世間の偏見達が眺めるあの僕の国か

<金口木舌>未完成の平和の礎

 2017年54人、18年58人、19年42人、20年30人、そして今年21年は41人。何のことかピンとくる人もいよう。この5年で糸満市摩文仁の平和の礎に名が刻まれた沖縄戦犠牲者の人数である▼名前の重複による削除もあるが、この5年で刻銘者は164人加わった。76年前の沖縄戦犠牲者数が増え続けていることに驚く。1995年の建立時からは7449人増えている▼名も知れぬ一般住民が戦禍に倒れた沖縄戦の悲劇が表れている。軍人・軍属のような戦死者名簿はない。名を石板に刻むことで生きた証しを残したいという遺族の深い思いもここにある▼刻銘者数が増える一方で沖縄戦体験者は減り続けている。新型コロナウイルス感染症で亡くなった高齢者の中にも体験者はいるはずだ。戦禍を生き延びた人々がコロナ禍の中で人生を終える。やりきれない思いがする▼今年も規模を縮小した全戦没者追悼式の会場で菅義偉首相のメッセージが流れた。官房長官時代、翁長雄志前知事に対し「私は戦後生まれなので、沖縄の置かれてきた歴史については分からない」と述べた人だ。言葉が胸に響かない▼来年も新たな名前が刻まれるだろう。朝鮮、台湾の沖縄戦犠牲者の刻銘が課題だ。未完成のまま未来へメッセージを発する平和の礎。新たな戦争による犠牲者の名を刻むことにならないよう県民は願っている。(琉球新報・2021年6月24日)

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 はじめて「平和の礎」を訪れたのは、何年前になるだろうか。戦後五十年を期して、犠牲者の名を刻むという事業が行われた。この「平和の礎」に何を想うか。ぼくは十数年前、初めて摩文仁の丘に立ち、米艦隊が北上してきたであろう海を見ながら、どれくらい、その場に佇んでいたろうか。同行してくれた沖縄の女性はやはり黙って、ぼくのとなりに立っていた。この二十四万余の刻銘に圧倒されるほかなかった。毎年、6月23日は必ず来るが、そこにはいささかの変化も変容もない。明治以降の圧倒する大和と、支配される沖縄の構図は寸分とも変わらない。これを歴史というのはあまりにも覚束ないのである。時の官房長官が訪沖のさい、 「私は戦後生まれなので、沖縄の置かれてきた歴史については分からない」 といった言葉を、この耳で聞いた。なんということを言い捨てる人間であろうかと、背筋が寒くなったのである。はらのそこから、「沖縄を蔑視」していると、ぼくは確信した。その確信はまったく揺らがないままで、今につながる。これが歴史だろうか。時は流れているのか、あるいは止まっているのか。あらゆる手段を使って、沖縄を支配下に置く、それはこの島国がアメリカの支配下に置かれているのとそっくりの構図だから、沖縄は「二重の支配」に苦しめられているのだ。

○ 摩文仁【まぶに】沖縄県糸満市の大字。沖縄本島南端部に位置し,沖縄戦終焉の地として平和公園となり,多数の慰霊塔が林立,平和祈念資料館・平和の礎(いしじ)がある。沖縄戦末期,日本軍は中部戦線で壊滅状態となったにもかかわらず,島民の避難地であった本島南部に撤退,司令部を摩文仁高地に置いて戦闘を継続した。しかし約1ヵ月にわたる米軍の猛攻で戦線は陥落。一掃作戦の巻き添えとなった住民・避難民に多数の犠牲者を出した。1945年6月23日,牛島満司令官は司令部壕で自決,ここに日本軍の組織的戦闘は終了した。〈平和の礎〉は沖縄戦で亡くなった国内外のすべての人々を追悼し,世界の恒久平和を祈念するために戦没者の氏名を刻銘した記念碑で,1995年に除幕,沖縄戦60周年の2005年6月現在,23万9801人の犠牲者名が刻まれている。(マイペディア)

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 どうしても山之口獏さんに尋ねて見たかった。気の遠くなるような昔からいまに続く、沖縄の行く末を、肺腑の言で語り尽くそうとして果たせなかった獏さん。少し古い記事だが、出しても無駄ではないと思っている。ちょうど、ぼくが摩文仁に、はじめて出かけたころのことだ。今から八年ほども前のこと。こんなに苦しみながら、矜持を失わなかった生き方は、そんなにある物ではない。それだけで、獏さんは偉大なる人間だ。まるで「沖縄、あるいは琉球そのままの生き方」ではなかったか。

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 【大弦小弦】 先日、行きつけの飲み屋で隣り合った初対面の老紳士と基地問題で議論になった。老紳士は「沖縄は基地で大変だけど、場所的に仕方ない」と語り始め、「基地がないと生活できないでしょう」と繰り返した▼基地経済の縮小や新基地建設に反対する県民世論を説明すると、「君たちは日本人ではない」と吐き捨てた。ふさいだまま帰宅し、詩人山之口貘が自作を朗読するCDを聴きながら、寝床についた▼冒頭は「会話」。「お国は? と女が言つた」と始まる同作には「あれは日本人ではない/日本語は通じるかなどと話し合ひながら」とあり、「世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!」とつづられる▼「新編山之口貘全集」(思潮社)に収録された「沖縄よどこへ行く」はサンフランシスコ講和条約調印直前に書かれ、「琉球よ/沖縄よ/こんどはどこに行くというのだ」と問いかけている▼生誕110年、没後50年を記念し、38年ぶりに発刊された全集を編集した松下博文・筑紫女学園大学教授は、9月10日の本紙文化面でこの作品をディアスポラな存在(さまよえる民)としての沖縄の今を象徴していると指摘している▼貘が生きた時代と比べても、日本と沖縄の関係は大きくは変わっていない。アイデンティティーを問い、苦悩して生まれた詩に共鳴する。(与那原良彦)(沖縄タイムス・13/10/05)

会 話
お国は?と女が言った。
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、
刺青と蛇皮線などの連想を染めて、
図案のような風俗をしているあの僕の国か!
ずっとむかふ

