子供等よ昼顔咲きぬ瓜剥かん  芭蕉

 教師も知らないことだらけ

 すでに教職を辞めた知人(女性)の想い出、あるいは昔話です。大学を卒業して郷里の中学校の教師に採用されました。「先生になりたいんです」と聞いた時、ぼくは「面白いな、きっと珍しい先生になる」といった記憶がある。「でも、かならず、教室で立ち往生するに違いない、今のままでは」と心配もあった。もうニ十年ほども前になるでしょうか。この人とは親しく、何かと相談を受けていたのでした。郷里は長野で、弟もいる、家庭の事情で、自分が働く必要があり、それには教職が、という塩梅だった。果たして、深く考えていたかどうか、まことに怪しい。普段の彼女は、向学心に燃える質ではなく、かなり奔放に遊んでいたように見えた。だから、勉強嫌いの遊び好きが「教師」になったら、いるいろな面で面白いに違いないと、ぼくは考えたのでした。学生時代、飲み歩いて、気が付いたら、何処だか知らないマンションのエレベーターのなかで眠っていたという、これは武勇伝か。単に酒飲みやね。

 彼女、Sさんと言います。奇跡的に採用試験に合格、郷里の中学の教員として就職できた。(ぼくの知る限り、各地の教員採用試験で、しばしば奇跡が起こっています。学校教育の衰退の一因になっていないかと気を揉んでいました)教師になりたてのころ(一年目の前半部)の話です。彼女は社会科の教師でした。教師になることが決まったとき、「日本史は大丈夫ですか」とぼくは聞きました。「平安時代と奈良時代では、どちらが古いか、分かるかな」と。日頃からその方面の「知識」に危うさを感じていたから。「いいえ、大丈夫じゃありません。大学の入学試験以来やったことはありません」と、まことに明るく答えた。小柄な方だったが、たいした度胸だと感心しつつ、この先を思いやったことをハッキリと憶えています。

 案の定、中学一年生の歴史で、「参勤交代」のところを扱う授業のときでした。参勤交代とはどのようなものであり、それが幕藩体制にとってどんな意味をもっていたかを教えた(話した)あとで、実に陳説に類する発言が出てしまいました。

 「薩摩藩の殿様が大勢の家来をともなって何日もかけて江戸城にやって来たんだよ、大変だったね」といったところ、一人の生徒が「先生、どうして船で来なかったん」と質問したそうです。そこで、先生は「その当時はまだ船が発達していなかったから、エッチらオッチラと歩いてきた」と教えた。そのやりとりを聞きつけた校長が彼女を呼びだし、まちがえたことを教えてはいけないと説諭したということでした。生徒の答えが「船が未発達だったから」としたら、きっと面白い展開になったのでしょうに、肝心の教師が授業の主人公になったために、大きな噂話が出来上がったという次第です。

 彼女には、この程度のことがとりたてて沽券(メンツ)にかかわる問題だという認識はなかったようですが、校長からすれば、生徒にちゃんと教えられない教師では学校の体面が保てないという職業意識があった。この場合に先生のいうことを忠実に受け入れることをしなかった生徒がいたから、彼女は救われたのかもしれないのです。もし「どうして船でこなかったの?」という質問がなかったらどうなっていたでしょう。当然、教師が教える(話す)ことはいつも正しいという保障はない。きょくたんな場合は、教科書をそのまま教えて、その教科書には虚偽が書かれていたなら、その教科書を使ったすべての教師がまちがえるということもあります。実例には事欠かないですから。「みんな」がまちがえれば、それはまちがいじゃなくなるのか。自分もそのなかに入っていたとしたら、「みんな」の過ちをだれが指摘するのか。

 「船がまだ発達していなかったから」といってしまった彼女がもう少し柔軟だったら、あるいは余裕があったら、生徒の質問からさまざまなことを想定することができたでしょうし、先に述べたように、おもしろい授業展開がみられたかもしれない。残念ながら、教師になりたてで「教える・与える・授ける」ことに汲々としていたので、そういうことにはならなかった。「教師は教える(ばかりの)人」、それをできもしないのに、表面的に実行しようとしたのです。(ぼくが驚いたり呆れたりしたのは、彼女がいろいろな「失敗談」を、すこしも悪びれることなく、逐一、ぼくに伝えてくれたことだった。「これはあんたの所為だよ」ということだったか。ここに、教師として持っていたいと思われる資質があるように、ぼくは見ていました)

