職業によって服装がわかるものが多くあります。例えば警察官や消防士。いわゆる制服(uniform)です。軍隊もそうです。他とは区別する必要がある職業があることは認めます。だから制服が一概にいけないというのではなく、必要以上に「制服を着せる」という仕組みが問題である場合は多いようです。例えば学校の制服。制服でなければならぬというところもあれば、どうぞ自由にという「私服」の奨励に努めるところもあります。大切なのは「選択の幅」が広ければ広いほどいいと、ぼくは言いたいんですね。服装は「着脱自由」で、身体と不可分に服装がくっついていたら大変なことになります。「名は体を表す」という以上に「服は人間の身分(地位)を示す」となるのでしょう。

決められた制服ばかりを着せられていると(着慣れると)、服装が自分の分身でもあるかのようになって困らないか、とぼくは心配になります。軍隊が大きな位置を占めていた時代、この島では軍服を始め、軍人に必要なものは「恩賜」だった。つまりは「天皇からの賜り物」でした。だから、貰った服や靴が自分に合わなければ、「身を削れ」と言われたりしたものでした。足の大きさに靴を合わせるのではなく、靴のサイズに足を合わせるという反逆の規定があったのです。今は時代が違うから、そのような不都合がないと言いたのですけれど、どうもそうでもなさそうなんですね。もちろん「制服」を天皇や国家からもらうということはなくなったが、制服というものに対する心持ちは、依然とあまり変わらないようなときもあると思うわれます。制服と似たようなものに「徽章」があります。身分や所属を示す印です。典型は国会議員や弁護士などのもの。これもつけなければならないと法律で定められているようです。

つまり、制服は、着る人にとっては「一種の制圧弁」になっているのです。今でもいうのかどうか知らないけれど、「洋服の乱れは心の乱れ」とか何とか、五月蠅いことを教師は言っていませんでしたか。ぼくはあまり制服に拘らなかったし、「学生服」の五つボタンも嵌めることはあまりなかった。いつでも上のボタンは二つも三つも外していた記憶があります。勤め人になってからも「背広にネクタイ」は好まなかった。どうしても必要な場合はもちろんありましたから、その時にはそれなり(適当)に合わせていたのです。ここでいいたいのは、洋服・制服に明示(あるいは暗示)される「自分の立場」についてです。階級社会だと着る洋服によって身分がちがうことは当たり前でしたろう。着ている洋服をみれば「身分」がわかるというのです。ということは「洋服はスティグマ」だということになります。患者服や囚人服はそれですね。入院者や囚人は私服でもいいとなると、困るのは管理する側です。管理の合理性を追求していくと、制服に番号、これが一般化されてくるのです。「国民総背番号制(マイナンバー)」で縛りたくてたまらない為政者がいる。
スティグマというのは「印」ですが、どちらかといえば「負(マイナス)の印」でしょうか。「恥辱。汚名。負の印。名折れ。烙印 (らくいん) 」(デジタル大辞泉)喜んで「身分章」を着しているのが普通なのか。ぼくはそんなのどうだってかまわないという主義です。身分証も持たなかったし、それで何の不都合も感じないような生き方を望んでいたほどです。何かの事情で勤め先に入るのに「身分証」提示を求められた。ぼくは所持(携帯)していなかったので、そのつど何かの人間であると証明してもらうという煩わしさを経験したが、それ以外は同ということはありませんでした。

肩書や名刺を誇示する人も多いのでしょうが、またそれは企業社会や官僚制度では欠かせない入所儀礼のような方法(礼儀)でしょうけれど、できればそんなのはいらない方がいい。必要に応じて、身分や肩書(があればの話)を名乗りあえばいいじゃないか。ぼくは名刺を持ったことがなかったし、それで通してきました。そのことを「偉そうな」と文句を言われたことがありましたが、何故だかわかりませんでした。
この駄文でいいたいのは「社会は身分や地位や立場の集合体である」という、一事です。人はだれでもいくつもの集団に所属しています。まず家族集団。夫や妻、父や母。これも身分や地位です。あるいは立場でもあるでしょう。会社に勤めると「係長」「部長」「社長」という身分というか肩書があり、学校なら「教員」「教頭」「校長」などという地位があります。たいていの場合、その地位にある人の言葉は「地位」「肩書」「立場」から話すのです。「立場を弁えよ」という謂い方は、このことを指しています。もうかなり前です、ぼくの友人がある企業の「理事」職にありました。ぼくは肩書をもっていなかった。単なる一社員でした。ある問題で幹部の方針を批判したら、その友人が「俺の立場をどうしてくれるんだ」という。つまり、友人というより、立場立場で物事を判断してくれなきゃだめだろ、そう言いたかったのだと思います。ぼくはそんな言い分を無視しました。それで壊れるような「友人関係」なら、いつだって壊れて結構、そんなつもりでしたから、彼は心外だったろう。でも「役職」は短期のものがほとんど。友人関係は生存している間つづけたいもの。土台比較を絶しているんですね。その彼とも、このところ、ご無沙汰していますが。

