団結を強いる集団は、人間の集まりとしてどうか

 「多数派と多様性」について~バラバラであることが、集団の生き永らえる道です

 普通(ordinary)・みんな誰でも(in a body)・平均点主義(average)という考え方。このような観念(ものの見方)を主張することはまちがいじゃないけれど、それを強制するのは一種の全体主義(totalitarianism)だと思う。きゅうくつな感じがしますね。「普通」というのはどこにもないのに、一種のかたまりとして想定されています。頭の中にだけあるような考え、それは観念です。「鰯の頭も信心から」というのも観念主義です。「般若心経」もまた、壮大な観念主義です。観念主義が悪いというのではありません。ともすると、その観念(空想)の中に、閉じ込められて身動きが取れなくなることを警戒したいんです。

 「お前、普通じゃないよ」「わたしは普通の日本人です」とか。そのかたまりの一部になることが「徳」(よいこと)とみなされてきたし、また、そうするように、個々人を訓練するように期待されたのが学校教育の仕事だったと思う。いわば、かたまりのなかにみんなを閉じこめること。逆に言えば、「普通」という架空の土俵からはみ出ることを恐れるように訓練するっていうこと、ね。仲間外れを恐れ、仲間意識を強化する、それがこの近代化の歴史の中で学校教育が果たしてきた役割です。今でもその延長のような、時代遅れという以上に、人間破壊教育が行われていることに、ぼくは脅威を感じます。

  「みんないっしょ」とか「人はだれでも」というように、みんな(だれでも)のなかに自分を入れることに対して、わたしたちはあまり疑問をもたないんじゃないかな。疑問を持ってはいけないように強いられてきたとも言えます。むしろ反対に、自分がみんなから孤立するのを恐れる場合が多いでしょ、たぶん。どうしてでしょうか?「わたし」と「みんな」の見分けがつかなくなるのは、多数派をつくるという点ではいいことかも知れないけど、「わたし」が「わたし」である理由が消えちゃう。

 「人並み(十人並み)」ということをいいます。いいかえれば「普通」ということか。「人並みの生活」「十人並みの器量」「普通のおばさん」なんてね。でも、よく考えれば、「人並みの生活」や「普通のおばさん」はどこにもないし、どこにもいない。あるのは頭の中だけの、空想の類です。あるいは「平均値」を体現するような存在や実態がどこかにあるのかしら。人は互いに違う。きっと、それぞれはどこかにちがうところが認められる。しかし、そのちがい(交替不能で、かけがえのないこと)を認めることは以外にむずかしい。  

 ここで、十人十色という言葉を使いたい。他国では So many men, so many minds. 三人三色でもかまわない。違いは違いとして、自分を消さなければ、「だれでも」にならない。「日本人なら✖✖だ」と言いがちなのはわかります。でも一人の日本人が一億以上もいるんだし、それぞれが異なった存在の意味や価値を体しているともいえるのです。日本人なら、夏は浴衣だ、と言いたいのは着物屋さん、あるいはデパートでしょう。でもいろいろなものを身にまとっている、たくさんの人がいて、それが日本人。初めに言いましたね、一億一心という、あり得ない観念主義に足元を掬われないことが大事です。集団にとって大切なありかたは、全員一塊ではなく、バラバラ、まとまりを欠いていることが、集団を救うことになるんです。現下、「東京五輪」開催に関して、民意は、おそらく四分五裂しています。それには理由があります。災厄の最中に、それをさらに酷くすることには賛成できないという人が多いからでしょう。人民の考え方を無視して、権力を以ているから、何でもできると考えることは救い難い誤りです。それは歴史に対する反逆です。

   「育てる」を支えにして「教える」がなり立つのだと、ぼくは考えてきました。。「教育」という言葉をみてください。そこには、「教える」と「育てる」という、二つのはたらき、それぞれに異なるねらいがありますね。教と育と。「多数派」をつくるのはどちらのはたらきですか。「多様性」を生みだすのは「教」ですか「育」ですか? あんまり言葉にとらわれない方がいいでしょうね。「教育」には多様な可能性があり、けっして「こうあるべき」という観念で始末できるものではないんです。

