「滅私奉公」は「公共の精神」に衣替えしたそうだ

 「学校教育」私論(再び)

 元手は根っ子にある経験 ぼくにとって、教育は私事であって、国(公)事ではない。このことは何度でもいいたい。もちろん、そういったからといって国は学校教育の管理権や支配権を個々人に返しますと言うほどしおらしいわけでもなく、だから、そこにおのずからなる「公と私」の闘い(みたいなもの)が生まれてくることになります。それは当然の成り行きであります。ぼくは自分の領分を犯されない(私権の正当性)ように、権力による「公的な侵略」を防ぐ必要があると考えてきました。(莫迦の見本のような事例です。ほとんどの教師は宿題とやらを出す。ぼくは、それが大嫌いだった。だからほとんどやらなかったと言えます。もちろん教師には怒られた。成績も悪かった。そのこと自体は何の問題もありませんでした(自業自得か)が、自分の自由時間を奪われることはまことにいやだったのです。(今だったら、というか、いくらか年齢が上がってから、「私権の制限」に当たるので「宿題は無効」と言い出しました。プライベートの侵害だと本気で思っていました。さらに後年になって、「怠け者の教師ほど、宿題を出したがる」という格言をえました。与えられた時間で授業内容が終わらなかったから、残りは「宿題」で、というのはプロの風上にも置けない無能教師だとさえ思っていたし、そう言いもした)

 初めに断っておきます。「公と私」という場合、多くは公=国家ととらえます。ぼくはそういうとらえ方はしない。その点については、すでにどこかで述べておきました。「公」というのは public という語が示すところで、それは複数の「私(private)」が集まって生みだされていくのです。「わたしからわたしたちへ」という具合です。「公民」などというのは、それにあたるのが本来ですが、この島では違った意味で使われてきました。「公地公民」思想、いや教条から一歩も自由になっていないんだね。「公民館」は「みんなの会館」なのに、それは市町村のものだとでも言わぬばかりでしたね。(県立とか市立というのは、住民の税金で作ったものということしか示さない、つまりは「みんなもの」なんですね)

 「わたしとあなた」が作り出すのが「公共(みんなの)空間」であり、そこへは、だれであっても出入り自由であり、普段使っている用語で云えば、「社会・集団」(social group)に該当します。しかし、この駄文で使う「公」は国家・公(おおや)けと言われるものです。もちろん、多くの人が当たり前に使う語法です。「公vs私」であり「官vs民」であり、「朝vs野」でいうところの、「私」が集まって「公」となるのに対して、「民の集合」は「官」ではないし、「野」がいくら合わさっても「朝」にはならない。しかし実際には「公は官」であり、ときには「公は朝」であることもあったのです。この島社会の特徴かもしれませんが、「公教育」というものが「国家・公共団体」が管理・管轄する「学校・教育」を指すことがほとんどです。もともと、公教育とは憲法や法律に即して実施される学校・教育のことであり、公立・私立学校が併存する理由(根拠)でもあるのです。言わずもがなのことですが、念のため。

 自分がどのような教育を「受けて(受けさせられて)きたか」という、その体験は、いうまでもなく本人には貴重な意味をもっていると思う。ぼくは、多くの人々とある点では同じような、ほかの点では異なる「学校教育」を経験してきました。これは自分だけの体験です。(誰だって、基本的にはそのような経験をしているのです)そう、オンリーワンというやつです。学校教育というものに対する姿勢は自己流のものであって、厳密に言えば、だれの体験とも似ていないということができます。したがって、それを敷衍する、一般化することはかたく禁じたいと考えてきた。まあ、ぼくの重ねてきた経験は、そんなに立派なものではかったからでもありますが。

 どんなことがらにせよ、自分がしてきた体験をしばしば思い返し、その体験とむきあうところから生まれてきた感情(?)を根拠にして、教育に対する態度・姿勢(ひとつの見方であって、思想などといえないかもしれない)を作ろうとしてきたといっていいでしょう。だから、教育に対する考え方の根底に自分流(自分だけ)の体験があるという意味では、「自分」一個に拠点をおいた体験であり、またその具体例の表明としての意見です。この足場からはずれて、カントの思想に立脚してとか、ルッソオの教育論がぼくの原点なんだというスタイルはとりたくないし、とらないし、とれそうにありません。そのかぎりではまったくアカデミックではありません、幸いにして。生活の流儀は、きわめて個人的であり、その個人的な部分に、ともすれば、公的(官製的)なものが土足で侵入しようとするのです。それを見逃していると、ついには、箸の上げ下げまで命令されることになる。好き嫌いまで封じられる。なんともむさくるしい明け暮れになるはずです。

