貧と富は二つにして、一つの状態(その①)

 自分のものとは

 信じられないようなおぞましい出来事や事件が、この地球上のいたるところで続発しています。まさしく、同時多発的に発生しているのです。まるで、いのちそのものが一枚の木の葉より軽々しくあつかわれる状況に似ています。わたしたちが生きている時代や社会、それはひとりの人間が「正直に生きる」のが奇蹟のような時代であり社会なのだと痛感します。こんなことはだれもが願っていたことなのか。どうしてこんなふうになったのでしょうか。

 いまの時代の風潮を「豊かだけれども貧しい」といった人がいます。その言い方にはいくつかのふくみがあります。「豊かだと自分では思っているが、ほんとうは貧しい」ということであり、「身のまわりに物は豊かにあっても、その心は貧相なのではないか」という意味であり、そもそも「物が豊かであること、それこそが、心の貧しさの象徴なのだ」といっているようにも思われます。貧しさを取り繕うために、身の回りに埋め合わせの品々を蓄えるからです。

 「豊か」と「貧しさ」は、けっして釣りあおうとはしない。片方が重くなれば、もう一方はつり上がる。まるで豊かさと貧しさがたがいに競争・競合しているみたいです。(物質的に)豊かな人が、いっそう豊かになればなるほど、一方では、貧困に苦しむ人が増えてくる。あるいは、一人の人間のある部分が豊かさを得れば、別の部分はが貧しくなるのを避けられない、このような事態もあちこちで生じています。いったい、どうしてそうなるのか。わたしたちは生活の便利さを求めてやみません。不便であるよりは便利である方がどれほどいいか、そんなことはいうまでもないとされます。便利さを追求するのにかまけて、知らないうちに自分でできる領分を失っているのに気づかなくなるのです。

 貧・富はいったいであるとも言えますし、一身にして二極を持つともいえるかもしれません。もったも肝心の「貧富の内容・質」を測る尺度がありそうでないのが不思議でもあり、滑稽でもあると言えそうです。例えば、金銭面で同じ額を稼いでいても、「自分は豊かである」とみなす人もあれば、「自分は貧乏なんだ」と貧しさを託つ人もいます。貧とは何であり、豊とはなにか、人それぞれの受け取り方ですから、一概に線引きをすることは難しいと思われます。それを認めたうえで、貧・富の現実を概観したいのです。

 便利さを計る尺度は時間や労働の節約という偏った価値観にもとづけられています。自分の身体を使わなくてもいい、いたずらに長い時間をかけなくてもできてしまう、つまるところは、容易で効率のいい生き方を願ってでもいるようです。でも、求めている便利さ(コンビニエンス)は無償で手に入れることはできない。その価値(値打ち)は機器や技術によってもたらされるものであり、その機器や技術は金銭によってしか贖われないからです。その金を得るにはどうするのか。自らの労働によるほかないのが一般です。それが嫌であれば、苦労しないで他者のものをかすめ取るほかないでしょう。時代の悪弊(犯罪)が明示しているところです。

 「艱難汝を玉にす」

 だからでしょうか、「金さえあれば」「金がなければ」、それこそが時代の合言葉のようになっていないでしょうか。金に追われ、金を追い求めるのが、わたしたちの姿なのだといえば、どうでしょう。もちろん、このような物質主義に支配された生活(生き方)を安易に受けいれようとはしない人びとがいることを忘れているのではありません。にもかかわらず、世の中の風潮は否定すべくもないといわざるをえないようです。あまり好きではない「ことわざ」ですが、「艱難汝を玉にす」というのがあります。苦労や困難に鍛えられて、人は一廉のものになるというぐらいの表現でしょう。苦労が人間を大きくするなどとも言います。いずれにしても、身を粉にするというのは過剰でしょうが、自分ん身体や頭脳を働かせることの大切さを言い当てています。

