自然界の真の富は、大地の恵みの中に

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  昨日も書きました。ぼくは「旧聞派」だと。新聞はかならず旧聞になるし、旧聞は、最初は新聞でした。当たり前のようですが、それがなかなか理解されないのが、この島の現実でしょう。十年前の「主張(社説)」は古くなるどころか、さらに新しくなる。なぜなら、指摘された問題が一層深刻化してきたからに他ならないからです。「沈黙の春」は、いつになったら古びるか、古色蒼然となるのでしょうか。

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社説 週のはじめに考える 「沈黙の春」と原子力

  先日、農協が原発と農業は共存できないと宣言しました。それは農業に限らないでしょう。私たちは自然なくして生きられず、共に暮らしているのです。/ 自然環境について言えば、今年は、あのアメリカの海洋生物学者レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を出版してからちょうど五十年になります。/ その本は述べます。…食料増産の中で農薬が大量に使われ、鳥や虫などが死に、春は黙りこくってしまった、と。

◆巻き起こった大論争

 悪い情報も開示せよ、と求めたのです。よい効能ばかりを聞かされてきたアメリカ国民は、やっと危険性を知らされるわけです。/ 半世紀も前のことですが、それが今の原発問題と、何と似ていることか、また似ていないことか。/ 似ているのは、国民が危険性をよく知らされなかったこと。それが政府や業界、御用学者らによっておそらくは覆い隠されてきたこと。似ていないこととは、悪い情報の開示が日本ではなお不十分だと思われることです。

◆国を内から滅ぼすもの

 国が運転の許認可をしている以上、国民にはその良い面と悪い面を知る権利があります。/ また、政府が十分だと見なしても、国民の大方が不十分と考えれば、それは十分ではないのです。政治家は説明責任という言葉をよく口にしますが、軽々に使われては困ります。それは悪い情報も開示した上で、論理的に相手に通じなければなりません。/ カーソンに話を戻せば、「沈黙の春」出版のずっと前、一九五三年八月、彼女の投書がリーダーズ・ダイジェストに載りました。/ 訴えはこうでした。

 「…自然界の真の富は、土壌、水、森林、鉱物、野生生物等、この大地の恵みの中にあります。将来の世代のためにこれらを確実に保存しなければならず、利用するには、広範囲の調査に基づく緻密な計画を立てねばならない。これらのものの管理は政治の問題とは全くちがったものなのです」(ポール・ブルックス著「レイチェル・カーソン」新潮社より)

 それは工業化社会へ急速に向かうアメリカ、また世界への警告でした。

 投書は、また彼女の元上司を解雇する非を指摘します。

 当時の大統領は、共和党に担ぎ出されたアイゼンハワー。彼は防衛産業に強くGM社長のウィルソンを国防長官に、国際派の弁護士ダレスを国務長官に任命するなど財界、民間人を登用(この時期に軍産複合体制が確立)。/ その中でクビを切られたのが、キャリア三十五年、人望篤(あつ)く公共の自然の収奪に断固反対してきた魚類野生生物局長アルバート・デイ氏。クビを切ったのはビジネス界から来た内務長官。

 投書はこう結ばれていました。/ 「自然保護の問題は国家の死活にかかわります。政治(政略)的考えの行政官は資源の乱用と破壊の暗黒時代に引き戻す。国防に熱心な一方、内側から国を滅ぼすものに無関心ではいられない」/ 内側から国を滅ぼすとは、何と厳しい警告でしょう。しかし彼女の学者としての真剣さがそう言わせるのです。

◆告発から半世紀を経て

 同じように、福島原発事故を経験、また見聞した農業従事者らは思わざるをえないでしょう。都市生活者が恐れるべきは、その体感のなさかもしれません。農協の将来的な脱原発宣言とは、そういう意味合いを日本に与えています。/ 殺虫剤の代表格DDTは大多数の国で使用禁止になりました。他方、原発事故で降る放射性物質は自然をひどく、かつ長く汚染し、核のごみは半永久的に残ります。

 「沈黙の春」の告発から半世紀。その教示を、私たちはずいぶん学んできましたが、まだ学びきれていないものもあります。それは核のもたらす汚染であり、カーソンなら国を内側から滅ぼすもの、というかもしれません。(東京新聞・12/10/21)

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 レイチェル・カーソンをご存知ですか。彼女の代表的な著作である「沈黙の春」は農薬がもたらす深刻な環境汚染の実態をあからさまに表明したという理由で、彼女は、政界や経済界からの大きな攻撃にさらされました。科学・技術(工業)が自然環境におよぼす回復不能なダメージ、そこから生じる農産物汚染、さらにそれを摂取するさまざまな動植物のいのちの危機に警鐘を乱打したのでした。もっとも早い段階の環境破壊に対する警告だったといえます。カーソン氏は、もともとは海洋学者でした。

