「教育方法」について
「教える―学ぶ」という関係を、権力関係と混同してはならない。実際、われわれが命令するためには、そのことが教えられていなければならない。われわれは赤ん坊に対して支配者であるよりも、その奴隷である。つまり、「教える」立場は、ふつうそう考えられているのとは逆に、けっして優位にあるのではない。むしろ、それとは逆に、「学ぶ」側の合意を必要とし、その恣意に従属せざるをえない弱い立場だというべきである。(柄谷行人『探求Ⅰ』)

教室で教師が「話す」、それをぼくたちは「教える」と理解しています。「話す」と「教える」は等価だという具合に受けとるのです。あまりめんどうなことはいわないつもりですが、はたしてそれは同じかどうか、熟考してみる必要があるようです。コミュニケーション、あるいは対話(ダイアローグ)という視点から教室の風景を眺めてみれば、なおさらこのことを強調したい気がします。教室では、いったいなにが行われているのか。多少の差異があるとも言えますが、一貫してこの島の学校教育史では「教師は教え、生徒は学ぶ」というチャラい言葉を使ってきました。実際にはどういうことが行われて来たのか。
柄谷さんのいう「権力関係」とは「権力の行使が支配と服従の関係において行われる」ととらえてみます。教師―生徒関係において、教師は立場上、生徒よりも優位な関係にあるという程度の意味です。法律の領域ではふたつの「権力関係」が存在するとされます。その一は「一般権力関係」といわれるもので、国家(権力)と国民との法律や同意をもととした支配と服従の関係をさします。その二は「特別権力関係」といわれるもので、具体的な法律の規定にもとづかないでも合理的な範囲内で、支配と服従の関係をとることができるとされます。

こまかな議論は省略しますが、公立学校における制服の着用に違反した生徒に対して学校(校長や教師)は着用命令を出すことがあります。そのような場合をさして学校と生徒は「特別権力関係」にあるのだからとされるのです。 もちろん、柄谷さんがいうのは、そのようなこむずかしい話ではなく、ものを教える人間は教えられる人間に対して優位にあるどころか、その反対であって、教えられる側の同意や恣意につき合わなければならないというのでしょう。赤ちゃんにものを「教える」場合や、未習の外国語をだれかに「教える」場合を想定してみればいい。わからないからといって、怒ったところで始まらない。(このことについては、英米で活躍した哲学と数学の教師だったホワイトヘッドが、これと同じような教育方法論を述べていたことを、どこかで紹介しました)
教えることを理解しないからと、近年では赤ちゃんや幼児を虐待する親が後を絶ちません。それはまるで、できのよくない生徒に対する教師の仕打ちのように残酷な行為だといわなければならない。教育という通念の名を借りた「暴力」であり、「犯罪」そのものです。物事を教えようとしているのか、それとも暴力を振るって支配しようとするのか。まるで、ある種の「親ー子」や「教師―生徒」は特別権力関係(支配と被支配)にあるのではといいたくなります。つまるところは、「学ぶ」側が納得しなければ教えたことにはならないという、きわめてあたりまえのことをいっているにすぎないのです。