ずっとむかふとは?と女が言った。
それはずっとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、
頭上に豚をのせる女がいるとか素足で歩くとかいふような、
憂鬱な方角を習慣しているあの僕の国か!
南方

南方とは?と女が言った。
南方は南方、濃藍の海に住んでいるあの常夏の地帯、
竜舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物たちが、
白い季節を被って寄り添ふているんだが、
あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどと
談し合ひしながら、世間との既成概念達が気流するあの僕の国か!
亜熱帯

アネッツタイ!と女が言った
亜熱帯なんだが、僕の女よ、目の前に見える亜熱帯が見えないのか!
この僕のように、日本語の通じる日本人たちが、すなわち亜熱帯に生まれた僕らなんだと
僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのの同義語でも眺めるかのように、
世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所 (山之口獏「会話」1938年)

 この記事が書かれた時期から、すでに一昔近くが過ぎようとしている。 「貘が生きた時代と比べても、日本と沖縄の関係は大きくは変わっていない。アイデンティティーを問い、苦悩して生まれた詩に共鳴する」 と「コラム」氏は述べる。ぼくも共感するが、その度合いはさらに強くなる。まったく変わらないどころか、事態はもっと悪くなっている。沖縄の歴史に敬意を示すそぶりも見せない「ソーリ」がいるヤマトンチュウである。ぼくは、ここに再び三たび、謝花昇と奈良原繁の勝負にもならない「闘い」に心を痛めている。「歴史に無知である」ということは、人をどれほど尊大にも無礼にも、荒唐無稽にもするものであろうか。ぼくたちは後退を許されないところで、自分の足で佇み続けなけらばならない。

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 変わらぬ命 変わらぬ心 ふるさとの夏

<金口木舌>軍靴の足音

 新型コロナウイルスの感染拡大が続き、国中が混乱する中、土地利用規制法やデジタル関連法などが国会でバタバタと成立した。熟議とは程遠い数の力で▼いずれも国民を監視し思想・良心の自由を奪いかねない法律だ。野党は徹底的に抵抗したか。国民はその危うさを実感しているだろうか。残念ながら否ではないか▼法律が人を追い詰める。その実例を76年前の沖縄戦の前夜に見る。元県議で社会大衆党委員長だった瑞慶覧長方さんの父は社会主義者だと疑われ、自ら命を絶った。嫌疑のきっかけは社会主義に関する本を持っているといううわさだった▼特高の尋問を受け、日を追うごとに憔悴(しょうすい)していく父の姿を瑞慶覧さんは忘れない。父を死に追いやった治安維持法と2013年制定の特定秘密保護法が重なって見えた。「法を盾に権力者は国民を押さえ付ける。その怖さを骨の髄まで味わった」▼私権を制限し、言葉を奪う法律が何をもたらすか、私たちは忘れてしまったのだろうか。きょうは「慰霊の日」。犠牲者の冥福を祈りつつ、国民に問い掛けたい。本当にこのままでよいのか▼「法律ができてからでは遅いんだ」。瑞慶覧さんの言葉だ。もしかしたら、もう遅いのかもしれない。それでも、諦めるわけにはいかない。ひたひたと迫り来る軍靴の足音を止めよう。この沖縄で、誓いを新たにしたいと思う。(琉球新報・2021年6月23日)

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 沖縄が懐かしい。さらに愛おしい。ぼくは若いころに柳田國男をがむしゃらに読み、沖縄に目を開かれた。その沖縄には謝花昇という人がいた。まるで明治以降の沖縄(いうまでもなくそれ以前の沖縄の運命は明治以降に繰り返されたのだ)を、個人で体現せざるを得ないような生き方(死に方)をした。謝花という存在は、ぼくにとっては衝撃の人だった。さらに一方には、沖縄学の巨人だった伊波 普猷がいたし、佐喜眞興英がいた。柳田さんに教えられて、彼等をひたすら読んだ。謝花昇についてはたくさんの資料を集めて、一冊の本にしようと考えたこともあった。佐喜眞興英も民俗(族)学の分野に惹かれて読みだした。後年の知り合いで佐喜眞美術館館長だった道雄さんとの交友で、改めてこの碩学の「沖縄学」を学びなおそうとした。これも、すでに何年も何十年も前のことになった。

 謝花昇さんに関連付けて言えば、昔も今も、沖縄には「孤立した謝花昇」と「圧政を敷く奈良原繁」がいたし、今もいる。これを、明治期以降の沖縄の避けられない運命にしてしまったのが「ヤマトンチュウ」だったことに、変わりはないのだ。七十六年目の「慰霊の日」も、かくして暮れるのだ。

○伊波普猷(いはふゆう)[生]1876.2.20. 那覇 [没]1947.8.13. 東京 言語学者,民俗学者,歴史家。 1906年東京帝国大学言語学科卒業。沖縄学の創始者で「沖縄学の父」といわれる。琉球の言語史,文化史の研究に貢献多く,特に古謡集『おもろさうし』を中心に,琉球の古代史,古語,古俗を実証的に研究した。『古琉球』 (1911) ,『おもろさうし選釈』 (23) ,『南島方言史攷』 (34) ,『琉球戯曲辞典』 (38) など著書が多い。また,廃藩置県は島津氏の琉球征伐とは異なり,日本への隷属ではなく,日本の一県となったことを意味するとして琉球の尊厳を説き,講演や執筆でその啓蒙に努めた。その著作の全貌は『伊波普猷全集』 (11巻,74~76) によりみることができる。(ブリタニカ国際大百科事典)

○佐喜真興英(さきまこうえい)没年:大正14.6.13(1925) 生年:明治26.10.26(1893)大正期の沖縄研究者・民族学者。沖縄本島中部の宜野湾に生まれる。一高から東京帝国大学法学部に進み,卒業後,判事として勤務するかたわら民族学の研究に没頭した。バッハオーフェンなどの進化主義人類学の影響を強く受け,短い生涯のなかで沖縄や民族学に関するすぐれた著作・論文を発表した。女権の問題を検討した『女人政治考』は柳田国男の激賞を受け,邪馬台国の女王卑弥呼の解釈に強い影響をおよぼした。<著作>佐喜真興英全集』全1巻(高良倉吉) (朝日日本歴史人物事典)