 ここで問題となるのは、新米教師としてもあまりにもお粗末な準備で授業に臨んだ彼女の姿勢にあったことは明白です。彼女を弁護する余地があるとぼくは考えませんが、教師の無謬性というか、いつでも正しいことしか話さないという、教師の不自由さに思いをおよぼしてみると、いろいろなことが浮かんできます。あからさまに間違いであると明らかにわかる、そんな教師がいてもいいし、いた方がいい、いなければならない、そんなことすら考えたりするのです。ある事柄が正しいと考える根拠は、教科書にあり、それを忠実になぞる教師の側にあるという、まるで棒を呑みこんだようなかたくなな態度。ここにも学校教育の四角四面の窮屈さがありそうです。それはまるで頑迷固陋だといってしまいたい。「参勤交代」の先生は、ぼくにはとても親しみがもてるんです。知らないことを、恬として恥じない。それに気が付かないというのは天衣無縫というのか。でも、自覚を持っているといないでは雲泥の差が生まれる。彼女は「泥」の方でした。(日蓮「報恩抄「「愚者と智者との唱ふる功徳は天地雲泥なり」)でも、教師がまちがえることは、教師にも生徒にも、とてもためになるんですね。このときこそ、子どもたちが「教師を育てる」場面なんですから。そして一気に、両者の間隔が縮まるんですよ。

○ 天衣無縫=[名・形動]《「霊怪録」による》 天人の衣服には縫い目のあとがないこと。転じて、詩や文章などに、技巧のあとが見えず自然であって、しかも完全無欠で美しいこと。また、そのさま。「天衣無縫な(の)傑作」 天真爛漫(てんしんらんまん)なこと。また、そのさま。「天衣無縫に振る舞う」(デジタル大辞泉)

 (ちょっと言い方が可笑しいのですが、まさに彼女は「天女」だと思われないこともなかった。表情ではなく、容貌でもなく、「天真爛漫」なところ、ものに拘らないところ、それだけでは、人として欠けるのでしょうが、これだけでも教師の資性は十分だと、ぼくには思われました。

 でも、それだけでは大事なものが不足しているのはいうまでもありません。彼女は奮闘むなしく、数年もたたずに、辞職しました。当たり前ですね、彼氏がいた。そして、結婚したのでした。学生時代からの付き合いだったと聞いたように思います。「蓼食う虫も好き好き」と言います。この場合、どういう意味になるのか、余計なことは言いません。その後、彼女はお子さんに恵まれ、たしか三人か、あるいは四人だったか、男の子に囲まれ、夫と仲睦まじい写真を、毎年送ってくださっている。これだけ立派に子どもを育てたんですから、きっと素晴らしい教師になっていたに違いないと、ぼくは今でも懐かしく思い出しているのです。そして、彼女の勇気というか、「怖いもの知らず」の姿勢に一種の憧れを持ったことでした。

 彼女が「雌伏十年」、その暁にはどんな教師になったかと、時に考えることがあります。ダメだった可能性は大きいが、奇蹟が起こって、ものすごい教師に「化ける」ということがあったか。きっとなかったと思います。教師を辞める前にも、何度も相談を受けた。とてもまともに聞いておれない話もありました。生徒が電話を掛けるかもしれないから、その時は、このように答えてくださいと「弁解」まで、依頼されたこともある。田舎の学校でしたが、やんちゃが沢山いたり、流行を追いかけたがる子どもたちがいた。あるとき、男の子が耳にピアスを付けて登校した。もちろん学校は禁止していた。それを観た瞬間、「まあ、格好いい」「●●君、似合ってるね」と見とれていたそうです。そのことを見ていた誰かが、校長にチクり、彼女はまた校長室に呼ばれた。何度目だったか。これなどまるで「更科✖✖学校のいけてる、sちゃんセンセー」というテレビドラマ(コメディ)になるような展開だったのですが、今ではすっかり貫禄のついたママぶりを発揮しているようです。(更科ソバで名を馳せる「更科」という地名は今はない。惜しいことですね。現在は千曲市と長野市に分割編入されています)

