
「自律」とか「自立」という字を当てて、人間の独立(自分の足で立つ・自分の頭で考える)問題が語られてきました。この問題は、国家単位でも同じように論議の的となってきましたね。敗戦後、七十六年、この島社会は独立した、あるいは独立国家になったと、何処のどなたも考えなんじゃないですか。その理由は歴然とした事実が明かしています。「治外法権」を求められ、それをいいように行使されているのは明白ですし、あるいは以前ほどひどくはなさそうに見えますが、「関税自主権」だって、すこしも自主・自由という意味で、権利として使われていないことは、その目が節穴でない限り、天下周知の事実です。
この島社会は明治以降、日清と日露の両度の戦争を「勝利」したとして、世界の一等国に仲間入りした(と思いたいという願望・妄想でした。あるいは錯覚だった。実際に、分相応の小国に徹していればよかったと思うし、今もそうであるのがいいと、ぼくは見ている)、しかし事実はそうではなかった。国家の独立も個人の自立も、根は同じ姿勢というか態度によって支えられています。日本というアジアの小国(領土の面でも、国力の面でも)が、無理を承知で背伸びし、大陸に覇権を求めて朝鮮半島を植民地にし、さらに中国東北部にまで出かけて行ったという事実は、この国が独立国ではない・なかったということを、歴然と証明しています。空想や観念ではなく、そのものが現実になしている行動や挙動によって、そのもの自身が表わされるのは、人でも組織でも、基本構造は変わらない。「俺はいけない行動をとっているけど、根は正直で、他人思いの人間なんだ」といったところで、誰も信じるはずがないでしょ。
日清・日露の両戦争で西欧列強並みの独立を果たしたと、みなしたかった人は多くいたけれども、その「戦争」という暴力遂行のために、先ず朝鮮半島を侵略し植民地にしたという事実から、次のことが断言できます。他国の独立や自立を妨害するばかりか、その国を丸ごと併呑し植民地にしてしまったという意味は、他国の独立を著しく侵害したということであり、その事実に蓋をして「我が邦は独立国である」と、言えた義理ではないのは「犬が西むけば、尾は東」という事実と同じように明白な、「あり得ない事実」です。その一挙手で、何を言っても、他者に理解されるわけはないのです。

「他者の人格を尊重する」というのは、その人の独立心や自立精神を認めることを指して言う。それれとは正反対に、他者を抑圧・蹂躙して、どうして自身の自立・独立を誇れるでしょうか。これは個人でも組織でもまったく同じことです。子どもの権利や自由というものを、はなから認めない親や教師が、どうして自立した精神の持ち主であると言えるか。逆に、他者の、他組織の、他国の独立精神を認めるということが出来るのは、おのれ自身が、自他の独立精神を尊重する人であるからです。他人を鎖で束縛しておいて、「わたしは、あなたの自由を認めます」という人間がいるでしょうか。
今でも盛んに見られます、この社会における過度の「同質性」の傾向。あるいは異質なるものへの理由のない、理由にならない理由による「毛嫌い」というか、「嫌悪」。この二つは硬貨の表裏のようで、まったく同じ性格を持っているとは思えないのですが、同じ働きを一個人においてなしています。もちろん、同質性を好む人が、異質への嫌悪をあからさまにするとは限りません。これは程度問題だと言えますけれど、この島においては「集団内同質主義」というか、「均一への極端な傾向」が強く働いていることは否定できません。「緊急事態宣言」なる「お経のお題目」が唱えられた途端、すべてがそれに対して右へ倣えとなる。しかしそれは「お経」ですから、それを信じる人でないと、その効果を認めないから、実際上はややこしくなるのでしょう。挙句には法律を作って、無理にでも同化させようとする、従わないものを服従させる手段が悪手化するのです。五輪開催に対してもそうです。多くが反対や延期を求めていたと思われるのに、「お題目」が強烈に唱えられだすと、「声高になる」と、とたんに開催への賛同者が多くなるのです。実に恥ずかしいけれど、付和雷同、草木も靡く主義です。あるいは「日和見」「寄らば大樹」型自己放棄です。

なぜそうなるのか。定見・一家言・自説がないと言えば、それまでです。その自説に拘るのは考えものですが、様々な条件を踏まえたうえで、「開催に反対」なら、少々の事態の変化ぐらいでは動揺しない。風見鶏宜しく、あるいは機を見るに敏であることを、恬として恥じない人だからこそ、風の吹くままに流されるのを心地いいと感じるのでしょう。「開催は、この時期には適切ではない」という態度を維持しようとする人は、この島社会には多くはないから、時の悪辣狂犬・強権政府は「愚民どもはなんとでもなる」などと、たかをくくっているのです。(無理に開催したって)いずれ、もろ手を挙げて賛成し、小躍りするに決まっているさ、と。なんとも安く見られたものです。

