腐草化して蛍となる、いとおかし

 【越山若水】清少納言が著した「枕草子」は平安時代の名著。季節の移ろいや風物を描く情趣豊かな文章は秀逸で「をかしの文学」といわれる。その冒頭、夏の魅力についてこう書いている▼「夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ蛍(ほたる)の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし」。新月の闇夜にホタルがたくさん飛び交う光景がいい。1匹、2匹ほのかに光りながら飛んでいくのも趣がある▼電気の明かりのない時代、夏の夜を彩る光の乱舞は幻想的で、また静かに揺れる光の明滅にも魅了される。音ひとつしない夜のしじまに降る雨の響きも情緒があり、まさに「いとをかし」の境地だろう。清少納言が称賛した景色は、ズバリこの時季の日本列島である▼さて今は、七十二候の「腐草為蛍(ふそうほたるとなる)」を迎え、ホタルが飛び交う頃合いとなった。農薬や護岸改修などで一時激減したホタルも近年は復活してきた。しかし、新たな危機が迫っていると聞く。真夜中も明るい街灯や店舗照明など人工光害である▼ホタルの発光はもちろん求愛行動だが、成虫の寿命はわずか1~2週間と短い。“光の会話”を邪魔され相手を探し出せない個体が増えているとか。事態は切実らしい。「鳴く蝉(せみ)よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」のことわざ通り、ホタルは何も語らぬが…。(福井新聞On Line・2021/06/12)

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 「枕草子」も、高校時代の古典の授業で習った記憶(正確には「習わなかった、授業で触れたことはあったかもしらぬが」という記憶)がかすかに残っています。担任教師は古典文学研究の泰斗だった人(池田亀鑑)の娘さんでした。(このことについては、どこかで触れています)授業で扱うとなると古典であれ、現代文学であれ、まことに中途半端なものだったという後味の悪さだけが残存しているという風でした。だから「枕草子」も味わうどころの話ではなかった。一学期をかけて読みつづけるというなら、別の方向が見えたでしょうに。細切れどころか、ミンチのように切り刻んで、何が「古典鑑賞」なものかと、今でも呪いたくなります。その作者の清少納言に関しても、今でも十分にわからないという。おそらくそうでしょう。千年以上も昔の人物の履歴が、かりに分かっていたとしてもかなり怪しいとみて差支えないとさえ、ぼくは思っているのです。「法隆寺の建造者は?」と聞かれて、皆目わからないというのが本当でしょうし、だからこそ(誰が作ったかわからないけれど)法隆寺はさすがだねえと、わけもなく言えるのかもしれません。

 法隆寺の五重塔の心柱に設計者や大工の銘が掘ってあったら、ぼくなどは興醒めします。現代における奇体な建造物の証明・見本のような「国立競技場」の設計者はわかっているし、それをいかにも誉のようにふるまう設計者がいるのも、いと悪し、ですね。(壊された前競技場はTK氏の設計だった)自然の景観など、誰が作ったといって、固有名を挙げられないものばかりです。「那智の滝」の設計者は✖✖だと言われたら、ぼくは逃げ出しますね。あるいは張りぼての細工物たるディズニーランドを想起します。悪趣味の最たるもの。東京ドーム、なんというグロテスク。スカイツリー、いい加減にしてくれ。というように、作者が誰だかわからないから、そこに神秘を感じたり奇跡を認めたりするのでしょう。清少納言は、実は男だったという結論にならぬとも限りません。性別を超えて、古典はいいのだと受け取れば、それはそれでいいのであって、特別に何も言うことはありません。

 コラム氏の記事の中に「「腐草為蛍(ふそうほたるとなる(七十二候の一つ)」という洒落た表現が出ています。これもまた、中国由来の、一種の俚諺知識の類でした。「腐草化して蛍となる」ということが実際にあるとは思われません。 このことに関していろいろと愚考を重ねたのですが、なかなかしっくりくるものに恵まれませんでした。腐草は「くちくさ」とも読み、ほたるの別名でもあるのです。そのほたるは「火垂る」「火照る」「星垂る」と、いかにも嘘くさい字があてられています。

 ・草の葉を落るより飛ぶ蛍哉  芭蕉  

 ・己が火を木々の蛍や花の宿  芭蕉  

 ・大蛍ゆらりゆらりと通りけり  一茶  

 詮索はもっと暇な折にすることにして、さて「枕草子」です。だいいち、この「枕」が何を指しているのかわからない。何かと駄洒落のような解説や解釈がありますが、ぼくは感心しません。漱石の「草枕」はどうなんでしょうか。これも解釈は自由です。草を枕にということか。草を材料にした枕もある。

 頭をのせる「マクラ」であることは確かで、「寝るときに頭をのせる寝具。「枕が変わると眠れない」「氷枕」「ひざ枕」 寝ている頭の方。また、頭のある方角。「東を枕に寝る」 寝ること。宿ること。「旅枕」 長い物を横たえるとき、下に置いてその支えとするもの。「枕木」 物事のたね。よりどころ。「歌枕」 話の前置き。落語などで、本題に入る前の短い話。「時局風刺を枕に振る」 地歌・箏曲(そうきょく)で、手事(てごと)の導入部分。また、義太夫節で、一段の導入部分。(デジタル大辞泉)と多様多彩な解説がついています。

