
【天風録】バッハ氏の被爆地訪問 健脚、腕力、武芸などを誇る猛者が続々と集まったという。古代ギリシャのオリンピアで4年に1度、神にささげられた祭典で勝者になるという栄誉のために。国家の間で繰り広げていた戦争も、一時中断された▲その倣いを現代にも―。「五輪休戦決議」を国連が採択した。東京五輪の間、紛争中の国々に休戦を訴える。国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長も、存在感を示す好機と考えたか。きのう広島市を訪れた▲原爆慰霊碑に花をささげて被爆者と懇談した。その後、これまで被爆地を訪れた海外の要人と同じように、メッセージを発信した。「五輪を通じて平和に貢献したい」。しかし、これほど歓迎されず、響かない言葉があっただろうか▲帰れ―。その背に罵声が浴びせられた。新型コロナの脅威が消えぬ中、開催を強行するIOCに否定的な人は少なくない。わざわざ広島を訪問した目的は何か。ノーベル平和賞を狙っての実績作りだろうと勘繰る声も▲きのうは76年前、米国が世界で初めて原爆実験をした日でもある。被爆地の核への怒りをどれだけ胸に刻んだか。五輪を平和の祭典にするつもりならば、商業主義や打算をすすいで、出直しを。(中國新聞デジタル・2021/7/17)
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広島県、要望全て実現を評価 バッハ会長広島訪問、知事と副市長が出迎え【インサイド】

湯崎知事(手前右)と小池副市長(同左)の先導で原爆慰霊碑に向かうバッハ会長=同中央(16日午後1時30分、広島市中区の平和記念公園)
国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長による広島市訪問を、広島県と市は、核兵器のない世界の実現に向けた強いメッセージを発信する場として要望してきた。両者は16日、歓迎姿勢を最後まで貫いたが、新型コロナウイルス禍での東京五輪開催と併せてバッハ会長の動向は批判的な世論にさらされ、訪問の意義はかすみがちだった。松井一実市長は「黒い雨」訴訟を巡る公務を優先し、訪問行事を欠席した。/ 広島県の湯崎英彦知事は平和記念公園(中区)でバッハ会長を迎えて原爆慰霊碑へ案内し、原爆資料館で対談した。見送り後には「核兵器への言及はなかったが、平和に関するコミット(約束)には当然、核兵器を使用しないのが含まれる。追悼されている人全てを思い出すべきだ、と言ったのは世界へのメッセージで意義深い」と評価した。
県はここ2年以上、バッハ会長の広島訪問をIOCに働き掛けてきた。広島の平和の願いが、「平和の祭典」と称される五輪を通じて世界に発信されるのを期待したからだ。県が要望した慰霊碑献花、資料館見学、被爆者との対談、メッセージが全てかない、県幹部の一人は「そこまで混乱なく、いい発信をしてもらった」と受け止めた。/ ただ、新型コロナの感染拡大で増幅した東京五輪への反対世論は、県の歓迎姿勢にも批判の矛先を向けた。県内部では「せっかく来てもらうのに、時期が悪い」との嘆き節も漏れた。(以下略)(中國新聞・2021/07/17)
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県知事と広島市長の対応は割れていました。これは下司の勘繰りというのではないつもりですが、それぞれが、今回のバッハ氏の当地訪問を、自己の都合に合わせて「利用した」ともいえるようです。もちろん、どんな事柄にも賛否両面があり、それはそれで、当然であると思います。それはまた、当のIOC会長の行動も、じゅうぶんに計算されつくされたものだったでしょうが、残念ながら、この間の彼の振舞いが、世の賛同を呼ばない下地になっていたのです。「五輪を通じて平和に貢献したい」という彼の言い分はその通りだとしても、平仄というものがあってはいないから、始末に悪いのです。コロナ感染が地球上を覆っている惨状を、彼はまるで歯牙にもかけない素振りで、開催を強硬に主張していたのです。「世界平和の祭典」といったのは誰だったか。「何がなんでも開催しろ」と叫び続けてきたのは誰だったか。
ともかく開催、何があろうとも開催、それはIOCという金権亡者たちの砦の至上命令であったのです。「オリンピックは参加することに意義がある」というのは今は昔の「五輪用の挨拶(枕詞)」でした。今日は「オリンピックは開催することに意義(異議)がある」ということに成り下がっている。私益や利権の巣窟になっていることを、誰も知らないと思っているなら、「天に唾する輩」というほかありません。いったん味噌をつけるとどういうことになるか。昨年の一年延期決定以来、「五輪」関係者の悪徳ぶりは透けて見えるようになっただけでも、この一年は意義があったと言えます。五輪というものの実態が、如何にえげつないものであったか。大会組織委員会は伏魔殿、いったいどれだけの税金を無駄に捨てるのか。税務調査では、一年前までにすでに一兆六千億、今では二兆円をはるかに超えているはず。法人格で税金を受け入れているにもかかわらず、会計報告は一切公表しない。なにせ、元財務(大蔵)事務次官が、組織の№2に君臨しているのです。だからと言って、使い放題大は許されるどうりがありません。三兆円規模だとすると、国民一人当たり「福沢諭吉」が三人分ですよ。アホか。

