「人間が賢い」というのは、奇蹟なんだね

「科学と国家」

 《他の多くの歴史からも明らかなように科学技術の知識は邪悪な目的にも十分奉仕する。化学兵器や毒ガスは国家の暴力装置としてだけでなく、テロリストたちの小道具にもなっている。これは知識の利用であって科学自体を進歩させるわけではないから関係ないという声があるかも知れない。しかし国家や大企業の資金、人員、組織といったリソース(資源)を動員して実行される大プロジェクトの場合には事情はやや複雑になる。確かに科学は、こうした目的指向の戦略プロジェクトの科学技術によって主に進歩するものではない。そうしたリソースが浪費され、かえって科学本来の進歩が邪魔される場合もある。しかしここで注意を要するのは、社会は決して科学的営みのために運営されているのではないということである。したがって、戦略プロジェクトに費やされるリソースが、戦略プロジェクトがないなら科学の目的にそのまま回されるということにはならない。このため、戦略プロジェクトの中で初めて科学上の実験や経験が行われ、さらにこの中で短時間に細かい知見や経験が蓄積し、その後の科学研究を加速するといったことは、さまざまなレベルで見られることである。科学の進歩にとって戦略プロジェクトは必要条件ではないかもしれないが、現実にはそれの影響を十分受けている。ここに現代の科学が社会情勢に支配される重要な側面がある》(佐藤文隆『科学と幸福』岩波現代文庫版、2000年)

 一例になるかと思いますが、「原発設置・増設推進」はまさしく国家プロジェクトとして鳴り物入りで始められたのでした。あるいは国家を挙げてといっていいほどに、あらゆるセクターの力を持った人々は舞い上がっていた。もちろん、当時も原子力発電にようする科学や技術の未熟(あるいは不熟)は指摘されていました。放射性廃棄物の処理についてはまったく解決の方向さえ見えていませんでした。しかし、多勢に無勢で、気がつけば、列島には原発が林立する事態を迎えていたのです。

 生殖補助医療についても、科学(医学)技術の進展があってはじめて現実の問題にされたのですが、あまりにも技術が先に進んだために、やがて人々の感情がついていけなくなったという事態に遭遇します。臓器移植にしても然りです。それがさしあたって、私たちの価値観(倫理観)に照らしてどうなのかという議論は一蹴されたといってもいいでしょう。技術的に実行可能だし、その技術の応用を待望している人がいるのだからと、強引に進められたのです。

(佐藤文隆=1938年山形県生まれ。京都大学名誉教授。宇宙物理学専攻。著書には『アインシュタインが考えたこと』『宇宙論への招待』『宇宙のはじまり』『火星の夕焼けはなぜ青い』(以上は岩波書店)他多数。

 佐藤さんはさらに述べます。

 《かつて「そんな行いや発言は科学者らしくない」という批判の仕方があった。ここでは科学者は理性に基づいて行動するから邪悪な意図や目的を持たない人々であるという暗黙の前提があったのだろう。しかし現在では科学者や科学を基礎に仕事をしている技術者をそのように概ね道徳的であると思う人は少ないであろう。悲しいかな、科学の存在が大きくなって、いろいろな社会の場面に重要な役割を果たすようになるとともにそのイメージも変わったのである。ここで、それでは反省して昔のように「科学者らしく」なろうといってもはじまらない。ここに重要なもろもろの問題が無数に含まれている。「真理」ということをめぐる混乱もある。人間にとっての価値と科学的知見の乖離もある。多分かつては真理は人間にとって価値があるというかたちで統一されていたのである。常人の職業になった科学界や研究者の社会と関わる制度の問題もある。神を置かず、人間らしく生きるという目線を下げた生き方に、科学という営みをどう融合させるかという問題もある。これらは決して賢人や原爆の知がどこかから探してくる知ではないであろう》

 上に引いた佐藤さんの文章は最近のものではありません。しかし、その大筋は今でも通用すると、ぼくには思われます。科学や技術(あるいは「科学技術」といった方が実態に近いかも知れない)がはたして専門家の独占物であるのかどうか。医療でも同じような事態が進んでいます。学校教育をとおして、いわゆる専門家を養成してきたのは事実ですが、養成のまずさか、あるいは養成された側の問題かどうか、ひょっとして両方かも知れませんが、まるで専門家面が聴いてあきれるような、飛んでもない事態があちこちで生じているからです。

 どんな道(職業)にも専門家はいる。素人がどんなに逆立ちしても及びもつかない技の持ち主であるが、くわえて、道を究めるに際して培われた人間の上質な部分、これは教育ではなかなか養えないと思われます。まして競争を強いる学校では。言うまでもないことですが、政治の「専門家」の十中八九も話にならない。

 (余談ですが ー 佐藤文隆さんの、この文章はどこかで引用したかもしれません。その微かな記憶のようなものはあります。たくさんの雑文と駄文ばかりを重ねてきたために、何処に書いたのか(引用したのか)、探すことがとてつもなく面倒なんですね。というか、また、あの駄文・雑文を読むのか、と思うと、気が萎えるんです。しかし場合によっては、、時に応じて、何度でも同じ文章を書いたり引用したりしても、それは犯罪にはならないだろうと、ぼくは勝手に判断しているのです。細かいこといえばきりがない。しかい、科学的根拠だの知見だのと言いながら、驚くべき稚拙な暴論や政治論が横行していて、この島人をどこに連れて行こうとしているのか、まったく先が見えないような視界不良状態で、人民を乗せた船はたくさんの無能船頭たちの覇権と利権の争いで、まるで陸に上がらんばかりの乱雑ぶりです。

 そうこうしているうちに、「天皇」という「御名」が登場してきました。別段、大騒ぎをするほどのこともないのでしょう。でも、これが外部(つまりは外国側)から見て、どのように映るのか、別段、ぼくが気にしたり、心配することでもなさそうです。誰がどう考えても、大パニックを起こすことにしかならない「東京五輪」を、たとえそれが「二輪」であれ「一輪」になっても「やり遂げる」のだという時代錯誤の破廉恥漢が、やがて臍(ほぞ)を噛むことに、きっとなります。天皇であれ、村の年寄であれ、誰の指摘を待つまでもなく、可笑しいことや間違っていそうだと思えば、出発点に戻ってやり直すばかりです。何を血迷っているんだか。それが出来なければ、そもそも存在すること自体が間違いなんだ。「一輪ピック」では洒落にもなんないよ)

 当節、虚偽の発言や報道がまかり通っている。嘘が嘘を呼ぶという事態の連鎖です。この「嘘地獄」を断ち切る方途はあるのでしょうか。格言になるかな、「自分を騙さないで、他人を騙すことは金輪際できない」と「虚言癖」のあるぼくが言うのです。

 「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶」(「般若心経」)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。