子どもと大人ーじぶんとは?

 この世に生まれた「ヒト(ホモ・サピエンス)」はだれでも、もさまざまな経験(挑戦や冒険、あるいは失敗や過ち)をとおして、子どもから大人へ成長するといわれます。たしかに身長や体重はみるからに高く重くなるのですから、ひとときも同じ地点にとどまっていないということはできそうです。ひとりではなにひとつできない乳児の状態から、自力で立ったり歩いたりするようになり、みずからの心身を自制(コントロール)することができるようになっていきます。

 外見ばかりではなく、目に見えないところ(内面)でも確実に変化する。その過程を「成長」あるいは「発達」と呼ぶことに大きな異論はないでしょう。「さまざまな経験をとおして」といいましたが、多くは「教育」ということばで言い表されるものです。家庭における親や家族の働きかけ・かかわりからはじまり、保育園や幼稚園、さらには小学校からはじまる学校生活でも教師や友だちとの交流を深めながら、じぶんが所属する集団(社会)の約束事(それを文化といいます)を身につけていくのです。広くとらえれば、それが「教育」というものの総体です。

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 何年にもわたるこのような過程をたどりながら、年齢を重ねるとともに、子ども時代から大人社会の仲間入りをするようになっていく、それが「ヒトからひと」へ発達するという意味だとされています。いいかえれば、子どもの部分を少しずつ別のなにかに置きかえているのだといえるでしょう。ひとによって変化(成長)の速度に遅速はありますが、だれでも子どもから大人へ、心身ともに移行(変化)していく。

 たしかに「子どもから大人になる」というけれども、それはいったいどういう意味なのかと、わたしたちは立ちどまって考えることはめったにありません。しかし、何年にもわたる「成長」の過程で、多くのひとはさまざまな悩みや苦しみにおそわれるのも事実です。むしろ、そのような悩みや苦しみがともなわない人生はどこにもないとさえいえるでしょう。悩みの多い時代(思春期)をすぎて、やがてひとはみずからの人生を確立するのでしょうか。そして、そのような状態にいたったときに、ひとは大人(一人前)になったといえるのでしょうか。

 子どもから大人へ、それは地層のように様々な経験が順次堆積されて、一つの全体が出来上がるというのか、それとも過去から現在へ、すべての過去を一瞬の現在に次々と蓄えていく、それが大人(人間)の「現在」であるともいえるでしょう。(余談です。子どもから大人へ、と言われますが、果してこの道筋はそうなんでしょうか。ぼくの感覚では、「大人から子ども」へという効果の道もあるように思われるのです。上り一辺倒というのではなく、どこかに頂点のような者が記されるので、それを超えると下りが始まると言えないか、と。頂点は何歳であるとか、どの辺だとかは分かりません、ひとそれぞれでしょう。しかしの墓地専用道だけg人生に用意されているのではないようです。府s持参でも頂上までは野呂理であり、そこからは件だと明らかに目に見えるのです。どうやら人生も、そんなに単純ではなさオスですが、常粗油と書こうがるのは間違いないし、人によっては実に複雑な道筋を描いていると思われます。

  「子どもと大人」ということについて、ひとりの詩人はつぎのようにいいました。

 《 ひとは子どもから大人になるのではありません。子どもとしてのじぶんをそこにおいて、ひとは大人というもう一人のじぶんになってゆきます。そこにというのは、じぶんのなかにです。子どもとしてのじぶんを見つめながら、ひとは大人というもう一人のじぶんになる。ですから、大人のじぶんのなかには、じぶんがずっと見つめてきた子どものじぶんがいます。あるいは、大人のじぶんをずっと見つめている子どものじぶんがいます 》(長田 弘「手製の未来」『子どもたちの日本』所収、講談社。二〇〇〇年)

 じぶんはもう大人だと、あなたはじぶんを見なしているでしょうか。小さかったころ、はやく大人になりたいと願っていましたか。いいや、ずっと子どものままでいたかったと、大人になることを回避したかったでしょうか。この詩人はまるで両方を否定しているようです。すっかり大人になりきることも、子どものままでいることもできないのだ、と。人間というのは、大人のじぶんと子どものじぶんからなりたつものなのだといっているようです。まちがいなく、「あなた」のなかにきっと両方のじぶんがいるはずです。

