世の中ついでに生きてたい

(【談話室】は、よく読むコラムです。山形好きということもありますね。「損貧」という言葉も、「上杉ゆかり」でしょうか。米沢にも何度か出かけました。余談を、さらに重ねると「天衣無縫の芸風」だったとヨイショしていますが、違う。「天衣無縫」と錯覚させるほど、芸を磨いた挙句の舞台だった のだ)

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 【談話室】▽若い時は役者になりたかった。思いを告げると、父は落語家の方がいいと口説いてきた。芝居は大道具、小道具に相手役がいる。自分一人じゃできない。その点噺家(はなしか)は「扇子一本と手拭いが一つありゃいいんだから」。▼▽古今亭志ん朝さんが、対談本「世の中ついでに生きてたい」で振り返っていた。父は不世出の名人古今亭志ん生である。誘いに乗せられ入門したはいいが壁は高かった。何しろ父は酒に酔って高座で舟をこいでも「寝かしといてやれよ」と客が許す。天衣無縫の芸風だった。▼▽尊敬の念を抱く半面、かなわぬ部分の多さを実感せざるを得ない。父亡き後も「生涯、おやじとの闘い」という感覚がつきまとった。そんな中、父とは対照的に緻密な師匠の芸を取り入れて精進を重ねる。ついには、古典落語の粋と色気を体現する天下一品の存在になった。▼▽志ん朝さんがまだ63歳でこの世を去って、今年で20年がたつ。晩年には「おやじはおやじ、自分は自分」と吹っ切れた心境を吐露するに至っていた。今も健在だったなら、父志ん生も達し得なかった境地に届いていただろうか。そんな想像にいざなわれる「父の日」である。(山形新聞・2021/06/20付)

 大学に入ってから、上野にしばしば出かけた。住んでいたのは本郷で「旧帝大」の構内を通り抜けると池之端に出た。そこにあったのが「鈴本」という寄席だった。足しげく通ったのではないが、しばしば早い時間に入ってあまり客もいないところで落語を聴いた。今から半世紀以上も前のことでした。上野界隈の賑わいもまだ振るっていたし、浅草はなかなか人出も多かった時代でした。寄席に通った理由は、いつもラジオ・テレビなどで見たり聞いたりしていた「落語」を生(ライブ)で堪能したかったからでした。ラジオやテレビだと、よほどの機会でもない限りは一席が十分か十五分。三十分ものなどはほとんどなかった。細切れ噺では、肝心の緊張感とその弛緩する間が得られなかった。これは致命傷でしたね。落語がダメになったのも「テレビのせい」だと言っていい。

 兄貴の影響をいろいろな面で受けていたと思う。ジャズもそうだったし、落語もしかり。そうこうしている間に、名のある落語家の話を聞く機会もいくらもあったが、やがて、寄席から遠のいていった。理由は単純。つまらない落語家が圧倒的に増えたからでした。「落語」の粋というものがそういうものかを語るのは手に余りますけれど、にわかでと間違うような素人臭い噺家では、それを聴くために、カネを払う気も亡くなったのでした。もちろん、聞きだしたころは文楽も志ん生もすでに故人になっていました。勢い、彼等の話は録音で聞く機会が増えた。その話が面白いのなんの、夢中になって聴き漁ったものでした。

 「落語が面白い」というのはどういうことか。単純そうでいて、なかなかの難問だと言えます。まず噺家に対する好き嫌いがある。好きとなれば、どんなものだっていいと言いたくなる。贔屓の引き倒し、です。反対も然り。でも、ぼくが感じたのは、いろいろなことから分かったんですが、多くの噺家は「手を抜く」ということをも「芸」だととらえている節があったのです。耳にタコができるほど聞いていると、開口一番、ああ今日はダメだとわかる。録音されたものは実況(ライブ)が多かったが、それはかなり時代が古かったし、まだまだ落語家が御殿を立てるような時代ではなかったから、「貧乏」を画に描いたような生活がにじみ出ていたのかもしれない。「黒門町」といえば、桂文楽。彼は尋常小学校中退。時代が時代だっただけに、いろいろな回り道をしながらも、落語に精進していった。その少年期からの生活経験の広さや深さが、ひとつの話・噺のなかにくっきりと色をなして沁み込んでいるのでしょう。これが「名人」と謳われた人たちの「落語の背骨」になったのだと思う。一言で話芸と言っても多彩なものがあります。殊に落語に関して、その魅力は何かと聞かれると、噺家の「経験」だと言いたいですね。感性や頭脳ではなく、その人が生きてきた「経験」です。その深浅、広狭、生活の奥行、そんなものが噺に反映され、まるでその噺家の生きている姿を見せられ聴かされる思いがするのです。

