【滴一滴】明治生まれの祖母から初めて空襲の話を聞いたのは先の東京五輪が開かれたころ。終戦の年の7月に松山市街で米軍の爆撃に遭っていた▼「町中が火事になって川の中へ逃げたんよ」。B29の投下した焼夷(しょうい)弾が発火し、炎で瞳が焼かれるようだったという。死者251人、行方不明8人、負傷者は「数えきれぬほど」と松山市誌にある▼太平洋戦争で空襲被害を受けた民間人の実態はいまだに分かっていない。その救済を議員立法で目指そうとする動きがここにきて止まった。与党を含む超党派の「空襲議連」が、6月に閉会した通常国会での補償法案提出を見送ったからだ▼政府は旧軍人・軍属に恩給や遺族年金を支払う一方、空襲被害者や遺族には補償していない。議連は昨秋、障害や精神疾患を負った人に1人50万円の特別給付金を支給するとの法案要綱を決めたが、与党の党内調整で合意が得られなかったという▼名古屋空襲で左目を失った杉山千佐子さんは1972年、民間人救済を訴える全国戦災傷害者連絡会を立ち上げた。役所の担当者から「もう戦争は終わっている」と言われたとき「私たちに終戦はありません」と答えたと手記につづっている▼杉山さんは101歳まで生きたが思いを果たせなかった。再び五輪の開かれるこの夏は、戦後の課題が積み残されたままの夏でもある。(山陽新聞デジタル・2021年07月19日)
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このコラムのような場面を、ぼくは自分のこととして読む癖がついています。例えば杉山千佐子さんの訴えに、「もう戦争を終わっている」と対応した役所の職員。この職員だったら、ぼくはどうしただろうか、そんな具合にいつでもぼくは問題の渦中に身を置きながら、自分自身の姿勢を作ろうとしているのでしょう。確かに、七十数年も前に「戦争は終わった」のは事実。でも被災した人間は「もう終わったから」と過去に線引きはできないのです。「私たちに終戦はありません」と、誰だって当たり前に訴えるはずです。この当然の訴えに貸す耳を持たない人が、五万と生まれているのはどうしてでしょうか。福島原発の被害者が「すで原発事故は終わっている」といわれたらどうか。(現実にそのように言われてもいます)あるいは交通事故でわが子を亡くした親に対して「もう何年も前に交通事故は終わっている」と加害者からいわれれば、どうなるか。
「惻隠の情」などと難しい言葉を使う必要はないでしょう。「思いやり」「思いやる」、「相手の身になる」という、当たり前の感覚を失いたくないと、ぼくは念じているのです。自分に関係がない、関わるのは面倒である、などと、当事者になるという煩雑さを避けたいという気分が一方にあることも否定できません。しかし、もし被害に遭ったのが「自分の親だったら」、事故に遭遇したのが「我が子だったら」という、ごく当たり前の感覚を鈍麻させないことは、その意味では集団の生活においてはきわめて大事な心持だと言える。他者に対する「ささやかな敬意」を失ったままで生きていくなら、そこには「孤立か闘争か」の二択しか残されなくなるのです。

戦争の被害者として「軍人・軍属(とその遺族)」への補償は、当たり前のこととして今も続けられています。原爆被災者に関しても同じです。つい先日、広島高裁で「黒い雨」裁判の判決が出され、政府認定以外の範囲で「黒い雨」にうたれた人たちも「被害者と認定する」とされました。ところが、数百万人に及ぶ民間人の空襲被害者(とその遺族)に対して、国は一切の補償を拒否してきました。理由は何でしょうか。簡単に言ってみれば「想像を絶する被災者数」のためです。数においての多少が「補償の有無」に直結するという、本末転倒とも言うべき事態が看過されてきました。「もう終わったから」という非情な一言で、ある人たちの生命に✖が記されるのです。
絆(ほだし・きずな)という言葉が一時期、いたるところで叫ばれました。なんとも嫌な感じ、うるさいことという気分も、実はぼくにはありました。その「ことば」に託して言われていることは分かりますが、「絆」という言葉が陥りやすい過ち、過去の痛手に嫌悪感を抱いているからでした。紐帯(血縁・地縁・利害などでの結びつき)あるいは連帯、相互扶助などという、響きのいい意味合いで使われているのでしょうが、じつは、そんな生易しい言葉ではなかったのです。というか、この言葉の含意するところは、ある意味では人間を不自由にし、あるいは主従(上下)関係に縛り付けかねない危険性を、今でも孕んでいると、ぼくは考えて(感じて)います。参考までに、ある辞書の「解説」を例示しておきます。この言葉で言われる「結びつき」は、すでにファシズムの領域に足を踏み入れているのです。絆は「束(たば)」に異ならないんです。あるいは手かせ足かせとして、人を縛るものとして言われてきました。日常生活で「絆」が喧しく叫ばれること自体、すでに事態は、新たな段階に突き進んでいる。
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○ ほだし【絆】=〘名〙 (動詞「ほだす(絆)」の連用形の名詞化)① 馬の足などをつなぐこと。馬の足になわをからませて歩けないようにすること。また、それに用いるなわ。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕② 自由に動けないように人の手足にかける鎖や枠(わく)など。手かせ。足かせ。ほだせ。ほだ。※冥報記長治二年点(1105)中「夜中独り坐して経を誦す。鏁(ホタシ)忽ちに自ら解けて地に落ちぬ」③ 人の心や行動の自由を束縛すること。人情にひかれて、自由に行動することの障害となること。また、そのようなもの。※古今(905‐914)雑下・九三九「あはれてふことこそうたて世の中を思ひはなれぬほだしなりけれ〈小野小町〉」
○ ほだ・す【絆】〘他サ五(四)〙① 馬などをつないで放れないようにする。つなぎとめる。〔新撰字鏡(898‐901頃)〕② 人の自由を束縛する。→ほだされる。※中華若木詩抄(1520頃)中「羇客とかけば、羇はほだす也、ほだされた客ぞ」
○ふもだし【絆】=〘名〙① 馬の足をつなぎとめておく綱の類。ほだし。※万葉(8C後)一六・三八八六「馬にこそ 布毛太志(フモダシ)掛くもの 牛にこそ 鼻縄はくれ」② 褌(ふんどし)の一種。
○ ほだ【絆】=〘名〙 =ほだし(絆)②〔牢獄秘録(17C中)〕(精選版日本国語大辞典)

