「リスケのご連絡」だってさ、困ったねえ

  【明窓】リスケって何? 届いた電子メールの表題を見て、思わず首をかしげた。<リスケのご連絡>。差出人は初めてやりとりする内閣府の職員。リスケって何?▼調べると日程を再調整する意味の「リスケジュール」の略語だった。東京・霞が関で取材する30代の同僚に聞くと、「役人や経営者たちの間でよく使われているが、最初は自分も意味が分からず、戸惑った」という▼もともと、ある大臣が地方新聞社の論説委員とリモートで懇談したいという誘いが発端だった。国会会期中で日程が急きょ変更になるのは理解できる。ただ、内容を記録・公表しないのが参加の条件。「地方の意見も聞きました」という〝アリバイづくり〟に利用されているとの疑念が払えない上、軽さを感じるメールの表題に「<リスケのご連絡>じゃなく<日程再調整のお願い>だろう」と批判が口をついた▼これに限らず、最近は難解なビジネス用語が散見される。ウィンウィン(双方に利点がある良好な人間関係)には慣れてきたが、コミットメント(約束、深い関与)、アジェンダ(検討課題)などと自慢げに言われると、「日本語で話せ」と怒りたくもなる▼きょう6月6日は、怒りやいら立ちをコントロールする「アンガーマネジメントの日」。怒りが「ム(6)カム(6)カ」と表現されるのが由来で、怒りのピークが持続する時間も6秒だ。難解な用語にも、6秒数えて心を落ち着かせる。(健)(山陰中央日報デジタル・2021/06/06)

**********

 これまでなら「日本語の乱れ、許さん」と一刀両断されてしかるべき、乱雑・乱暴きわまる誤用の氾濫です。今はネットの時代、可能な限りで簡略・省略が求められるのでしょう。まるで極端に短くされた電文のようでもあります。あるいは、ある地方の語「どさ」「ゆさ」と似ていなくもない。簡略語法の普及はなにを意味しているのか。つまらない問題でもあるし、ぼくにはこれという理由も見つけられそうにありません。ただ一つ言えるのは、言葉を尽くすという「礼儀」の欠如、それも決定的な欠如を示すだろうということ。相手はだれであれ、人間であれ、動物であれ、生きている・いないに関わらず、文字数は短略を以て旨とするという時代のど真ん中です。「無礼横行の時代到来して、すでに久しい」というべきか。

 コラム氏が書く「官庁の役人」のメールの目的は何だったのか。今は学校で丁寧語だの尊敬語、あるいは謙譲語などを学ぶ機会があるのでしょうか。この内閣府の一吏員に失われてしまったのは「丁寧語」であり「尊敬語」であり、そのニュアンスを含んだ語を使うという、話し相手を思い遣る能力です。代わって、彼や彼女に満ち満ちているのは「見下し語」「侮辱語」「侮蔑語」「偽装丁寧語」などではないでしょうか。自分と同等ではない、いや自分の方が立場が上という「上等な立場主義」が蔓延し、充満しているのがただ今の、ネット時代に生きる輩(ともがら)の住む世界です。これはネットだけに限りません。いまだに終了を見ないのが「電話魔」の出没です。オレオレ詐欺はその典型でしょう。話す相手を騙す対象としか見ていない、そんな言葉が重宝されているのです。詐欺や騙しが通用しないと、「マジでキレる」から、まあ質が悪いと言うほかない。

 かなり前のできごと、おそらく高校時代の授業の一コマでした。その光景をぼくはいまだに鮮明に覚えています。天井から水が漏れてきて、教室内が水浸しになったというのではない。もっと驚嘆すべき事件でした、ぼくにとっては。教師に指名されて一人の生徒が何かを言った。「それは全然、いいです」とか何とか。教師はそれに対して、いきなり怒り出した。多分、その時代は「怒りの日」はあっても、それを「抑える日」はなかったと思う。教師曰く「『全然』というなら、その次には必ず否定語が来るんや」「そんなアホな使い方をして、どもならん」とか何とか。さすが国語の教師と、ぼくは考えもしなかった。なんというぼけたことを言うおっさんやろか、クラスメートの表現に間違いはないんや、と。「全然」の次に来るはずの「否定語が省略されている」と、その教師は夢にも思わなかったんだね。生徒は意識していなかっただろう。しかし、「全然(文句もいえんほど)いい」といっただけだった、とぼくは直感したんだから。「教師はアホや」というのか、「アホが教師をやってる」とみなしたか、教師に対する信頼感がさらに薄れていったのは確かです。何時からか、その教師は「代用教員じゃ」という噂が流れていました。「資格」がないという意味だったか。

 「リスケ」はどうか。ぼくはこんな手合いに付き合いはないので、何とも言えない。リスケであろうがリスクであろうが、勝手にお使いくださいと言っておきます。このところやたらに耳に聞こえて、いやな気分に襲われる表現に「人流(じんりゅう)」があります。どこかの知事が恥ずかしそうにではない(彼女に恥という感覚はないのは確かだから)、遠慮しがちに使っていたが、やがて大手を振って「人流」がまかり通っている。きっと「物流」への対抗心を燃やした役人が作り出した堕落語の一つだろう。「俗物流行語大賞」の立派な候補になるはず。言葉が乱れるのは、言葉が生きている証拠。脈拍が乱れるのは心臓が活動している証拠だと、そんな乱暴なことを言っているのもつかの間です。明治このかた百五十年、いったいどれだけ「言葉が乱れている」と言われ続けてきたことか。アルタミラの洞窟の壁だったかメソポタミアの穴倉の壁だったかに「近頃の若い者は、どうにも仕方がない」という趣旨の年寄りの小言が残されているという。それでは、現代のアルタミラの洞窟は「新聞コラム」か、あるいは「テレビのワイドショー」か。この「洞窟」の残存期間は数時間という短さもまた、今風ですね。それ以上に、新聞もテレビも「俗流・流行語大賞」の万年候補なんだろうね。

  「最近は難解なビジネス用語が散見される。ウィンウィン(双方に利点がある良好な人間関係)には慣れてきたが、コミットメント(約束、深い関与)、アジェンダ(検討課題)などと自慢げに言われると、『日本語で話せ』と怒りたくもなる 」と言われるが、実はカタカナ語は「日本語」なんです。話し手も聴き手も「カタカナ語」という認識がないのはどうしたことか。カタカナは外国語だというのは「早とちり」「ああ、勘ちがい」です。「アジサイ」は日本語だというのは牧野富太郎さん。

 「いまはちょうどアジサイの時節で諸処人家の庭にそれが咲きほこって、その手毬のような藍色花(時に淡紅色のものもある)が吾らの眼を楽しませている。アジサイを昔はアヅサヰとも称えた。そしてなぜこの花をそういうかというと、彼の大槻先生の『大言海』には「集真藍(アヅサヰ)」とある。すなわちアヅは集まること、サヰは真っ青なこと、それでアヅサヰ、あるいはアヂサヰの名ができたといわれる。谷川士清(コトスガ)の『和訓栞』にはアヂとはほむる詞、サヰとは花の色をいうとある。どっちが本当か。/ サテ、このアジサイを紫陽花と書くほど馬鹿げた名はない(以下略)」(牧野富太郎「花物語」ちくま学芸文庫、2010年)

*******

  他人の使う言葉にいちいち文句をつけていた日には、「怒り」が全身を包んで火ダルマならぬ怒りダルマになるのが落ち。せいぜい、いい空気を吸って欠伸をして、「怒り」を退散させるに越したことはない。これは昔から、ネコに学んだ「健全な精神性」の養成法だ。猫の欠伸を見ると、何故だか安心するのです。

___________________________________________

 群れず、ぶれずに信じる道を歩んだ医師

 

**********

 今でも大方には名前も仕事も知られず、生きた証もわずかの人の記憶に留められている、そんな生涯を送る人はほとんどだろうし、それこそがまっとうな生き方でもあると、ぼくなどは考えてきました。できれば、そのような人生を過ごしたいと念じても来ました。「一隅を照らす、これ則ち国宝なり(「照于一隅此則国宝」)」(「山家学生式」・818‐819)といったのは最澄さん、伝教大師です。ぼくは空海もよくわからないけれど、最澄はもっとわかりません。でも、この言葉だけはよく胸に刻んできました。「名を成す」「名を挙げる」「世に出る」などという生き方は、それも一つの流儀ですが、ひそかに「一隅を照らす」人間になれればなりたい、それこそ本望だと願い続けてきたのです。ぼくのような怠惰きわまりない人間にも、かかる生き方を示し得た人というのは、世にいくらもいるというものではありませんが、小笠原登氏は、まさにその一人でした。亡くなられた岡部伊都子さんは、しばしば小笠原さんのことを話されていましたから、なおさらぼくには印象が深い人となったのです。文字通りに「一隅を照らす人」だったのではなかったか。

 上に掲げた記事は中日新聞(2018/11/24・朝刊)のものです。小笠原さんの履歴や生涯は書かれている通りです。この国における「ハンセン病治療」の門を開いたのは、いうまでもなく光田健輔氏でした。未知の病として恐れられていた時代、果敢に医学者としての義務を果たされ、一躍救いの神の如き評価を受けられてきた人でした。ハンセン病は不治の病だから子孫を残さない、そのために断種手術や卵巣摘出手術を実行した人でもありました。隔離政策が国策となったことも彼の指導が大きかった。彼の業績を含めた人となりは「小島の春」(女医であった小川正子さんの著書の映画化です)という映画によくあらわされています。

○ 光田健輔(みつだけんすけ)(1876―1964)=日本の救らい事業に尽くした医師。光田反応など、ハンセン病(旧称、癩(らい))医学の面での業績も多い。山口県生まれ。済生学舎を卒業(1896)し、医術開業試験に合格。帝国大学医科大学の選科で病理学を修めたのち、1898年(明治31)より東京市養育院に勤めたが、ここでハンセン病の患者に接したことより、ハンセン病に関心をもつようになり、同院内にハンセン病患者専用の「回春病室」を設営したのをはじめとして、行政・有識者などにハンセン病予防について提言。1909年(明治42)に創立の公立らい療養所全生(ぜんせい)病院(東京)の医長、1914年(大正3)には同院長となり、さらに1931年(昭和6)、岡山県下、瀬戸内海の島に前年設立された最初の国立らい療養所長島愛生(あいせい)園の園長として赴任し、1957年退官するまでその地位にあり、全国のハンセン病療養所の充実に努め、ハンセン病の患者数を減少させるのに貢献した。朝日社会奉仕賞、文化勲章(1951)を受けた。著書に『癩病理図譜』などがある。渋沢栄一がその事業を支援し、優れた女医や看護師を育てた。[長門谷洋治]『藤楓協会編・刊『光田健輔と日本のらい予防事業』(1958)』▽『青柳緑著『癩に捧げた八十年――光田健輔の生涯』(1965・新潮社)』▽『内田守著『光田健輔』(1971・吉川弘文館)』(日本大百科全書・ニッポニカ)

**********

 「ぶれずに信じる道」 ハンセン病隔離に抵抗した医師の映画完成

 厳しい偏見と差別にさらされたハンセン病患者に戦前から寄り添って治療を続け、国策の「患者隔離」に抵抗した医師で僧侶の小笠原登(1888~1970)。その生き様を描いたドキュメンタリー映画「一人になる」(1時間39分)が完成した。プロデューサーの鵜久森典妙(うくもりのりたえ)さん(72)=兵庫県西宮市=は「現在の新型コロナウイルスでも感染者や家族、医療従事者への偏見や差別が問題になっている。小笠原の生きた時代、生き方に学ぶことは現在にも通じる」と話す。6月4日から京阪神で順次公開される。

 国策や医学界に一人で抵抗

 ハンセン病は感染力が弱いが、国は96年に「らい予防法」を廃止するまで約90年間、「強烈な伝染病、不治の病」と誤って患者や家族の人権を無視する強制隔離や断種手術を続けた。/ これに対し、真宗大谷派の「円周寺」(愛知県あま市)に生まれ、1915年に京都帝大医科大(現京大医学部)を卒業した小笠原は京大病院で患者に寄り添う治療を実践。「感染力が弱く、治る病気。隔離は不要」とし、療養所への入所を望まない患者のカルテには病名を書かなかったり、「皮膚炎」など別の病名を記したりして国策や医学界に一人で抵抗した。戦後、京大病院を退いた後も国立豊橋病院(同県豊橋市)に勤務しながら円周寺で患者の治療を続け、国立療養所「奄美和光園」(鹿児島県奄美市)にも赴任。82歳で亡くなった。

 2019年6月の熊本地裁判決は、隔離政策で差別を受けた元患者家族に対する国の責任を認め、家族への賠償を命じた。この年は小笠原の五十回忌に当たり、功績を知る人たちが、老朽化した円周寺が建て替えられる前に映像で残したいと念願。記録映画「もういいかい ハンセン病と三つの法律」を作った鵜久森さんと、監督の高橋一郎さん(67)=神戸市須磨区=に相談した。/ 高橋監督は「家族訴訟の熊本地裁判決は人権啓発教育の不在も指摘し、私たちも重く受け止めた。ハンセン病差別の実態と、群れず、ぶれずに信じる道を歩んだ医師の存在を伝える映画にしたい」と快諾したという。/ 小笠原の治療を受けた元患者やハンセン病研究家らの証言、日記に基づく再現ドラマなどを19年9月末から撮影。20年秋の完成予定がコロナ禍の影響で遅れたが、21年3月に女優の竹下景子さんの語りの録音を済ませて完成した。/ 6月4日、大阪市のシアターセブン(06・4862・7733)で上映会と、ハンセン病の元患者や高橋監督らによるシンポジウムを開催。4日から京都市の京都シネマ(075・353・4723)▽5日からシアターセブン▽12日から神戸市の元町映画館(078・366・2636)で上映する。問い合わせは映画製作委員会(072・845・6091)。【北出昭】(毎日新聞 2021/5/27)

************

 神谷美恵子という人が書かれた「生きがいについて」(1966年4月刊)というエッセイはよく読まれました。神谷さんは医師でもあり、光田氏に導かれてハンセン病治療にも当たられていました。幼児の頃、教会で教えられた病気のことに関心を持ち、さまざまな経験を重ねて、後年には療養所にも通われた方でした。彼女は父の仕事の関係で小学校は欧州で送る。心理学者だったピアジェの学校に入られたと言います。兄はパスカル研究の前田陽一氏。

 「生きがい」とは何か、今でもぼくには難しい問題ですが、神谷さんは「それは葛藤から生まれる」と言われます。苦悩の果てに「生きがい」が見いだせるのでしょうか。「生きがいがある」「生きがいがない」というのは人間ですが、「生きがいは」人が作れるものではなさそうです。むしろ「与えられる」というべきでしょう。「恩恵」というほかないようにも思われます。「健康になる、健康でない」と言います。確かに人の健康は、その人の意識に依るのでしょうが、さらにそれを深く考えていくと、健康もまた「恩恵」であると思われてくるのです。恩恵とは「恵まれる」という意味です。

 神谷さんは、光田氏の指導を受け、ハンセン病者と積極的にかかわられたのでした。今となれば、光田氏のハンセン病に対する学識や治療法は、まったく間違いであったことが明らかであります。その時、彼の周囲に集まった人々(神谷さんや小川正子さんを含めて)、そのハンセン病者とのかかわり方には何らかの困難な事態が生じているともいえるのです。取り戻せないからこそ、やっかいでもあるのですが。「善意」や「信念」から、というだけでは看過できない問題が残されています。

 そのことを含めてなお、小笠原登さんの医師としての業績、人間としての情愛の深さには敬意を表するばかりです。何時の時代にも、どんな場所にも「一隅を照らす」人が求められているし、その必要は必ず満たされるのではないでしょうか。ただ、ぼくたちにはいつでもそれが理解できたり、意識できたりするとは限らないのです。「一人になる」というのは、好き好んでという意味ではなく、きっと最後には一人になるということでしょう。徒党を組むな、というのも、汲むとか組まないという状況を越えてしまうから、「一人になる」なんでしょうね。「一人になる」、それを恐れる理由も、必要もないんだとも言えますね。

○ 神谷美恵子【かみやみえこ】精神科医,著述家。東京生れ。父前田多門はILO日本代表,のち文部大臣,兄前田陽一は東大教授(フランス語・文学)。津田英学塾を卒業後,米国コロンビア大に留学し,ギリシア文学と医学を学ぶ。帰国後,東京女子医学専門学校に学び,東大病院精神科医局に入る。神戸女学院大に勤務するかたわら,1958年−1972年瀬戸内海のハンセン病国立医療所〈長島愛生園〉で医療活動に従事。この施設で患者と生活をともにするなかで,《生きがいについて》や《こころの旅》を執筆。1963年−1976年津田塾大教授。マルクス・アウレリウス《自省録》の翻訳なども残した。著作集(全5巻)がある。(百科事典マイペディア「神谷美恵子」の解説)

__________________________________

 木は林に、森に、山に、連鎖が途切れた今は?

 【滴一滴】 ドイツのなぞなぞだ。「春は喜ばせてあげる/夏は涼しくしてあげる/秋は養ってあげる/冬は暖めてあげる」。これは何?▼お分かりの方もおられよう。「木」である。みずみずしい若葉、涼しい木陰、豊かな実り、そして薪にもなる。それぞれの季節に、木々がもたらしてくれる恵みを表現しているのだろう▼緑あふれる木々は実際には、もっと多くのものをわれわれに与えてくれているそうだ。ストレス解消やリラックス効果など森林がもたらす数々の効用について、日本医科大医師の李(り)卿(けい)さんの著書「森林浴」で知った。この分野では世界的な第一人者とされる▼森林浴によって怒りや落ち込みといった感情が和らぐのをはじめ、睡眠の改善、血圧の低下、免疫力の向上などの効果があるという。いずれもストレスを抱えた被験者らを対象に行った実験のデータで裏付けられている▼特に注目されるのが、免疫をつかさどるナチュラルキラー(NK)細胞の活性化だ。ウイルスに感染した細胞や、がん細胞を攻撃するNK細胞の数が増え、免疫機能が高まる。森に漂う物質「フィトンチッド」の効果とされる▼李さんによると、森林浴は遠くの森林まで出掛けなくても、樹木のある公園や緑地でもできるそうだ。優しい葉ずれの音や緑陰、さわやかな香り…。木からの贈り物はいっぱいある。(山陽新聞・2021年06月04日)

 いくつかのデータを出してみます。(データは以下のURLからです。https://www.shinrin-ringyou.com/)その①は日本の「森林率」ー国土に対してどのくらいの割合で「森林」があるかというのです。約66%です。明治以降もずっと7割余が山林だと言われていましたから、この百年の間にかなりの森林が消えてしまったことになります。その②は世界の中での森林率の比較です。一位はフィンランド、日本は二位です。大したものだと誇っていいのか。いやそうじゃありません。森林面積は広大ではあっても、それに手間や暇をかける人が少なくなっており、また林業従事者も高齢化が進み、いよいよ森林(その多くは山林)は荒れるに任せているという事態が続いているのです。自然災害と言いますが、近年の豪雨による土砂崩れなど、山林の荒廃が起因しているとするの、は多くが一致して見るところです。

 その③は供給量と自給率の推移です。この半世紀余りで驚異的に自給率は下がってきました。このところ持ち直しているとは言うものの、昔日の盛業は見る影もありません。圧倒的に輸入材が多くなっています。まずは東南アジアの山林を撲滅させ、次いでアメリカやカナダの用材に目を付け、それを加工して住宅などの木材として利用されてきたのです。木材を資源として活用しない理由はどこにあるのか。手を入れ育てるより、輸入した方が経済性が高いということのようですが、そういう子尾tなら、あらゆる物が輸入品に依存することにならざるをえないのです。現状は、その通りです。 

 詳細は省きますが、木を粗末にしてきたツケはいろいろな方面に及んでいます。これは多くの土地で実際にあった話です。もう半世紀も前に、ぼくは新潟の縁者のところで「爺さんがヒノキを植え、孫が大きくなっら、その材で家を作る(あるいは資産にする)」ということを耳にしました。ヒノキは成長するのに、百年はかかると言われていますから、二代三代先を見越して、植林し育林するということでした。今ではあり得ない話です。何でもかんでも他所から買う、自分で作るよりも手間は安いというのです。国土が荒れるのも、むべなるかなです。

  一日万歩(漫歩)と称して、好天の日には二時間ほど歩くことにしています。約十キロ前後で、歩数にして一万五千弱でしょうか。歩くコースはだいたい決まっています。人通りや自動車の多いところは先ず歩きません。家が立て込んでいる地域もできるだけ避けて通ります。すると、必然的に林(雑木林)道や田畑のある農道を、ということになります。「里山」というのは、今ではどのような説明がなされているのか知りませんが、ぼくが好むのは里山地帯です。人間の生活域と自然環境の境目くらいに位置しており、山の入口であり、棲み処の傍といった風情でしょうか。ぼくが住んでいるところには、山らしきものはなく(丘程度)(ぼくの住所地番には「山」が二つもありますが)、すべては植林地や雑木林ですから、厳密に言えば、「里山」は存在していなかったかもしれません。でも、あえてぼくはそれを「里山まがい・里山的」と呼んで、いかにもおっとりした景色を楽しんでいるのです。

○ 里山=奥山に対して人家の近くにある山をいうが,厳格な定義はない。古くから四壁林(しへきばやし),地続山(ちつづきやま)といわれていたのは,集落の周辺の山,田や畑に接続する山を意味し,里山は村落での生活の燃料採取の場であり,田畑の肥料の給源であった。したがって,村民共同で入林する入会山(いりあいやま)であった。幕末時代には換金作物を生産する風潮になり,これに対応して,近在の入会山地の個人所有への分割が進み始め,換金目的の製炭やスギ,ヒノキの人工造林が個人として実行されるようになった。(世界大百科事典第二版)

○ しんりん‐よく【森林浴】=〘名〙 森林に入って清浄な空気を呼吸し、その香気を浴びて心身の健康をはかること。特に、樹木が発散する芳香性物質フィトンチッドが人体を活性化することで知られている。自然美を見直し、森をつくる意欲を高めようとのねらいから、海水浴、日光浴になぞらえて林野庁が昭和五七年(一九八二)七月に打ち出した構想。(精選版日本国語大辞典)

○ さと‐やま【里山】人里近くにある、生活に結びついた山や森林。薪(たきぎ)や山菜の採取などに利用される。適度に人の手が入ることで生態系のつりあいがとれている地域を指し、山林に隣接する農地と集落を含めていうこともある。(デジタル大辞泉)

**********

 ぼくは森林浴は好まない。まずその「命名」です。なんという感覚でしょうか。裸になったり、半裸になるわけでもないのに、「森林浴」とはいったいなんだ、というと、実は管制の作成物だったという点にぼくは惹かれないんですね。まだ物心がつかない年少の折、石川県の能登中島という田舎で、ある時期はほとんど毎日のように森というか林というか(入会地)、そこに入り薪をとり、クリなどの果物を収穫していたことがあります。もちろん、ワラビやゼンマイ、タラの芽や虎杖などの山菜取りも盛んにやっていました。この年になっても、強烈な思い出として脳裏に焼き付いているのです。あれはたしかに「里山」だった。往復で軽く二時間やそこらはかかっていたと思います。帰りは背に薪を背負い、二宮金次郎張りに「漫画」を読みながら、野道を歩いたものでした。

 生活に密接していなければ(生活の一コマとして不可欠な要素という意味)、何事も(といいたいのですが)経験として身になるとは思えないんですね。金を払って「ジム通い」、それは都市の「森林浴」なのかもしれませんから、いい悪いということは控えます。経営者やはジム通いの人々の「妨害」「誹謗」にもなりかねません。それはぼくの信条に反しますから、余計なことは言わない。したがって、いささかの諧謔心を込めて「都会の森林浴」には敬意を表しておきます。ただ、ときどき「ジム」の傍を通ると、作動中のベルトの上を、一列に並んで何人もが「ランニング」を装っている。前を観ながら、すこしも前にも後ろにも下がらないで、右にも左にもよらないで、ひたすら「走っている風」が見えます。滑稽感を通り越して、なぜだか、言いようのない悲哀の感情が込みあげてくるのです。ベルトの上をモルモットが走っている、昔見た、その映像の記憶がよみがえります。「ぼくは都会の森林浴」だけは、どんなことがあってもしないぞと、そのつど誓いを立てるのです。

 「山の人生」という生活の流儀があったんですね、この島には。「山に埋もれたる人生あること」と語ったのは柳田圀男でした。「山人」という言葉(実態)もあったでしょう。山が荒れ、挙句に切り崩された結果、「山の生活」は壊滅させられたというのでしょうか。今では、イノシシやクマ、あるいはシカやタヌキなど、「山の生活者」がいよいよ窮迫して、仕方なしに里に下りて来る。それを「猟師が鉄砲で撃ってさ、煮てさ、焼いてさ、…」、なんて人間どもは野蛮なんだろうね。それを「ジビエ」とか何とかいって金取って商売にする。コマッタモンダ。

あんた方何処さ 肥後さ
肥後何処さ 熊本さ
熊本何処さ 船場(仙波)さ
船場(仙波)山には 狸がおってさ
それを猟師が 鉄砲で撃ってさ
煮てさ 焼いてさ 喰ってさ
それを木の葉で ちょいと被せ

____________________________

 

 生い立ちは誰も健やか龍の玉(化石)

【三山春秋】 片品村の山道を歩いていたら「ポポッ、ポポッ」と鼓を打つようなツツドリのさえずりが聞こえた。春から夏にかけて日本に飛来し、托卵して他の鳥に子育てしてもらう習性がある。姿を見つけるのは難しいが、鳴き声ですぐ分かる▼草津町の国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」でさえずりにじっと耳を澄ませていたのが俳人の村越化石さん(1922~2014年)である。〈筒鳥や山に居て身を山に向け〉。第4句集を『筒鳥』と名付けた▼本県ゆかりの俳人としては村上鬼城と並び、全国で最も名の知られた一人だろう。角川俳句賞や蛇笏賞、山本健吉賞など俳壇の名だたる賞に輝き、紫綬褒章を受章している▼16歳のときハンセン病を宣告された。東京で治療するよう促され、拒むと母から「それなら私と一緒に死んでくれますか」と迫られた。故郷を離れ、療養中に出合ったのが俳句だった▼本名を名乗ることができず、世の中に出て暮らすこともかなわない。俳号の化石は「生きながらにして土に埋もれ、石と化した物体のような自分をなぞらえた」。〈生い立ちは誰も健やか龍の玉〉。苦難の果てにたどり着いた境地をこう詠んだ▼「魂の俳人」と呼ばれ、ふるさとの静岡県藤枝市に02年、句碑が建立された。除幕式に出席するため帰郷したのは60年ぶりのこと。〈望郷の目覚む八十八夜かな〉。碑には尽きぬ思いが刻まれた。(上毛新聞・2021/06/01)

 ・よき里によき人ら住茶が咲けり 

 ・茶の花を心に灯し帰郷せり

 ・望郷の目覚む八十八夜かな (以上は化石作)

++++++++++

 望郷の八十八夜(2020年5月1日配信『北海道新聞』-「卓上四季」)