 どんな職業でも、その人となりが出るのは当然です。生まれながらの野球選手もあるのでしょうが、落語は、学校で教えることもなければ、師匠が徹底して仕込んでなり立つという職業でもないと思う。多くの職業は大学を卒業して、一つの企業に入り、与えられた仕事をこなしているうちに、それがキャリアになり、仕事への蘊蓄・経験を深めていく(つまりは凸凹のない一本道)というのが当たり前のようになってくると、落語が語るべき「人生譚」「滑稽話」「人情もの」などはまず「味もそっけもない」、そんな単調な噺家に堕ちるのはせいぜいです。学生時代に「落研」なるものを何度か覗いたが、五月蠅いばかりで実に軽薄に感じた。まるで「笑い話」をすれば、それでいいんだろ、そんな印象しか残っていないし、大卒でなかなかの落語家がいないのではないでしょうが、落語というよりは「落とし噺(頓智)」のようで、ぼくには合わなかったような気がします。もちろん、好みの問題でもありますから、人それぞれが、自らの好みに応じて聞くといいのでしょう。

 ぼくが聴きだしたころ、林家三平や立川談志がいた。三平には呆れることが多かった。落語の勉強がまったくできていなかった。まずは落語界の「タレント」(噺家ではなかった)の走りであり、第一人者であったが、聞けたものではなった。にもかかわらず、テレビで名が売れると、余生はそれを観たさに客がよってくる。それが高座を荒らしたと言えるでしょう。三平たちの罪は深いものがあったでしょうね。一方の談志も、やたらに向こう気は強かったが、話が浮いているようで感心できませんでした。後年、中にはいいものもあったが、概して「どうだ、うまいだろ」という啖呵だけが空回りしていた。寄席を含めて収録されたものをたくさん聞いたが、やはり、ぼくが好んで聞く噺や噺家は、数が極端に絞られてきました。名人上手というの存在はいつでも希少なんでしょう。

 その一人が「志ん朝」さんでした。ほとんどとは言いませんが、かなり聴いたと思う。その前に彼の兄の「馬生」をそれなりに聞いていたので、弟の、一種の華やかさが輝いていたのは事実でした。しかし、ゆったりと耳を傾けるというか、安心して舟に乗っている心地がする「船頭」ぶりにしては遠かったたのではないかと、勝手に判断していました。緩急がないというか、一貫して「全力投球」のスタイルが多かったと。聴く側は「のめり込まされる」のを望んでいるのではないので、ときには「耳障り」に感じたこともありました。まあ、好きな言葉で言えば、「間がない」「間が悪い」「間が持てない」ということでしたね。「間」というのは感覚的なものだし、誰かが教えることもできない、一種の天与の技(呼吸)とでもいうものでしょう。野球の投手で、「間がいい」と言える人は何人もいなかったでしょうが、意外に思われそうですが、金田正一氏などは、その「間」の感覚を天性のものとして備えていたと思います。

 長嶋茂雄がプロデビュー戦で、金田投手に「手もなくひねられた」のは球史に残りましたが、決め手になったのは「間」の有無が一番の要因だったと言いたいですね。こちらは後楽園球場(ドームではない)で、実際に王貞治選手が「手玉に取られて」赤子のように操られていたのを観戦しましたが、貫禄がちがう、と強く印象付けられました。いずれも「間」です。人間関係にも必要なのは「間」です。ソーシャルディスタンスなどと大流行ですが、「間」と思うものは教えられない。例えば大工の親方が弟子に「カンナの削り方」「鑿の使い方」「金槌の力の入れ方加減」などなど、何一つ手取り足取りで伝えることはできない話です。すべては自分で体得・体感しなければならないのです。「間」というものも、その一つ。極意と言っていいのです。これは、やはり経験を積み重ねる外に身につけることはできないのではないかと思っています。

