お江戸日本橋七つ立ち 初上り

<あのころ>日本橋で麦刈り 戦後の食料難

 1946(昭和21)年6月5日、戦災で焼け残ったビルが立ち並ぶ東京・日本橋の昭和通り。食糧不足に陥った戦時中から、広い道路の中央分離帯一帯は麦畑や菜園に変わっていた。麦の刈り入れが始まり、7畝(約700平方メートル)の畑から一家が収穫したのはたっぷりの3俵。(2021/06/05 08:00共同通信)

 七十五年前の日本橋の麦畑。何時だって、何処だって農業地に早変わりします。麦の収穫を一家総出で、しかも東京のど真ん中の日本橋で。変われば変わるというのか、それとも、一皮むけば、また農耕時代の逆戻りということもありうるのか。

 ぼくはいま「一日万歩」から帰ったところです。約二時間、日光に当たりながら、日陰に隠れながら、歩いているのですが、いつも気になるスポットが何か所かあります。付近には小さな神社が両手に余るほどあります。そのどれにも形ばかりの鳥居があり、本殿まがいがあるだけの、まるで「祠」みたいなものです。おそらく「産土(うぶすな)」神社ー土地の神ーだったものが、明治以降に変名(格上げ)されたのでしょう。天照神社だの大国主神社だの。なかなか由緒のある名を使っていますが、霊験はいかがですかな。  

 また歩行中に墓石に出会うこともしばしば。「文化四年」「文化九年」の元号が彫られた二基の墓石が農道わきにあることは知っていました。本日はそれを手で触りながら、いろいろと想像を巡らせていたのです。十九世紀初め(千八百七年と十二年)、おそらく夫婦かと思われる男女のもので、宗旨は日蓮宗のようでした。今歩いてきた道は、二百年前も、あるいはそれ以前から、人々が踏み均してきた道だと考えると、懐かしいような、先祖の誰かに出会ったような気がしてきました。その墓石の真ん前のお宅から一人の女性が出てこられて、暫時言葉を交わしました。立っている道路は市原市金剛地、拙宅は長柄町山之郷。目と鼻の先です。数百年前から、このあたりは田畑が開かれ、多くの住人がいたことを思えば、江戸なんて、東京なんて、まだ「赤子」じゃないかと、人類史の長さに気が大きくなり、変な強がりが出てきそうになります。

 歌川広重の「新撰江戸名所「日本橋」」図を出しておきます。最初の日本橋架橋は家康によるもので、千六百三年とか。だから、まだ四百年です。現在の橋が二十何代目か。藤沢周平さんの作に「橋物語」がありました。おそらく、この日本橋にも「(有名無名)無数の橋物語」があったことでしょう。古来、橋は無主、つまりは所有者がいない場所とされてきました。あえて言えば、それは「天皇」につながります。無主は公界だった。だから、そこにはさまざまないわれや逸話が残されてきたのです。無駄話は止めておく。 

 「俗曲」だったか「端唄」だったかに、「お江戸日本橋」がありました。歌詞は凄いことになっています。こんなのは学校では教えないでしょうが、どういうわけだか、ぼくはほとんど諳んじています。何十番まであります。「汽笛一声 新橋を」と類を同じくしますが、こちらは遥かに色艶が濃いのか、怖いのか。何と京都まで続きます。この時は「下り」ではなく「上り」だったんですね。

『お江戸日本橋』
1
お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す
こちやえ こちやえ

2
恋の品川女郎衆に 袖ひかれ
のりかけお馬の鈴が森
こちや 大森細工の松茸を

3
六郷あたりで川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ

4
痴話で口説は信濃坂 戸塚まあえ
藤沢寺の門前で
こちや とどめし車そ綱でひく

5
馬入りわたりて平塚の 女郎衆は
大磯小磯の客をひく
こちや 小田原評議で熱くなる(以下略)

