
「学校と私」 生徒指導で燃え尽きた=元中学教師の直木賞作家・熊谷達也さん
作家になる前に公立中学で数学の教師をしていました。祖父の代からの教師一家なんです。埼玉県内の中学で4年、その後、採用試験を受け直して地元の宮城に帰り、2校で教えました。計8年の教師生活でした。
校内暴力がやや下火になっていたとはいえ、まだ、いわゆる元気な子が多かった時代。とにかく生徒指導が大変でした。朝、職員室で打ち合わせをしていると、「先生のクラスの子がバイクをかっぱらって暴走している」という連絡が入る。あるいは、別の学校から「お宅の生徒が入り込んでいる」という電話が掛かってくる。警察にも何度か行きました。問題が起きると当時の僕のような若い男の教師は、真っ先に飛び出して行かなければなりません。/ 面倒もかけさせられましたが、当時の子どもたちはストレートで分かりやすかったですね。子どものころの僕も強制されたり干渉されたりするのがすごく嫌いで、学校が苦痛だったから、何かにはけ口を求めたいという彼らの気持ちはよく分かりました。

毎朝7時半には学校に着いていました。放課後は顧問をしていた陸上部の指導をした後、授業の準備や報告文書の作成。家にも仕事を持ち帰っていました。生徒が問題を起こせば、連日9時、10時まで職員会議です。当時は土曜日も授業がありましたし、日曜日は部活動の大会などがある。最初の2年くらいは、ほとんど休めませんでした。手を抜けない性格なので、仕事がどんどん増えてしまうのです。
実はそれほど教師になりたかったわけではありませんでした。でも、1年もたつと他の仕事は考えられなくなりました。それなのに辞めたのは作家になるためではありません。最後の年、冬休みが終わった初日に体調を崩して休んだら、翌日から突然学校に行けなくなってしまったのです。いわゆる「燃え尽き症候群」でした。「行きたくても行けない」と言う不登校の子どもたちの気持ちも分かりました。退職後3カ月ほどぷらぷらした後、営業の仕事を始めたのですが、後悔しましたね。今でもたまに教師をしている夢を見ます。【聞き手・井上俊樹】 ==============

■人物略歴 ◇くまがい・たつや 1958年仙台市生まれ。97年「ウエンカムイの爪」で作家デビュー。04年「邂逅の森」で直木賞受賞。近著に予備校生を主人公にした青春小説「モラトリアムな季節」(光文社)。(毎日新聞・10/04/24)

「実はそれほど教師になりたかったわけではありませんでした。でも、1年もたつと他の仕事は考えられなくなりました」といわれるのは真実だろうと思われます。「デモシカ教師」などと、その動機の不純を非難する物言いが絶えませんが、ようするに、「1年もたつと他の仕事は考えられなくなりました」というように、その魅力に引き寄せられるだけの集中心があれば、他人にとやかく言われる筋はないのです。しかし、そんなにはまり込んだ教職も、当たり前の生活のなかに袋小路はいたるところに用意されているのですから、油断大敵というほかありません。
「燃え尽き症候群」、「『行きたくても行けない』と言う不登校の子どもたちの気持ちも分かりました」と述懐する熊谷さんのような善意の教師はどれほどいるのでしょうか。学校にも社会にもまったく余裕が失われてしまった理由は何だったのか、この記事は十年ほど前のものです。果たして、この十年で学校、教職、子どもたちに、教師に、それぞれの道は開かれてきたのでしょうか。言うだけ野暮という感がしますね。善意と熱意を持った教師がいて、それなりに学ぼうとする子どもたちが多くを占めている学校の現場で、どうして「教育荒廃」「学校崩壊」というような恐懼すべき事態が生み出されるのでしょうか。

善意と善意を足したり掛けたりしても、けっして生きるのが楽しくなり、その上に仕合わせが多くの人々に恵まれるという具合に行かないのはなぜか。 以下は、その回答(解答)ではなく、不十分なヒントにすぎません。学校教育は「個人プレー(生徒や教師の)」で何とかなるような代物ではないということ、そこに目を付けると、それではどうすればいいのか、なにかと思いがめぐらされて、あるいはちょっとした方向転換ができるかもしれないのです。気休めのように思われるかもしれません。
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《学歴社会は、学校を重んじるように見えはするけれども、実のところ学校の教育を重んじているわけではなく、何々学校を出たという学歴(学校を出たこと)だけを重んじているわけで、教育のほうに関心はむいていない。
今のように、一流校、二流校というふうに学校が格づけされ、それに入るために、大学以下、高校、中学、幼稚園でも、一流の上位校の入学試験への準備に、教育がついやされるということになると、しかも、その入学試験が、大量の受験生を短い時間で「客観的に」さばくために、○× 式の答を出す質問をするようになると、教育のなかみは、機械的になってしまう。機械に似せて自分をつくりなおすことで、機械に似た正確さをつくるという方向をめざすことになる。