○謝花昇謝花昇【じゃはなのぼる】沖縄県の行政官・社会運動家。島尻郡東風平(こちんだ)村の農家に生まれる。1882年第1回県費留学生として上京,1891年帝国大学農科大学卒業。帰郷して県技師に任命され高等官となり,農業技術の指導や,貢糖制度の廃止に尽力。沖縄の近代化を専制的に推し進める鹿児島藩出身の県知事奈良原繁の施策にしばしば抗し,農民層の立場から県政の革新をめざした。1898年官職を辞して県民の参政権獲得運動を展開,また沖縄倶楽部を結成し機関紙《沖縄時論》を発行して奈良原批判・参政権要求等の論陣を張った。これらの活動から沖縄における自由民権運動の指導者と評されている。運動で家産を使い果たし,奈良原一派から徹底的に弾圧されて生活の道も絶たれ,1901年新任地の山口県に赴く途中に神戸駅で発狂して帰郷,貧窮と狂気のうちに死亡した。(百科事典マイペディア)

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 沖縄戦のこと、慰霊の日のこと、それを別の角度から、ぼくは学んだ。もっと有体に言えば、沖縄の置かれた(というより、そのように位置づけられた)宿命と、民衆の体内に沁み込んだ悲しみを、あたかも体感するが如く、ぼくは意図して身につけたともいえる。最近は行き来は絶えていますが、「沖縄のボブ・ディラン」と称されもする海勢頭豊さん。何度も、彼のライブを聴いた。また、ぼくの願いを聞いてくれて、多くの若者の前で歌ってくれたことも、二度三度と、あった。ちょっと気になっているのは、豊さんは酒が強いし飲みすぎる人だった、それを、遠くからだが、心配している。いろいろな方面の活躍を耳にすると、いかにも元気だな、と安心もする。映画にも挑戦し、何かと活動範囲を広げられている。何冊もの著作も出版されている。彼の本領である歌の方面で「月桃」というタイトルの曲がある。彼の作った映画「月桃の花」の主題歌であった。「慰霊の日」を銘記して作られたと聞いた。沖縄についての記憶があるところでは、このメロデをィがいつも奏でられている。素朴で誠実、しかも情が深い、そんな沖縄の民衆の心が、曲の深いところをハッキリと流れている。(https://www.youtube.com/watch?v=4EPGYSc0dkw

1月桃ゆれて 花咲けば
 夏のたよりは 南風
 緑は萌える うりずんの
 ふるさとの夏	

2月桃白い花のかんざし
 村のはずれの石垣に
 手に取る人も 今はいない
 ふるさとの夏

3摩文仁の丘の 祈りの歌に
 夏の真昼は 青い空
 誓いの言葉 今も新たな
 ふるさとの夏

4海はまぶしい キャンの岬に
 寄せくる波は 変わらねど
 変わるはてない 浮世の情け
 ふるさとの夏

5六月二十三日待たず
 月桃の花 散りました
 長い長い 煙たなびく
 ふるさとの夏

6香れよ香れ 月桃の花
 永久(とわ)に咲く身の 花心
 変わらぬ命 変わらぬ心
 ふるさとの夏
 (作詞・作曲=海勢頭豊。1982年)

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 照見五蘊 皆空。度一切苦厄。

仏説 摩訶般若波羅蜜多心経」(ぶっせつ まかはんにゃはらみったしんぎょう」

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時。照見五蘊 皆空。度一切苦厄。(かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー。しょうけんごーうん かいくう。どいっさいくやく。)

舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。(しゃーりーしー。しきふーいーくー。くーふーいーしき。しきそくぜーくう。くうそくぜーしき。じゅーそうぎょうしき やくぶーにょーぜー。)

舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。(しゃーりーしー。ぜーしょーほうくうそう。ふーしょうふーめつ。ふーくーふーじょう。ふーぞうふーげん。)(以下略)

○ 般若心経(読み)はんにゃしんぎょう=仏教経典。原名をプラジュニャーパーラミター・フリダヤ・スートラPrajñāpāramitā-hdaya-sūtraといい、『般若波羅蜜多(はらみった)心経』の略。『心経』とも略す。フリダヤ(心)は心臓を表し、心髄・中心などを意味する。種々つくられ、しだいに増広されて膨大なものとなった般若経典群のうち、その中心思想をきわめて簡潔に述べた経で、仏教の全経典のうち、もっとも短いものに属する。そのなかに、「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色」(いろ・かたちをもって現れているものは、実体としてあるのではなく、実体としてあるのではないからこそ、いろ・かたちをもって現れる)の有名な語句があり、末尾に真言(しんごん)があって、古来日本人には親しい。原典はしばしば漢訳され、現存するものも7種あるが、寺院や民間でよく読まれ写経されるのは、玄奘(げんじょう)訳『般若波羅蜜多心経』である。/ サンスクリット本の写本は、興味深いことに、日本に伝わっていて、「小本」と「大本」があり、小本(玄奘訳に相当)は法隆寺に、大本は長谷(はせ)寺(奈良)にある。[三枝充悳](日本大百科全書・ニッポニカ)『中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波書店・岩波クラシックス50)』▽『三枝充悳著『般若経の真理』(1971・春秋社)』

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 何を血迷ったか、「仏説 摩訶般若波羅蜜多心経」を読んでみたくなりました。はっきりした理由はない。なんとなく、この世のすべてとは言わないが、その多くはなるようになり、ならぬことはならぬという「理(ことわり)」があって、それに従って動かされているようだとも思い、いや「為せばなる、為さねばならぬ」と、人間の努力とでもいうものをまず押し出して生きなさいという。いったい、どっちやねん、と言いたくなりますね。どちらかといえば、ぼくは「風来坊」「風前の塵」であって、がんばるとか、賢明に生きるというスタイルは取らない人間です。人生、誕生時に、何者かによって灯された蝋燭の灯りのようで、それがいつまで持つか、いつ消えるか。スリルがあるともいえるし、儚いねえという気分もあります。

 「門前の小僧、習わぬ経を読む」と言いますが、ぼくはこれまでに何度「インチキ坊主」の唸る「般若心経」を聞かされてきたことでしょう。今この年齢になっても、まだ年に一度か二度は聞かされます。縁者の法事という集まりで。法事魔多し、ですな。まるで拷問に等しいと、聞かされながら、いつだって思ってしまう。

 もう何年になるか、三十年以上が経過しましたが、親父がなくなって以来、帰郷するたびにおふくろの唱える「般若心経」が段々と上達しているのに驚いたことでした。はじめは、教本を手に、それこそ、文字を追いながらのお勤めでした。やがて、おふくろの心経は、落語の「小言幸兵衛」さんのように、唱えながら、いろいろな雑談をしていましたね。なかなかのものでした。おふくろの「宗旨」は真言宗だったから、なおさら心経には縁があったのです。しかし、ぼくには関心が湧かなかった。歴史資料としてなら何度も読んだことがあります。しかし、それを、お宗旨の典型(中核)思想ととらえることが出来ませんでした。

 ほとんどの坊さんは、これを音読する。漢字をそのまま音読みするのです。いつでも不愉快になる。途中で、「今読んだところを日本語のわかる説明というか、お経にしてほしい」と、特注したくなります。お布施の多少にかかわらず、なにか「無意味・意味不明が有難いのだ」と言われているようで、信心も何もあったものではありません。ネットで時間つぶしをしていると、それぞれが「般若心経」の有難さを語っている。そういうものかと、受け止めれば害もないし、健康に差し障ることもないのでしょう。しかし、「空」の思想というのが何であるか、「空」は空っぽであり、天(そら)であり、実態もなければ、目でも手でも確認できないという。それが何であれ、有難いものなのかと思います。空即是色だって。

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 偉大なる智慧の完成についての心髄の経

観自在菩薩が深遠なる智慧の完成を実践していたとき、もろもろの存在の五つの構成要素は、皆、固有の本性・実体を持たない「空」であると見極め、だからこそ、あらゆる苦しみと災いを克服した。

舎利子よ、形あるもの(色)は、空に異ならず、空は、形あるものと異ならないのである。形あるものは空であり、空は形あるものなのである。そして、感受作用・表象作用・形成作用・識別作用もまた、同じく空なのである。

舎利子よ、あらゆる存在は空を特質としているから、生じることも滅することもなく、汚れることも清まることもなく、増えることも減ることもない。」(曹洞宗の「現代語訳」を借用。https://sousei.gr.jp/8619/)

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 さて、ここからが本題です。ぼくもたまには「心経を口ごもる」ことがある。手前勝手な解釈は禁物と、権威ある筋と言われている方々の教えに従おうかと、なんとも殊勝な心がけが、最近になって、起こって来たのです。ところが、日曜日にかなりしんどい自動車の旅(というほどでもありませんが、横浜市内は大渋滞でした。横浜に住んでいる娘の所に「二人の子猫」を、ケージに入れて、アクアラインを利用し、苦心して連れて行ったのでした)をしたせいか、腰が可笑しくなって、少しばかり痛くなって、今もややつらい。そのためでもなさそうですけれど、思うように頭が働かないんですね。つまり頭が真っ白というか、「空」なんです。「色」はまだ見えてこない。少し、ようすをみていたのですが、治まりそうにないので、本日はここまで。これを、竜頭蛇尾というのか。空即是色。また後で)

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 世の中ついでに生きてたい

(【談話室】は、よく読むコラムです。山形好きということもありますね。「損貧」という言葉も、「上杉ゆかり」でしょうか。米沢にも何度か出かけました。余談を、さらに重ねると「天衣無縫の芸風」だったとヨイショしていますが、違う。「天衣無縫」と錯覚させるほど、芸を磨いた挙句の舞台だった のだ)

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 【談話室】▽若い時は役者になりたかった。思いを告げると、父は落語家の方がいいと口説いてきた。芝居は大道具、小道具に相手役がいる。自分一人じゃできない。その点噺家(はなしか)は「扇子一本と手拭いが一つありゃいいんだから」。▼▽古今亭志ん朝さんが、対談本「世の中ついでに生きてたい」で振り返っていた。父は不世出の名人古今亭志ん生である。誘いに乗せられ入門したはいいが壁は高かった。何しろ父は酒に酔って高座で舟をこいでも「寝かしといてやれよ」と客が許す。天衣無縫の芸風だった。▼▽尊敬の念を抱く半面、かなわぬ部分の多さを実感せざるを得ない。父亡き後も「生涯、おやじとの闘い」という感覚がつきまとった。そんな中、父とは対照的に緻密な師匠の芸を取り入れて精進を重ねる。ついには、古典落語の粋と色気を体現する天下一品の存在になった。▼▽志ん朝さんがまだ63歳でこの世を去って、今年で20年がたつ。晩年には「おやじはおやじ、自分は自分」と吹っ切れた心境を吐露するに至っていた。今も健在だったなら、父志ん生も達し得なかった境地に届いていただろうか。そんな想像にいざなわれる「父の日」である。(山形新聞・2021/06/20付)

 大学に入ってから、上野にしばしば出かけた。住んでいたのは本郷で「旧帝大」の構内を通り抜けると池之端に出た。そこにあったのが「鈴本」という寄席だった。足しげく通ったのではないが、しばしば早い時間に入ってあまり客もいないところで落語を聴いた。今から半世紀以上も前のことでした。上野界隈の賑わいもまだ振るっていたし、浅草はなかなか人出も多かった時代でした。寄席に通った理由は、いつもラジオ・テレビなどで見たり聞いたりしていた「落語」を生(ライブ)で堪能したかったからでした。ラジオやテレビだと、よほどの機会でもない限りは一席が十分か十五分。三十分ものなどはほとんどなかった。細切れ噺では、肝心の緊張感とその弛緩する間が得られなかった。これは致命傷でしたね。落語がダメになったのも「テレビのせい」だと言っていい。

 兄貴の影響をいろいろな面で受けていたと思う。ジャズもそうだったし、落語もしかり。そうこうしている間に、名のある落語家の話を聞く機会もいくらもあったが、やがて、寄席から遠のいていった。理由は単純。つまらない落語家が圧倒的に増えたからでした。「落語」の粋というものがそういうものかを語るのは手に余りますけれど、にわかでと間違うような素人臭い噺家では、それを聴くために、カネを払う気も亡くなったのでした。もちろん、聞きだしたころは文楽も志ん生もすでに故人になっていました。勢い、彼等の話は録音で聞く機会が増えた。その話が面白いのなんの、夢中になって聴き漁ったものでした。

 「落語が面白い」というのはどういうことか。単純そうでいて、なかなかの難問だと言えます。まず噺家に対する好き嫌いがある。好きとなれば、どんなものだっていいと言いたくなる。贔屓の引き倒し、です。反対も然り。でも、ぼくが感じたのは、いろいろなことから分かったんですが、多くの噺家は「手を抜く」ということをも「芸」だととらえている節があったのです。耳にタコができるほど聞いていると、開口一番、ああ今日はダメだとわかる。録音されたものは実況(ライブ)が多かったが、それはかなり時代が古かったし、まだまだ落語家が御殿を立てるような時代ではなかったから、「貧乏」を画に描いたような生活がにじみ出ていたのかもしれない。「黒門町」といえば、桂文楽。彼は尋常小学校中退。時代が時代だっただけに、いろいろな回り道をしながらも、落語に精進していった。その少年期からの生活経験の広さや深さが、ひとつの話・噺のなかにくっきりと色をなして沁み込んでいるのでしょう。これが「名人」と謳われた人たちの「落語の背骨」になったのだと思う。一言で話芸と言っても多彩なものがあります。殊に落語に関して、その魅力は何かと聞かれると、噺家の「経験」だと言いたいですね。感性や頭脳ではなく、その人が生きてきた「経験」です。その深浅、広狭、生活の奥行、そんなものが噺に反映され、まるでその噺家の生きている姿を見せられ聴かされる思いがするのです。

 どんな職業でも、その人となりが出るのは当然です。生まれながらの野球選手もあるのでしょうが、落語は、学校で教えることもなければ、師匠が徹底して仕込んでなり立つという職業でもないと思う。多くの職業は大学を卒業して、一つの企業に入り、与えられた仕事をこなしているうちに、それがキャリアになり、仕事への蘊蓄・経験を深めていく(つまりは凸凹のない一本道)というのが当たり前のようになってくると、落語が語るべき「人生譚」「滑稽話」「人情もの」などはまず「味もそっけもない」、そんな単調な噺家に堕ちるのはせいぜいです。学生時代に「落研」なるものを何度か覗いたが、五月蠅いばかりで実に軽薄に感じた。まるで「笑い話」をすれば、それでいいんだろ、そんな印象しか残っていないし、大卒でなかなかの落語家がいないのではないでしょうが、落語というよりは「落とし噺(頓智)」のようで、ぼくには合わなかったような気がします。もちろん、好みの問題でもありますから、人それぞれが、自らの好みに応じて聞くといいのでしょう。

 ぼくが聴きだしたころ、林家三平や立川談志がいた。三平には呆れることが多かった。落語の勉強がまったくできていなかった。まずは落語界の「タレント」(噺家ではなかった)の走りであり、第一人者であったが、聞けたものではなった。にもかかわらず、テレビで名が売れると、余生はそれを観たさに客がよってくる。それが高座を荒らしたと言えるでしょう。三平たちの罪は深いものがあったでしょうね。一方の談志も、やたらに向こう気は強かったが、話が浮いているようで感心できませんでした。後年、中にはいいものもあったが、概して「どうだ、うまいだろ」という啖呵だけが空回りしていた。寄席を含めて収録されたものをたくさん聞いたが、やはり、ぼくが好んで聞く噺や噺家は、数が極端に絞られてきました。名人上手というの存在はいつでも希少なんでしょう。

 その一人が「志ん朝」さんでした。ほとんどとは言いませんが、かなり聴いたと思う。その前に彼の兄の「馬生」をそれなりに聞いていたので、弟の、一種の華やかさが輝いていたのは事実でした。しかし、ゆったりと耳を傾けるというか、安心して舟に乗っている心地がする「船頭」ぶりにしては遠かったたのではないかと、勝手に判断していました。緩急がないというか、一貫して「全力投球」のスタイルが多かったと。聴く側は「のめり込まされる」のを望んでいるのではないので、ときには「耳障り」に感じたこともありました。まあ、好きな言葉で言えば、「間がない」「間が悪い」「間が持てない」ということでしたね。「間」というのは感覚的なものだし、誰かが教えることもできない、一種の天与の技(呼吸)とでもいうものでしょう。野球の投手で、「間がいい」と言える人は何人もいなかったでしょうが、意外に思われそうですが、金田正一氏などは、その「間」の感覚を天性のものとして備えていたと思います。

 長嶋茂雄がプロデビュー戦で、金田投手に「手もなくひねられた」のは球史に残りましたが、決め手になったのは「間」の有無が一番の要因だったと言いたいですね。こちらは後楽園球場(ドームではない)で、実際に王貞治選手が「手玉に取られて」赤子のように操られていたのを観戦しましたが、貫禄がちがう、と強く印象付けられました。いずれも「間」です。人間関係にも必要なのは「間」です。ソーシャルディスタンスなどと大流行ですが、「間」と思うものは教えられない。例えば大工の親方が弟子に「カンナの削り方」「鑿の使い方」「金槌の力の入れ方加減」などなど、何一つ手取り足取りで伝えることはできない話です。すべては自分で体得・体感しなければならないのです。「間」というものも、その一つ。極意と言っていいのです。これは、やはり経験を積み重ねる外に身につけることはできないのではないかと思っています。

