
【水や空】梅雨空けと夏の到来 先日の夕方、にわか雨が上がった頃、遠くにうっすら虹が見えた。梅雨なのに一足早く夏の景色に出会ったような…▲昭和初期、中央気象台(今の気象庁)などが編んだ「日本気象史料」には、多くの史料を基に、古くからの気象の移り変わりや天災が記されている。お天気キャスターの草分け、故倉嶋厚さんはその記録から、7月は長雨と干ばつの両方が多いことを読み取った▲日本では1300年のうちに長雨が170回ほど、干ばつが280回ほどあったという。長雨は今の暦でいう6月と7月に多く、干ばつは7月と8月に多い。つまり7月は遠い昔から、長雨や大雨にも、日照りにも悩まされる月らしい▲雨の季節から日照りの季節へ、今年はとりわけ場面の早変わりが際立つ。気象庁はきのう、九州北部が梅雨明けしたとみられる、と発表した。梅雨の空に見た虹は、夏が近いのを知らせていたのだと合点がいく▲5月半ば、過去2番目に早く梅雨入りした。2カ月ほどに及んだ梅雨の終わりと夏の到来はぴたりと重なり、きのうは県内八つの地点で今年一番の暑さになった▲佐世保市の町名にもあるが、梅雨明けの頃に吹く南寄りの風を白南風(しらはえ)という。7月前半は暗くて黒い雲、茶色の濁流や土砂を多く見てきた。後半は明るい“白い風”が列島を横切ることを。(徹)(長崎新聞・2021/7/14)
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まだまだ幼かった頃(というものの、実はいまだに「いたって幼い」んですね、このぼくは)、誰に言われたか忘れましたが、「天気に文句を言わないこと」という教えをよく覚えています。雨が降ったといっては文句を垂れる、そんなことをいくら言っても「雨は止んではくれないから」というのでしょう。大学生になって、ぼくは、フランスの哲学者(で高校の教師だった人の本)から「雨の日には笑え」「いやな天気の時には、いい顔を」という判じもののような一文を学びました。雨が降り出した、いやだなあと思っても、雨は止まない。そこで、「にこっと笑ってみる」たちまち憂鬱の気分はどこかに消え去るという次第です。要するに、問題は「気分」「情念」にあったというのです。ここから、いろいろな「生活の知恵」のようなものが生み出されてきたんですね。

近年の雨は中途半端じゃないのが困る。適度に降ればいいものをと、ついには文句たらたら。それこそ、家ごと流されてしまうほどの豪雨がしばしば襲来する。毎年の季節行事のように、各地で大きな犠牲者が出ているのです。「集中豪雨の時には、大笑いを」と言っても何の役にも立たない、どころか、君は気がふれたかと指さされるのは言うまでもありません。農業にとっては「水」は死活問題ですから、日照りや旱魃には「雨ごい」をしたという風習が今なお伝えられています。降らないというのならまだしも、降らないでくれというようなお呪いは、たぶんどこにもなかったのではないでしょうか。だから「豪雨防除」ごい(乞い)は聞いたことがない。
あちこちを襲ってきた、梅雨明けまじかの、想定外の豪雨でした。何時ものように、くりかえして劣島の各地で大きな被害が出ています。自然の摂理をはるかに超えた、人為=自然への作為が、このような信じたくない集中豪雨(線状降水帯)をもたらしたことは定説となっているといいます。河川の氾濫、堤防の決壊、土砂崩れ、がけ崩れ、いずれも人為による自然の作り変えが災いをもたらしたと言えるでしょう。では、どうするか。もと来た道を戻るほかにないというのなら、そうするでしょうが、ここまで来てしまった以上は、後戻りはできないのです。地球誕生以来の自然や環境も、人類の出現とともに、一変してしまったのです。この先は、発生するだろう災害を未然に防ぐのは不可能であるとするなら、可能な限り、災害の小さからんことを工夫すべきでしょう。この点に関しては、今ようやく始まったばかりであるとも言えます。
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山あれば山を観る / 雨の日は雨を聴く/ 春夏秋冬 / あしたもよろし / ゆふべもよろし (「草木塔 ー 山行水行」(種田山頭火)
《「鉢の子」には酒のやうな句(その醇不醇は別として)が多かつた。「其中一人」と「行乞途上」には酒のやうな句、水のやうな句がチヤンポンになつてゐる。これからは水のやうな句が多いやうにと念じてゐる。淡如水――それが私の境涯でなければならないから。(昭和八年十月十五日、其中庵にて)(山頭火)(「註 「鉢の子」「其中一人(ごちゅうひとり)」「行乞途上」とは、「草木塔」内の「小みだし」の名です)
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種田さんの境地になるのは、まず無理だと言っておきます。でも、ぼくにはいささかの疑問があるのです。彼は果たして、年中「あしたもよろし ゆふべもよろし」と言って生きて(歩いて)いたのか、いや「できれば、そんな風に言ってみたいね、生きて(歩いて)いきたいね」というのだったか。どうも、山頭火という人の生き方の流儀からすれば、「あしたもよろし ゆうべもよろし」といってみたいなあ、そんな願望が、たしかにこめられているように、ぼくには思われてきます。この年、この小さな島国は、中国大陸で「事変」を闘っている最中でした。山頭火には「戦争の災禍」が見えていなかったはずはありません。
「其中庵にて」の「あしたもよろし…」に続く、数句を。