○ ファシズム(読み)ふぁしずむ(英語表記)fascism =・・・ファッショfascioという語は、イタリア語の「束」を意味し、そこから転じて、「団結」「結束」を表す語として用いられるようになった。第一次大戦中、参戦派のサンジカリストたちが「革命的参戦行動ファッシ」という名称の組織をつくり、戦後、ムッソリーニがこの組織を継承して「戦闘ファッシ」とし、1921年には「国民ファシスタ党」という政党に改組した。これ以後、ファシズムということばが、独裁的・非議会主義的・反共主義的な運動・思想・体制の総称として広く一般に用いられるようになった。(ニッポニカ)
○ 聖火リレーは1936年の第11回ベルリン大会で初めて採用された。その発案がナチス陸軍のものであるところから、第二次世界大戦後その存続が論議されたが、式典を盛り上げるものとして継続して採用された。この聖火は、古代オリンピック発祥の地オリンピアのヘラ神殿の前で、ギリシアの女優たちにより太陽光から採火され、開催地の国内をリレーされ、開会式の行事にあわせて、メインスタジアムの聖火台に点火される。(ニッポニカ)
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「聖火」と聞いて、ぼくは即座に、歌を連想します。それも「軍歌」を、です。歌が🏁になる、という意味で、「聖火」は旗を表わし、それに「すべてが参加するべし」という狼煙でもあるでしょう。なんとも下劣な「聖火リレーまがい」が劣島の各地でアリバイつくりのようにして、演じられてきました。今回の「東京五輪」は、遠くは、昭和十一年の「ベルリン五輪」から発しています。国家の威信をかけて(と言いますが、それは個々人の権威や権力の言い換えでしかない)、すべてを犠牲(生贄)にしてまで、今回も強行されてきたのでした。この島の状況は「煮詰まってきている」ともいえそうです。まるで「戯画」のような現実が、見え隠れしています。真夏の夜の悪夢か。

紺碧の空 (昭和六年) 一 紺碧の空仰ぐ日輪 光輝あまねき伝統のもと すぐりし精鋭闘志は燃えて 理想の王座を占むる者われ等 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田 二 青春の時 望む栄光 威力敵無き精華の誇 見よこの陣頭歓喜あふれて 理想の王座を占むる者われ等 早稲田 早稲田 覇者 覇者 早稲田
「東京二輪」が、今まさに開かれようとしている。中止を求める声(民意)が圧倒的だったにもかかわらず、「なーに、いったん開かれれば、愚かな民衆は狂喜乱舞、一斉に万歳するよ。その程度のもんよ」というソーリどもの声は、確かに「ファシズム」を下敷きにしています。白昼堂々と、民意を踏みにじり、大声で「絆(ほだし・きずな)」「心を一つに」「団結を」「ガンバロー ニッポン」と、いかにも時代が逆行しています。あるいは、ある人々の中では時間は止まっている。悪い団結もあるけど、いい団結だってあるのだ、今こそ「集まれ!動物の森」状態です。ぼくは、何処で聞いたか、すっかり記憶をなくしてしまいましたが、何十年も前のことだった、「紺碧の空」とかいう応援歌(軍歌そのもの)を耳にしたことがありました。ゾッとするような調子であり、唯我独尊か傍若無人という、時代がかったその蛮声に身震いしたことでした。この曲を作ったのは「露営の唄」の作曲者だった、時に昭和六年だという。その年の九月、満州事変の狼煙があげられたのは「柳条湖事件」だった。そこから延々と続いて、「勝ってくるぞと勇ましく」、そのように「東京二輪」も闘われようとしているが、素人目にも、中途の挫折は不可避です。座して虜囚の辱めを受けた方が、じつに潔いのだがな。