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  芭蕉に「更科紀行」があります。貞享5年(1688)8月、時に芭蕉45歳。更科の名月を愛でる旅だった。ぼくは大学に入りたての頃、たった一人で信州をゆっくりと、バスで回ったことがあります。旅という風情なんかは何もなかったが、旅館で泊まり、まるで喧騒を離れた山暮らしを、その一瞬で味わったという感触がありました。長い時間、バスの乗客はぼくひとりだったことも。どうして信州だったのか、今もってわからない。以下、「更科姨捨月之弁」から。この文章は十数年前、平塚市のお寺から発見され、真物と判定されたもの。「更科紀行」と同時期のものか。母への恋慕の情、黙しがたい俳聖の息づかいが伺われる短文ではあります。「何ゆへにか老たる人をすてたらむとおもふぬ」、そぞろ亡き母に思いが馳せたのではなかったでしょうか。

 「あるひはしらゝ(白良)吹上ときくにうちさそはれて、ことし姥捨月ミむことしきりなりければ、八月十一日ミのゝ国をたち、道とほく日数すくなければ、夜に出て暮に草枕す。思ふにたがはず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡といふさとより一里ばかり南に、西南によこをりふして、冷じう高くもあらず、かどかどしき岩なども見えず、只哀ふかき山のすがたなり。なぐさめかねしと云けむも理りしられて、そヾろにかなしき に、何ゆへにか老たる人をすてたらむとおもふに、いとヾ涙落そひければ、 


   俤や姨ひとりなく月の友  芭蕉  
   十六夜もまださらしなの郡哉 同               」

(ここで、芭蕉の生涯のいくばくかを語りたくなったのですが、それは止めておきます。この「月見の旅」の十年ほど前に彼は母を亡くし、その面影を追っかけての紀行だったと思われます。幼児の砌、父に去られ、母親の手で育てられた芭蕉は、よほどの母想いだったのではなかったか。その母を残して彼は名を挙げようとして江戸に出る。その間に母は一人寂しくなくなるのです。母に対するこらえきれない芭蕉の滾る涙を思わずにはいられないようです。それにしても、「月見」とはいえ、「姥捨て山」に赴く心境は何だったか、そぞろ身に染む、母性への切情ではなかったか。頻りにそればかりを想うのです。)

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 本題に戻って。外れた道を歩いた教師の話です。ぼくの周りには、このような常識では測れない(非常識な)、素っ頓狂な人物たちが何人も、今でも教室に入って、日々子どもたちと楽しく、あるいは辛そうに、敢闘しています。教師も辛いし、言うまでもなく、子どもたちも、でしょうね。これまで、誰だって教師になってみることを、ずっとぼくは勧めてきました。なれるんです。「反面教師」というのは、当てこすりでも教訓でもなく、現実にいる教師の典型なんですよ。その証拠に、それはなんと、毛沢東の肺腑の言でもあったのですから。

 知り合いでは、「ミックジャガーの追っかけ」をして、半端じゃなく海外までも出かけていた女性。その人が教師になった。表面からは想像もできない熱情家だったと、後になって思い知ったのでしたが、結果としては、道半ばで教職を中断された。かなり長い間、採用試験に挑戦し続けていたのでしたが、実際には、現場は一年も続かずに止めてしまった、その理由が振るっていた。(これはいつか話すかも)そんな人もいました。いくらでもネタには事欠かないんですが、今はまだ、差しさわりがありますので、あまり触れられません。時効になってから、ゆっくりと、取って置きの「(桁)外れ教師」の与太話を書くことがありそうです。

 時季外れのついでに。自身への戒めの意(自戒の念というらしい)をこめて。

  物いへば唇寒し秋の風(「人の短をいふことなかれ、己が長をとく事なかれ」・「崔瑗(さいえん)」という後漢時代の学者の言を引いたうえで、)(芭蕉)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです