総理はこげんありますもんねえ

 こげんありますと

【水や空】この人、いつもこんな調子なんだよね、でも、そんなものだと最初から思っていれば…という諦め半分の心境を端的に表現するフレーズが長崎弁にある。「こん子はこげんありますと」。ため息交じりに言うのが正しい用法と思われ、○○と思えば腹も立ちません、などの定型句が続くことも多い▲仮にも総理大臣をつかまえて「この子」呼ばわりもなさそうだが、昨日もまた、菅義偉首相の記者会見でよく似た気分にさせられた▲会見では「緊急事態宣言」の解除や通常国会閉会の所感などがさまざまに語られた。東京五輪は「世界が大きな困難に直面する今、世界が団結し、努力と英知で難局を乗り越えていくことを発信」するのだ、と意欲を強調した▲首相の言を借りるならば「大声の応援は禁止、会場に直行・直帰も大事」の窮屈五輪、果たしてそんな機会になれるかどうか。「世界で40億人が観戦」が別のカンセンに変換ミスして聞こえるのはさすがに意地が悪いか▲強い決意を口にしているはずなのに、焼き直しばかりに聞こえる。どこの誰に話しているのか、まるで避けているように視線はカメラを向かず、言葉は強さが足りない▲自覚している。何度も同じ話を書いている。それでも、総理はこげんありますもんねえ-と諦めるわけにはいかない。(智)(長崎新聞・2021/06/18)

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 数え切れないほど多様で多彩な日本語ですから、「こげんありますと」と同類・同種の表現は数多(あまた)あって枚挙に遑(いとま)なしということもできるでしょう。不幸にして不勉強で、ぼくはいくらも知らないが、その心持はわかる気がするどころではない。「この子はこうなんです、いつも」「こいつは見ての通りの奴なんだ」「いつもこんな調子ですから、手てがつけられません」と、いくつかそれらしい表現を挙げてみました。これを、各地の地域語である「生活言語」で言うと、どうなるか。見ものですね。「やっぱ、こいつはこういう男だろ」とあきらめを以て認められるには、それ相当の面の皮の厚さと我慢強さが必要です。前ソーリも現ソーリも、その点では「一流」であり「天才」だと言いたいね。嘘八百居士であり、裏舞台の狂言回しが出しゃばった、時流に乗ったという図です。こんな手合いが立て続けに「位人臣を窮める」とは、いかにもこの島社会は薄っぺらですね。「嘘つき」と「強請(ゆす)り屋」がこの島全体の身ぐるみをかすめ取ってしまったのですから。もちろん、「信じられそうだから」「人がいいみたい」「他にいい人がいない」という理由にもならない理由で選んでしまう不和雷同議員諸侯や一部人民の貢献(責任)たるや、第一級犯罪に引けを取らない、悪ふざけです。

 政治とは「毒を喰らわば皿」までという一貫性、あるいは初志貫徹のこころざしを持っていそうで、しかし風向きを読む、時流を読む、時勢に掉さすという軽薄さ(腰の軽さ)を備えた人物が織りなす、税金かすめ取り行為ではないかと、ぼくは愚考しています。「筋金入りと日和見」のアマルガムですね。要するに、「矛盾の塊」ですが、それを矛盾と自覚できない才能が求められるのでしょう。もちろん、憲法を待つまでもなく、個人の尊厳や基本的な人権が何よりも尊重されるための、そんな方策を探求し実現しようという貴重な社会的奉仕でもあると言えるのですが、いまどき、そんな寝ぼけたような御託を信じる政治家がいるもんですかと、腸ねん転どころか、腸がちぎれてしまったような、不甲斐なさ・脱力感を、自分自身に感じているのです。

 要するに、コラム氏が使いたかった事例は、度外れた「厚顔無恥」「厚かましさ」「手に負えない図々しさ」などを言い当てる言葉でしか表現できないような「人物」に寸鉄の言を打ち込みたかったのだろうと思います。「寸鉄人を刺す」と。それに、この「厚顔無恥」に「無能」がくっついているのですから、手に負えないどころか、始末に悪いという外ありません。「鬼に金棒」ならぬ、「嘘つきを担ぐ魑魅魍魎」「言語を持たない権力亡者」と、歯に衣着せられない人物評は止まるところを知りません。「蛙の面に小便」というのは、どういうことか。もとは「蛙の面に水」と言っていました。当の蛙が「水なら大好き」と、悪態のつき甲斐がなくなって、やがて「蛙の面に小便」となったが、それも今や効力なしで、もっとつよく「蛙の面に…」、ぼくには語彙力がないから、その先は出てきません。

○ 蛙の面に水=非難されたり罵倒されても平気で、反応がないことのたとえ。[使用例] あまりにも、こたえなさすぎやないか。蛙のツラにションベンもええとこです。女はケロリ族なのだ[田辺聖子*女の長風呂|1973][解説] 明治期までは「水」だが、その後さらに卑俗な「小便」の形が多用されることになりました。(ことわざを知る辞典)

「泣く子と地頭には勝てぬ」という言い伝え(俚諺)もあります。ここでは「地頭(じとう)」の性悪さを言いたいのでしょう。「こん子」は地頭か、「地頭」がこん子か。まさに「泣く子」にも「地頭」にも「法はない」という傍若無人の振舞いを指します。「こん子はこげんありますと」といって、許している風もあり、否応なしに言い分を受け入れさせられているようにも聞こえます。でも、根底には「本当はこの子はいい子なんですが」という感情もあるように聞こえます。乱暴を働いても、この子はね、実はこうなんですよ(ホントはいい子なんだ)と、腹が立っているようには見えないんですね。

○ 地頭じ‐とう〔ヂ‐〕【地頭】1 平安末期、所領を中央の権門勢家に寄進し、在地にあって荘園管理に当たった荘官。2 鎌倉幕府の職名。文治元年(1185)源頼朝が勅許を得て制度化。全国の荘園・公領に置かれ、土地の管理、租税の徴収、検断などの権限を持ったが、しだいに職域を越えた存在となり、室町時代には在地領主化が進行した。承久の乱以前のものを本補地頭、以後のものを新補地頭という。3 江戸時代、知行取りの旗本。また、各藩で知行地を与えられ、租税徴収の権を持っていた家臣。(デジタル大辞泉)

○ 泣く子と地頭には勝てぬ=道理の通じない子供や権力者とは、争ってもどうにもならない。[使用例] 泣く子と地頭にゃ勝てないというが、将棋界は、スポンサーである新聞社には勝てません。組織の一員にすぎない私が、どんなにわめき立ててみても、しょせんはゴマメの歯ぎしりです[升田幸三*名人に香車を引いた男|1980][解説] 「泣く子」と「地頭」が並列され、いずれも手に負えないものですが、主眼は後者にあります。江戸時代の「地頭」は、幕府や各藩が家臣に与えた知行(領地)の領主のことで、地域の徴税や司法に強い権限を持ち、「地頭に法なし」ともいわれました。(ことわざを知る辞典)

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 ところが、「令和の地頭」はどうか。性悪だし、強請(ゆすり)集(たか)りはお手のもの、呆れてものが言えないというところまで人民を引き連れてきた深慮遠謀の主だったか、ここに至るまでは断じて妥協しなかったという点で、天性の悪徳政治家だともいえるでしょう。「 強い決意を口にしているはずなのに、焼き直しばかりに聞こえる。どこの誰に話しているのか、まるで避けているように視線はカメラを向かず、言葉は強さが足りない 」と、これまでもしばしば、いやになるほど指摘されてきました。しかし「こん子」は微動だにしない。「言葉に強さが足りない」と言っておられるが、じつは「言葉がない」のです。あるいは「こん子には言葉はいらない」というべきだ。言葉を信じてもいなければ、そのことを恥じてもいないのは、先刻承知です。「問答無用」というのは言葉ではない。彼には彼流の「脅しの流儀」がある、それは表舞台ではやれないし、だから他人の書いた文章を読むふりをしているだけのことです。

 「こん子」は政治自体には興味がないんだ、政治みたいなもの、「見せかけの政治」には関心は持っているんだが。つまり、あるのは権力奪取と、死んでもラッパを離さない軍人の覚悟だけです。彼は現在の「軍人」だと思う。彼を政治家だとみるから、何かと注文もし、批判もしたくなるのでしょう。「こん子」は、人民を微塵たりとも「信じて」いないし、まして「愛して」もいないし。あるのは、ひたすら「権力への意志」を奮い立たせる自己拡張癖だけなんです。「権力」という刃の威力で他人を脅迫したい、命令を飲ませたい、それだけの「下品下生」に過ぎない、いやそのものなんだと思う。己の力を誇示したい、その情念だけが「こん子」の支えになっているのでしょう。

 そのためなら自尊心でも何でも犠牲にしても構わないという魂胆で生きている。でなければ「嘘八百」を垂れ流していた、あのあきれ果てた「無能ソーリ」の下足番を何年もするはずがない。この程度の、底なしの莫迦でもなれるし、勤まるという「ソーリ」、「この馬鹿め、フン、俺ならもっとうまくやってやる」そういう鬱屈した感情と計算だけで、この回転椅子を獲得したのです。それを、転んでもただでは起きないというのかどうか。第一、「こん子」は転んでなんかいない。無傷を貫いてきたのだ。だから、憐憫の情などはこれっぽちも持たないのです。人民がどれだけ犠牲になろうが、知ったことではない。「安心安全」という呪文を唱えて、ついには、国会も国家も爆破するつもりかもしれない。

 「こん子はこげんありますと」と言っていて、寸鉄になったつもりでは、それでいいわけがありません。敵は、そこまで言われることは百も承知で、滅茶苦茶をしようとしているんですから、「目には目を」といきたいですね。「こん子」に世界やこの島社会をリードされてはたまらない。辺見庸さんだったか「特高顔」と断じたという記事が出ていました、「こん子」がソーリに就任された直後に。それはある種の「フレームアップ」だったのか、それとも…。一日でも、一時間でも早い「辞任」を、ぼくは求めたいね。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。