《 古関裕而といえば、最もよく歌われた代表的軍歌「露営の歌」が耳底で鳴り始めます。いわゆる「皇国少年」だった頃、日本の植民地統治下にあった朝鮮で、意気揚々、歩調をとって行進していた記憶がよみがえってきて、苦い思いに駆られたりもします。情感が揺さぶられて、今でも懐かしさにほだされる自分もあるんですよね 》(朝日新聞・2021/02/12)このように語るのは、在日の詩人である金時鐘さんです。
この曲が作られたのは昭和十二年。作詞は京都市役所の職員だった方です。これ真摯な緊張感のなかで書かれたのだろうか、ぼくには信じられないことですが。どういうわけか、この歌の石碑が京都嵐山の岩田山(サルに、人間であることを、ぼくが教えられた場所)の登り口に建てられている。(右下写真)実に心ない仕業というほかない。「東洋平和のためならば なんの命が惜しかろう」と滅私の精神というのか、狂気の振舞いだったというべきか。いまも「世界平和のため」に、人民のいのちを差し出す覚悟のソーリ、自身のいのちはさぞ惜しかろう、彼は露営ではなく、シェルターに身を潜めている。汚いねえ、美しくはありません。

ということは、この島では「敗戦」後、一瞬の中断もなく、四六時中、さまざまな「軍歌」が鳴り響いていたということに、迂闊にもいまさらに気が付いたのでした。同じ嵐山の対岸(小倉山の入り口)には周恩来さんの来日記念の詩が刻まれています。「雨中嵐山」(左下)ぼくは何度もこの碑の前に佇んできました。大正六年に来日(留学)した周さんは、京都の河上肇に近づこうとしたらしい。彼のもとに学ぶ機会はなかったそうですが、一日、嵐山に遊んだ想い出を詩に残したのです。彼の二十歳前後のことでした。第一次大戦の余波が強く残っていた。それにしても、「露営の歌」と「雨中嵐山」、なんとも因縁です。日・中は、いまだに闘っているんですね。何のために、「世界平和のために」ですか、阿保か。

(じつを言えば、この稿には前日の「教育と反教育」の続きを書こうとしていました。ところが、コラム「滴一滴」を眼にしたとたん、「ヤバいな」となったのです。これを簡単に読み過ごして、さて「教育と反教育について」にとりかかろうとしたのに、次々に邪魔が入って、ついには「軍歌」が鳴りだした。切りが付かないので、本日は、ここまでです。「教育と反教育について」は、日を改めて。
余談の続きです。昨日のお昼頃、近所の奥方が拙宅に来た。「駐車場の車の下で猫が死んでいる。何とかしてくれませんか」すっかり「すぐやる課」の課長にさせられた気分。役場にと思ったが、休日。連絡がついたので、案件をお願いしようとして、はたと気づいた。職員さんも休みなんだから、申し訳ない、と。つい最近も、同じことを依頼したばかりだった。そこで、業者に連絡して、さっそくに火葬と埋葬を頼んだ次第。とても込み合っていたが、なんとか、その日のうちに「成仏」ということになった、と連絡が来ました。

亡くなっていた猫は、まんざらの未知でもありませんでした。この地に来て最初に出会ったノラ君。いろいろありましたが、最後は老衰、というよりは病気で亡くなったと思われます。下痢がひどくて家の中を汚され通しました。まるで介護状態。布団やベッド、廊下から畳までも汚され、梅雨時には大変に苦労しました。人間用の下痢止めを毎回、食事ごとに飲ませても、完全に治り切らないうちに、また野良に戻る。そんなことを繰り返しているうちに、極度に痩せてきた。迷ったのですが、ついには医者には連れて行かなかった。野良を長年続けていたので、トイレの訓練はついにできなかった。その上に、自分でコントロールできなくなり、あちこちを汚してくれたのでした。この猫は雄(オス)だったし、相当の番長ぶりを示していたので、たくさんの「種(子どもたち)」を残していったと思われます。あるいは、今拙宅にいる猫たちの父親であったかも。男親は育児を一切しないのに、ぼくは呆れてしまった。人間の男も、かな。「行く川の流れは絶えずして…」アビラウンケンソワカ)
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