同質性を求めるのは、まったくの間違いであるというつもりはありません。でも、その結果、往々にして異質なものに対して偏見思想や差別行為を以て報いるとなると、そんなに暢気な話ではなくなります。同質を好み、異質を嫌うという理由は多様でしょうが、まず「自分以外に対する無知(無関心)」への志向性です。自分を知るという、同じ意味合いで他者に対する興味や関心を持とうとしない、未知なるものを知ろうという意識のいちじるしい欠如です。これはどこにでもあることでしょうが、田舎に住んでいて、しばしば怒りに襲われるのは、車の中からゴミや不要になったものを遺棄する人が多いということです。この地に住んでいる人間でないのは明らかです。少し山道に入ると、冷蔵庫や洗濯機、あるいは車のタイヤが捨てられている。自分の住処はきれいにするけど、それ以外は「野となれ山となれ」という腐敗した精神、いや、まちがった根性のなせる行為です。「旅の恥は掻き捨て」ということでしょうか。「わが身の穢れを清めな」というほかないね。

数日前に、熱海で大きな土砂崩れが発生し、多くの犠牲者が出ました。その大きな原因は大量の「盛り土」だったと言われていますが、その中に産業廃棄物や粗大ごみが混在していたとされます。多くの人命を犠牲にするような事態の深刻さに、だれも責任を取らないということ、それ自体が「自律性」「独立精神」のなさを明示しています。盛り土をした業者、それを認めた行政、あるいはこの土地の売買に関係した人々、そのどなたもが自らの責任を回避することに汲々なのは、自律性や独立心のなさを示すばかりで、この人間精神の荒廃の度は止まるところを知らないようです。いずれ、人心、道義における予想外の大崩れが発生することでしょう。その大本は、「ご理解才」問題を不必要に大きくしてしまった「五者協議のメンバー」たちの無責任根性です。「このわたくしが責任を取る」と、誰一人実を前に出さないで、責任を逃れることに苦心惨憺している、そのすきを狙ってコロナ禍は悪化し、五輪開催にかかわるさまざまな犠牲が膨らんだのです。責任をとれない人が自由であり独立心が旺盛である、そんなふざけた話は金輪際ない。現下の災厄は、いずれ何か拘束・梗塞されて身動き取れないような不自由人間たちの仕業ですね。
しばしば触れていることです。ぼくの家には「野良生まれで野良育ち」の猫たちがたくさんいます。この地に住んで八年目、つい最近でしたが、最高数は十四でした。今は、生後間もない子ども猫を知り合いなどにお願いした関係で、その半分になりました。それでも大変。もう何十年もぼくはネコやイヌや鳥たちといっしょに暮してきました。その間、まず「これは、ぼくんちのペット」という意識は生まれなかったと言っていい。理由ははっきりしているように思われます。血統書などというお墨付きなんかない。言うならば、出自は怪しい。それはぼくも同様です。すべて「野良」というのが勲章でした。彼や彼女は、ぼくの子どもだとは言いませんけど、同居者。同伴者だと考えてきました。相手はどう思っているか、意見を言わないので、分かりません。なぜ動物をペットとしてしか扱わない、扱えないのか、ぼくにはよくわかりません。というより、ペットという「概念」に嫌悪感が働くのです。言えることは、動物との関係でもっとも肝心なことは、お互いが「自然の状態」で付き合うということ、それに徹してきたように、今でも考えています。この付き合いは、なにも動物に限らないでしょう。人間をもペット化する、家畜化するということが蔓延していないかどうか。つまりは「角を矯めて牛を殺す」、それが教育であり、子育てであると思い込んでいるんじゃないですか。ペットとは「操り人形」のこと、そこに自立心があるわけがないでしょう。

この島社会を覆っているのは「雑草」ばかりではありません。どなたが言われたことだったか、まるで、それは「草の根排外主義」「草の根排他主義」の蔓延です。まことに深く広く、執拗に成長し増殖しているのです。これは除草剤や草刈り機で排除することは不可能です。また、この「草の根」の嫌なところは、季節を問わずに好き放題に伸び蔓延(はびこ)ることです。この極端な「排除の草の根」衝動は、「この島には日本人が住む(はず)」「日本人だけが住む(はず)」「日本人だけが住むべき」という、ある種の価値判断の複層次元が、いつの間にか、おどろおどろしい単一の「排除・排斥主義」の次元にまで到達・膨張したのです。それを放置してしまったのは、やはり「同質主義」罹患者の、異質とみなす存在への嫌悪だったということでしょう。根拠はどこに潜んでいるか。自分の利害以外に興味や関心を持てないという、歴史的・伝統的「自尊至上主義」の圧倒的感染力じゃなかったでしょうか。間違った「自尊心」というものがいくらでも育つかもしれないけれど、間違っても他者に対する敬意や尊敬の念は生まれようがないといいたくなります。
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