 飯の種として、ぼくは「人前で話す」機会が割とあったから、なおさら「間」というものについて、それらしい感触を持っています。それを少しは考えようとしたと言えるでしょうか。聴く側に、己の言いたいことを押し付けてもいけない。押し付けたら、かならず相手は引く。夫婦でも同じです。引いてもダメなら押してみろ、と言って、押したら逃げるんですね。間合い、この感覚、あるいは感受性は、苦心惨憺の経験を重ねて得るほかないのでしょう。経験を重ねたところで必ず身に付くとは限らないのは、夫婦関係の「間」にも通じます。これも「鈴本」でのことでしたが、一人の落語家が、客席に届くかどうかという小さな声でしか話さない。すると客席から「聞こえないぞ」と大音声。ところが落語家はあわてず騒がず、「お隣の酒悦の客に、ただ(無料)で聞かれるといやなものですから」と。一堂が大爆笑したことでした。鈴々舎馬風という噺家だった。彼はいつもそれをネタにしていたようでした。大爆笑の直前の、一瞬の間、それを彼はくり返し学んで得たのでしょうね。

 志ん生と志ん朝(親子であり、師弟)について話すつもりでしたが、面倒になりました。志ん朝さんはドイツ語系の高校に入って、将来は外交官になると言っていたそうです。彼が亡くなった時、使い古した「ドイツ語辞書」がお棺に収められたと聞きました。熱心にドイツ語を学習したとも言われています。高卒以後、テレビ草創期のドラマに出演、達者な演技をしていた記憶があります。その後「コラム」に書かれているとおり、親父に勧められて噺家に入門。いろいろ苦心・苦労を重ねて、「脂がのり切ろう」という瞬間に病魔に襲われた。可哀そうなことをしたと、ぼくはその時も、今でさえもそう感じています。談志とは、ライバルであり無二の親友であった。次代の落語界を牽引する約束をしていた二人でしたし、「志ん生を継げよ」と、談志さんがさかんに唆(そそのか)していたことを思い出します。

 志ん朝さんにとって、志ん生は実の父であり師匠、談志さんは無二の友であり、火花を散らしたライバルであり、しかも何でも話せる師匠でした。だれをも「師匠(先生)」にできる人は、それなりに豊かで、しかし厳しい人生を過ごさなければならなんでしょうね。そんなことをぼやっと感じているのです。現今、落語に艶がなくなり、話かがタレントになっているのには、時代の波もあるでしょうが、一番の問題は、落語に描かれる時代相や人生の濃淡が、様変わりした結果だと思います。長屋もなければ、クマ公、ハチ公がいなくなった。「人間関係の間」がすっかり失われてしまったのです。

 十年一昔。それなら志ん朝、死して「二昔」です。「去る者日々に疎し」といい、「去る者貧乏」ともいいます。でも、ぼくの耳と目には華やかで艶のある音声、額に大玉の汗を輝かせる舞台上の姿、その懸命すぎる「一場の芸」で勝負している志ん朝さんの全盛の雄姿が消えないままです。

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○ 寄席(よせ)=落語,講談,音曲などを上演する演芸場。「よせせき」の略称で単に席ともいい,「ひとよせせき」「よせば」などども呼ばれた。現在,東京の寄席では落語が主で,講談,漫才,曲芸などを色物 (いろもの) といい,関西では漫才が主で,落語ほかを色物といっているが,いずれにしろ現在の寄席はこれら色物をとりまぜて成り立っている。寄席の源流としては,延宝・天和・貞享年間 (1673~88) 頃,京都四条河原,祇園真葛原,江戸中橋広小路,大坂生玉,天王寺,道頓堀などに辻噺 (つじばなし) があり,さらに元禄 13 (1700) 年名和清左衛門が浅草見付の脇につくった「太平記講釈場」,享保年間 (16~36) 辻講釈師深井志道軒が浅草観音堂脇に設けたよしず張りの小屋などがある。天明年間 (81~89) に入って,料亭などで落語の会が催されるようになり,寛政 10 (98) 年には,大坂下りの岡本万作によって,神田豊島町に「頓作軽口噺 (ばなし) 」の看板を掲げて寄席が開かれた。大坂でも,同年座摩 (いかすり) 神社境内に,1世桂文治が寄席を開いている。文政年間 (1818~30) 末期には江戸で 130軒をこえるほどになったが,天保の改革 (41) で 15軒に減らされた。弘化1 (44) 年にはその禁もゆるみ,以後数百軒を数えるにいたった。現在では,映画,テレビなどの登場に伴う娯楽の多様化によって,数軒を残すのみである。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 徒然侘びる人は、いかなる心ならん

 徒然詫ぶる人は、いかなる心ならん。紛るる方無く、ただ一人あるのみこそ良けれ。

 世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれて惑ひや易く、人に交はれば、言葉外(よそ)の聞き従ひて、然ながら心にあらず。人に戯(たわぶ)れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事無し。分別(ふんべつ)妄りに起こりて、得失、止む時無し。惑ひの上に、酔(ゑ)へり。酔(ゑひ)の中(うち)に夢を成す。走りて忙はしく、惚れて忘れたる事、人皆、かくの如し。

 いまだ、誠の道を知らずとも、縁をはなれて身を静かにし、事に与(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫(しばら)く楽しぶとも言ひつべけれ。「生活(しょうかつ)・人事(にんじ)・伎能(ぎのう)・学問等の諸縁をやめよ」とこそ、摩訶止観(まかしかん)にも侍れ。(「徒然草 第七十五段」)(島内既出)

