六月のみどりの夜は

 改めて梅雨入り?

【水や空】梅雨晴れの空は、やけに明るい。雨雲に覆われた暗い空を見慣れているぶん、余計にまぶしく見えるのだろう。そう思っていたが、6月の空は実際に、1年のうちで最も明るいらしい▲気象を解説する本によれば、夏至が巡ってくる6月は太陽が北半球を強く照らす。梅雨の雲に隠れがちだが、雲の上にはひときわ明るい空が広がるという▲九州北部は平年より20日も早く、5月半ばに梅雨入りし、もう梅雨本番かと思わせる大雨もあった。それが近頃は雨雲が少なく、空が明るい日も多い。県内では気温30度以上の真夏日になった所もある▲それでも好天が続けばやがて荒天になる。若葉が陽光に輝いていても、何日かたてば雨空に変わることを〈木の葉が光ると雨〉と言う地方もあるらしい。木の葉を輝かせる晴天から雨天へ、今がその変わり目なのだろう。県内の天気は下り坂に向かうとみられる▲きょうは雑節の一つで、暦の上での梅雨入りを指す「入梅」だが、「九州は改めて梅雨入り」と知らせるようでもある。天気予報にしばらく晴れマークはうかがえない▲毎年のように暴れ梅雨となるため、同じ場所に長い時間、強い雨を降らせる「線状降水帯」の発生情報を、気象庁は17日から発信する。改めて梅雨入りするならば、梅雨本番への心構えもまた改めたい。(徹)(長崎新聞・2021/6/11)

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 関東の梅雨入りはどうなっているんでしょうと、天気予報屋さんに尋ねてみる気もしない、そんな夏の天候が続いています。「暦の上の入梅」ですから、何もその通りでなければならぬというものでもなさそうです。気が付けば、本日は六月十一日。水無月と言いますが、それはどうしてなのか。これなども諸説ありで、いかにもそれらしいというばかりです。「みなづき・みなつき」というなら、それなりに理由づけもできますが、これに漢字をあてると、たちまち「意味不明」となる、そんな呼称は多すぎますね。(左写真は「(月外れの)みどり」)

○ 水無月・みなづき=陰暦6月の異称で、「みなつき」ともいう。この月は暑熱激しく、水泉が滴り尽きるので水無月というのだとするが、語源的には諸説があり、『奥義抄(おうぎしょう)』は、農事がみな為尽(しつ)きてしまうので「みなしつき」といったのを誤ったのだとし、一説に、5月に植えた早苗(さなえ)がみな根づいた意からだという、とも説いている。今日の陽暦では7月に相当し、常夏(とこなつ)月、風待(かぜまち)月、鳴神(なるかみ)月、水待(みずまち)月など猛暑の季節にふさわしい、生活に根づいた異称が多く、古くから詩歌にも数多く詠まれてきた。なお、この月の晦日(みそか)限りで夏が終わるので、この日をとくに六月尽(みなづきじん)といい、各地の神社では水無月の祓(はら)い(六月祓(ばらえ))が行われる。(日本大百科全書・ニッポニカ)

 いまは梅雨なのか、あるいは夏に至ったのか、それはどうでもいいことで、久しぶりに安東次男さんの「六月のみどりの夜は」を読んでみました。よくわからない、「 いまはただ闇に なみだ垂れ、 ひとすじの光る糸を 垂れ、 あわれ怒りは錐をもむ、 やさしさの 水晶の 肩ふるわせる…… 」と刻む詩の言葉たち。詩人にも怒りに震える、そんな歳月があったのです。

六月のみどりの夜は

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である
それを押しかえして
酢のにおいががだよう、
練つたメリケン粉の
匂いがただよう。
ひわれた机のまえに座って、
一冊の字引あれば
その字引をとり、
骨ばつた掌に
丹念に意識をあつめ
一字一劃をじつちよくに書き取る。
今日また
一人の同志が殺された、
蔽うものもない死者には
六月の夜の
みどりの被布をかぶせよう、
踏みつぶされた手は
夜伸びる新樹の芽だ。
その油を吸つた掌のかなしみが、
いま六月の夜にかこまれて
巨大にそこに喰い入つている。
目は頑ななまでに伏目で
撫でつくされ
あかじみて
そこだけとびだしてのこつている
活字の隆起を
丹念にまだ撫でている、
それはふしぎな光景である
しかしそのふしぎな光景は
熱つぽい瞳をもつ
精いつぱいのあらがいの
掌をもつている、
敏感な指のはらから
つたわつてくるのは
やぶれた肉に
烙印された感触、
闇にふとく吸う鼻孔から
ながれこんでくるのは
はね返している酢の匂い、

