ワクチンは護符でも、切り札でもないと…

【北斗星】「差別は絶対にやめて」。県医師会の小玉弘之会長が記者会見で強く呼び掛けた。新型コロナウィルスのワクチン接種が県内でも加速する中、今後懸念されるのは接種しない人に対する差別や偏見、いじめだ▼医療従事者や高齢者から始まったワクチン接種は、さまざまな混乱を伴いながらも若い世代へと対象を広げ進みつつある。多くの人が接種できる環境が整っていく中で、接種しない選択をした人が周囲から厳しい視線にさらされるようになりはしないか▼忘れてはいけないことがある。新型コロナワクチンは「接種を受けるよう努めなければならない」という予防接種法の規定が適用されているが、これはあくまでも「努力義務」であり「強制」ではない▼日弁連が先月行った電話相談には、接種しない人からの訴えが数多く寄せられた。「接種しないなら退職と言われた」「ワクチンを『受ける』『受けない』にチェックする表が職場に張り出された」…。これではまるで、踏み絵ではないか▼

 ただでさえ感染者や医療従事者への深刻な差別を生んできたコロナ禍である。収束の決め手とされるワクチン接種で、社会の亀裂をさらに広げたくはない▼「職場や周りの人などに接種を強制したり、接種を受けていない人に差別的な扱いをしたりすることのないようお願いします」。厚生労働省のサイトはこう記す。小玉会長の発言も厚労省の呼び掛けも、接種を推奨する立場からの戒めである。重く受け止めたい。(秋田魁新報電子版・2021/06/19)

 珍しいことに、三日と置かずの「北斗星」です。滅多にないことでも、読んでいて楽しい記事(コラム)があると、散歩中に「財布を拾った」というような「ラッキー」といいたくなるのとは違い、歩いていると向こうに何か白いものが見える、近くによると季節の花が誰にも見らないにもかかわらず(と、ぼくは考えてしまう)、力の限り咲いているのに出会う。まさに邂逅、めぐり合わせに感謝したくなる、そんな気分なんです。散歩道には苗木を植え育てているところ(苗床)が何か所かあります。サクラであったりサルスベリであったり、あるいはハナミズキ(上掲写真)やヤマボウシ(左写真)であったりします。ぼくはそれをゆっくりと眺めるだけで楽しい。欲しいとは思わない。自分から花木に会いに出かける、それが何よりの「花供養」のような(抹香臭い表現ですが)、そんな境地になれるのですから、ありがたいことです。花木に巡り合う、それも「一日万歩」がもたらす余得のうちですね。

 各紙の新聞のコラムが「密かに咲く、季節の花」であり、それに出会うと思わず手を合わせたくなる、そんなありそうもないことを願うのではありません。新聞ですから、時宜にかなうのが何より、それがなければ具材のない「おでん」みたいな、寂しくもあり、味気ないこと甚だしいでしょう。書かれた内容に「賛否」は当然ある、それがなければ、何の記事かと言いたくもなります。字数千字・五百字に満たない記事でも、書きたいことより、書くべき(言わなければならない)記事を、ぼくはいつでも求めています。滅多にないのはどうしたことか。三日遅れの便りは「あんこ椿」でしたが、間隔を開けずに再登場となったのも「さすがに秋田魁(さきがけ)だね」ということになるのか。「さきがけ」という語にはいろいろな印象がくっついていて、ぼくには好ましいところのある漢字でもあります。綱領という「 文章報国、踏正勿懼 」とは、いかにも時代がかっていますね。(余談になります。あくまでも個人の感想、あるいは独断に満ちた印象から言いますと、各紙の新聞「コラム」は、どうも冬型天気図のようで「西高東低」という状況にあるようです。あくまでも、ぼくの勝手な読後感から得た報告です。その理由を考えているところです)

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○ 秋田魁新報(あきたさきがけしんぽう)=秋田県における有力日刊新聞。朝夕刊セット発行で、秋田県内では『朝日』『毎日』『読売』などの全国紙や、他の地方紙を圧倒的に凌駕(りょうが)する部数を誇っている。その前身は1874年(明治7)2月2日、秋田で創刊された『遐邇(かじ)新聞』である。その後『秋田遐邇新聞』『秋田日報』『秋田新報』と改題。1888年県会と衝突して発行停止となったが、1889年2月15日に『秋田魁新報』の題号で第1号を発行、現在に至っている。「文章報国、踏正勿懼(せいをふんでおそるることなかれ)」を社是とし、「新聞の自由独立と不偏不党堅持、公正なる県民の世論反映」などを編集綱領に掲げている。発行部数は朝夕刊セットで約25万4000部(2010)。[高須正郎・伊藤高史](日本大百科全・(ニッポニカ)