 きわめて単純な例を出してみます。学校で出される問題には、きっと「正しい答えは一つ」という不文律があります。教師が作るテストにも、正解は一つであり、それを判断(決定)するのは教師だということtになっています。これに逆らうことはできない。というか、逆らうことはできても、学校では絶対に評価されない。ぼくはこれを「学校の神話」だと考えてきました。学校教育の核心部は「神話の世界」の出来事なんですね。教師が間違えるということもあり得ない(それは真っ赤な嘘、まちがい・誤魔化し・剽窃や捏造だけで成り立っているんじゃないの、といいたくなるのが教師の仕事じゃないですか)、その意味では、それは、もう一つの神話です。出された問題の正解は一つだけ、それをきめるのは教師、その教師という存在は「無謬である」と、恐ろしい錯覚・無自覚が牢固として認められてきた世界なんですね。反対に複数の正解が出ると、教師の仕事はなり立たないんですよ。学校教育が成し遂げてきた成果を測るには、社会の現実をつぶさに見るといい。目を覆いたくなるような惨状があちこちで見られるのは、一つの結果でしょ。

 いまでは「滅私奉公」という言葉は表だって使われなくなりましたが、しっかりと生きています。装いをあらため、あるいは厚化粧をほどこして大通りを闊歩しているのが透けて見えます。そして声高に「メッシホーコー」を叫んでいるひとたちは、どうみても「私欲」をすて、「私情」をまじえず「公(官)」に身をゆだねようとしている風には、ぼくの目に映らないのはどうしたことでしょう。そうとうに目が悪くなったのかもしれません。教師たちが叫ぶ、メッシもホーコーも言葉(口先)だけだし、求められるのは子どもたちに対してだけだとするなら、実に奇怪な権力関係が支配していることになるでしょう。まず「私より公だ」という、その教師自身はどうなんですか。とかなんとか、以下にも教師の仕事ぶりを非難しているように思われそうですが、真意はそこにあるのではない。ぼくの信条は「営業妨害をしない」というと一事にありますので、こういったからと、個々の教師の仕事を非難誹謗しようというのではない。今の学校教育の実態を違った角度から見るとどうなるか、、例えばの話ですが、ちょっと考えれば、「この授業は、誰のためなんだ」という疑問(懐疑)が生まれてこないか、そんなことを期待しているだけなんだ。

 根っ子の「私」から 学校教育のもっともよくないところは、教育を「受ければ受ける」ほど自分(私)を失ってゆくところです。「私の部分」が擦り切れていく。学年が上がるとともに、「摺りきり」はよい確かに成就してゆく。大学卒業の段階までくると、それは完成する。「鞣(なめ)された皮」の如く、後はいかようにも加工細工が可能になるのです。企業で細工され、官庁で細工され、その他いたるところで「なめし皮細工」が行われる。それが企業社会であり、労働者の世界です。もちろんそれがねらいなんだという、だれかの声が聞こえてきそうです。それも「自分を失え」などとは言わないで「素直であれ」とか「従順であれ」と口うるさくいうのです。素直=「おだやかで人にさからわないこと。従順。柔和」このようにいうのは「広辞苑」です。(おだやかと、さからわないとは同じじゃないと、ぼくは思いますが。素直ではないか)「素直」という一種の徳目の専売が、学校教師の十八番(おはこ)じゃないでしょうか。正直よりも素直、というのです。ぼくはそれとは正反対を貫こうとしてきました。「従順じゃない」、「素直じゃないぞお前は」と何度言われたことか。へそ曲がりだったからか、ぼくは、言われたところを実践しようとしたのです。

 もちろん、これだけが「素直」の説明でないことはとうぜんですが、学校が子どもに求める第一の態度はこの意味で言われる「素直」でした。さからわない、従順、余計なことは言わない、これを貫徹すると「順序が狂わず、正しく従うこと」(同上)になり、長幼の序という、うるわしい秩序が保守されることになります。一時はこの国でも「長幼の序」は盛んでしたが、だからこそ往時をなつかしがるむきが勢いをましてきたのでしょう。はたして、それ(復古主義)はいいことなのかどうか。「集団(組織)と個人」といって、いかにも個人よりも集団が優位である風潮が蔓延しているし、その風潮を煽ってきたのが学校教育です。このような風紀・風儀の蔓延を何とかして「蔓防」したいものだね。

 滅私も奉公も姿形は同じで、もちろん中身も変わらず、装いだけを一新させて生き延びていたのです。「公共の精神の涵養」などという言葉を教育官庁はさかんに弄(いじ)りまわしています。「国家は公」というのは本当のようで、実は真っ赤な嘘、虚構なんだというべきです。「国」そのものが虚構ですよ。それはともかく、「公共の精神」を以て、政治や教育に当たっているか、諸君と、政治や教育の専門家筋にお伺いを立てたいところだが、先ず無駄だろうね。(つづく)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)