上中下に三態あり、合わせて九品仏とする

 明窓 「こすい」作戦

 子どもの頃に使った言葉で言えば「こすい」印象が拭えない。この言葉、方言だと思っていたら「狡い」で辞書に載っていた。「ずるい」という意味で、言ってみれば、フェアプレーの対極になる▼開幕が迫る東京五輪は首都圏などほとんどの会場が「無観客」に変更されることになった。新型コロナウイルスの感染が再拡大し、懸念されていた緊急事態宣言下の大会になるためだ▼感染リスクが軽減されれば「安全安心」にはつながる。ただ本来は開催の是非が争点だったはずなのに、いつの間にか開催は既定路線になっていた。まさか旧ソ連流の戦術にはまったのではあるまい。交渉を引き延ばした末に土壇場で、もぐらたたきのように次々と問題を提起。相手に「もうこの辺で手を打つしかない」と諦めさせるやり方である▼そう言えば、観客数の上限や大会関係者の扱い、会場での酒類提供の可否など小出しの論議が続いた。しかも国会では「私自身は主催者ではない」としながら、先進7カ国首脳会議(G7サミット)の場で開催を「国際公約」同然にした▼確かに外交交渉では、したたかな戦術が求められる。今回も相手が国際オリンピック委員会(IOC)ならうなずける。しかし、国民相手の作戦だったとすれば…。政治家に子ども並みの純粋さを求めるのは無理だが、それでも「こす」が過ぎると、国民にそっぽを向かれる日が来る。(己)(山陰中央新報デジタル・2021/07/11)

 この「明窓」という語は、どこかで羽仁説子さんの短文のタイトルにあったのを紹介したことがあります。もちろん、ぼくにはそんな気の利いた明窓つきの部屋などありません。まるで倉庫のような殺風景は場所で、駄文を打ち出しているのです。しかし、心持ちばかりは「明窓浄机」でありたいという願いは人一倍強く持ってきました。それはともかく、このコラム「明窓」にあっても、時には「いいね!」と押したくなる時があります。これまで何度か、この雑文で紹介したことがあるのです。まったく状況もわからない地方のひとつの新聞の「コラム」に遭遇することは、まことに奇遇というほかない。その意味では、ネットの波に乗って散歩するのは、ぼくには嬉しさ、それも驚きをもった嬉しさの一つで、これからも大切にしたいと考えています。

○《欧陽脩「試筆」から》明るい窓と清潔な机。転じて、学問をするのに適した明るく清らかな書斎。(デジタル大辞泉) 

 (右の写真は、作家の坂口安吾です。この写真は、ある高名な写真家の撮ったもので有名になった、一体どこに窓があるのか、何処が机なのか、第一畳が見えないほど、汚れたままの「明窓浄机」で、ここから安吾の名作が、「堕落論」を始め、いくつも生まれたのだろうし、彼は薬の乗用車(「常用者」が正しいのでしょうが)だったから、ここで注射(今流行の語では「接種」)していたかもね。キレイだけでは物事はかたが付かないから、ややこしい。何事もさまざまだということ)

○ こす・い【×狡い】[形][文]こす・し[ク] 人を欺いて自分に有利に立ち回るさま。悪賢い。狡猾(こうかつ)である。ずるい。「―・いやり方」 けちだ。「年のくれ互ひに―・き銭づかひ/野坡」〈炭俵〉[派生]こすさ[名](デジタル大辞泉)

○ しだやば(志太野坡)=江戸前期の俳人。越前の人。江戸に出て、越後屋両替店の番頭となる。貞享二~三年(一六八五‐八六)ごろ、芭蕉の門にはいる。初号野馬、別号樗子、無名庵など。蕉門十哲の一人。元祿七年(一六九四)小泉孤屋(こおく)、池田利牛(りぎゅう)とともに「炭俵」を編纂。作風は「かるみ」をもっぱらとし、平淡で庶民的。芭蕉没後、大坂に移住、上方および中国・九州地方に蕉風をひろめた。句集に「野坡吟艸」がある。寛文二~元文五年(一六六二‐一七四〇)(精選版日本語大辞典)

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 今回はどうでしょう。「こすい」という。さらに強くは「こすっからい」とも。「ずるい」と同じ読みです。「狡い」ですね。さすれば、「こすっからい」は「ずるかしこい」となりそうですね。ぼくの印象や肌感覚からすれば「意地汚い」とも「卑しい」、「心は貧寒」「功名心・利権オタク」などと言いたくなります。しかし、これが一種の言語ゲーム(言葉遊び)なら他愛もないねえ、と言って済ませられる。殊はいのちにも生活にもかかわるとするなら、看過できないというべきで、タヌキやキツネも呆れる為体(ていたらく)で、嘘と空無を取り混ぜ、猫なで声に恐喝が混じっているという、形容しようもない悪逆・悪態に対して、ぼくたちはどのような態度を取ればいいんですか。

 この数日間の要路にある馬鹿どもの言動を見ていて、まるで江戸時代の悪政をほしいままにした政治家時代に急展開したような錯覚を持たされています。いや、それは錯覚じゃないよ、現実だよと肩を叩かれ、もう驚天動地です。二十一世紀に、こんな時代物の魑魅魍魎が、白昼真夜中、いずれにおいても堂々と蠢(うごめ)いているのです。まるで「絶滅危惧種」が復活したような塩梅ですね。「復興五輪」ならぬ「復活二輪」です。この連中にはいくつも共通点があります。中でも最大のそれは「無責任」「責任を取る素振りすら見せない」というあくどさです。無責任時代は今も続いているのであり、これは「島の伝統・文化」、あるいは「無形文化財」となっているのかもしれません。

 「政治家に子ども並みの純粋さを求めるのは無理だが、それでも「こす」が過ぎると、国民にそっぽを向かれる日が来る」と書くコラム氏。ぼくは多くのコラムニストの「人のよさ」「気のよさ」を感じます。「ノーテンキ」なんだ。何に遠慮してるんですか。誰を恐れているんだろうか。なあに、それはコラムを書くための仮装・化粧であって、実際には「悪気」「洒落っ気」旺盛だと言われるなら、その「悪気」「洒落っ気」をコラムに忍び込ませてほしいね。「国民にそっぽを向かれる」と仰いますが、そっぽを向く国民ばかりじゃないことを百も承知じゃないんですか。国民挙って「そっぽを向く」なら、まだまだ救いがありますが、実際は大半の国民は「こす」の仲間だと、はっきり言ったらどうでしょう。かなりの国民も「こすい」んじゃないか、そう書けない理由は何ですか。地元に、「こすい」の元締めもいるんですかね。

 ずるい、汚い、卑しい等々、口を極めて罵るのではありません。罵りことばが追い付かないくらいに、人品骨柄が「下品(げひん)(げぼん)」だという意味です。まるで「天丼」の松竹梅よろしく、あるいは鰻丼の上中下に似せて、人品骨柄にはに三種あり、それぞれがまた上中下の三種に区分されています。合わせて九品(くぼん)。信心の深浅によって選別されるのです。「わたしはそこには入らない」「入りたくない」というわけにはいきません。「ぼくもあなたも、衆生はすべて」この中に入らざるを得ないのです。狭苦しいですね。

 元来は仏教のお経に出てくる言葉です。すべては阿弥陀仏のお計らいによるものです。人間の分際では、如何ともしがたい。この点では、国籍をも選ばないでしょうね。上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)という品定めについては、専門家の解説を参照。「観無量寿経(観経と略すことも)」というお経があります。なかなかのお経として重宝されてきました。以下の解説を一瞥してください。

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 …「げぼん」と読むと、意味は異なってくる。もとは『観無量寿経』という経典に出る言葉で、浄土に往生する者を、その生き方に応じて、上品・中品・下品に分けたものである。
 いくら外面を整え、言葉づかいに気をつけていても、それは上品(じょうぼん)とは言わない。仏の教えにどれほど誠実であるか、これが上品と下品の分かれ目である。
 どんな命も決して傷つけない、人を自分の都合で利用しない、決して人をだましたり欺いたりしない。これらが仏の教えに生きる最初の出発点である。
 現代は経済効率を優先し、環境破壊を繰り返し、命までもが利用価値で計られるようになっている。仏の教えからは、全くもって遠いと言うほかはない。上品どころではない。お互いに傷つけあう生き方は、まさに下品そのものである。


 ところが、特にこの下品に注目した人がいる。親鸞である。それは下品の姿に、偽らざる人間の現実を見たからであった。お互いに傷つけあいながらも、なお、人として生きる道はあるのか、これが親鸞の抱えた問いであった。
 下品の者は下品としての愚かさを教えられて、はじめて生きることの悲しみを知る。そこに、仏の教えをより所として歩んでいく人生が始まるのである。
 親鸞が「悪人成仏」を主張する根拠もここにある。それは、悪人でも良いのだ、と開き直ることではない。それならば今流行の言葉でいう「逆切れ」にすぎない。
 お真宗大谷派の僧侶が故に、いよいよ仏の教えを聞いていくのである。その教えを通して、自分を見つめ、この世の在り方を問うていく眼を得るのである。これは、自分が上品か下品かとこだわるよりも、もっと大事なことである。(一楽真師・真宗大谷派の僧侶・大谷大学教授)

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 というような講話を聴くと、やれやれという気にもなり、やはり親鸞さんですね、という気にもなるのですから、不思議です。下品(げぼん・げほん)であればあるほど、「悪人正機」という因縁で、救いの道は開かれているというのです。他人を騙し、他人の物をくすね、嘘八百を並べ立てて、わが世の春を謳歌する、他人の命を踏みつけようがどうしようが、わが世、わが生が栄えることが生きる意味だという「下品の下品」こそが、救われるという有難いお経に、「下品」のきわみのようなぼくたちは、手もなくすかされてはなるまい。

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○ かんむりょうじゅきょう【観無量寿経】阿弥陀仏信仰を説く大乗仏教経典の一つ。略称《観経》。漢訳(畺良耶舎(きようりようやしや)訳,5世紀)1巻,およびウイグル語訳断片(漢訳からの重訳と思われる)が現存。その成立に関して,インド説,中央アジア説,中国説があり,決着をみていない。この経典は,マガダ国王妃韋提希夫人(いだいけぶにん)がその子阿闍世(あじやせ)によって幽閉された,いわゆる王舎城の悲劇を背景に,幽閉中の韋提希に対する仏の説法として展開される。(世界大百科事典 第2版)

○ 悪人正機説【あくにんしょうきせつ】=浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)の根本思想。《歎異鈔(たんにしょう)》に〈善人なおもて往生をとぐ,いはんや悪人をや〉とある。善人(自力作善の人)は自己の能力で悟りを開こうとし,仏に頼ろうとする気持が薄いが,煩悩にとらわれた凡夫(悪人)は仏の救済に頼るしかないとの気持が強いため,阿弥陀仏に救われるとした。すべては阿弥陀仏の本願によるとの絶対他力の思想につながる。(百科事典マイペディア)

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 ここまでくると、だれが「善人」でだれが「悪人」なのか、判断は困難となります。「自力作善」を為すものは善人で、煩悩に見舞われ悪行を重ねる凡愚は「悪人」なのだと言われると、果して、いまこの灼熱とコロナの巷で、のた打ち回っている衆生に「善人」などいるはずがないと思えてきます。すると、悪人が悪人を苦しめているという、この世の、同胞相食み、相争う状況が手に取るように見えてくるのです。「狡い」のも「こすい」のも、「こすっからい」のも「卑しい」のも、すべてが「悪人」だということなら、行けるところまで行ってしまえという気にもなります。地獄の沙汰も「ずる」次第、というわけでございます。(左写真は九品仏浄真寺。都内世田谷区奥沢在)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです