【正平調】「最後の一葉」という小説がある。主人公は肺炎を患う女性。「窓から見えるツタの葉が全て落ちたら私は死ぬ」と悲観する。それを聞いた老画家はツタがはう壁に1枚の葉を描く。嵐でも落ちない葉に励まされ、女性は生きる力を取り戻す◆草木が懸命に生きる姿は人間の命を鼓舞する。姫路市夢前町の樹木医、宗實(むねざね)久義さん(72)もそう考える。それゆえ社寺や庭園の名木だけでなく、民家の庭木も診ている◆ある時、岡山県美作(みまさか)市の夫婦から依頼があった。95歳の父が生きている間、マツを枯らさないでほしい。毎日、縁側で眺める大切な存在だ。マツ枯れで手遅れの状態だが、宗實さんは異例の延命治療を決意する◆普段は、回復が見込めない木の治療は断っている。家族の熱意に打たれ、注射などの治療を尽くした。お父さんは2カ月後に旅立つ。ひつぎにはマツの枝が入れられた◆物語はまだ続く。1年後、福島に住む娘や孫娘が津波にのまれた。見つかるまでマツを生かして、と夫婦は願う。宗實さんは枯死が迫る枝から種を採る。成長した苗が庭に戻った後、最後に孫の遺骨が見つかる◆「マツは残された力を振り絞って、家族の希望に応えたのだと思います」。命あるもの同士。思いが響き合うのは何ら不思議ではない。(神戸新聞NEXT・2021/06/07)

もともと、緑が好きだったというしかありません。緑の溢れかえる森や林に入り込むのも、山に登りたくなるのも、出発はすべて緑好きからでした。今は山中(というほどでもありませんが)生活で、見回す限り緑や青緑の天国のようでもあります。一昨日だったか、拙宅前のお宅にいつもの植木屋さんがはいって剪定をされていた。それをじっと見ているのが堪らない貴重な時間ですね。ぼくは大工仕事でも何でも、見物というのか、何もしないで見ているだけで楽しいんです。これまでどれだけの職人の仕事を見てきただろうか。発端は、まだ小学校に入る前、能登中島にいたころです。近所に「鍛冶屋」さんがあった。「しばしも休まず、槌うつ響き、飛び散る火花や、走る湯玉」という唱歌がありました。まさしく歌通りの光景が眼前に展開していました。実に感動しました。それは同級生のおじいさんの仕事場だったように思います。鞴(ふいご)というものを動かして火勢を調節しながら、鉄の容器を作っていく。それを飽きもしないで何時間でも見ているのでした。真っ赤な鉄の塊を叩いている職人の顔は思い出せないのですが、その姿ははっきりと記憶に残っている。その鍛冶屋さん見物は、小学校一年か二年生の頃まで続いていたのでした。まず「現場」に。

一枚の鉄板が次第に形を成していき、やがて鍋や鎌や包丁になる。それが不思議でもあり興味津々だった。その後も職人さんの「現場」への接近は続いていた。大工さんたちの現場とは、何もない更地に時間をかけて建物を作っていく、おどろくべき工程の連続でした。見事というほかない仕事ぶりです。この仕事に興味を持ったのも、鍛冶屋さんの時とほぼ同時期でした。能登の田舎(だけではなかったろう)では、住宅などを建てるのも、村の主だった大人が総出で参加する(これを「結い」などと称していました)。建前などと言って、基礎作りから棟上げまでを一気に仕上げ、それからは藁壁塗り、屋根ふきなど、やはり半玄人の村人が引き受けていた。毎日現場に通って、じっと見ているだけで、ぼくの気持ちは充実していたと思う。また、かならず棟上げ式というものを行い、お祝いのお餅やお菓子を屋根から撒いた、それをもらうのも楽しみだった。まだ「建築基準法」のない時代でした。あらゆることが「自給自足」に発していたのでした。ぼくが職人の仕事に魅せられてきたのは、すべからく「現場」でことが終始すると言う一点にありました。言い訳は無用、仕事の中身で勝負する、そんな世界に惹かれたのだと思っています。

近年、樹木医という職業が盛んに知られるようになり、何かと報道されるようになりました。その命名ぶりは、あまりいただけない気がするのですが、それぞれの仕事ぶりを見ていると、「お見事」「及び難し」という簡単あるのみです。さすがプロだと感心するのです。もちろん以前には、この「樹木医」という言葉はなかったが、同じような植木の見立て、養生を専門的にやる人はずいぶんといたし、植木屋さんなら、植物に関するどんな仕事も職人技の範囲に入っていたのです。ここで、京都御室の仁和寺の植木屋だった「植籐」について話したいのですが、すでにどこかで触れましたので、本日はしません。その代わりと言っては何ですが、女性の「樹木医」さんをご紹介したい。植物を扱う姿勢は、どういうわけか、子ども育てる「養育・教育の仕事と重なるのです。
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はままつフラワーパーク理事長 塚本こなみさん 花と緑 宝探して ◆女性視点で造園学んだ
浜松・舘山寺の観光スポット、はままつフラワーパーク(浜松市西区)は十日に開園五十周年を迎える。二〇一三年に理事長に就任した塚本こなみさん(70)=磐田市出身=は国内初の女性樹木医でもある。閉園の危機を乗り越えるため、花の魅力を体感できる場所づくりに取り組んできた。 (聞き手・渡辺真由子、写真・畦地巧輝) −樹木医になったきっかけは。 庭を造る仕事をしていた今の夫に出会ったこと。二十二歳で結婚して、子どもが幼稚園に行くころから現場の打ち合わせに参加するようになった。造園業は99%が男性。当時、設計する女性はいなかった。 当時は「女のくせに」とたたかれたけど、女性の視点で庭を造ることも必要だと思い、三十五歳で会社を立ち上げた。四十二歳の一九九二年に樹木医の資格試験を受験。合格した八十人の中で女性は私一人。メディアに取り上げられたが、ただ珍しかったということ。樹木医になってからたくさん勉強した。 −無理だといわれていた直径一メートルの大藤の移植を成功させたのは有名だ。 樹木医になって一年の九三年ごろ、栃木県足利市内にある藤を、約二十キロ離れたあしかがフラワーパークに移植する依頼が来た。五、六十社断られていた。当時、藤は直径六十センチまでしか移植できないといわれていた。六十センチができたなら一メートルでもできないわけはないだろう、という気持ちで引き受け、九六年に成功した。移植後も足利に通い十八年間、移植した藤の治療や観光植物園がどうあるべきかを学ばせてもらった。(以下略)(中日新聞・2020年9月5日)(https://www.chunichi.co.jp/article/115814)

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宗實さんについては、この記事で初めて知りました。これから、彼については実際の仕事などを通じて勉強したいと考えています。コラム氏は「最後の一葉」から書きだしています。ぼくはこの短編を遥かの昔に読みました。教科書にも出てもいました。印象はほとんど残っていません。なぜだか。ぼくの感受性の問題だったように考えたりしています。これは感動ものだと言われると、もう駄目なんだね。しかし、さらに思ったのは「事実は小説より奇なり」という言葉からの連想です。まあ、小説は、やはり小説です。小説より何万倍も「奇なり」という事実はありますし、「見事なり」という事実も日常生活には溢れています。ぼくたちが気づかないだけでしょう。こと植木に関しては、この手の話は無数にあるし、あったし、ぼくでさえいくつも知っています。それをここで示そうとは思わないのは、それが何か特別なことではなく、当たり前の職人仕事だったからです。

もちろん、塚本さんや宗實さんたちの仕事ぶりは「お見事」という意外に言葉がありません。お二人には敬意を表するものです。ぼくの中には、植物信仰があって、「木は死なない」というものです。屋久島の縄文杉を持ちだすまでもなく、この島には数千年の樹齢を記録する樹木は無数にあるのです。倒木は新たな木の誕生にバトン(次代)を引き渡すために倒れるのではないでしょうか。ぼくは根っからの樹木好きだし、昨日も植木の剪定をしていました。本職に煽られたわけではありません。いわば、「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということになるかもしれない。植木に限らず、ぼくはすべての作業を「見よう見まねで」でやってきました。大工仕事も機械いじりも自転車や自動車の修理も、大ごとでなければ自前でという流儀した。今は「資格の時代」です。国家認定の紙切れがないと、検査に合格しないのですから、矛盾しているし、不合理極まりない話です。
植木を勝手に切ってはならぬ、「国家資格」を所有する者でなければ、それを許さないということになるかもしれません。国家認定というのは、一種の詐欺行為で、資格を取得するために、大枚の金を召し上げられる。現下のワクチン接種も「接種済み証明書」がなければ、電車にも載れなければ、買い物もできないという、あるべからざる事態が近づいているような気がするのです。国家の専横は、いつしか「四角四面の社会」の、欺瞞充満時代の到来につながります。だからこそ、「玄人はだし」を実践したいんだね、ど素人のぼくは。つまり「見様見真似」というのは昔日の教育方法だったし、今でも必要とされているものです。自学自習が基本であり、見習う、聴き覚える、それが修行そのものだった時代の教育の正しさを、ぼくは再評価したい。時間がかかる分、それだけ人間の背骨も太くなる。その修業は、だから、技芸に上達すると同時に、「人間の成長」をも促したのです。いくつになっても、何でもかんでも他人から教えてもらう、いやなことじゃないんですか。
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