御座形と等閑、あなたはどっち派ですか?

 【日報抄】 あまりに暑い。我慢できない。そんな日が続くと、仕事も家事も「おざなり」になる。いや「なおざり」かな。同じ4字で順番が違うだけ。辞書を引くと、どちらも「いい加減」という意味は同じだが、微妙に違う。勘違いや誤用が多い言葉である▼おざなりは「御座形」「御座成り」とも書く。座敷で芸者さんが、客の好みに合わせてもてなした。それが転じて、上客でなければ、その場の間に合わせで手抜きする。その場しのぎの悪い意味になったらしい▼一方、なおざりは「等閑」と書く。物事を軽くみてほったらかす。何もしない意味が加わる。つまり、仕事が「おざなり」は、適当にやっておくこと。「なおざり」は、やるべきこともやらないことのようだ▼この言葉がぴったりの例がなんとも多い。感染禍の政府対応は、おざなりとなおざりのオンパレードだ。ワクチンの基礎研究をなおざりにしてきた結果、外国頼みになった。今度はその接種計画がおざなりの極みだ▼接種加速を自治体にあおった揚げ句、予約電話はつながらない。やっと接種態勢が整えば、次はワクチン不足で予約中止とは。絶え間ない「政治とカネ」問題でも、首相らの説明責任は毎度なおざりにされる▼緊急事態宣言が東京に出る中、五輪の熱戦が続く。多くの会場に歓声はない。最高峰のアスリートに申し訳ない気持ちがする。選手との交流も厳しい。それでも世界に約束したおもてなしの心は永遠だ。おざなりにも、なおざりにも、してはならない。(新潟日報・2021/07/26)

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 「おざなり」と「なおざり」と。どっちもどっちだと言えましょうが、「その場しのぎ」と「そ知らぬふり」をされるというのですから、当事者としてその場面に居合わせたら、さぞかし居心地が悪いにちがいありません。いや、自分をまともな人間(一人前)として見られていない点では、やはり気分のいいものではありませんね。「いま来た客、ちょっと感じ悪いよ。だから、おざなりね」とか言われて、大枚を抜かれるのも、どっちが悪いんだか。「魚心に水心」、いや、「上心に下心」かも。

 なおざりもまた、古からの常用語でもありした。

《 或人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑の心あり。毎度、たゞ、得失なく、この一矢に定むべしと思へ」と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思はんや。懈怠の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべ し

 道を学する人、夕には朝あらん事を思ひ、朝には夕あらん事を思ひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。況んや、一刹那の中において、懈怠の心ある事を知らんや。何ぞ、たゞ今の一念において、直ちにする事の甚だ難き 》(「徒然草 第九十二段」)

 兼好さんの言うことを「徒(あだ)疎(おろそ)かに」聞いてはいけないでしょう。「軽々しく粗末にするさま。いいかげん。あだやおろそか」(デジタル大辞林)要するに、どちらの言葉にも、自他に対する敬意というか尊敬の念が著しく欠けているという、その点では選ぶところはなさそうです。

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 「なほざり」ついでに、唐突ながら「十六夜日記」から。少しばかりの引用です。

 「今宵は手越といふ所にとどまる。なにがしの僧正とかやの上りとて、いと人しげし。/ 宿りかねたりつれど、さすがに人のなき宿もありけり。二十六日、藁科川とかや渡りて、興津の浜にうち出づ。/「なくなく出でしあとの月影」など、まづ思ひ出でらる。昼立ち入りたる所に、あやしき黄楊の小枕あり。/ いと苦しければ、うち臥したるに、硯も見ゆれば、枕の障子に臥しながら書きつけつ。

 なほざりに見る夢ばかりをかり枕 結びおきつと人に語るな

 暮れかかるほど、清見が関を過ぐ。岩越す波の、白き衣をうち着するやうに見ゆるもをかし。

 清見潟年経る岩にこと問はん 波の濡れ衣幾重ね着つ / ほどなく暮れて、そのわたりの海近き里にとどまりぬ。(「十六夜日記 駿河路」)

○ いざよいにっき (いざよひニッキ)【十六夜日記】=鎌倉中期の紀行文。一冊。阿仏尼作。夫藤原為家の死後、実子為相と先妻の子為氏との播磨国細川庄をめぐる領地相続争いの訴訟のため、弘安二年(一二七九)一〇月一六日に京都から鎌倉に下ったときの日記。出立事情、道中風物、鎌倉滞在記、巻末の長歌から成る。多くの和歌を挿入し、擬古文体を用いる。いさよいにっき。(精選版日本国語大辞典)

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 「十六夜日記」にお目にかかろうとは夢にも思いませんでした。この作品についても、なんかかんかと言いたいこともありそうですが、止めておきます。なんといっても「おざなり」と「なおざり」が主題のような塩梅となっていますので。お後がよろしいようで。 

・お座なりに芸子調子を合はせてる(柳多留‐五八)

・なおざりかおなざりかおざなりのまま(松橋帆波)

 何時にもまして、ますます「なおざり」であり、「おざなり」もすごいところまで来ましたね。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)