 飯の種として、ぼくは「人前で話す」機会が割とあったから、なおさら「間」というものについて、それらしい感触を持っています。それを少しは考えようとしたと言えるでしょうか。聴く側に、己の言いたいことを押し付けてもいけない。押し付けたら、かならず相手は引く。夫婦でも同じです。引いてもダメなら押してみろ、と言って、押したら逃げるんですね。間合い、この感覚、あるいは感受性は、苦心惨憺の経験を重ねて得るほかないのでしょう。経験を重ねたところで必ず身に付くとは限らないのは、夫婦関係の「間」にも通じます。これも「鈴本」でのことでしたが、一人の落語家が、客席に届くかどうかという小さな声でしか話さない。すると客席から「聞こえないぞ」と大音声。ところが落語家はあわてず騒がず、「お隣の酒悦の客に、ただ(無料)で聞かれるといやなものですから」と。一堂が大爆笑したことでした。鈴々舎馬風という噺家だった。彼はいつもそれをネタにしていたようでした。大爆笑の直前の、一瞬の間、それを彼はくり返し学んで得たのでしょうね。

 志ん生と志ん朝(親子であり、師弟)について話すつもりでしたが、面倒になりました。志ん朝さんはドイツ語系の高校に入って、将来は外交官になると言っていたそうです。彼が亡くなった時、使い古した「ドイツ語辞書」がお棺に収められたと聞きました。熱心にドイツ語を学習したとも言われています。高卒以後、テレビ草創期のドラマに出演、達者な演技をしていた記憶があります。その後「コラム」に書かれているとおり、親父に勧められて噺家に入門。いろいろ苦心・苦労を重ねて、「脂がのり切ろう」という瞬間に病魔に襲われた。可哀そうなことをしたと、ぼくはその時も、今でさえもそう感じています。談志とは、ライバルであり無二の親友であった。次代の落語界を牽引する約束をしていた二人でしたし、「志ん生を継げよ」と、談志さんがさかんに唆(そそのか)していたことを思い出します。

 志ん朝さんにとって、志ん生は実の父であり師匠、談志さんは無二の友であり、火花を散らしたライバルであり、しかも何でも話せる師匠でした。だれをも「師匠(先生)」にできる人は、それなりに豊かで、しかし厳しい人生を過ごさなければならなんでしょうね。そんなことをぼやっと感じているのです。現今、落語に艶がなくなり、話かがタレントになっているのには、時代の波もあるでしょうが、一番の問題は、落語に描かれる時代相や人生の濃淡が、様変わりした結果だと思います。長屋もなければ、クマ公、ハチ公がいなくなった。「人間関係の間」がすっかり失われてしまったのです。

 十年一昔。それなら志ん朝、死して「二昔」です。「去る者日々に疎し」といい、「去る者貧乏」ともいいます。でも、ぼくの耳と目には華やかで艶のある音声、額に大玉の汗を輝かせる舞台上の姿、その懸命すぎる「一場の芸」で勝負している志ん朝さんの全盛の雄姿が消えないままです。

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○ 寄席(よせ)=落語,講談,音曲などを上演する演芸場。「よせせき」の略称で単に席ともいい,「ひとよせせき」「よせば」などども呼ばれた。現在,東京の寄席では落語が主で,講談,漫才,曲芸などを色物 (いろもの) といい,関西では漫才が主で,落語ほかを色物といっているが,いずれにしろ現在の寄席はこれら色物をとりまぜて成り立っている。寄席の源流としては,延宝・天和・貞享年間 (1673~88) 頃,京都四条河原,祇園真葛原,江戸中橋広小路,大坂生玉,天王寺,道頓堀などに辻噺 (つじばなし) があり,さらに元禄 13 (1700) 年名和清左衛門が浅草見付の脇につくった「太平記講釈場」,享保年間 (16~36) 辻講釈師深井志道軒が浅草観音堂脇に設けたよしず張りの小屋などがある。天明年間 (81~89) に入って,料亭などで落語の会が催されるようになり,寛政 10 (98) 年には,大坂下りの岡本万作によって,神田豊島町に「頓作軽口噺 (ばなし) 」の看板を掲げて寄席が開かれた。大坂でも,同年座摩 (いかすり) 神社境内に,1世桂文治が寄席を開いている。文政年間 (1818~30) 末期には江戸で 130軒をこえるほどになったが,天保の改革 (41) で 15軒に減らされた。弘化1 (44) 年にはその禁もゆるみ,以後数百軒を数えるにいたった。現在では,映画,テレビなどの登場に伴う娯楽の多様化によって,数軒を残すのみである。(ブリタニカ国際大百科事典)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)