そこでは、そだてるーそだてられる、世代から世代への文化のうけわたしということは、なりたちにくくなっている。今の日本の学校は、そういうふうになってきている。そういう側面だけだということはないし、だから学校を全部やめてしまうのが、教育回復の早道だと、メキシコの神父イワン・イリッチにならって、唱えようとは思わないが、しかし、学校には教育として欠けているところがあるということを見すえて学校にいくようでないと、学校のえじきになってしまう。そういう不信の心があって、はじめて、教師と生徒がたがいにもうすこしちがう仕方で、今の学校で出会ってみようという、志もうまれる》(鶴見俊輔)
鶴見さんの指摘は、賛成か反対かは別にして、その趣旨はお分かりになると思います。こんなことならだれでもいうし、とりたてて目新しいことじゃない。いまさらのように、あたりまえの「学校批判」をだすのはどうかと思いますが、でもよく考えてみる必要はありそうです。鶴見さんがいいたいのは、「学校には教育として欠けているところがあるということを見すえて学校にいくようでないと、学校のえじきになってしまう」ということです。このように彼がいったのは今から三十年以上も前のことです。したがって、彼に言わせれば「いつでも学校には欠けたところがある」ということになるのでしょう。学校という空間が持っている「当たり前の働き」、それを別の視点から、「何か欠けているんじゃないか」と問い始める。すると、何かが始まると言いたいんですよ。(鶴見俊輔さんの書かれたこの部分は、これまで何度も参考文として紹介してきました。芸のないことですが、ご了解ください)
学校に欠けているものは?

そこで質問です。
①いったい、「学校において教育として欠けているところ」というのはなんですか。「何が足りないのか」「どんなことが備わっていないんですか」
②また、「欠けているところがある」といえるのはどうしてですか。当たり前に、現実の学校を受け入れている限り、「欠けてなんかいない。足りないのは自分の能力や学力じゃないか」と思ってしまうに違いありません。
③ではどうすれば、欠けているところを充足することができるのか。学校に加担するという方向からは、この問題に迫ることはできないでしょう。学校をどのようなものとしてみるか。学校を批判する視点が求められるのです。
「教育」という言葉をていねいに眺めてみれば、鶴見さんのいわれる「欠けているところ」が透けて見えるのではないでしょうか。「教える+育つ」という、あるいは異なる動作(機能)というか活動がこの言葉のなかに含まれています。「教える」のは他人、「育つ」のは自分です。別の言い方をすれば、「教える」という活動が目標とするのは、すべての人に同じ知識・技能を、ということでしょう。(本当はそれだけではなかったのですが)この「教える(与える)」に集中してきたのが日本の学校だったといってもいい。それに反して「育つ」という活動の方向は人それぞれであるかも知れない。なぜなら、育つための素材は万人に共通じゃないからです、クローンでないかぎり。教育課程や教育方法の根本の問題がこんなところにありそうです。

「みんないっしょ」を目指す方向と「私流の生き方(育ち方)」を指向する方向という二つの働き(ねらい)が「教育」という活動というか営みには含まれているんですね。そのことを踏まえた上で、さて「学校に教育として欠けているところがある」といった場合、どちらの要素が欠けているかは明らかじゃないですか。
《 日本の小学校は義務教育を行う機関とされてきたが、この『義務教育』は今日のように子どもの人権(社会権)を認めてできた社会制度とは考えられない。むしろ国家に対する国民の義務にもとづくものとされていたために、小学校教育については国家がその基準を示すものという通念が作られていた 》(『日本の学校』)
終わりに 熊谷さんの話から、なんとも遠いところに来たように思われます。でもじつは、そんなに離れた地点からの物言いではないつもりなんですね。学校を変えるという以上に、学校に対する「見方」「視点」を変える方が、よほど健全だし、それで欠けたところはないのかもしれません。「学校と私」というのは、何百通りもあっていいし、むしろなければならないと思うのです。それなら、それぞれが「学校とぼく」「わたしと学校」という視点を持ってみようとするのは、とても大事なことじゃないでしょうか。そうすれば教師との関係も、隣の人とのかかわりも違ったものになってくるはずです。それだけでは明かりがささないかもしれないけど、学校の様子(風景・景色)が、これまでとは違って見える、少なくともそこまで行きたいものですね。そうすれば、次の段階が見えてきます。
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