 主だった「国道」の起点は日本橋でした。江戸幕府開府後の千六百三年に「日本橋」が掛けられ、翌年には劣島各地を結ぶ「五街道」の起点として「日本橋」が定められたからでした。その五街道は今に続いている「東海道・甲州街道・奥州街道・日光街道・中山道」です。JR東京駅が起点になり、すべての列車は「下り」とされたのも、「日本橋」の先例にならったものでしょう。あらゆる東京行き列車は「上り」というのも、京都・大坂政権期に対する徳川江戸贔屓派の反発であったかもしれません。江戸っ子が田舎者を「お上りさん」と蔑みの気分を含めて言ったのも、ものが上方から流れていくのを「下る」と上方衆が称したのも、今ではお笑いのようでもあります。「下らない」というのは「つまらない」という意味でしょうけれど、じつは、京都からの「下り物」にたいして、江戸からの品物は「値打ちがないもの」として白眼視されてきた名残です。今でもなお、京都VS東京の一戦は続いているとは思いませんが、「下らない」歴史を重ねてきたのは確かです。京都ではいまだに「天皇の帰京」を、団体を作って待っている人々がいます。

 日差しが強い田圃道を歩いていると、田植えから幾日もたたない「早苗」が、なかなかの成長を遂げているのが目に鮮やかでした。日光の加減で若干の遅速がありますが、今のところは先ず順調と、他人事ながら一安心です。マックやケンタッキー、あるいは「吉野屋」「松屋」の看板を見て安心などはしませんが、この稲田を眺めていると、やはり弥生の時代にぼくはとんぼ返りした気になります。日本橋の麦刈りも、じつは高層ビルの地下何十メートルのところでは、人目には尽きませんが、今もなお、延々と続いているのではないでしょうか。

 最近は、大深度地下とかなんとか「テキトーなこと」をいって、目障りなものをすべて地下に埋めてしまえというような、乱暴極まりない計画が露見しています。田圃の真ん中にいきなり大穴があいたとか、都会の住宅地が陥没するという事態が方々で見られます。「近代」という見掛け倒しの科学技術がもたらす、避けられない災いです。この災いを転じて、はたしてどんな「福」をもたらすことができるのか。土から離れた人間(生き物)は、やがて衰える運命にあります。文明が開かれる一方の盛時には「都市化」は加速され、都会へ都会へ「草民は靡く」のでしょうが、やがて、都市化の足取りは止み、混乱と混沌を極めるようになり、やがて「人智」も「健康」も「環境」も修復不能な事態にまで破壊されてしまいます。「四大文明」などと謳歌されてきたものは、ことごとく「都市化」の波をまともにかぶって、ついに波間に消えていったのです。「お江戸日本橋」に麦や米が作られているうちはまともでしたが、虚業やその余得の浮華が栄えると、やがて大きな津波が襲ってこないかと、余計なことながら、気が急かれます。

 また、日本橋が田んぼや畑になることがあると、ぼくは確信しています。それがいつ、どのようにして起こるのか、わかるようにも思われるのです。今日も歩いてる田圃道にはいろいろな草花が咲いています。この世界がどうなろうと、人間が無茶をしない限り、種は育ち実がなり、花は咲く。人間が手を出さなくてもいい。鳥や蝶や風までもが、結実開化に大切な役割を果たすのです。この時期、日ごとに「タチアオイ」の背が高くなっている。てっぺんまで咲き切ったら夏(夏至)になると、いつごろからか、誰となく待望していたのでしょうか。わが寂しい庭には、悄然と一本だけ咲いています。色とりどりの花々で溢れかえるような「タチアオイ」の林にしようか。

○ たち‐あおい ‥あふひ【立葵】〘名〙① アオイ科の越年草。地中海地方原産で、観賞用に庭園に栽培される。高さ約二メートル。全体に毛を密生。葉は長柄をもち心臓状円形で浅く五~七裂し、縁に鋸歯(きょし)がある。初夏、葉腋に一個ずつ径一〇センチメートルぐらいのラッパ形の五弁花が咲く。花は赤・紅・白・黄・黒色などで八重咲きのものもある。漢名、蜀葵。はなあおい。つゆあおい。からあおい。《季・夏》※俳諧・犬子集(1633)三「作るこそ実名をえたるたち葵」② 植物「えんれいそう(延齢草)」の異名。〔物品識名(1809)〕③ 紋所の名。茎のある葵の葉三つを杉形(すぎなり)に立てた形を図案化したもの。※歌舞伎・日本晴伊賀報讐(実録伊賀越)(1880)五幕「立葵(タチアフヒ)の紋散らしの襖」(精選版 日本国語大辞典「立葵」の解説)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)