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【三山春秋】▼焼き肉店を一人で堪能し、遊園地やボウリングも一人で満喫する。積極的に一人時間を楽しむ体験をつづった朝井麻由美さんの著書『ソロ活女子のススメ』が面白い。今春、江口のりこさんを主演にドラマ化され話題になった▼挑戦するのは家族や恋人、仲間と楽しむイメージが強い外食やレジャー。ドラマの主人公は本県など4県にまたがる渡良瀬遊水地を訪れ、気球にも乗った。気兼ねせず、好きなときに好きな場所へ行き、至福の時間を過ごす姿に共感する女性は多いだろう▼最近よく耳にするソロ活だが、はるか昔の鎌倉時代にも勧める人がいた。兼好法師である。『徒然草』に、一人でいてやることがないと嘆いている人の気持ちが知れないとして〈まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ〉と書いた▼現代語に訳せば「心乱されることがなく、一人でいるときこそよいのだ」ということ。人と交際すれば相手に合わせ、本意ではないこともしてしまう。一人の時間を持ち、ゆったりした心で過ごす大切さを説いた▼若者の間では「(ひとり)ぼっち」と揶揄(やゆ)され、無理して周囲に合わせてしまう人も多いらしい。時を超えた2人の提案は「そんなことに縛られなくていい」と背中を押してくれる▼コロナ下で密とは無縁のソロ活はニューノーマルだ。「みんなで楽しむ」が難しい今だからこそ、一人時間の楽しみ方を考えてみたい。(上毛新聞・2021/06/19)

 本日は、たったこれだけです。要らぬ解説や解釈は止めておきます。何年経っても、何百年経っても、変わらない、変われない「人間の状況(human conditions)」ということについて、何ひとつ、愚感を言うことがないのです。

  「徒然詫ぶる人は、いかなる心ならん。紛るる方無く、ただ一人あるのみこそ良けれ」という境地を、ぼくたちはどのようにして自らのものにできるか。その表面の類似に惑わされなければ、根底における「ソロ」と「ソロまがい」の非類似性を直感できるはずです。その類似を超えた、非類似性を考えてみたいのです。 どちらが本物であるなどというつまらないことを言うのではありません。兼好は「一人詫ぶることなどしなかった」といいたのではありません。むしろ、その正反体の生活意識で書かれたのが「徒然草」だったから。「コロナ下で蜜とは無縁のソロ活はニューノーマルだ」というのは、どういうことを言いたいのでしょうか。ぼくには判然としないんですね。それを含めて、「人情の不易」性とでも言っておきましょうか。あるいは「不易の人情」というのでしょうか。(本日は、久方ぶりに車で長い距離を走り、歩くのとは違って、車を運転するということが、どんなに神経をすり減らすことに貢献しているかを、改めて知らされた次第)

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 ワクチンは護符でも、切り札でもないと…

【北斗星】「差別は絶対にやめて」。県医師会の小玉弘之会長が記者会見で強く呼び掛けた。新型コロナウィルスのワクチン接種が県内でも加速する中、今後懸念されるのは接種しない人に対する差別や偏見、いじめだ▼医療従事者や高齢者から始まったワクチン接種は、さまざまな混乱を伴いながらも若い世代へと対象を広げ進みつつある。多くの人が接種できる環境が整っていく中で、接種しない選択をした人が周囲から厳しい視線にさらされるようになりはしないか▼忘れてはいけないことがある。新型コロナワクチンは「接種を受けるよう努めなければならない」という予防接種法の規定が適用されているが、これはあくまでも「努力義務」であり「強制」ではない▼日弁連が先月行った電話相談には、接種しない人からの訴えが数多く寄せられた。「接種しないなら退職と言われた」「ワクチンを『受ける』『受けない』にチェックする表が職場に張り出された」…。これではまるで、踏み絵ではないか▼

 ただでさえ感染者や医療従事者への深刻な差別を生んできたコロナ禍である。収束の決め手とされるワクチン接種で、社会の亀裂をさらに広げたくはない▼「職場や周りの人などに接種を強制したり、接種を受けていない人に差別的な扱いをしたりすることのないようお願いします」。厚生労働省のサイトはこう記す。小玉会長の発言も厚労省の呼び掛けも、接種を推奨する立場からの戒めである。重く受け止めたい。(秋田魁新報電子版・2021/06/19)

 珍しいことに、三日と置かずの「北斗星」です。滅多にないことでも、読んでいて楽しい記事(コラム)があると、散歩中に「財布を拾った」というような「ラッキー」といいたくなるのとは違い、歩いていると向こうに何か白いものが見える、近くによると季節の花が誰にも見らないにもかかわらず(と、ぼくは考えてしまう)、力の限り咲いているのに出会う。まさに邂逅、めぐり合わせに感謝したくなる、そんな気分なんです。散歩道には苗木を植え育てているところ(苗床)が何か所かあります。サクラであったりサルスベリであったり、あるいはハナミズキ(上掲写真)やヤマボウシ(左写真)であったりします。ぼくはそれをゆっくりと眺めるだけで楽しい。欲しいとは思わない。自分から花木に会いに出かける、それが何よりの「花供養」のような(抹香臭い表現ですが)、そんな境地になれるのですから、ありがたいことです。花木に巡り合う、それも「一日万歩」がもたらす余得のうちですね。

 各紙の新聞のコラムが「密かに咲く、季節の花」であり、それに出会うと思わず手を合わせたくなる、そんなありそうもないことを願うのではありません。新聞ですから、時宜にかなうのが何より、それがなければ具材のない「おでん」みたいな、寂しくもあり、味気ないこと甚だしいでしょう。書かれた内容に「賛否」は当然ある、それがなければ、何の記事かと言いたくもなります。字数千字・五百字に満たない記事でも、書きたいことより、書くべき(言わなければならない)記事を、ぼくはいつでも求めています。滅多にないのはどうしたことか。三日遅れの便りは「あんこ椿」でしたが、間隔を開けずに再登場となったのも「さすがに秋田魁(さきがけ)だね」ということになるのか。「さきがけ」という語にはいろいろな印象がくっついていて、ぼくには好ましいところのある漢字でもあります。綱領という「 文章報国、踏正勿懼 」とは、いかにも時代がかっていますね。(余談になります。あくまでも個人の感想、あるいは独断に満ちた印象から言いますと、各紙の新聞「コラム」は、どうも冬型天気図のようで「西高東低」という状況にあるようです。あくまでも、ぼくの勝手な読後感から得た報告です。その理由を考えているところです)