 初夏を感じさせる薫風の5月だ。きょうは立春から数えて88日目に当たる八十八夜。「八十八夜の別れ霜」は遅い霜を警告すると同時に、これを過ぎれば気候も安定してくることを教える▼一年で最も気持ちの良い季節のはずが、新型コロナウイルスの影響で、多くの人が晴れ晴れしない日々を強いられている。外出自粛で帰省できない人、故郷で子や孫との再会を待ち望む人、双方にとって我慢の連休となった▼唱歌にも歌われた茶摘みの最盛期を特別な思いで過ごした俳人がいる。「望郷の目覚(めざ)む八十八夜かな」と詠んだ村越化石さんだ。静岡県の茶どころで生まれた村越さんは16歳でハンセン病と診断され、古里を離れた。強制隔離で追われるように去った故郷を慕う心が切々と伝わる一句である▼79歳の時、この「望郷」の句碑の除幕式に出席するため故郷を訪れる。実に、60年ぶりの帰郷だった▼ハンセン病は戦後、特効薬が開発され、完治する病気となったのに、その後も誤った隔離政策が半世紀近く続き、元患者と家族は激しい差別にさらされた。感染症が差別や偏見と結びつきやすい典型的な例と言えよう▼誰もが新型コロナウイルスの感染者となり得るにもかかわらず、ネットなどで感染者への誹謗(ひぼう)中傷がやまない。感染者への攻撃は、行動履歴調査への協力をためらわせ、感染を助長するだけでなく、社会に癒え難い傷痕を残す。

**************

 上毛新聞については、どこかで触れました。当人(ぼく)の許可を得ないで勝手に記事にされたので、取り消しを求めたという件でした。写真付きで掲載してやるのだから、文句を言う筋かということだったかもしれません。当方の申し出には応じてくれなかった。それはともかく、草津の栗生楽泉園。この道筋は何度通ったかもしれませんが、ついに一度も園を訪ねることはしなかった。入所者の方とはほんの少しばかりの交流がありました。村越さんとは面後はもちろんありませんでしたけれども、その作品は早くから目にしていました。

 近年「ハンセン病文学全集」が刊行され、安野光雅さんの装丁になる素晴らしい作品群にまみえるのを楽しみにして、熟読に努めたことでした。この国における「ハンセン病の歴史」に関してはいくつもの勝れた研究が見られます。その多くに目を通したうえで、今日、いったいこの病に対してどれだけの施しがなされて来たであろうかと思うと、実に暗澹として気分に襲われてしまうのです。国の厚生行政がどんなに非道なものであったか、それは現下のコロナ禍にも、否定し得ない事実として、連綿として続いているのです。無責任で無慈悲な政治家の心根を、ぼくたちは許すことが出来ないし、その尻馬に乗っかってきた、多くの人民大衆もその責めを免れないと、ぼく自身の悔いと無為無策を恥じつつ、それでもそのように、いうほかありません。

 東京都下の多摩全生園にも何度か伺ったことがあります。若い人たちに是非訪問するようにと、しばしば声をかけたことでした。今ではとても遠い記憶の彼方に隠れてしまったような出来事もありました。「風の舞」という映画が完成した時です。監督の宮崎信恵さんと映画の中で詩を朗読された吉永小百合さんと、いっしょに舞台に立ったことがありました。詩人の塔和子さんの生涯を、彼女の書かれた詩作品の朗読を交えて淡々と記録した映画で、改めて観たいと、今も強く願っているほどです。塔さんの作品が全集になりました。すでに、そのほとんどを所有しているはずですのに、また求めようとしています。読み直すことを楽しみにしているのです。

 また、熊本の菊池恵楓園(だったと記憶しています)を舞台にした、実際の事件を扱った中山節夫監督の映画「厚い壁」を観た際にも、監督と親しく話をすることが出来ました。この菊池の事件では、ぼくの友人が実際に遭遇した「無癩運動」の最中に起った、理不尽極まりない、痛ましい事件が扱われていました。

 右の詩は塔和子さんの「胸の泉に」で、この詩をもとにして素敵な歌を作られ、それを自身で歌っておられるのが、澤知恵さん。(左下の写真)「かかわらなければ」がそれです。彼女は、教会の牧師だった父に連れられて、幼時の頃から大島青松園に通われていたと言います。今なお、彼女の青松園でのコンサートは続いています。そのためでしょうか、以前は千葉県佐倉市の隣町に住んでいたのですが、近年は広島だかに転居されたそうです。その貴重な活動に対して、ぼくは敬意を表するものです。(かなり前になります、彼女からハガキをいただいたことがあります。それだけでのこと。

 右下の写真の神(こう)美智宏さんにも親しくお話を伺ったことがありました。神さんは、長く「入所者」の生活の改善や福祉政策の立案などを要請するために精力的に働かれてきた方でした。もう何年か前に亡くなられました。塔和子さんも、数年前になりますが亡くなられた。

 関係者が姿を消してしまえば、その問題は存在しないという、驚くべき発想や政治的判断が、どんな懸案に対しても、この島社会では働いてきました。やがて「ハンセン病問題は終わった」ということにしてしまうのです。原爆被爆者に関してもその姿勢は一貫ていました。福島原発被害はすでに終わったことであり、被害者も存在しない、だから五輪は開催だという、二の句が継げない挙措をどうするのか、ぼくたちは歴史の側から問われているのです。

##############

○ 村越化石=1922-2014 昭和-平成時代の俳人。大正11年12月17日生まれ。ハンセン病をわずらい群馬県草津の栗生楽泉園に入園,栗の花句会(のち高原俳句会と改称)に入会する。昭和24年から大野林火に師事し,28年「浜」同人。49年「山国抄」で俳人協会賞,58年「端坐」で蛇笏(だこつ)賞。平成20年「八十路」で山本健吉文学賞。平成26年3月8日死去。91歳。静岡県出身。本名は英彦。句集はほかに「八十八夜」など。(デジタル版日本人名大辞典+plus)

○ 塔和子 とう-かずこ=1929-2013 昭和後期-平成時代の詩人。昭和4年8月31日生まれ。昭和18年ハンセン病により国立療養所大島青松園に入園。26年歌人の赤沢正美と結婚して短歌を詠みはじめ,のち自由詩の創作をはじめる。36年第1詩集「はだか木」を出版。「第一日の孤独」「聖なるものは木」がH氏賞候補になり,平成11年第15詩集「記憶の川で」で高見順賞を受賞。平成25年8月28日死去。83歳。愛媛県出身。(同上)

○ 神 美知宏氏(こう・みちひろ=全国ハンセン病療養所入所者協議会会長)9日死去、80歳。連絡先は東京都東村山市青葉町4の1の1の多磨全生園。お別れの会は13日午後0時30分から同園。ハンセン病の元患者として、療養所入所者の尊厳回復の運動をけん引。同協議会の事務局長、会長を務めた。(日経新聞・2014年5月10日)

 かかる「病」に罹患した人の生涯、それを、ぼくたちはいかにして受け止めることができるのか。あるいは、受け止めることを求められているのか。歴史に学ぶと言いますが、なまなかな態度からは何も学べないことだけは確かです。ぼく自身の怠惰や退廃を棚に上げないで、自分の心と向き合う中で考えていきたいと願うのです。

___________________

  I do feel like the rules are quite outdated in parts

(2021/05/31)