 この場合は「枕草紙」「枕冊子」の類で、「」がそれにあたるのではないかと、ぼくは勝手にみている。柳多留に「きよらかな枕は親の前で見る」というのがありますよ。今も昔も「きよらかでない枕」は、親には秘密・内緒にするのがキモだったんですな。

 清少納言は謎の人物ですね。早熟の人だったか。扱われる範囲は実に多彩です。およそ三百の章段が数えられており、多くの解説では「類聚章段、日記的章段、随想章段」などに分類されています。細かいところは専門家に任せておいて、ぼくは勝手気ままに読み散らしては暇をつぶしているのです。「ただ過ぎに過ぐるもの。帆かけたる舟。人の齢。春、夏、秋、冬」(第二四五段)というあたり、いったい何歳の文章かと、感心したり、驚嘆したり、そんな読書の際に生じる、わが感情の起伏が面白いと言ってみたくなります。さて、まずは「蛍」です。蛍を愛でた少納言ですから、お米のご飯も堪能したのでしょうね。

○ 清少納言 せいしょうなごん=?-? 平安時代中期の歌人,随筆家。清原元輔(もとすけ)の娘。橘則光(たちばなの-のりみつ)と結婚したが離婚,正暦(しょうりゃく)4年(993)ごろより一条天皇の中宮の藤原定子(ていし)につかえ,約10年間女房生活をおくる。漢詩文の教養と才気と機知により宮廷に名をはせた。著作に「枕草子(まくらのそうし)」,家集に「清少納言集」。【格言など】夜をこめて烏の空音ははかるともよに逢坂(あふさか)の関は許さじ(「小倉百人一首」)(デジタル版日本人名大辞典+plus)

○ ふそう【腐草】 化(か・け)して蛍(ほたる)となる

(「礼記‐月令」の「腐草為蛍」による) 腐った草が変化して蛍になるという古代中国の俗説。腐草蛍となる。《季・夏》※菅家文草(900頃)二・路次観源相公旧宅有感「応知腐草蛍先化、且泣炎洲鼠独生」(精選版日本国語大辞典)

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 二つばかり、「唱歌」あるいは「童歌(わらべうた)」を以下に出しておきます。この歌に関しても、ぼくはよく歌ったという思いがします。もちろん、田舎での記憶です。「蛍」は小学校で覚えたものか。もう一曲はどこで歌ったものか、いつとは知れず口にしていたように思います。これはどんな歌なのか、ひょっとして「ナンパ(軟派)の歌」だったか。蛍狩とも言ったそうです。砂糖水を以てほたるを追いかけたことがあったかもしれない。「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」と、いかにも誘ってるんですよね。これは今でも都心部で、さかんに歌われている「勧誘の歌」なのかもしれない。今時のほたるは「屋内専門」なんでしょうね。コロナ禍もものともせず、「蛍」「ゲンジボタル」をさかんに誘っている声が、こんな山中にも聞こえてきそうです。

 「蛍」の作詞にあたった井上赴は文部官僚で、主として国定教科書編纂に関わる。古典文学の教科書への導入にも尽力した人でした。作曲の下総皖一は作曲家であり、音楽教育者でもあった。東京芸大の教授を務めた。(かみさんは彼のことを「シモカンは…」などと不信・不審な顔をして話したことがあります)。門下には團伊玖磨・芥川也寸志などがいます。ぼくは若いころに彼の著した「楽典」や「音楽理論」を読んだ記憶だけが残っています。この唱歌の初出から、もう一世紀が過ぎようとしているのですね。隔世の感、といえるのかもしれない「浮世の変わり方」です。ほたるも呆れてどこかへ行ってしまった。それを一所懸命に探している奇特な方々が各地におられます。「あっちの水は苦いぞ」「こっちの水は甘いぞ」「川の目高が 夢見る」というんですね、「むれて蛍の 大まり小まり」、ほたるは友達のように親しそうです。

    
1	
蛍のやどは 川ばた楊(やなぎ)
楊おぼろに 夕やみ寄せて
川の目高(めだか)が 夢見る頃は
ほ ほ ほたるが灯をともす


2	川風そよぐ 楊もそよぐ
そよぐ楊に 蛍がゆれて
山の三日月 隠れる頃は
ほ ほ ほたるが飛んで出る

3	川原のおもは 五月(さつき)の闇夜
かなたこなたに 友よび集(つど)い
むれて蛍の 大まり小まり
ほ ほ ほたるが飛んで行く

作詞  井上 赳
作曲 下総皖一	  
新訂尋常三年(昭07)	4年生(昭22)