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○ 秋田魁新報(あきたさきがけしんぽう)=秋田県における有力日刊新聞。朝夕刊セット発行で、秋田県内では『朝日』『毎日』『読売』などの全国紙や、他の地方紙を圧倒的に凌駕(りょうが)する部数を誇っている。その前身は1874年(明治7)2月2日、秋田で創刊された『遐邇(かじ)新聞』である。その後『秋田遐邇新聞』『秋田日報』『秋田新報』と改題。1888年県会と衝突して発行停止となったが、1889年2月15日に『秋田魁新報』の題号で第1号を発行、現在に至っている。「文章報国、踏正勿懼(せいをふんでおそるることなかれ)」を社是とし、「新聞の自由独立と不偏不党堅持、公正なる県民の世論反映」などを編集綱領に掲げている。発行部数は朝夕刊セットで約25万4000部(2010)。[高須正郎・伊藤高史](日本大百科全・(ニッポニカ)

○かい・ クヮイ【魁=〘名〙① 人の長となる人。かしら。首長。首魁。〔書経‐胤征〕② 他の者の先頭を行くこと。また、その者。さきがけ。※江戸繁昌記(1832‐36)三「大日本国中、神々仏々、大と没く小と没く、霊を屈して来たり仰ぐ殆ど虚月無し。今其魁為る者を算れば、嵯峨の釈迦、成田の不動〈略〉此れ等是也」 〔漢書‐游侠伝序〕③ 北斗七星の内の箱形をつくっている四星。大熊座のα(アルファ)β(ベータ)γ(ガンマ)δ(デルタ)をいう。※和漢三才図会(1712)一「北斗。第一至レ四、名レ魁」(精選版 日本国語大辞典)

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 ワクチン接種が天下御免のお呪(まじな)いのように、ご利益あらたかな切り札とみなされています。遅れに遅れていたのが、ここに来て「一日百万回」接種達成とか、まるでコンビニの出店目標成就まがいのはしゃぎようです。その反動ですか、「接種しない」という「不届き者」に対する制裁なのか嫌がらせなのか排除なのか、あちこちから聞こえてきます。あることがらに「賛成」という右へ倣え主義は、別名「同調圧力」ともいうそうです。「なんでお前だけやらないんだ」「仲間意識が足りない、許せない」と、例外を撲滅した挙句に、「住民皆接種」達成記念などと、「提灯行列」挙行に加え、役所の屋上から垂れ幕が降りる勢いにあります。例外者は困った存在、目障りな奴だし、「我がまま」を放置しておけないと、官吏が乗り出してきそうな勢いです。現下の状況から、時には必要な「ワクチンパスポート」でしょうが、無用な人には余計なものです。みんな一緒、一人の例外もなく、一致団結聖戦に勝利と、まるで時代が先祖帰りしたような騒ぎです。

 「同調圧力は「過同調」と同列でしょうし、それが過ぎると「自粛特高」が各地で出没する成り行きに決まっています。「この家は呪われている」「早く接種しろ、いやなら、この町内から出てゆけ」という物騒な事態がもうすでに生じているのではないでしょうか。コロナ禍のいまは、ある人々にとっては「戦時中」なんですね。だからそれに加担(参加・協力)しない輩は断じて許さないというのでしょう。この状況はいつでもどこでも生まれてきました。今回のコロナ禍においても各地で見られた現象です。「専門家」は、「正しく恐れよ」などと利いた風なことを言っていましたが、ここへきて「過同調」「同調圧力」にどっぷりとはまっています。定見のない、とはこの様を言うのでしょう。

 「『職場や周りの人などに接種を強制したり、接種を受けていない人に差別的な扱いをしたりすることのないようお願いします』。厚生労働省のサイトはこう記す。小玉会長の発言も厚労省の呼び掛けも、接種を推奨する立場からの戒めである。重く受け止めたい」この警告風記事の背後には「受けていない、受けないのはよろしくないのですけど、強制することはできない。法令違反ではないのですから、そのままにしておけばいい(見逃しておきなさい)、それでもやはり気に要らないる連中ですね」という、根っ子における迷惑感というか、言うことを訊けよと言わぬばかりの、官僚などと同質の嫌悪感が出ています。

 なぜダメなのか、あるいはあえて受けなくてもまったく構わないという視点(もしあるなら)、受けなければ危険であるという視点、あるいは新型コロナに対する知見がまったく出ていないのはどうしたことでしょう。厚労省も医師会も昨年のある時期までは「PCR」は必要ない。無症状は構わない。何度以上の熱が四日つづかなければ、保健所に連絡するな、病院にクルナと、それこそ、感染した連中をこそ迷惑面して忌避・非難しようとしたきらいがあります。それが今では完全に払拭できているとは、とてもぼくには思えない。

 この先どうするのか、先行きの見通しすら立てられないでいるのに、とにかくワクチンをと「一億火の玉」みたいな勢いです。冷静ではないし、科学的でもありませんね。誰かの尻馬に乗っかっているとしか思えないし、その誰かは感染や感染者のことを配慮しているとはとても思えません。総司令官は「俺は勝負をかけた」といったとか。人民の生命や安全を人質(てら銭)にとって「博打かよ」と嘆きの深さを深刻です。ぼく自身は、今のところでは「接種はしない」つまり、「接種の必要を認めない」、なぜなら、感染の恐れのある行動をとってはいないし、可能な限りで外出はしないから。山の中までで「ウィルス」が侵入してきたら、もはやお手上げです。なす術はない、という次第です。ワクチンを接種しても感染する人もいるし、接種しなくても感染しない人もいます。その違いななんだろうと、ぼくは沈思黙考ならぬ、愚考愚行の連続です。今次の「ワクチンの有効性」を無視しているのではありません。

 「 文章報国 」は結構なこと、でも、その「国」とはどんなものなのでしょう。国家や国民という字は同じですが、中身にはいろいろな要素があるの。一枚岩ではないことを、ぼくは無視したくない。矛盾や不合理を含んでこそ、人間の集団なのだから。

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