自分の立場に縛られていないか

  【河北春秋】「それが役人だ!」。地球物理学者が言い放つ。「絶対に人間を信用せん。学者も国民も信用せん。衆知を集めるといいながら、その実、知恵の何たるかを見ぬくカンも、洞察力もなく-」▼小松左京さんの『日本沈没』。列島の異変を察知した田所博士が政治機構を痛烈に批判する場面がある。眉をひそめて「本当の将来というものが見えていない」と断じる▼コロナ禍の中の東京五輪を巡り、専門家と政治の間に隔たりがあるようだ。感染症対策分科会の尾身茂会長が「今の状況で(大会開催を)やるのは普通はない」と指摘。感染拡大リスクに関する独自見解を示すという。これに田村憲久厚生労働相は「参考にするものは取り込むが、自主的な研究成果の発表だと受け止める」と述べた▼菅義偉首相は緊急事態宣言の運用を巡り「専門家の意見を伺った上で判断」と繰り返し、重要局面では尾身氏に助言を求めてきた。「お墨付き」を得ながらも意に反すれば「自主研究」。これでは都合の良い二重基準に映る▼『日本沈没』の田所博士は政府の地震懇談会で首相に「為政者として、かなりな覚悟を」と直言。物語は緊迫の度を増す。専門家による五輪への提言は来週にも示される。社会の関心は高い。「自主研究」と決めてかかるのは傲慢(ごうまん)だ。(河北新報・On Line News・2021/06/08)

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 政府の設置する委員会や審議会は、基本的には権力側に与する人たちしかメンバーにならない(なれない)。政府の中枢に弓を引くような存在が委員会や審議会の中に入ることはあり得ないからです。コラム氏が指摘している厚労大臣と分科会委員長の対立のような構図が果たしてあり得るのかどうか。委員長は、やはり厚労省の医系技官だった人で、半ば以上に政府側寄りです。そこで何を言ったかなどが問題になること自体が笑うべきだし、「五輪を中止しなければ」などという発言は死んでも言わないことになっています。そもそも、政府の委員会や審議会のメンバーになること自体、学問研究の観点から見れば、実に笑止千万なこと。政府の方針に批判を浴びせるくらいはあっても、それを根底から否定するなどということはあり得ない話です。でなければ、五輪開催問題がここまで混乱の中で泥沼化しなかったでしょうから。原発関連の委員会を見れば誰でも納得するはずです。すべては「同じ穴のムジナ」(狢には申し訳ないが、人間と一緒くたにしてしまいました)です。タヌキがタヌキを貶したり笑ったり、それは鏡に映った「自分」に対してなんだね。みんな仲間なんだよ。(そのような人々には、人間的には欠けたものがあるし、まともな感覚からすれば、いかにも恥ずかしいというほかない。そこまでしてまでも権力側に一ミリでも近づきたいんですからね)

○ ムジナ【ムジナ(狢∥貉)】=イヌ科のタヌキあるいはイタチ科のアナグマの異名。渡瀬庄三郎によれば,東京以西では動物学上のタヌキを正しく〈タヌキ〉と呼ぶが,これは比較的新しいことばであり,古くはタヌキを指してムジあるいはムジナと呼び,アナグマをマミあるいはササグマと呼んだという。しかし,これは必ずしも確かではなく,タヌキとアナグマの双方をムジナと呼ぶ地方もある。【今泉 忠明】[民俗]ムジナはタヌキと同じく人間を化かす,また大入道その他の怪物の姿で人をおどすともいう。(世界大百科事典 第2版「ムジナ(狢∥貉)」の解説)

 今回の東京五輪は、いつも以上に政治問題化しています。というか、政治問題化しなければ、この問題は起こらなかった。五輪を東京でふたたび開くこと自体が政治問題だったということです。何時だって、どこの都市で開かれようと、五輪は政治問題そのものになってきました。いろいろな意味で、それは政治問題化にされているのです。今回が初めてではない。商業化が限界まで進んだ結果、開く開かないを通り越して、五輪で稼ぐ算段をしている政治家や経済界の連中やら、マスコミ関係者、あるいはIOCを筆頭とする政治ゴロたちの暗躍する舞台でしかないからこそ、この問題は泥沼化してしまったのです。スポーツの記録をめぐって繰り広げられるというまともな五輪はおそらく、八十四年のロス大会の段階で、もう終わっていたのだと、ぼくは言いたいですね。嘘と知りつつ、「スポーツの祭典」とか、「平和の祭典」などという大げさな幟を立てなければ、五輪を堂々と開く根拠がなくなったのです。