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○ ホタル/ほたる / 蛍 / firefly=昆虫綱甲虫目ホタル科 Lampyridaeに属する昆虫の総称。広く世界に分布しており、およそ2000種が知られているが、とくにアジア、アメリカの熱帯地域に種類が多く、日本にはこのうち40種余りが産する。ホタルといえば一般には発光するものと思われているが、ほとんど光らない種が多く、日本産でよく光るのは10種ほどである。ホタルは体長4~30ミリメートル前後の小・中形の甲虫で、体は普通多少とも長めの楕円(だえん)形、両側がほぼ平行の種類が多いが、海外には卵形などの種類もある。一般に体は軟弱で、とくにオバボタルのように扁平(へんぺい)な類で著しい。色彩は日本では黒色で前胸が淡紅色の虫を思い浮かべるが、全体が黄色のもの、はね先が黒いもの、黒くて外縁が黄色のものなど、黒色ないし褐色と黄色ないし赤色の2色の組合せのことが多い。発光器がある腹部後方の節は普通淡黄色ないし淡紅色。扁平な種類は普通、頭が前胸下に隠れ、マドボタル類などでは前胸の前方に1対の透明部をもち、雌ははねが退化して上ばねは小片となり、幼虫型を呈することが多い。ツチボタルglow-worm (ver luisant)とよばれるのは、このような雌と発光する幼虫をあわせたものであろう。触覚は普通左右が基部で接近しており、糸状ないしのこぎり状が多いが、櫛(くし)状や両歯の櫛状のこともある。中脚の左右の基節は近接し、発光器は腹部後方の2節前後にある。成虫は普通ほとんど摂食せず、雌は草の根際(ねぎわ)やコケ、または湿った土上や土中などに産卵する。 (日本大百科全書・ニッポニカ)

○ 蛍狩(ほたるがり)=夏の夜の涼みがてらに、ホタルをとらえる遊び。いつごろからこの名称がつけられたかは明らかでない。ホタルの名所としては古来滋賀県石山寺が有名で、宇治川のホタルと並び称せられ、関東では埼玉県の大宮公園が知られていた。童唄(わらべうた)に、「ほー ほー 蛍来い あっちの水は苦いぞ こっちの水は甘いぞ」というのがあるが、これは全国各地に少しずつ異なった形で伝承されており、いずれもホタルに「来い」と呼びかける蛍狩の歌である。この歌の伝承の分布の広いことによっても、全国的にホタルが生息し、蛍狩が夏の夜の風物詩であったことが知られる。(日本大百科全書・ニッポニカ)

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 一千年以上も昔の文章が、曲がりなりにも、何とか読めるというのも不思議といえば不思議です。当然そこに書かれているほたるも、ミレニアムの時間を生きていると言えば、愛おしくなる。その愛おしい生き物を、ものの見事に絶滅寸前にまで追い込んだのが近代社会に求められた「毒薬」でした。いつも歩く田圃道に「雑草」が生い茂り、歩くたびに背を伸ばしています。それを田の持ち主は機械で刈り(切り)取っている。今のところ、「雑草」には除草剤は撒いてはいないようです。なぜなら、イネに除草剤が少しでもかかれば大ごとだからです。そのせいか、田圃の中にはオタマジャクシから孵化した小さな蛙がうじゃうじゃといます。草を殺し、虫を殺し、挙句にはたくさんの生物を絶滅させてきたのが人間社会でした。それをはたして「進歩」というのでしょうか。今は、すべての田んぼが電気柵で囲われています。変われば変わる、世の習い、ですね。

 稲の分げつが盛んに進んでいます。やがて、もう一月もすれば、そこから稲穂が顔をのぞかせるのです。一日一日、稲の生長が見られるというのも、不思議なことです。この時期、毎日毎日、田の水の調節をこまめに繰り返す作業が見られます。器械に頼れなかった昔は、水回り(当番)をきめて見張りをしていたのです。一番草(田の草取り)も始まっています。「我田引水」という言葉が頭をかすめます。水が農業にどれほど大事であるか、今は忘れられているとは思えませんけれど、水を制する者は国を制すると言われてもいたのです。利水・灌漑のことを思えば、稲の栽培が人間集団の性格を生みだし、決定してきたともいえるようです。その重労働に、花を添え興趣を掻き立ててきたのがてきたのが、ほたるであり、カエルたちだったとも言えます。ぼくが歩く田のほとりの水辺には、ほたるの影は見えてきません。近々、夜にでも歩こうと思う。

○ 分けつ・分げつ(分×蘖)=[名](スル)《「ぶんげつ」とも》稲・麦・トウモロコシなどで、茎の根に近い節から新しく茎が発生すること。また、その茎。株張り。(デジタル大辞泉) 

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 蛇足です。 コラム氏は《「鳴く蝉(せみ)よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」のことわざ通り 》と断っておられますが、「諺(ことわざ)」ではありません、念のために。こんなことわざがあったら、喜ぶばかりか、怒る人も出るに違いありません。実際のところは「民謡」というのがホントらしい。なんか、侘しすぎるような「民謡」ですねえ。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。