############################

 スポーツは、自分でするのも、他人がしているのを観るのも大好きでした。今は、以前ほどには興味を持たないでいます。若いころは、自分でも野球やラグビーをしていたから、それなりにスポーツマインドというものがあると、自分では考えています。スポーツの世界で生じる問題は多様であり、多彩です。だから、一つの事象に対していろいろな見方や批判があるのでしょう。山登りを好んでいた時期もあり、冬場のスキーにうつつを抜かしたこともあります。しかし、どんなスポーツ(あるいは運動)も、ぼくは徹底した自己(我)流でした。水泳も自転車乗りも、ともかく体で覚え、そのままの流儀を通してきた。スクールに通って泳ぎ方や乗り方を教えてもらおうと一瞬だって考えたことはありません。スキーにしても山登りにしても「我流」で一貫していた。つまり「人生は我流」で、それがぼくの信条でした。いい悪いの問題ではありません。誰かに教えてもらって人生を送るならば、それはそれで、また別種の「生活の流儀」があるのでしょう。賢くなろうとしてきたのも、学校で学んだものではない。(この点は、きっとどこまで行っても未完成です)

 現役時代もそうだったし、監督になってからも徹底して「俺流」を通したのが落合博満さん。彼についてもどこかで少し触れたような気がします。野球人生の中で、他人から野球を教えてもらうことはあったのかなかったのか。彼の野球理論は球界随一だとぼくはみていました。彼と並ぶのが野村克也さん。甲も乙もないとは言いません。比較するのは愚ですから、ぼくはしません。野球を知っているという意味では、選手の時も監督になってからも、落合氏は少しも変わらない観察眼を持っていました。相手を見抜く、選手を知り尽くす、そんな「人間通」が落合野球を玄人好みにさせたのだと言えます。選手時代もぶっきらぼうだったが、それが監督になってから、一段と不愛想になったように見えた。試合終了後の記者会見拒否はしょっちゅうではなかったか。記者に対して「お前ら、もっと野球を勉強しな」というのが口癖のようになっていました。だから、世間では評判は悪かった。選手として抜群の成績をもってしても、あるいは監督手腕がどれほど秀逸であっても、世間の彼に対する評判・評価は高くならなかったのです。

 何を言おうとしているのか。何が言いたいのか。スポーツの世界で生じたことについては、スポーツマインドから発言し、スポーツマインドで判断すべし、それだけです。それ以外の何がいるのですか。日常世界において生じる事柄には「日常生活の感覚」で答える外に何がありますか。ぼくはテレビや新聞の「コメンテーター」や「評論家」と称される人物たちの意見をまず尊重できないのは、言うためにしか言わない、批判するための批判というのか。台本通りの発言だから、話にならないのです。テレビや新聞は、多くは「ヤラセ」になっていませんか。そんなことにどれだけ時間をかけ言葉を尽くしても、終わってみれば(時間が経てば)、何一つ記憶にも残らない、言わなくてもいいことを、さも重大そうに言い触らしているだけ。そんなゴミのようなっ連中に付き合っていられますか。そんな暇があったら、ぼくは猫と遊ぶね。

 「お前えら、もっと野球を勉強しな」という落合流。それはあらゆることに通じましょ。素人とか玄人の違いではなく、知りもしないで、他人から命じられて言うだけの話です。こんな情報番組や新聞記事ばかりがいったいどれだけ続いてきたのか。そのあいだに、すっかりこの島の知能・知識水準が頽落してしまいました。「もっと野球を勉強し」た記者なら、莫迦な質問も「恥ずかしくて」できない相談です。ぼくが大坂なおみさんの「記者会見拒否」の報道を聞いて考えたことは、上で述べたこと以外にはありませんでした。まるで偉そうに「プロなら、会見すべきだ」と言っていた、元テレビ局アナウンサーがいた。莫迦も休み休みに言え。「うつだったなら、最初からそう言うべきだ」というに至っては、つける薬どころか、張り倒す棒切れもないさ。でも、殆んどはこの「元アナ」の類でした。問題となっている人に対する「尊敬心」が足りないか、まったくないんだね。

 今回の問題で、もっともバカな正体を暴露したのが「全仏の主催者」でしたね。この手合いの典型はIOCです。自分たちは高みの見物を決め込んで、選手を手足の如くに動かして「てら銭」を稼いでいたのです。テニス協会もご同慶の至りだった。選手がいなければ、何事も始まらないのに、いつの間にか、選手を手駒のように動かす。それで大枚を稼いでいるのです。「他人の✖✖で相撲を取る」というたぐいまれな、詐欺師じゃないかな。そのお先棒を担ぐのは、いうまでもなくマスコミとその周辺のゴミどもです。現下の五輪開催問題でも、このゴミが嫌でも目に付く。

 この問題に関して各地の新聞「コラム」がさっそく反応していました。でもみんな「帯に短し、襷(たすき)に長し」、役に立ちませんなあ、という次第。いっこうにわけの分からない比喩をつかいますのも、見当違いじゃないか、何処を見て、記事を書いているんですか、と言いたいためです。スポーツマインドが欠けているのに、それに気が付かないという二重のバカっぷりでした。購読料を取って新聞を売っているのですから、「こう書けば、読まれる」「この記事なら、気に入られよう」という気持ちがあるのは当然ですが、でも「空振り」が多かったとぼくが見たのは、正義感を主張したり、プロならこうあるべきという教条主義だったり、自分の読み違いを「先に、ほんとのことを言えよ」「そうすりゃ、もっといい記事が書けたのに」と、大坂さんにいちゃもんを付ける輩まで。手に負えない代物です。「秘すれば花」という言い草がありますよ。

 世阿弥です。「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」(「風姿花伝」)と。能の舞台の話ですが、実人生でも変わらないんじゃありませんか。さて、その「花」とは?「花伝」を読むほかなさそうです。ほかに、世阿弥には能楽論として「至花道」「花鏡」「却来華」があり、いずれも「花」を主題として追い求めているのです。「秘すれば花」とは、言うまでもなく「幽玄」の境地の探求です。「秘すれば花」と題された著書がたくさん公刊されています。もう何十年も前に、ぼくは立原正秋さんのエッセイ「秘すれば花」を読んだことを、今思い出しています。まさに「秘すれば…」というにふさわしい(この表現は歪曲しているかもしれません)生涯を送られたのが立原さんでした。彼には「秘すべき」人生の諸相があったのかもしれないと、ぼくはみていました。はたして「花」という「幽玄の境」に、立原さんは栖(すみか)を見つけられたのでしょうか。(この「幽玄」論なるものについても、また一つの主題として書いて見たくなりました。いずれどこかで)

 どんな世界にも「ルール」があります。だから、秩序維持のためには、基本の態度は規則を守ることです。それにしても、「規則」に異を唱えるのは間違いであるという論調には、もっとも肝心な核心が見えていません。「悪法も法なり」と言われてきました。その真意はどこにあるのか。(この場合、「悪法」「法」とは、それぞれの世界において認められてきた「規則」「ルール」の類です。「たとえ悪い法律であっても、法は法であるから、廃止されない限りは、守らなければならない」(デジタル大辞泉)なんと愚かしい説明でしょうか。本気かよ、と言いたいですね。「廃止されない限り」と暢気に構えていますが、自然現象の如く「ようやく梅雨が明けた」という具合に「悪法は、予報通り、自然に改正された」というのですかな。