五躰は
夏の夜にはげしくふるえている、

かこまれているのは
夜々の風であり
夜々の蛙の声である、
それらのなかで
机は干割れ
本や鍋や茶碗がとび散つて
それにまじつて
酢で練つたメリケン粉の
匂いがただよう、
いまはただ闇に
なみだ垂れ、
ひとすじの光る糸を
垂れ、
あわれ怒りは錐をもむ、
やさしさの
水晶の
肩ふるわせる……
そんな六月のみどりの夜は
まだ弱々しい。
        (1949・5・30事件の記念に)
(安東次男第1詩集。昭和25年(1950)刊。「六月のみどりの夜わ」より)

○ 安東次男 あんどう-つぐお(1919-2002)=昭和-平成時代の俳人,詩人,評論家。大正8年7月7日生まれ。加藤楸邨(しゅうそん)に俳句をまなび,昭和21年金子兜太(とうた)らと句誌「風」を創刊。24年秋山清らの詩誌「コスモス」に参加,25年「六月のみどりの夜は」,26年「蘭」を発表,戦後詩人としてみとめられる。38年「澱河歌(でんがか)の周辺」で読売文学賞。平成3年「風狂余韻」で芸術選奨。著作はほかに「芭蕉七部集評釈」など。41-57年東京外大教授。平成14年4月9日死去。82歳。岡山県出身。東京帝大卒。俳号は流火。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

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 ・子の皿に塩ふる音もみどりの夜(飯田龍太)

 「六月のみどりの夜は」の連想で、「子の皿に塩」と浮かびました。詩と句に、特に関連があるとは思いませんが、「みどりの夜」には人をして何かを仕向ける風があるのではないでしょうか。いったい、何のための「塩」だったかと気になります。「緑夜」「緑雨」「緑野」ときて、夏の盛りをも表示するばかりの豊かさです。 青葉がひときわ映えるの謂い。陽が落ちてもなお、余韻を楽しみたい一時が夜の入り口にはあり、深夜には、「緑の風」がここちよく部屋に忍んで来る風情があります。「緑風」という語もなじみが深い。青葉をゆする、初夏のさわやかな風のこと。薫風 ともいうらしいですね。薫風という「緑茶」もあります。

・薫風や 畳替へたる 詩仙堂(川端茅舎)

・花びらに 風薫りては 散らんとす(漱石)

 今朝がた(十時過ぎ)、かみさんが声をかけてきた。「家の前の通りで、猫が車にはねられている」と誰かに聞いたという。早速、とりあえずはと駆け出していって、みた。相当な速度の車ではねられたようで、即死状態。烏が死体をついばんでいた。まずは道路から取り除こうと、スコップと箒を持ちだして、それを段ボールに入れました。この始末を町役場に連絡して依頼した。三十分ほどで来るという。(小さな猫なら家の庭に埋めることにしています)その前に、六時ころだったか、裏庭の雑草を整理していたら、半人前の「蛇」が目の前で横になって「寝ていた」のかな。軒の真下でした。昨日は夕方に散歩したのですが、なんと「三蛇」も死んでいるのが見られました。きっと車に轢かれたのだと思う。温度が上がると、あちこちに出没する。毒を持ったやつもいます。夏ですね。そして「猫の始末」に戻る。(しばらく中座)

 ぼくは、当家の猫の具合がよろしくないので医者に連れていく。消炎剤と化膿止めをもらって帰ってきたところです。家の前は町道で、車一台がようやく通れる道路なのに、やたらにスピードを出す輩がいるのです。こんなところで交通事故かと思いながら、さてどうしたものかと思案しながら、風薫る…などと、いい気なものだと思わないでもないのです。

 「 きょうは雑節の一つで、暦の上での梅雨入りを指す『入梅』だが、『九州は改めて梅雨入り』と知らせるようでもある。天気予報にしばらく晴れマークはうかがえない 」とコラム氏。梅雨であろうが盛夏であろうが、とにかく「過度」であることだけは避けたいね。ここでの「敵」は自然現象ではありますが、なんだって「過ぎる」のはよくない。加減がいいというのは、人事においても自然の現象についても、案外と難しいものです。たまに口にする「馬鹿」は愛嬌みたいですけれど、「馬鹿も休み休み言え」と言いたくなると、もううんざり。まるで今どきの「ソーリ」みたいだな。いい加減にしてほしい。自覚がないというのは恐ろしい。座った「椅子」や居場所である「立場」でしかものを考えないから、始末に悪いね。もともと椅子はしゃべらないんだが。やたらに武器(立場)を振りまわす手合い、そいつらがいちばんに醜いし、目も当てられない輩だな。(左写真は、京都詩仙堂)

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