 ここで、どなたにも質問します。学校は「教える」ところか「育てる」ところか。たとえば「一致団結」とか「一糸乱れず」「全員一丸となって」などと、いかにもおそろしい掛け声がかけられたりします。また、島国の近い過去には「億兆、心を一にして」などと、ありえないことを叫んでいた時代もありました。そうすることで、個人というか、「わたし」を消してしまおうとしているのでしょう。自分のなかに世間(みんなの考えや態度)を受け入れるということです。これを徹底するのが学校教育の役割でした。今はどうなんですかね。

 ただでさえ「自分」と「他人」がくっつきがちなうえに、それをさらに強めるような風潮が学校や社会にあったし、今でもあるでしょう。「右へならえ」という雰囲気です。そして、たいていの場合は「右にならう」ことがいいことか、正しいことかと考える(判断する)手間がぬけているんです。「男は黙って、×××だ」と、何の疑いもなく、男らしさを主張できる時代ではなくなっているのです。あるいは女性であっても同様だし、男だけ女だけではやり過ごせない問題が歴史の中にはっきりと存在していことを、ぼくたちは認めることを求められているのです。つい最近、最高裁で「夫婦は別姓」と求める人たちの起こした裁判で、「夫婦は同姓」は憲法違反ではないという判断が出されました。最高裁と雖も、時代の進み行きに、はるかに置いて行かれているのです。


 こんな言葉がいまでも使われていますか。「寄らば大樹の陰」「長いものには巻かれろ」「和をもって尊しとなす」「親方、日の丸」などなど。しかし、どこまでも「自分」と「他人」はちがうのだという自覚から、すべての物事をはじめたい、というのがぼくの生き方だし、デモクラシーの原理にかなっているのではないかと思う。大きなもの、強いもの、自分が寄りかかる「傘」を、ぼくたちはいつでも求めているのでしょうか。自分の足で立つ、自分の頭で考える、それが可能になるような、個々人がバラバラに存在していて、初めて集団は健全であるともいえるのです。少数意見を認めるというのは、簡単なことではなく、その意見を表明する人間の存在に敬意を払うことです。

 100対0は救い難し。99対1の1はぼく、そんな存在になりたいと願ってきたんです。かんたんに「多数派」に身をまかせないことが大事じゃないですか。あることがらについて、こんな見方がある、あんな見方もできるという経験を重ねることによって、自分のものの見方に広がりや幅が生まれる。自分と他人はちがうのだというところから、新しい自分の成長(発見)が期待される。それも自分とは異なる主体である他人がいてこそ、です。多様性というのは、たんに「バラバラ」ということではないのですね。「つるまない」「自分を無にしない」という意味です。自分を殺すことなく、他人の存在をも認めるということです。デモクラシーというのは、いわば「見果てぬ夢」のようなもので、一歩近づいたと思えば、一歩遠ざかる。なかなか手中にすることはできない集団における生活態度でもあるのでしょう。そろってほしいけど、そろいすぎると「全体主義」に陥る。実に危ういし、脆いものですね。

 そこにデモクラシーのむずかしさ(到達し得ない課題)があるのかも知れませんね。今日、「多様性」はあちこちで、多様に使われていますが、その傾向が強まると、きっと反動が来ますね。「男は黙って、…」というね。「女なら、…」とも。「日本人だろ」というように、ね。この島に住む「日本人として」、ぼくたちはどのような方向を目指すのか。日本人だけが、この島に住んでいるのではないということを、どれだけぼくたちは自覚し、意識しているでしょうか。日本人ではない、他の国籍を有する人たちが数多く居住しているのは事実です。だから、「日本人として、この道を行こう、全員で行くのだ」という掛け声は、それだけではまちがいであり、「歴史の現在」における事実を誤認しているのです。一例ですが、在日韓国・朝鮮人が(すべてであるとは言えないにしても、多くの人々は)「自らの文化や歴史」を服膺しながら、自己の解放を求めつづけているということも、ぼくたちは忘れるべきではないはずです。 

___________________

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。