照見五蘊 皆空。度一切苦厄。

仏説 摩訶般若波羅蜜多心経」(ぶっせつ まかはんにゃはらみったしんぎょう」

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時。照見五蘊 皆空。度一切苦厄。(かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー。しょうけんごーうん かいくう。どいっさいくやく。)

舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。(しゃーりーしー。しきふーいーくー。くーふーいーしき。しきそくぜーくう。くうそくぜーしき。じゅーそうぎょうしき やくぶーにょーぜー。)

舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。(しゃーりーしー。ぜーしょーほうくうそう。ふーしょうふーめつ。ふーくーふーじょう。ふーぞうふーげん。)(以下略)

○ 般若心経(読み)はんにゃしんぎょう=仏教経典。原名をプラジュニャーパーラミター・フリダヤ・スートラPrajñāpāramitā-hdaya-sūtraといい、『般若波羅蜜多(はらみった)心経』の略。『心経』とも略す。フリダヤ(心)は心臓を表し、心髄・中心などを意味する。種々つくられ、しだいに増広されて膨大なものとなった般若経典群のうち、その中心思想をきわめて簡潔に述べた経で、仏教の全経典のうち、もっとも短いものに属する。そのなかに、「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色」(いろ・かたちをもって現れているものは、実体としてあるのではなく、実体としてあるのではないからこそ、いろ・かたちをもって現れる)の有名な語句があり、末尾に真言(しんごん)があって、古来日本人には親しい。原典はしばしば漢訳され、現存するものも7種あるが、寺院や民間でよく読まれ写経されるのは、玄奘(げんじょう)訳『般若波羅蜜多心経』である。/ サンスクリット本の写本は、興味深いことに、日本に伝わっていて、「小本」と「大本」があり、小本(玄奘訳に相当)は法隆寺に、大本は長谷(はせ)寺(奈良)にある。[三枝充悳](日本大百科全書・ニッポニカ)『中村元・紀野一義訳注『般若心経・金剛般若経』(岩波書店・岩波クラシックス50)』▽『三枝充悳著『般若経の真理』(1971・春秋社)』

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 何を血迷ったか、「仏説 摩訶般若波羅蜜多心経」を読んでみたくなりました。はっきりした理由はない。なんとなく、この世のすべてとは言わないが、その多くはなるようになり、ならぬことはならぬという「理(ことわり)」があって、それに従って動かされているようだとも思い、いや「為せばなる、為さねばならぬ」と、人間の努力とでもいうものをまず押し出して生きなさいという。いったい、どっちやねん、と言いたくなりますね。どちらかといえば、ぼくは「風来坊」「風前の塵」であって、がんばるとか、賢明に生きるというスタイルは取らない人間です。人生、誕生時に、何者かによって灯された蝋燭の灯りのようで、それがいつまで持つか、いつ消えるか。スリルがあるともいえるし、儚いねえという気分もあります。

 「門前の小僧、習わぬ経を読む」と言いますが、ぼくはこれまでに何度「インチキ坊主」の唸る「般若心経」を聞かされてきたことでしょう。今この年齢になっても、まだ年に一度か二度は聞かされます。縁者の法事という集まりで。法事魔多し、ですな。まるで拷問に等しいと、聞かされながら、いつだって思ってしまう。

 もう何年になるか、三十年以上が経過しましたが、親父がなくなって以来、帰郷するたびにおふくろの唱える「般若心経」が段々と上達しているのに驚いたことでした。はじめは、教本を手に、それこそ、文字を追いながらのお勤めでした。やがて、おふくろの心経は、落語の「小言幸兵衛」さんのように、唱えながら、いろいろな雑談をしていましたね。なかなかのものでした。おふくろの「宗旨」は真言宗だったから、なおさら心経には縁があったのです。しかし、ぼくには関心が湧かなかった。歴史資料としてなら何度も読んだことがあります。しかし、それを、お宗旨の典型(中核)思想ととらえることが出来ませんでした。

 ほとんどの坊さんは、これを音読する。漢字をそのまま音読みするのです。いつでも不愉快になる。途中で、「今読んだところを日本語のわかる説明というか、お経にしてほしい」と、特注したくなります。お布施の多少にかかわらず、なにか「無意味・意味不明が有難いのだ」と言われているようで、信心も何もあったものではありません。ネットで時間つぶしをしていると、それぞれが「般若心経」の有難さを語っている。そういうものかと、受け止めれば害もないし、健康に差し障ることもないのでしょう。しかし、「空」の思想というのが何であるか、「空」は空っぽであり、天(そら)であり、実態もなければ、目でも手でも確認できないという。それが何であれ、有難いものなのかと思います。空即是色だって。

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 偉大なる智慧の完成についての心髄の経

観自在菩薩が深遠なる智慧の完成を実践していたとき、もろもろの存在の五つの構成要素は、皆、固有の本性・実体を持たない「空」であると見極め、だからこそ、あらゆる苦しみと災いを克服した。

舎利子よ、形あるもの(色)は、空に異ならず、空は、形あるものと異ならないのである。形あるものは空であり、空は形あるものなのである。そして、感受作用・表象作用・形成作用・識別作用もまた、同じく空なのである。

舎利子よ、あらゆる存在は空を特質としているから、生じることも滅することもなく、汚れることも清まることもなく、増えることも減ることもない。」(曹洞宗の「現代語訳」を借用。https://sousei.gr.jp/8619/)

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 さて、ここからが本題です。ぼくもたまには「心経を口ごもる」ことがある。手前勝手な解釈は禁物と、権威ある筋と言われている方々の教えに従おうかと、なんとも殊勝な心がけが、最近になって、起こって来たのです。ところが、日曜日にかなりしんどい自動車の旅(というほどでもありませんが、横浜市内は大渋滞でした。横浜に住んでいる娘の所に「二人の子猫」を、ケージに入れて、アクアラインを利用し、苦心して連れて行ったのでした)をしたせいか、腰が可笑しくなって、少しばかり痛くなって、今もややつらい。そのためでもなさそうですけれど、思うように頭が働かないんですね。つまり頭が真っ白というか、「空」なんです。「色」はまだ見えてこない。少し、ようすをみていたのですが、治まりそうにないので、本日はここまで。これを、竜頭蛇尾というのか。空即是色。また後で)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです