徒然詫ぶる人は、いかなる心ならん。紛るる方無く、ただ一人あるのみこそ良けれ。
世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれて惑ひや易く、人に交はれば、言葉外(よそ)の聞き従ひて、然ながら心にあらず。人に戯(たわぶ)れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事無し。分別(ふんべつ)妄りに起こりて、得失、止む時無し。惑ひの上に、酔(ゑ)へり。酔(ゑひ)の中(うち)に夢を成す。走りて忙はしく、惚れて忘れたる事、人皆、かくの如し。
いまだ、誠の道を知らずとも、縁をはなれて身を静かにし、事に与(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫(しばら)く楽しぶとも言ひつべけれ。「生活(しょうかつ)・人事(にんじ)・伎能(ぎのう)・学問等の諸縁をやめよ」とこそ、摩訶止観(まかしかん)にも侍れ。(「徒然草 第七十五段」)(島内既出)
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【三山春秋】▼焼き肉店を一人で堪能し、遊園地やボウリングも一人で満喫する。積極的に一人時間を楽しむ体験をつづった朝井麻由美さんの著書『ソロ活女子のススメ』が面白い。今春、江口のりこさんを主演にドラマ化され話題になった▼挑戦するのは家族や恋人、仲間と楽しむイメージが強い外食やレジャー。ドラマの主人公は本県など4県にまたがる渡良瀬遊水地を訪れ、気球にも乗った。気兼ねせず、好きなときに好きな場所へ行き、至福の時間を過ごす姿に共感する女性は多いだろう▼最近よく耳にするソロ活だが、はるか昔の鎌倉時代にも勧める人がいた。兼好法師である。『徒然草』に、一人でいてやることがないと嘆いている人の気持ちが知れないとして〈まぎるる方なく、ただひとりあるのみこそよけれ〉と書いた▼現代語に訳せば「心乱されることがなく、一人でいるときこそよいのだ」ということ。人と交際すれば相手に合わせ、本意ではないこともしてしまう。一人の時間を持ち、ゆったりした心で過ごす大切さを説いた▼若者の間では「(ひとり)ぼっち」と揶揄(やゆ)され、無理して周囲に合わせてしまう人も多いらしい。時を超えた2人の提案は「そんなことに縛られなくていい」と背中を押してくれる▼コロナ下で密とは無縁のソロ活はニューノーマルだ。「みんなで楽しむ」が難しい今だからこそ、一人時間の楽しみ方を考えてみたい。(上毛新聞・2021/06/19)
本日は、たったこれだけです。要らぬ解説や解釈は止めておきます。何年経っても、何百年経っても、変わらない、変われない「人間の状況(human conditions)」ということについて、何ひとつ、愚感を言うことがないのです。
「徒然詫ぶる人は、いかなる心ならん。紛るる方無く、ただ一人あるのみこそ良けれ」という境地を、ぼくたちはどのようにして自らのものにできるか。その表面の類似に惑わされなければ、根底における「ソロ」と「ソロまがい」の非類似性を直感できるはずです。その類似を超えた、非類似性を考えてみたいのです。 どちらが本物であるなどというつまらないことを言うのではありません。兼好は「一人詫ぶることなどしなかった」といいたのではありません。むしろ、その正反体の生活意識で書かれたのが「徒然草」だったから。「コロナ下で蜜とは無縁のソロ活はニューノーマルだ」というのは、どういうことを言いたいのでしょうか。ぼくには判然としないんですね。それを含めて、「人情の不易」性とでも言っておきましょうか。あるいは「不易の人情」というのでしょうか。(本日は、久方ぶりに車で長い距離を走り、歩くのとは違って、車を運転するということが、どんなに神経をすり減らすことに貢献しているかを、改めて知らされた次第)
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