 カーソンの著書は日本でも大きな反響を呼ぶ。「…食料増産の中で農薬が大量に使われ、鳥や虫などが死に、春は黙りこくってしまった」彼女はもっぱら農薬の自然環境に与える脅威を訴えたのですが、波紋は全米中に広がり、身の危険さえ感じさせられるような事態にまで追い込まれます。それほどに、企業や大規模農業経営者たちは、みずからの地位を脅かされた証明でもあります。

 「害虫」を退治するためにある農薬をつくると、それに対する抵抗(免疫)力を強めるように「害虫(ウィルスも含む)」は進化、というより「変異(variation/mutation)」するのだ。それを殺すためにさらに強力な殺傷力をもった農薬を産み出し、それに抵抗する「害虫(ウィルス)」もまた、…。このような悪の連鎖がいかに自然環境を破壊するか、もちろん「害虫(ウィルス)」以外の生命ある存在も危険にさらされるのは言うまでもありません。(今地球上で認められる、コロナウィルスとワクチンの「いたちごっこ」を言い当てていないでしょうか。コロナウィルスの「変異」は自然の反応でありますが、それはワクチンの新規開発という強力な刺激があっての反応なんですね)

○ レイチェル・ルイス ・カーソン(Rachel Louise Carson・1907.5.27 – 1964.4.4)=米国の海洋生物学者,環境問題研究家,作家。ペンシルベニア州スプリングデール生まれ。メリーランド大学で教鞭を取った後、政府の漁労野生生物局に海洋生物学者として勤め、農薬の危険性を警告した「Silent spring」(’62年)は、自然保護や環境保全の先駆けとして世界的反響を呼んだ。そのほかに、「The sea around us」(’51年)、「The edge of the sea」(’55年)などがある。(20世紀西洋人名事典の解説)

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 大学に入った年に、ぼくは「沈黙の春」を読んだ。その衝撃というか、凄い事態が引き起こされている時代に、ぼくは生きているのだという驚きを経験したと言ってもいい。もちろん、問題の全貌が見えていたわけではありませんでした。事態は刻々と、深化し悪化していくのでした。上に引用した新聞報道からも十年が経過しましたが、事態は一層深刻の度を加えているというべきでしょう。明日や三日後の将来ではなく、百年先五百年先の将来を見据えるという視点は、いかにすれば獲得できるのか。例えば、家康が江戸の幕府を開いたのは千六百三年、今から五百年前のことでした。あるいは明治維新という「開国」を果たしたのは十九世紀の半ば過ぎのことです。今から百五十年前でした。

 五百年は無理だとしても二百年や三百年先の見通しを立てられなというなら、それは度しがたい「視野狭窄」というほかありません。 わたしたちは日常生活において、ほんの数日間の範囲でしか物事を見通していないのはよくあることです。何年も何十年も将来を視野に入れて、今を生きる必要もないし、能力もないというわけです。しかし、自然環境やその保護の問題となると、それでは致し方ないのです。いまこの瞬間には有効であっても数年後には無効であるか有害になるような事態はたくさんあります。まるで、株価の動向のごとくに、一瞬の対応にあたふたするようではけっして有効な手を打つことはできないのです。

  「環境と人間との関係はあまりにも複雑なので、単なる直感や、とかく過大評価されがちな「常識」― それは結局、人間が一八歳ぐらいまでに身につけるさまざまな先入観から構成されたものにすぎない ― では、とても全容を把握することはできない」(E.O.ウィルソン「Bioethics人間と生物の絆」ちくま学芸文庫。2008年)

 地球温暖化問題も自然環境保護問題も、今日や明日のために何かをするのではなく、数百年単位、数万年単位というスケールで将来をとらえる視点が欠かせないようです。「自然の棲息場所の破壊による遺伝子および種の多様性の損失」は修復に数百万年も要するというのだ。目先の利害も重要ではありますけれど、次代や次々代の生命のために、地球環境をよりよく維持しようとする生活を、ぼくたちはできる範囲で目指すべきだし、先ずは図は、その見取り図を作る必要があるでしょう。 (問題を指摘するだけでも、今回の駄文の範囲内では、まだ終わりません。意外と手間取っています。この問題の困難さ加減が、ぼくの拙劣な駄文の進み具合でもわかるということか。稿を改めて、さらに続きます)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。