 《 ところが、じぶんのなかにいる子どものじぶんというのは、けっして懐かしい優しい存在なのではありません。子どものじぶんは、ときに思いがけない声で、ただし他の誰にも聞こえない声で、大人のじぶんを指さして叫びます。大人のじぶんが、子どものじぶんの存在を忘れてしまったようなときに、「きみはじぶんの希望をどうしちまったんだ?」と、こころの内側から叫ぶのです。その声は鋭く、そして憂わしげです 》(同前)

 この詩人は「希望」ということばをつかいました。英語でいえば hopeということになるでしょうか。

 よく似た単語にwishやdesireということばがありますが、でもそれらは「希望」とはすこし語感(語調)がちがう。詩人のつかう「希望」、それを、わたし自身は明確な理由があるのでもないのですが、「希望」という語は好きではありません。自分が望むものですけれども、それは自分の手の届かないところにあるような感じがします。その点、「期待」(expectation)という語を、ぼくはあえて使いたいのですが、それは「自分に期待する」「自分を励ます」「ここで手を抜くような人間か、お前は」という指摘が突き刺さるように、自分を安易な道に放置しておかないという意味合いがあるように、わたしには感じられるのです。自分をより高くに引き上げるような、そんなエネルギーを「期待」という語は内に秘めているように見えるのです。「自分の希望」というよりは「自分への期待」なのだ、わたしはそのように、長田さんの言葉を受け止めたいのです。世間で「大人になる」というのは「希望」を失う、「自分に期待する」ことをやめてしまう、そんな状態をさして言うのではないでしょうか。 

 だからその反対に、「希望」や「期待」をもちつづけるかぎり、ひとは「大人のじぶんをずっと見つめている子どものじぶん」からの呼びかけに耳をかたむけることができるのです。大人と子ども、それはひとりの人間のなかにいる親であり子です。あるいは兄弟・姉妹といってもいいかも知れない。さらには「教師と生徒」とも言いたい気がしますね。むずかしい話をしようとはおもってもいませんが、こんなことにこころを向ければ、つらいときや行きづまったとき、あるいは逃げだしたくなったときに「自分に対する期待」を失わないでいられる、「希望」という明るい光をじぶんのなかにみつけられる。そんな問題として、この文章を読みとってほしいのです。

 これを別の表現でいえば、「じぶんをたしかめる」「じぶんを知る」という態度や姿勢を考えることです。いったいどんなときに、「じぶんをたしかめる」のか。それはまったくひとそれぞれです。どうしようもないほどつらくなったとき。幸せの絶頂にあるとき。困難に襲われている他人を前にしたとき。

 「あなたはどうするつもりですか?」とせまられたとき、わたしたちは意識のあるなしにかかわらず、かならずなんらかの行動にでる、ある態度をとります。じぶんで気づいたり、気づかなかったりするのでしょうが、ぎりぎりの事態に直面してはじめて、じぶんがとった行動によって、じぶんはどんな人間(性格・精神)であるかがはっきり表れるのではないか。ああ、こんな人間だったのだ、と。絶望的な場面に遭遇してなお「希望」や「期待」を失わないでいることができるのか。さまざまな苦難にたえながら、どうして生きていかなければならないのか、と人生を否定することはないか。そのような場合、かならず問われます。「きみは、どうしようというのか?」「きみは、なにをしたいのか?」

 ある事柄についてだれもが「正しい」というけれど、じぶんにはどうしてもそうは思われない。そんなときにも、問いはやってきます。「どうしてあなたは同調しないのか」と。もちろん、そのように問う声は、多くの場合、じぶんのまわりからくるのですが、それと同時に、じぶんのなかからも問いは発せられているのです。わたしたちは試されているのだといえるでしょう。どうせ駄目なんだ、こんなに苦しい人生なんて、もうたくさんだ。そのようにいって、生きることをやめてしまおうとするのでしょうか。

 そんな時に、さてじぶんは「みんないっしょ」の側に逃げこむのか、「いや、これはちがう」と一人称(じぶんのことば)で語ろうとするのか。はたしてどの声に耳を傾けようとするのか。利害や得失という打算を越えた態度や姿勢を求められる場面はどんなひとにもきっと訪れるのです。

