言語において人間は一致するのだ

 あらゆる発言が「滑り台の上で転がっている」というよりほかに表現のしようがない、この手の「ことば」を話す人間(だと思われる)を、ぼくはあまり見たことがない。心に届かないとか、響かないとか、いろいろと、この人の「発言」について批判(だとされる)が加えられてきましたが、その批判もまた相手の心に届いていないというのですから、万事休す。(左は東京新聞・2021/07/09)

 このような状況(通じない言葉の乱用、あるいは言語ゲームの不成立)を説明するには、きっと難しい理屈が求められるのでしょう。ぼくはまず最初に頭に思い浮かべたのはウィトゲンシュタインでした。何も彼を持ちだすまでもなかったのでしょうが、きっと、このことばの通じない、コミュニケーションの不成立の問題は、深く考察を重ねなければならないのだと思う。

 《「言語ゲーム」ということばは、ここでは、言語を話すということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることをはっきりさせるのでなくてはならない。/ 言語において人間は一致するのだ。それは意見の一致ではなく、生活様式の一致なのである 》(L.Wittgenstein『哲学探究』)

 「生活様式の一致」と哲学者は言います。その通りだと思いますので、きっと、この不可思議な「言葉」、あるいは「非言語」を得意になって操る人物は「生活様式」も得体の知れないものだという方が正しいのでしょう。ある人の言語を、ぼくたちが理解するというのは、同じような生活様式(文化)において言語感覚を用いているからです。その反対に、文化において異質、すなわち「異文化」の所有者との日常的な「言語ゲーム」は著しく困難になるに違いありません。この不思議な「異文化の所有者」は、それ(言語操作)自体が政治手法であり、もっとも得意とする「政治言語」であると信じ込んでいるのです。

 「わたしの言葉を理解できないのは、わたしが可笑しいからではなく、理解できない君たちの問題である」と、彼は固く、これを信じ切っている。数回、ぼくは彼が話す国会答弁を見たり聞いたりしたが、相手の言うこと(質問)を「はなから無視」し、「自分の言語・文化」を駆使して、相手をけむに巻き、時間を稼いでいるとしか見えませんでした。「暖簾に腕押し」というのが適切なのかどうか。これが政治手法でなければ、彼はここまでのさばる筈はなかったし、この手のが言語文化の共有者だけで成り立っているのが「永田町界隈」だろうと思うのです。そこでは、「虚言」「詭弁」もまた、文化の重要な要素です。

 《 われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない 》《 規則に従っているとき、わたくしは選択しない。わたくしは規則に盲目的に従っているのだ》(同上)

○ ウィトゲンシュタイン=オーストリアの哲学者。ウィーンのユダヤ系の家庭に生まれ,1908年以降主として英国に定住,ムーア,ラッセルに学び,1929年以降ケンブリッジ大学の教壇に立つ。主著《論理哲学論考》(1922年),《哲学探究》(死後刊行,1953年)などで,徹底して言語の有意味性の根拠を問いつつ,〈自我〉〈言語ゲーム〉〈生活形式〉ほかの主題に取り組んだ。20世紀の最も重要な哲学者の一人で,分析哲学の形成と発展に大きな影響を与えた。(百科事典マイペディア)

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 外国人や子どもと交流する(コミュニケート)というのは、ウィトゲンシュタインのいうように、自分が話す言語(規則)を理解しない者と交わるということです。「教えるー学ぶ」という関係はこのことを指しているのではないでしょうか。赤ちゃんに「言葉(日本語)を教える」というのは、文字どおり「教える」のであって、親が赤ちゃんに日本語を「話す」のではありません。「話すー聞く」関係は、それとは別次元のことになります。それは、「生活様式の一致」が求められて初めて、そのように言えることなのですから。

 《 対話のねらいは、どんな知識であれ(それが科学的・技術的な知識であろうと、あるいは経験的な知識であろうと)おのれの知識をその知識の源であり、かつまた、照射すべき対象でもある具体的現実とのかかわりにおいて問題化し、現実をより深く理解、説明し、変革することにあるのである。なるほど、4×4は16である。だがそれは十進法のなかでのみ真理であるのだとすれば、生徒は16という答えを唯一絶対のものとして頭にたたきこむべきだ、ということにはならないだろう。十進法の枠内でのこの真理の客観性は、再度問い直されることが必要なのだ。

 じっさい、学習、とくに子どもの学習において、現実との関連なしに、4×4を教えることは、まちがった抽象化となる惧れがある 》(フレイレ「伝達か対話か」)