○かい・ クヮイ【魁=〘名〙① 人の長となる人。かしら。首長。首魁。〔書経‐胤征〕② 他の者の先頭を行くこと。また、その者。さきがけ。※江戸繁昌記(1832‐36)三「大日本国中、神々仏々、大と没く小と没く、霊を屈して来たり仰ぐ殆ど虚月無し。今其魁為る者を算れば、嵯峨の釈迦、成田の不動〈略〉此れ等是也」 〔漢書‐游侠伝序〕③ 北斗七星の内の箱形をつくっている四星。大熊座のα(アルファ)β(ベータ)γ(ガンマ)δ(デルタ)をいう。※和漢三才図会(1712)一「北斗。第一至レ四、名レ魁」(精選版 日本国語大辞典)

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 ワクチン接種が天下御免のお呪(まじな)いのように、ご利益あらたかな切り札とみなされています。遅れに遅れていたのが、ここに来て「一日百万回」接種達成とか、まるでコンビニの出店目標成就まがいのはしゃぎようです。その反動ですか、「接種しない」という「不届き者」に対する制裁なのか嫌がらせなのか排除なのか、あちこちから聞こえてきます。あることがらに「賛成」という右へ倣え主義は、別名「同調圧力」ともいうそうです。「なんでお前だけやらないんだ」「仲間意識が足りない、許せない」と、例外を撲滅した挙句に、「住民皆接種」達成記念などと、「提灯行列」挙行に加え、役所の屋上から垂れ幕が降りる勢いにあります。例外者は困った存在、目障りな奴だし、「我がまま」を放置しておけないと、官吏が乗り出してきそうな勢いです。現下の状況から、時には必要な「ワクチンパスポート」でしょうが、無用な人には余計なものです。みんな一緒、一人の例外もなく、一致団結聖戦に勝利と、まるで時代が先祖帰りしたような騒ぎです。

 「同調圧力は「過同調」と同列でしょうし、それが過ぎると「自粛特高」が各地で出没する成り行きに決まっています。「この家は呪われている」「早く接種しろ、いやなら、この町内から出てゆけ」という物騒な事態がもうすでに生じているのではないでしょうか。コロナ禍のいまは、ある人々にとっては「戦時中」なんですね。だからそれに加担(参加・協力)しない輩は断じて許さないというのでしょう。この状況はいつでもどこでも生まれてきました。今回のコロナ禍においても各地で見られた現象です。「専門家」は、「正しく恐れよ」などと利いた風なことを言っていましたが、ここへきて「過同調」「同調圧力」にどっぷりとはまっています。定見のない、とはこの様を言うのでしょう。

 「『職場や周りの人などに接種を強制したり、接種を受けていない人に差別的な扱いをしたりすることのないようお願いします』。厚生労働省のサイトはこう記す。小玉会長の発言も厚労省の呼び掛けも、接種を推奨する立場からの戒めである。重く受け止めたい」この警告風記事の背後には「受けていない、受けないのはよろしくないのですけど、強制することはできない。法令違反ではないのですから、そのままにしておけばいい(見逃しておきなさい)、それでもやはり気に要らないる連中ですね」という、根っ子における迷惑感というか、言うことを訊けよと言わぬばかりの、官僚などと同質の嫌悪感が出ています。

 なぜダメなのか、あるいはあえて受けなくてもまったく構わないという視点(もしあるなら)、受けなければ危険であるという視点、あるいは新型コロナに対する知見がまったく出ていないのはどうしたことでしょう。厚労省も医師会も昨年のある時期までは「PCR」は必要ない。無症状は構わない。何度以上の熱が四日つづかなければ、保健所に連絡するな、病院にクルナと、それこそ、感染した連中をこそ迷惑面して忌避・非難しようとしたきらいがあります。それが今では完全に払拭できているとは、とてもぼくには思えない。

 この先どうするのか、先行きの見通しすら立てられないでいるのに、とにかくワクチンをと「一億火の玉」みたいな勢いです。冷静ではないし、科学的でもありませんね。誰かの尻馬に乗っかっているとしか思えないし、その誰かは感染や感染者のことを配慮しているとはとても思えません。総司令官は「俺は勝負をかけた」といったとか。人民の生命や安全を人質(てら銭)にとって「博打かよ」と嘆きの深さを深刻です。ぼく自身は、今のところでは「接種はしない」つまり、「接種の必要を認めない」、なぜなら、感染の恐れのある行動をとってはいないし、可能な限りで外出はしないから。山の中までで「ウィルス」が侵入してきたら、もはやお手上げです。なす術はない、という次第です。ワクチンを接種しても感染する人もいるし、接種しなくても感染しない人もいます。その違いななんだろうと、ぼくは沈思黙考ならぬ、愚考愚行の連続です。今次の「ワクチンの有効性」を無視しているのではありません。

 「 文章報国 」は結構なこと、でも、その「国」とはどんなものなのでしょう。国家や国民という字は同じですが、中身にはいろいろな要素があるの。一枚岩ではないことを、ぼくは無視したくない。矛盾や不合理を含んでこそ、人間の集団なのだから。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。