ぼくはわがままを通してきました。あるいは「気ままな暮らし」を願っていました。そのとおりになったかどうか、怪しいのですが、まあ「偉くはならなかった」と思っています。偉くなると「立場」が重くなるのかなあ、奥歯にものが挟まったような言い方しかできなくなるか、びっくりするほど「地位」や「立場」からものをいう輩も多い。つまりは見下したり見下げたり。地位や立場には「優劣」「上下」があるとみられていますから、おのずと、上下関係がそこに生まれるんでしょうね。ぼくのような無粋な人間は「上下関係、大嫌い」「上司も部下もあるもんか」という姿勢を貫いてきました。「地位」もなければ「名誉」もないという人生でした。「名を成す」「有名になる」というのは、まるで交通事故に遭うようなもの。好き好んで事故に遭いたがる人もいるんだと、ぼくは不思議でしようがなかった。
「君は偉くなるぞ」と、どういうきっかけだったか、知り合いにしばしばいわれた。とんでもない、ぼくはそんなに悪いことをした覚えはないと口に出し、腹の中でも思っていました。「偉くなる」と言われるのは、ぼくには恥辱でした。ぼくは「地位」も「立場」もいらない、それとは無関係、そんな生き方をしたかっただけでした。それでじゅうぶん。ただ腹の中では、「彼がなれるということは、ぼくもなれるということさ」そんなことをいつも言っていた。誰かができるというのは、誰もができる可能性があることの証明です。ただそれを成就するかしないか、関心や動機の深浅、あるいは援助の質などが左右するのでしょうね。
ぼくたちの生きている社会は、さまざまな集団の構成体です。だから「社会・集団(society&group)」というのです。その社会や集団は、くりかえしますが、地位や役割の集合(総合)体だし、人間関係というより「地位同士の関係」が重大視されるんです。上司と部下、部長と係長、これは人間関係ではなく役職に就いた「立場」同士の関係です。立場には上下がついて回りますから、早く上位の立場や役職に就きたい、それが出世主義です。これは、浮世では仕方がないものの、ぼくは嫌ですね。五分五分という「関係」をいつでも維持していたいという、かなわぬ夢みたいなことを追い求めてきたんです。(一面では、LGBT問題は、こんなところにつながっているのではないですか。優劣や上下ではない、水平の関係とでもいうような。「水平状態」も気を許していると、いつのまにか「垂直状態」になる。これは自然現象だろうか)

全面的に「立場」自体を無視しようというのではありません。しかし、必要以上に「立場」でものを言うのは考えものじゃないですか、そんな言い分をぼくは持っているのです。「立場」にあるのは「人間(個人)」、「地位」についているのも「人間(個人)」です。そこを忘れると、信じられない能(脳)天気な事態が生まれるのです。ただ今のこの島の状況に如実に見られます。「立場」と「立場」の闘争です。「地位」と「地位」のぶつかり合い。「椅子」と「椅子」の鬩ぎあい。地位や立場にものを言わせる、だから愚劣が通り、正常が排除される。反対に「「地位」や「立場」を虚仮にしたり無視したりして、泥を塗るとどうなるか。事態は混沌(カオス)です。でも、その混沌から「新たななにか」が生まれるし、生みたいですね。そのためには「立場でものをいうな」「立場にものを言わせるな」「人間(一個人)であることを思い起こせ」と、こんなアホみたいなことを言うほかないんですね。
無理が通れば、道理が引っ込む。馬鹿につける薬はない。ところが、大事なのは「バカにつける薬を見つけること」だし、「引っ込んでいないで一歩前に出ろよ、道理」と手を挙げ、異議を申し立てること。それは、まあぼくたちの役割みたいなものだね。地位や立場じゃないよ。人間(個人)であることの、下の下の(最低限の)役割ですね。役割を「義務」といってもいいけど、堅苦しいから、「役割みたい」そういうのです。そのほうが、「ぼくの好みだ」というばかりです。

「偉そうに」と聞こえないことを願いながら、ぼくは「普段着」を旨として生きていたい。あらゆることに「普段着」です。いつでも、どこでも「普段着」で、ゆったりしていたい。ぼくには制服もないし、晴れ着もない。礼服もなければ、よそ行き服も持たない。でも「普段着」だけはたくさんある。作業服・散歩服・寝間着・雨用の服・その他もろもろ。そのどれもが「普段着」です。「普段着」こそが、あえて言えば、ぼくの「立場」なんだ。発言も文章も、普段着で行きたいな。方も肘も張らない。肩パッドなどはいれない。素のままです。スッピンということ
吉村昭さんは「わたしの普段着」というエッセイを書かれました。早くから、ぼくは彼から多くを学んだ人間でした。若いころ、二十五くらいまでには「小説」でも書こうかと、いくらかの訓練をしましたが、「君に小説は無理だ」と示してくれたのが吉村さんだった。当時、雑誌に出ていた「星への旅」という小説に打ちのめされたのでした。わが身の非才を明示してくださった吉村さんには尊敬の念を持ち続けてきました。その吉村さんにならって(かどうかわかりません)、「普段着はぼくだ」あるいは「ぼくは普段着」という駄文を書いているのです。なんらかの「立場」というものは、ぼくにはまったくないのです。子どももいるし、かみさんもいるから、「親や夫」(という地位や役割)も、まあ一応は現役ですけれど、ぼくにはその意識は稀薄なんですよ。「立場」がないから、何時でも個人の想いや自分の考えを、手前のことばで語ったり書いたりするほかない。まあいうならば、無手勝流の怠け者なんですね。
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