異論はあると思われますが、ぼくはもう「五輪」の意味は、とっくに失せていると考えています。まずそれは、四年に一度の「公共事業」奮発記念祭であり、利権や私腹肥やしのために群がり尽くすという、まるでハイエナのような吸血鬼状態の修羅場がくりかえされているのです。四年に一回というものの、その実は毎年、開催権をめぐって、それを獲得しようという魑魅と、権利を餌にして、高く売ろうという魍魎との「暗躍の檜舞台」が回り続けているのです。今回も、早い段階で(元)JOC会長(明治天皇の曽孫だったか)からIOC関係者に大枚数億円の賄賂(わいろ)が渡されたと、フランスの当局が調べ続けています。相当に奇怪な金の流れが、ある団体(加納治五郎財団)を抜け道にして、運ばれたとして、いま探査されつつあるのです。(左上の写真は日経新聞・2019/01/12)

「平和の祭典」どころか、「利権の祭典」だからこそ、人民の犠牲も視界に入らず、名ばかりの、ともかく「開催」へと突っ走ってきたのでした。「国威発揚」というのは昔話になりました。今は、すべからく「金」です。「金力発揚」を誤魔化すゆとりもなく、血眼になって獲物を獲得するために躍起となっているのです。「金」の魅力をまえにしては、政治家も商売人も、あるいは五輪関係団体の役員も、手もなくひねられてしまうし、一方のアスリート(選手のことを、そういうらしい)は、もちろん「金がいのち」で、この五輪を到達目標にすべてをかけてきたのかもしれません。ぼくには真似できない。
事程左様に、金の魅力、いや魔力は半端なものではないんですね。門外漢のぼくには理解不能です。いくらか前までは「アマチュアの祭典」と言っていたように記憶していますが、今は、どうか。ほとんどがプロです。もっとも馬鹿らしい例は「野球」や「ゴルフ」や「テニス」などの種目です。世界レベルの「一流」が、わざわざ五輪に出るのも「金(きん)」のためではなく、「金(かね)」のためなんでしょうね。

笑うべき「五輪開催」であり、嘆くべきなのは、灼熱地獄の中での「金獲得競争」を煽ることです。どんな形式にしろ、とにかく開催されれば、利権や投資に見合った盗り(取り)分が見込まれるからです。「安心安全」というお経を唱えるソーリの頭脳は「不安危険」に満たされている。そんな人間にまともな判断ができるはずもないのだけれど、「毒を食らわば皿まで」という、えげつない覚悟で「金」を取りに行ったのでしょうね。彼一人に関しては「死んでも放さない椅子」が「金」であり、そのためには、手段は選ばないという悪戦の旗手だったというのです。
広島訪問が何のためであったか。言う必要もないほど浅はかな知恵からだったと思います。浅慮からの行為に、まさかほだされる人はいないだろうと言いたいんですが、世の中は広いから、分かりませんね。この間、「民意」がどれほど蹂躙されてきたか、民の一人として「覚醒」しないとね、といいたいけれど、それどころでもなさそうですね。民意は民意、権力の意志はいささかも揺るがずに、民(意)を殺すことにあるという暴力に気付いても、なお目が覚めないでしょうからね。「平和」じゃないのに、「平和ボケ」だという。その上にコロナ感染が、いよいよ山場。田中正造さんじゃありませんが、「辛酸佳境に入る」ですよ。

「わざわざ広島を訪問した目的は何か。ノーベル平和賞を狙っての実績作りだろうと勘繰る声も」と来た日には、息をすることも忘れました、などという面白くもない冗談を、ぼくは言わない。「実際その通り」ではないんですか。こんな程度の野心・野望の持ち主、それが似合っていると言えるんじゃないですか。この国の元ソーリも、一生懸命に事前運動し、この「平和賞」を掠めとったことがあります。授賞理由は、沖縄への核配備という密約を果たした「沖縄返還」を成し遂げたからだとさ。まことに「平和賞への祭典」なんだね。「度し難し」という語を、いったい、どこの誰にぶつけたらいいのか。それが「天に唾」でない保証もないんだから、窮しても通じないね。
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