多くの教師は生徒に対して優位な関係にあると考えているのかもしれないが、事実は反対、というよりは権力関係など成立しないところで教育は行われるとみるほうが、教育の可能性に符合しているとぼくは考えるのです。もっと言えば、自分の位置をそのようなところにおいて置き換えなければ、やはり「権力関係」といった誤ったところでしか「教育」をとらえられないのです。教えるというのは伝えることでも、命令することでもない。いままでよくわからなかった問題が相手によって納得される、了解される(わからなかったことが「わからない」と自覚できる)ということを含んでいるはずで、教師のひとり相撲ではおぼつかない行為でしょう。
馬の耳に念仏という俚諺(りげん)があります。あるいは兎に祭文(さいもん)とも、犬に論語ともいいます。いずれもその価値やありがたみがわからないのだから、言い聞かせても無駄だという意でとらえられています。学校教育であつかわわれるものがすべて子どもたちにとって念仏や祭文や論語だというつもりはありませんが、まったく似たところがないともいえないようです。これに加えて、庶民に般若心経ですか。
馬や兎や犬にとってさいわいなのは試験がないという点です。試験や成績評価という鞭があればこそ、教師は子どもたちに対して優位に立つことができるからです。教師と生徒の関係は権力関係ではないという意味は、けっして簡単ではないので、誰にでも直ちに理解できるとは言えませんが、そのことをじゅうぶんに、根本からとらえる、とらえなおす必要がありそうです。「教える―学ぶ」(その実は、「話す―聞く」)という〈教師―生徒〉関係を機軸とした教育制度においてもっとも「望まれる伝統・文化」とは、教育を受ける側に私的な(自由・勝手な)領分や余地を残さないことにあるのです。「静かにせよ」という、それは勝手にしゃべるなという格率でしょう。教師の許可を得なければ、話してはならないというのです。つまり、はなから子どもたちの人権を無視しているということです。

どのような学校にも日常的に見られる「処分・処罰」は、一面では排除(非同調者を認めない)の作用でもあり、他面、一罰百戒という観点にたてば、それは集団の文化への同化をうながす過程でもあるのです。「いい子にしてないと、処分されるよ」そのような同化(や異化)の過程は教育制度の基盤を維持するため、つまりは〈教師―生徒〉関係に求められている「教育という交換関係」を成立させるための有効な手段となります。教師が生徒に教える見返りとして、生徒は教師に服従するという構図です。これは明らかに間違いですね。時代錯誤というより、教育の根本問題の立て方が間違っているんです。
冒頭に引用した柄谷さんも言われているように、教師の立場は弱い立場であり、学ぶ側(児童・生徒)の同意や合意を得なければ、何事も成就しない仕事なのだと、改めて言いたいですね。一見して、何事もなく、教師づらできているのは、「教える」が成立しているからではなく、試験や点数で抑圧しているから、自分の優位な立場が成り立っている、それだけです。だから、殆んどの教師は錯覚しているんですよ。「おれは教えてやった。あとはお前らの責任だ」と一丁前の理屈を言って、赤ん坊を放置していると児童虐待になるんじゃないですか。それと同じような危険な行為を教師は日常的にやっているんだ。
##########
以上のようなことは、ぼくが大学を卒業して以来、ずっと考えてきたことです。何をいまさら、寝言を言ってるんじゃないよと、謗られそうです。それ(誹謗中傷の類)を防ぐ手立てはぼくにはありませんが、学校教育が重大な危機に瀕している(あるいは、すでに分岐点を超えたと言えるかもしれません)、この事態にかかわりのある人は、もっとも単純なところから、現実のありようを疑ってみたらどうか、そのためにつっかえ棒にはならぬが、何かの足しにはなるでしょ、そんなつもりで、目覚めているにもかかわらず「寝言」を言っているのです。

もちろん、誰に指摘されるまでもなく、こんなことは大した考えでもないし、他人(ひと)さまにお勧めできるような上等なものでもありません。でも、ぼく自身が小学校入学以来、学校や教師に対して不信の念を絶やさなかった一番の理由が、「教師は教え、生徒は学ぶ」という「垂直・上下関係」の内在させている嘘八百でした。「ホンマに教師は教えているんか」と、いつでも疑っていたし、それがいつの日か、確信に変わったのです。「そのものがなんであるかを知らないのに、どうして教えられて、理解できるのか」という懐疑が、ぼくの心中に居座っていたのです。このことは親子の関係についても言えそうです。親は子どもを育てるんであって、何かを教えているのではないんだという、狭い了見をぼくは手放さなかった。(そのために親父に対して、じゅうぶんに敬意を持つことが、高校を卒業するまではできなかった。ぼくの小さくない過誤でもあったと思う)
___________________