 これは悪法だ、と異議を唱える人が出てきて、それに応える人がさらに多数になれば、「悪法は悪法として」廃止されるのです。今回の場合、事情の如何を問わず「記者会見に応じなければならぬ」というのが、ある人には「悪法だった」から、異議を呈したのでしょ。その異議を唱えた背景が「いやだから」という気分ではなく、辛い状態にある「病状・病症」だったとしたら、それはよくわかると、みんな前言を忘れた振りをして「つらかったね」「元気になるように」などと腑抜けたことを言うのです。最初の「発言」から分かりなさいよ、彼女はそういってるんだからさ。

+++++++++++++++++

【正平調】大坂なおみさんが豊かな表現力や強い意志を持ったテニス選手であることは、時にユーモアを、時に反差別の思いを発するその語り口からも知られるところだろう。それだけに全仏オープンでの会見拒否はやや唐突な印象だった◆深い理由を、できれば本人も公にはしたくなかったのではないかと今にして思う。3年前に全米オープンで初優勝し、一躍時の人となった頃から心の不調に悩んできたことを、大坂さんがツイッターで告白した◆会見拒否は自分を守るためだったと述べている。批判の声が聞かれても翻意できぬほど23歳の心は疲弊していたのか、騒動が広がると初戦突破していた全仏の棄権を決めた。しばらくコートを離れる意向という◆トップアスリートだって鋼の精神を持っているわけでない。重い問題提起にテニス界が揺れるなか、ある海外選手のメッセージが目にとまった。「あなたの傷つきやすさを尊敬する」。繊細でいいじゃないかと◆心すり減らした仲間をそっといたわる言葉に触れ、小熊秀雄の詩が浮かぶ。〈人間は心を洗う手はもたないが/心を洗う心はおたがいにもっている筈(はず)だ〉(「乾杯」)◆告白の最後に、みんなが元気でありますようにとつづった大坂さんである。優しき人の回復を祈っている。(神戸新聞NEXT・2021/06/02)

 【筆洗】「まったく、弱点がありません」。一九九五年の日本シリーズ開幕前、当時ヤクルトの野村克也監督は対戦するオリックスのイチロー選手についてスコアラーからこんな報告を受けた。この年のイチロー選手の打率は三割四分である▼頭を悩ませた野村監督は記者団にうそをつくことにした。「イチローの弱点は内角だ」。取材を受けるたびに言い続けた。こうしてイチロー選手に内角攻めを意識させた上で試合では外角を中心に配球。結果、その打撃をある程度封じ、ヤクルトは優勝した▼勝利のため、プレスを巧みに利用する監督もいれば、記者会見さえ苦手という繊細な選手もいる。テニスの全仏オープンに出場中の大坂なおみ選手。試合後の記者会見に応じない考えを示し、大会主催者と対立している▼意見は分かれるだろう。会見による選手の心の負担を考慮してほしいという大坂選手の主張は分からぬでもない。一方、すべての選手が会見に応じている以上、大坂選手の拒否は身勝手であり、競技の公平性も守れないという主催者側の言い分ももっともだろう▼このまま拒否するなら四大大会への出場停止につながる危険もあると主催者側は警告する。変革を求めた強烈なサーブに対して主催者側のリターンも厳しい▼大坂選手と主催者側はよく話し合い、打開策を探るしかない。こんなラリーをファンは望んでいない。(東京新聞・2021年6月1日)

**************

 スポーツマインドを微塵ももたない輩が「スポーツ」を食い物にしています。これは明らかな詐欺であり、地位を利用した汚職そのものです。「犯罪」じゃないんですか。汚い手段で「いい想い」をするという根性が、そもそも「スポーツ」には馴染まないんだ。春夏に甲子園で野球を主宰している「新聞社」なんかもその徒党組だと思うね。(大坂さんはテニスだけの人生だなどと、まったく考えていないように、ぼくには思われます。しばらくではなく、ずっとコートを離れたままかもしれませんね)

 <people have no regard for athletes mental health> 

__________________

 ボウフラも蚊になるまでの浮き沈み

【卓上四季】信念ある就活を 昭和の名人古今亭志ん生は落語家という職業について「まるっきり馬鹿(ばか)じゃできない商売。利口じゃこんなことやる奴(やつ)ぁない」と笑いを誘った▼もう一方の名人桂文楽にはこんな逸話も。弟子入り志願の若者が来たが、自分の噺(はなし)を聞いたこともないという。あちこちに入門を頼み込む「常習犯」だった。「今の若い人はわれわれと違って教養もあろうが、信念がなさ過ぎます」と嘆いた(「芸談あばらかべっそん」ちくま文庫)▼今の世はその逆か。多くの企業にエントリーシートを提出し、内定を確保するのが就職活動の常道だ。希望の仕事に就けるとは限らず、まずは入社して数年後に次の道を探す人もいるらしい▼あすから、来春卒業する大学生の面接が解禁となる。コロナで対面方式が難しくなり、ウェブを活用する企業も多い。今春の大卒就職率は大幅な低下を記録した▼逆風の中の就活である。不採用通知が届けば、心も折れかけるだろう。それでも信念は持ち続けてほしい。人生かけて成し遂げたい理想や、学生時代に熱意を注いだ活動が、きっと心の支えとなる▼志ん生が得意とした「唐茄子(とうなす)屋政談」の若旦那は道楽が過ぎて勘当され、おじに拾われる。行商を命じられ、みっともないからと嫌がると「どんなものだって売って、口銭上げりゃ立派なお商人(あきんど)だ」と一喝される。働くことは尊く、職業に貴賎(きせん)はない。それが基本である。(北海道新聞・2021/05/31)

++++++++++++++++

 昭和の大名人といってもいい落語家、志ん生と文楽。ぼくは寄席で聞いたことはありませんが、残された記録で、ほぼすべての演目を聞いたと思っています。落語を聴くのに講釈はいらないのは当然で、聞く側の感受性の有無の問題なのかもしれない。落語というのは単なる勧善懲悪でもなければ、積善・善行のすゝめでもありません。その証拠に、落語の登場人物は教科書には掲載される気遣いはなさそうです。ひそやかな人情の機微、それがあらゆる場面で効いているのが、落語の真骨頂ではないでしょうか。二人の芸を比較しても始まりません。いずれも、耳にタコができるまで聞き通すことでしょう。そうしてようやく、二人の芸風というものが見えてくるのだと、ぼくは考えています。落語は大好きで、おそらく小学生のころから聴いていたと言っていいでしょう。もっぱらラジオでした。今では落語史に名前が残っているだけという人がほとんどでしたが、関西(上方)も東京(江戸)も、これまた比較を絶して面白さが際立っていました。今を去ること、七十年も前の話です。今、やられているのは落語ではないね。一種の一人語りに過ぎない。