 さきの詩人はさらに次のように読者(わたし・あなた)に語りかけます。

 《 子どもは幼い人間なのではない。独特の小さな世界をもった人間なのだ。そう言ったのは、ロシアの作曲家のムソルグスキーです。『展覧会の絵』の作曲家は、また『子ども部屋』のような子どもの世界を描いたすぐれた音楽をのこした人でした。ムソルグスキーの音楽のなかには、その音楽にじっと耳を澄ましている一人の子どもがいます。ムソルグスキーの音楽を際立ったものとしたのは、ムソルグスキーのなかの子どもです 》(同前)(余談、「歌曲集 子ども部屋」についても、言及したいのですが、本題から離れそうなので今回はしません。いずれ機会を設けて、駄弁を弄したいですね)

 幼いというのは、長(おさ)ないということ。つまり長じて(年とって)いないという意味です。よく長上などといいますが、それは年上とか目上ということであり、ひいてはひとの上にたつ者〈長官・市長・社長〉という風につかわれた。年齢にしたがって大人と子どもを区別するのは社会・集団のつねです。でも子どもも大人も人間だというところから、そのちがいをつかもうとすればどうなるでしょう。

 詩人は「独特の小さな世界をもった人間」、それが子どもなのだといいました。それぞれが「じぶんだけの世界」をもっているのが子どもなのだ、というのです。それでは、その「独特の小さな世界」とはどのような世界をさしているのでしょうか。子どもを独特の小さな世界をもつ人間にするものは、希望、いやわたし流にいうなら「自分への期待」です。一人の子どものなかにいるのは、「自分に対する期待」といえるものを探している一人の人間です。

 ところが、ひとりひとりがもつ「独特の小さな世界」からはやく抜けだしなさいと強いるのが教育、それも学校教育ではなかったでしょうか。今もそれは続いていると思われます。そんな子どもじみた、わけのわからないことをいっていると「世間から笑われるよ」とはやし立て、「もっと大人にならなければ」と教えさとされるのですから。わたしは成人(二十歳すぎ)してから、いったいどれくらいこの「年齢を考えろ。大人になれ」と言われたことか。そんなとき、私はきっと言い返していました。「あなたみたいな大人になれというんですね」「阿保らしい」と口ごもったり、面と向かって口外したりしていました。

 長田さんは「大人」というものをつぎのようにいいあてているのです。

 《けれども、ほとんどの大人たちは、希望という言葉を、いまではちゃんとじぶんではつかえなくなっています。そして、じぶんのなかの子どもの声には耳をふさいでいます》(同前)

 長田さんのいわれるところはじゅうぶんに理解できるでしょうか。あなたは、どのように受けとめられますか。年齢でも、仕事ぶりでも大人と子どもを区分けすることは困難です。ここで辛うじていえるのは、大人の部分を多分に持ったこどもと、子どものままで大きくなったような大人、この二種類の人間がいるだけなんでしょうね。それははいつでも攻守所を変える、自在なものでもあるのです。こいつは大人だと思ったら、案外に子どもだったな。まだまだ子どもだと見くびっていたら、なんといい大人じゃやないか、と。

 人である根拠は脳細胞にあります。それはあらゆる人間の行動を指示し命令しているのです。この脳細胞は「内から外へ」と拡大発達してきた。脳幹は生命維持を司る部分であり、この部分が破壊されると「脳死」とされます。もっともはやい段階で形成された部分から、外に向かって次第に広がるように成長しているのが脳です。何歳になろうが、この脳内の構造は変わりません。ようするに、きわめて動物的な部分をも含みながら、人間は精神の視座(「私です部分」)とも言われる前頭葉を大きくしてきたのです。子どもの中に大人が、大人の中に子どもの部分がいつでも存在している大きな理由です。子どもと大人、この二種類の人間だけがいるのではなく、より子どもの領分の大きな人と、大人の部分を大きくさせて来た人間がいるだけです。誤解を恐れずに言えば、性差ということに関して、「男と女」という二種類だけに分けられるのではなく、「男の部分と女の部分」のグラデーション(濃淡)としてとらえる必要があるという理解が進められてきましたように、子どもと大人に関しても、それと同じような視点を持ったらどうでしょうか。

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