 ほとんどの人が使っている携帯電話(スマートフォン)を例にとります。かけたいときにかけたいだけ使うことができる、まことに便利な機器(道具)です。しかも、それは通話するだけにかぎりません。メールにしてもネットへのアクセスにしても、映画でも音楽でも、テレビ番組でも、好き放題に、つまりだれに気がねをすることなく、いつでもどこでも自由自在に使える機器です。(もちろん、カネがなければ話にはならない)いったん携帯電話(スマホ)を使い始めれば、それがない生活を想定することが不可能なように感じられてくるから、奇妙というよりは、恐ろしい事態だというのです。時代はさらに前に進みます。スマホは、一種の衣食住の一部ですから、それなしの生活は考えられないでしょう。(私は持っていません)

 便利であるというのは、わたしたちにとって、どのようなことをさすのでしょうか。自分の足で歩くかわりに、車に乗る。手間と暇をかけて食事を作る面倒を省いて、近所の「コンビニ」「ファーストフード」で必要を満たす。あるいは、以前ならば十時間もかかっていた仕事(労働)が、便利な道具を使えば一時間で済んでしまう。節約や、倹約が目に見えるからこそ、私たちはその価値に惹かれるのでしょう。聴き葉便利であるばかりか、生活の余裕というか、その内容の質を高めてくれる可能性を開きました。一例として、一日も欠かせない「家事」の場合はどうでしょう。「炊事・洗濯・掃除」などのすべてが機械化され、時間が節約され、かつ余暇というか時間のゆとりを得ることができました。これは実に朗報であったと、そのすべてを経験してきているわたしには確信を持ってい言えます。

 一方で、生活の資を得る仕事(労働)(職業)、すべてとは言えませんが、いまでは時給いくらの計算で比べられる苦役となってしまったかのようです。時給が低いから、時給が高いからというのが、仕事(労働)を選ぶ基準になったのだとしたら、いったいどのような状況が、そこからうみだされるのか。この島社会の労働慣行だった「正規雇用・終身採用・年功序列」などは、経済合理性という観点からは「不合理」そのものであり、すべてを「働き方改革」という名のもとの労働環境破壊が企業と政府官僚のたくらみで着実に進められてきました。その結果はどうなったでしょうか。コロナ禍の現在、その苦境は目を覆いたくなるほどの事態を被っているのではないでしょうか。

 文明の進歩、科学技術の進歩などということがさかんにいわれてきました。遅れた生活、進んだ生活という比較もなされてきました。新しいことはいいことだという価値観を拒否しなければならないというのではありません。人間が生活する(生きる)とは、自分の身体を使って働くという生活のことなのだといいたいだけなのです。わかりきっていたはずのなのに、労働とはなんだろうか、あらためて考える必要があります。

 ここで、わたしたちの現在の生活ぶりにとって、ひじょうに象徴的な物語を紹介します。まあ、一種のお伽噺です。民衆が生み出してきた「生活の知恵」、それが跡形もなくなってしまった時代における、ある種の慰みであり、再生への手がかりでもありますが。果たして、それほどの神通力があるのでしょうか。(こんな(暢気な)「お伽噺」を出すのは、単なるわたしの俗悪な趣味からの選択にすぎません、悪しからず。

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 ロシアの作家だったトルストイ(一八二八~一九一〇)が書いた『イワンのばか』という民話集(中村白葉訳・岩波文庫版)に「鶏の卵ほどの穀物」と題された、文庫本で六ページ足らずのきわめて短い話があります。その内容は以下のようなものです。 

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 あるとき子どもたちが谷間で「まん中に筋のある、鶏の卵ほどの」のようなものをみつけた。通りがかりの人が子どもからいくらかの金額で買って町にもっていって、珍しい品物として王様に売りわたした。王様は何人もの賢人(物知り)を集めて「これはいったい何なのか」と調べるように命じたが、だれもそれがなんであるのか答えられなかった。ところが、その不思議な物を窓際においたところ、鶏が飛びあがってつっついたので、どうやらそれはなにかの穀物の粒(種)だと見当がつきました。(以下、次の稿に続く)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。