 ぼくが聴いていたのは、最初は当然のように上方落語が主でした。名人上手が星のきらめきのように輝いていた時代でした。いまとは比べるべくもない、(戦後)落語の最盛期であったかもしれません。落語ブームなどという紙風船のような根無し草ではなかった。落語は語りです、生きられた人間像を明らかにする語りです。同じ話を別の落語家が演じるのが当たり前の世界ですから、たとえて言えば、古典音楽の同じピアノ曲を異なった演奏家が弾くのに似ていると言えるかもしれません。かたや「芸」で、こなた「芸術」というのはご愛敬でしょうか。「職業に貴賤はない」という、コラム氏はどのようなつもりで書かれているのか、ぼくには腑に落ちないというか、なんだか釈然としません。

 いまどき「貴賤」という語が出てくること自体が、どういうことなんでしょうか。【貴いことと、卑しいこと。また、身分の高い人と低い人。「職業に貴賤なし」「貴賤貧富」】(デジタル大辞泉)面倒なことを言うようですが、「貴賤がある」から「貴賤なし」というのではないですか。「貴賤はないけれど、貧富はある」というのはどうでしょう。「貴賤貧富」は否定できない現実なんですね。それを一応は「~はない」と言って見る。つまりは建前です。職業には貴賤はないのだから、どんな職業でも、身に備わった能力で選ぶがいい、そんなニュアンスがありはしませんか。「働くことは尊い」、それは言うまでもありません。そここそが基本であろうと、ぼくは考えます。個々人によって、職業には好き嫌いはあるし、合う合わないというのは、どんな場合でもあるでしょう。でもそれだけを基準にしていては、仕事に就くことは困難です。

 ぼくは、他の人よりは、多くの若い人を見てきたし、付き合ってきたと、自分なりに思っています。就職の相談をされたこともしばしばでした。大企業ならどこでもいい、官庁なら選ばないという人には助言の機会もありませんでしたが、何かと迷っているような人にはそれなりに「亀の甲より年の巧」(といえるかどうか、自信はありませんでしたが)で、それなりにことばをつくしたという思いはします。でも、それでじゅうぶんだったかとなると、今でも分かりませんね。もっとも大事なことだと考えてきたことは、何をしたいか、時間をかけて探せばいい、企業に勤めることでもいいし、アルバイトのような不規則な仕事でも構わない。人間、一人で生きていくには、なんとかなるのもだから、好きなものを見つける、それが人生かもね、そんな忠告とも助言ともつかない、あやふやな言葉をかけてきたように思います。いきなり全力でというのは無謀、何事も助走が必要です。給料を稼ぎながらの助走、それを勧めていたのではなかったか。その内に、助走に力が入って、やがて本番につながる(スライドする)とも限りませんから。

 「今の若い人はわれわれと違って教養もあろうが、信念がなさ過ぎます」という文楽師匠の評価は確かですね。いつだって、どこだって「信念」というものが根っこにないと、何事もうまく行かないからです、というよりまず最後まで続かない、挫折が待っている、そんな気がするのです。文楽さんが言われたのは、自らの経験をもとにしての言でしょうから、生半可な覚悟では、まずかなわないという趣旨がはいっているでしょう。「 今の若い人はわれわれと違って教養もあろうが 」と言われたのは、今から半世紀以上も前の話です。「教養」というのは「学歴」と言い換えてもいいような塩梅で、もちろん大学卒業だから、いいとか悪いとかいうのではありません。要は、人間の「中身」の問題です。

++++++++++++

 「唐茄子屋政談」という噺は、長いもので、滅多に全編はやられないようです。ある意味では人情噺でもあります。ぼくはいろいろな噺家でこれを聴いてきました。お茶屋遊びが過ぎて、若旦那は勘当、いかにも江戸の大店の、よく見かける風景です。唐茄子というのは南瓜(カボチャ)で、大店の若い旦那がカボチャを担いで行商なんて、「叔父さん、そんなみっともないことを」と思わず口にして、叔父にどやされます。やっとのことで叔父に拾われたのに、また追い出されそうになる。「おめえみたいなろくでなしは、もう一度、川に飛び込んで死んじまえ」叔父が浅草の吾妻橋まで来たら、若いもんが今まさに飛び込もうとしている。それが「若旦那」だった。「おめえだと知っていたら助けたりなんかしなかったんだが」「おめえか、死んじまえよ」そういう事情があっての唐茄子売りです。詳しいことはどなたかの高座(口演)で聞かれることをお勧めします。

 落語が「人情の機微」を色濃く反映していると言いました。ひるがえって、この落語の世界でもっとも貴重なものとされてきた、「人情」そのものが、まるで紙風船のように軽く、あるいは皆無になったのが、この現代ではないかという気もするのです。人間の社会から「人情」が失われたら、その社会は社会ではなくなります。烏合の衆と変わらない。ここで繰り返し「人情」と、ぼくが喧しく言うのは、他人を敬う(心遣い)「惻隠の情」でもあり、それが著しく欠けているとぼくは深く気に病んでいるからです。他者に対する少しばかりの尊敬心。それは血中に必要とされるいささかの塩分のように、その尊敬心が欠けたところでは、人との交わりはなり立たないからです。

 「職業に貴賤はない」と高飛車にいうのではなく、「 どんなものだって売って、口銭上げりゃ立派なお商人(あきんど)だ 」という志を失わないことこそ、ぼくたちの社会で、たがいが認め合うことが出来る「心情」でもあるのでしょう。この心持ちは、けっして「商売」にかぎりません。勤め人であろうと、自営業であろうと、どのような職業であれ、それで飯を食っているのなら「立派な職業人だ」と言いたいですね。

 石の上にも三年と言います。どんなにつらくても、三年我慢しなさいよという、親心なのかもしれません。でも「冷たくて固い石の上に」「長い長い三年も」、そんなのたまらないじゃないかと、たちどころに飛び降りたくなるのも、辛抱の足りない時代の風儀です。どんなに好きでも、あるいは得意でも、けっして無理をしないこと、それが長続きの元手です。まあ騙されたと思って三年坐っていなさいな、かならず温まってくるからさ。その上で、「好きこそものの上手なれ」となるのです。ヒトとでもモノでも、ひとめぼれというのは、怪しいね、勘ちがいがほとんどだから。好きになるにも辛抱というか、ある程度の時間がいるんだな。志ん生さんは「まくら」として、よく語っていました、「ボウフラも蚊になるまでの浮き沈み」だって。さらに「惚れて通えば千里も一里、長い田んぼも一跨(また)ぎ」も。これは醸成に行かれる例ですが、何職業であっても似たようなものです。千里も一里にしか思えないほど、燃えるというかエネルギーが溢れてくるんですね。これが続くと、しめたものですね。

 最期に。志ん生師匠のお得意に「おかめ団子」という語りがあります。古い画像ですが、ネットで、今でも鑑賞できると思います。ぜひとも聞かれることをお勧めします。(こんな「人間」たちが、いたらいいなあ、そんな願いや憧れが、落とし噺(落語)になったのでしょう。主役は英雄でも才女でもない。当たり前の、泣いた笑った、滑った転んだという、ありふれた風貌の「町人」「職人」「遊び人」たちばかりでした。その人々の当たり前の「一挙手一投足」を聞いて、留飲を下げたり、声涙を下したり。「笑う門には福来る」「笑って損した者はなし」と。学校じゃ教えられないですね。

__________________________