 ぼくはスポーツは大好きだが、五輪は好きではない。スポーツは好きだが、プロスポーツは好きではない。ショーとしてなら、見るべきものがあるに違いないが。もちろん、職業としてスポーツをやることに異論はないけれど、それに便乗して、あるいは興奮して、その「旗」を振ろう、提灯を持とうという気はないのです。野球でもサッカーでも、素人としてやることは大賛成。でもそれを職業としてやる選手たちを応援する、贔屓にするという趣味はぼくにはない。大坂直美さんの記者会見拒否問題が、先ごころ騒がれましたが、ぼくはたんに大坂さんの姿勢を尊重すべきであり、スポーツマインドで対するべきであると言っただけでした。

 言うまでもなく、大坂さんも職業選手で、年収はなんと六十億円だというのですから、桁違いに裕福な選手であると言っていいでしょう。そのことにぼくには関心がない。いくら稼ごうが、それはまた別の話です。それと、こちらの方が重要だと思いますが、テニスの四大大会というのは「一種の殺人ゲーム」のようなところがありはしないか。テニスというゲームをはるかに突き破っていると思う。スポーツが「勝ち負けを競う」ことだけに特化すると、それは別種の種目(争い)なるんじゃないですか。それをはたから「応援する」というのは「闘鶏」「闘牛」見物や応援と違わないんじゃないですか。スポーツというものの限度を越えていると思う。

 「日本沈没」は千九百七十三年に刊行された。すでに半世紀になろうかという時間の流れです。小松さんの指摘とは趣はやや異なるが、確実にこの島社会は沈没していっている。まだ沈没現象は終了してしていない。官僚批判が指摘されているのですが、今はどうでしょう。官僚もすでに沈没しており、昔日の面影は、いい悪いは抜きにして、ありません。文字通り過去官僚です。政治家はゴミですし、官僚はゴミに巣くう水虫みたいなもの。これほどまでに人民の不幸をあざ笑いながら、利権や権益の拡大に勤しむ政府・官僚が国家を運営しているということが、まるで冗談のような様相を呈しているのです。そのような魑魅魍魎に憑りつく経済界の金権亡者も凄まじい限りです。瓢箪から駒(馬)といいますが、冗談から死臭と来たなら、もはや救いはないのです。「国民の安全・安心」を守り抜くと言っているそばから、連日百人からの人民が死んでいるのです。ソーリになってはいけない人物が表に顔を出している、そもそもの間違いではないでしょうか。その間違いを犯している一半の責任は選挙民にあることは否定できないから、そこにも責任は生じるのです。

 ここに来て、それぞれの要路にいると自認しているものどもは、「自らの責任回避」行動を始めている。いろいろな不協和音が流されるのはその証拠です。自分では精いっぱいやったが、最終判断を下す責任はなかったと、私腹は肥やすだけ肥やし、権利や権限は好き放題に行使した挙句に、「責任はなかった」と逃げの一手です。これをどうするか。まず「前総理」を捕縛し、ムショに放り込むことから始める必要がありそうです。大掃除のためには、大きなゴミを片付けつつ、次第に細かいところまで洗い流すのです。責任を問われるべき関係者が挙って無責任を標榜しているという、世も末の状態にぼくたちも道連れにされているのです。この絶対絶命の事態に遭遇して、ぼくたちは、自分の責任で何をしなければならないか、それに対して、少なくとも目を瞑たないことです。そうしなけれな、「日本はまだまだ沈没中」となるほかないのですから。ぼくたちは確実に沈みます。

 社会という語はいろいろに使われています。しかし基本の意味は「地位(立場)群」の集積です。親の地位・社長の地位、総理の地位・官僚の地位などなど。その地位には、それぞれには決められた「立場」「役割」があります。社会というのは、この「地位と立場・役割」を弁えながら、度を越さない限りでは何とか調和を維持していけるのです。しかも、それだけでは「停滞したまま」できっと滅びます。ところが、地位を外れたり、立場を弁えない人が出てくると、混乱が生じる原因となるのです。立場を守っている限り、安泰なのがこの社会です。しかし、時には立場を弁えない人が出現すると混乱しますが、時には、そのような「弁えない存在」が決定的には重要になるのですね。何処にでもあることですが、この地位や役割、あるいは立場を作ったのはだれか、という問題をこそ、問わなければ何事も始まらないだが。

 「自分の立場」を裏切れ、そこから(自他に)何かが生まれる。着脱可能な「衣」である「立場を脱ぐ」と、どうなるか。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)