炎天かくすところなく水のながれくる 日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ
待つでも待たぬでもない雑草の月あかり 風の枯木をひろうてはあるく
向日葵や日ざかりの機械休ませてある 蚊帳へまともな月かげも誰か来さうな
糸瓜ぶらりと地べたへとどいた 夕立が洗つていつた茄子をもぐ
こほろぎよあすの米だけはある まことお彼岸入の彼岸花 手がとどくいちじくのうれざま
おもひでは汐みちてくるふるさとのわたし場 しようしようとふる水をくむ
山頭火は「炎天下」を一人でとぼとぼ歩いている。でも、その陽光は、猛暑や酷暑と言われるような灼熱地獄ではなかった。ただし、彼の胸中には「火柱」が燃え上がっていなかったとは言えないのです。なお、この「草木塔」は「心ならずも若くして」亡くなった母上に捧げられています。今から、八十年か九十年ほど前のことでした。
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以下は、また「旧聞」です。「雨をみると母の愛を感じるのです」まるで山頭火の心境です。いや、時期は吉川さんの方が早いのですから、あるいは山頭火がこの色紙を、どこかで見たことがあるのか。「 自然体での生き方を説いた名言だが、気候が穏やかな日本だからこその表現に思える。」と、「凡語」のコラム氏は書いている。今は昔の「穏やか」だった時代の出来事でしたね。吉川英治という人(にかぎりません)は、あらゆる職業を経験した後で作家になられた。その履歴を知って、若い青二才はひどく驚いた記憶があります。あらゆる職業の(失敗の)果ての作家という職業について、深く考えさせられたのでした。その意味は、すべてが「経験」というものによって、「人間」という存在が作られるということでしょう。
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【凡語】入梅 大正末期の蒸し暑い日だった。原稿に行き詰まった若い駆け出し作家は、サァーと降ってきた雨の中を裸で庭に飛び出した。奥で針仕事をしていた母親が飛んできて「風邪をひくよ」とお尻をたたいて叱ってくれた▼「雨をみると母の愛を感じるのです」。梅雨のさなかに訪れた京都の宿で、作家の吉川英治さんが同行の編集者にしみじみ語ったそうだ。そして色紙に「晴れた日は晴れを愛し、雨の日は雨を愛す」としたためたという▼自然体での生き方を説いた名言だが、気候が穏やかな日本だからこその表現に思える。「瑞穂の国」に住む日本人は古来、雨に親しみ、感謝し、そして恐れてきた。湿っぽく繊細とされる気質も雨と関係があるのかもしれない▼日本列島の大半が梅雨入りした。これから1カ月半、じめじめした日が続く。京都ではこの期間に約300ミリの雨が降る。かなりの量だが、年間降水量1500ミリという数字からみれば、普段よりやや多い程度だ▼ところが100年後の梅雨は熱帯のような本格的な「雨期」に変わっているかもしれない。東京大大気海洋研究所の予測によれば、地球温暖化に伴って梅雨明けは遅くなり、雨量は増える。盛夏の時期は短くなり、台風は巨大化する▼豊かな現代の生活が気候を変え、日本人の感受性までむしばむとしたら寂しすぎる。節電の夏、エアコンを止めて窓を開け、静かな雨音に耳を傾けるのも粋ではないだろうか。(京都新聞・12/06/10)
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新旧二つの「梅雨に因むコラム」を読んでみて、何を感じるでしょうか。人それぞれの感覚で受け止められるのですが、ぼくは、世の中が格段に悪くなったという実感があります。これだけの文章で、そんなことが言えるのかとロわれそうですが、正直なところ、その思いは変わりません。人品、骨柄が著しく劣化したと思えてならないんです。もちろん、ぼくには大正期や昭和戦前期の体験はまったくありません。でも、戦後すぐの時代にも生きていたものから見ても、その感覚は間違っていないと言えますね。格段に悪くなった世間、それはどうしてでしょう。「衣食足りて、礼節を忘れる」というような、生半可な程度ではなさそうです。学校教育が完備し、大学進学者が同年齢の半分を超えるような、所謂高学歴化社会という現実を見ると、今日の地獄絵は、学校教育がもたらしたものの仕業かもしれぬと思うと、空恐ろしくなります。「世の中」といい「世間」というのも、けっして島全体ではなく、ぼくのごく身近の範囲に限られます。テレビや新聞に慣れ親しんでいると、劣島全体が「不道徳」「背徳状態」になったような錯覚に陥りますけれど、けっしてそう言っているのではありません。

でも、やはり大本では、混乱した時代をとっくに超えて、今や腐敗・堕落の時代にぼくたちは生きている、そんな埒ないことを考えてしまうのです。「梅雨の晴れ間」と言います。雨続きの一瞬をついて、待望していた「晴天」に恵まれることを言うのでしょうが、悪くなった世のなかに「陽光の指す」瞬間は訪れてきそうにもありませんね。あっても、一層暗くなるための「前奏曲」でしかないのでしょうから。贅言や甘言は「沈黙」にけっして勝ることはないのと同じように、陽光は暗闇に克つ術をもたないのではないでしょうか。まもなく、盛夏到来です。「真夏の世の夢」に、ぼくたちは何をみ、何を描こうとするのでしょうか。
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「いいことばかりやっているような、そんないい人は、たいてい偽善者なんだけどね。そういうことばかりにかこまれて子どもを育てたら、いい子になると思っているのは教育そのものの欠陥なんではないでしょうか」(俊)
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