 「十進法」は「生活様式」、つまりは「文化」のことであります。「フジサンロクニオームナク」という「真理」は、その根拠をいったいどこに置くのかという理解なしに、それを脳髄にしまい込んでも意味をなさないのです。「学校の試験」には役に立つかもしれないが、実生活には用をなさない。それを「文化」とは言わないのです。このことに関して、柄谷行人さんはつぎのように言います。

 《 われわれは誰でも子供として生まれ、親から言語を習得してきている。最初のコミュニケーションは「教えるー学ぶ」関係においてである。また、われわれは他者との対話において、いつもどこかで通じ合わない領域をもつはずである。その場合、相互に教えるというかたちをとるだろう。もし規則の共有があるとしたら、それは「教えるー学ぶ」関係のあとにしかない。したがって、「教えるー学ぶ」という非対称な関係が、コミュニケーションの基礎的事態である。これはけっしてアブノーマルではない。ノーマル(規範的)なケース、すなわち同一の規則をもつような対話の方が異例なのであり、バフチンの言い方でいえば、それは自己対話(モノローグ)でしかない。ウィトゲンシュタインが「他者」を導入したということは、非対称な関係を導入したということと同義である 》(「教える立場」より。『隠喩としての建築』所収)( 左上の四コマ漫画「白旗はだめ!」は佐藤正明さん作。東京新聞・2021/07/14 )

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 この「ソーリ」の発言が矛盾・撞着していると大騒ぎをしても、彼はいささかの痛痒も感じない。その場を凌いで(やり過ごして)、自分に批判や非難の矢が刺さらなければ、それで勝負があった、そんな土俵(賭場)で勝ち負けを争ってきた「政治家」(らしい)です。いくら責められても、詰(なじ)られても全く動じないのは、彼の関心はそんな場所からはるかには離れたところに飛んでいるからです。国会の質問に対しても時間をやり過ごせばいいのであって、訊かれれば「お経」を唱える、それでじゅうぶんなのです。余計なことは言う必要性を認めていない。尻尾を摑まれないことだけに死力を尽くす。それが彼の政治手法でもあるのです。彼が「ソーリ」に立候補した時、ぼくは出てきてはいけない人間が表に顔を出したと言いました。「生活様式」を共有しようとしない人間であると、ぼくには見えていたからです。それは今も変わらない、というより、裏街道の人間が堅気の風を装うとどうなるか、それを示しているだけです。一刻も早い「退場」をひたすら願うばかりだ。

 ここで彼のもっとも関心のあることは、いったん手に入れた「椅子(お前)」を死んでも手放したくない、そのためにはどうしたらいいか、それだけが「唯一の」政治課題(権力行使と金の濫費のし甲斐です)となっているのです。とんでもない人間を「椅子」に座らせてしまったと言っても、もう手遅れです。彼とともに、ぼくたちは「破滅の道」を歩かされている。これを書いているぼくの頭の片隅に「死んでもお前を離しはしない」という(森進一さんの)「恨み節」が鳴っている。

女のためいき
(作詞:吉川 静夫    作曲:猪俣公章)

死んでも お前を 離しはしない
そんな男の約束を
嘘と知らずに 信じてた
夜が 夜が 夜が泣いてる
ああ 女のためいき

 余話なんですが ぼくたちが時々、その姿を目にしたり、その音声を耳にしたりする「ガース」というのは、異邦人なんでしょうか、異星人なんでしょうか。まったく「言葉が通じない」「交流ができない」「話が響いてこない」と、散々に指摘されています。交流不能な存在を「島の代表」という椅子に付けたのは、回りまわって、ぼくたちだったわけであり、われわれもまた、「異邦人」「異星人」の仲間なんですかね。

 ぼくにも、彼は「異質な人だ」という認識はある。それは政治家という存在に通有の文化のなせる技を判断しての評価でしたが、今ではもっと変異して「永田町」「霞が関」の奇天烈な文化(超言語)でもあるのだと思い始めています。政府や官僚が、何をするのかという「自明の理」が壊滅してしまった状況下、無規則で無原則の(「五輪」ではなく)「二輪」が開かれたら、さらに事態は手の付けられないようなカオス(混沌)に陥ります。コロナ感染のパンデミックに加えて、開けてはいけないパンドラの箱が、間もなく開けられようとしています。方舟(ark)はどこに用意されているのですか。 

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