我慢・忍耐するということはなかった。自分一人で抵抗し、闇の中にしまいこむようなこともしなかった。やがて、これも大きな事件にはならないままで沙汰止みになった。ここで話すのは面倒な気がしますので、これ以上に詳しい話はしない。この問題は尾を引いて、後々までぼくの関心から離れなくなった。この時期には「部落差別問題」にも直面した。(この件については、いつかどこかで話すかも知れません)
このふたつの「差別問題」に関して、学校で何かを学んだという記憶は皆無です。当局は、それにけっして触れないようにしていた。しかも、水面下では驚愕すべき事態が(年中行事のように)生じていたが、それを知ったのはずいぶん後になってからでした。(左上写真は太秦の真言宗蜂岡山広隆寺。ここには「弥勒菩薩像」(右下写真)があります。いつのことだったか、この菩薩に「惚れてしまって抱き着き、小指を折った」という京都大学の学生が逮捕されたことがあった。「惚れる」んですね。木像に。魅力菩薩だったんだ。ぼくには忘れられない出来事、「小指の想い出」でした。「あなたが 咬んだ 小指が痛い ♫♪」)

(これは自賛だと取られると心外ですが)数年前に京都に帰った際、友人の一人(建築設計士)が「あんたは、たった一人で「差別」と闘っていたやんか」ということを口にした。意外なことを言うなあと、ぽかんとしながら聞いていましたが、そこで、はっと気が付いた、ぼくは「闘っていたんや」ということを。逃げないで、隠さないで、暴力や差別に妥協なんかするものか、そんな思いが少しでもあったから、戦慄しながらも、でも公然と「可笑しいことは可笑しい」「そんなんアカンやん」と主張していたことを、友人は、当時は何も言わなかったが、見逃してはいなかったのだと、七十を超えてですよ、それを聞いたのは。なんだか嬉しいような、懐かしいような気がしました。お粗末でした。ぼくにとって「仏像」ってのは、何だったかと今でも思います。

廣瀬さんは仏門に入ったのではなく、仏像に邂逅した。それ(仏像たち)が彼女のすべてを受け入れたのかもしれない。文字通りの救済だったのでしょうね。「三十三間堂で1001体の千手観音を見ていると不思議に体が熱くなり、涙がポロポロ出た」といわれる。ぼくも何度か三十三間堂(⇧)に足を運んだことがあります。たくさんの仏像を前に、何も考えられない、考えなくていいような、そんな体験をした。「つくった人がいて、守ってきた人たちがいて、拝んできた無数の人がいる」 という郁実さんの実感は、既に信仰ですね。垢が落ち、穢れが剥がれ、憎しみも羨みも消える心地がするのでしょうか。つまりは、「心が洗われる」というのかもしれません。その後、廣瀬さんは千葉大だったかに入り、仏像研究に深くはいられた。
○さんじゅうさんげん‐どう サンジフダウ【三十三間堂】=[一] (内陣の柱間(はしらま)が三三間あるところから、この名がある) 京都市東山区七条通東大路西入にある蓮華王院(れんげおういん)本堂の通称。天台宗の寺、妙法院が管領。長寛二年(一一六四)後白河上皇の発願により平清盛が造進。現在の本堂は文永三年(一二六六)に再建、供養されたもので、国宝湛慶(たんけい)作千手観音像を中心に一千一体の観音像を安置。ほか国宝に風神・雷神像、二十八部衆立像がある。三十三。三十三間。[二] 江戸、浅草松葉町に、(一)に模して、寛永一九年(一六四二)に建立された堂。元祿一一年(一六九八)焼失し、翌年深川永代島に再建されたが、天保四年(一八三三)に倒壊した。三間堂。[三] 江戸深川永代島、三十三間堂近くにあった岡場所。元文(一七三六‐四一)から寛政(一七八九‐一八〇一)頃に存在したという。三間堂。(精選版日本国語大辞典)
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富野由悠季さんのことについては、ぼくは何も言う必要を感じません。彼の仕事や仕事を介した生き方を知れば、その中にどれほど「おやじのせなか」が存在感を持っていたかが分かろうというものです。 子どもにとっての「父親」の重み・軽みは話にならないくらい。まさしく「母親」の比ではないと、ぼくは思ってきました。男親として、それが不満であるとか、割に合わないというのではありません。人並みに、子どもの親になって、そのことは確信するようになったと言いたいくらいです。今ここで、この先を書くことはぼくにはできない、したくない。それほど、子どもとの関係は「微妙」なんでしょうね。「至近距離」というのは、それぞれの関係によりますし、時にはその間隔(間合い)が変化することはいくらもあるのです。ここにも作用と反作用というのか、教育と反教育という問題が常に存在しているのです。富野さんの記事を読んだ際にも、さらにその思いが募りました。父親について、富野さんは言いたくないのではなく、言えないんですね、あまりにも微妙過ぎて。ぼくには信じられないんですが、「尊敬する人は父親」、こんなえげつないことを言う、それもいささかの恥ずかし気もなく宣う、そんな人間がたまにいる。ぼくは驚天動地の、パニック状態になるのです。うそだっ!。ホンマにそうですか。

この二つの「旧聞」を取り出しつつ、人間のすること思うことは、変わっているようで変わっていないというのでしょうか、そんなことを再確認する思いになります。親子関係も学校の同級生との関係なども、徐々に、あるいは段々とよくなるということはあり得ないんですね。「個体発生は系統発生を繰り返す」という動物学者E・H・ヘッケルの説は、ここにおいても、あたらずと雖も遠からずで、まっすぐに「ゴール」に向かって直進・前進するのではなく、紆余曲折を経ながら、やがては、地上一ミリの上昇を果たす、と思ったとたんに、ご破算さんになる、そんな歴史を飽きもしないで「個体も系統も」繰り返してきたのでしょう。過ちや錯覚は、個人の問題であると同時に「系統」自体のものでもあります。よく言われるように、それは「進歩」などではなく「変異」なんでしょうね。(右の写真はS.J.Gouldさん、ぼくは彼の本から、たくさんの科学に関する知見を学んだものです)
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