「リスケのご連絡」だってさ、困ったねえ

  【明窓】リスケって何? 届いた電子メールの表題を見て、思わず首をかしげた。<リスケのご連絡>。差出人は初めてやりとりする内閣府の職員。リスケって何?▼調べると日程を再調整する意味の「リスケジュール」の略語だった。東京・霞が関で取材する30代の同僚に聞くと、「役人や経営者たちの間でよく使われているが、最初は自分も意味が分からず、戸惑った」という▼もともと、ある大臣が地方新聞社の論説委員とリモートで懇談したいという誘いが発端だった。国会会期中で日程が急きょ変更になるのは理解できる。ただ、内容を記録・公表しないのが参加の条件。「地方の意見も聞きました」という〝アリバイづくり〟に利用されているとの疑念が払えない上、軽さを感じるメールの表題に「<リスケのご連絡>じゃなく<日程再調整のお願い>だろう」と批判が口をついた▼これに限らず、最近は難解なビジネス用語が散見される。ウィンウィン(双方に利点がある良好な人間関係)には慣れてきたが、コミットメント(約束、深い関与)、アジェンダ(検討課題)などと自慢げに言われると、「日本語で話せ」と怒りたくもなる▼きょう6月6日は、怒りやいら立ちをコントロールする「アンガーマネジメントの日」。怒りが「ム(6)カム(6)カ」と表現されるのが由来で、怒りのピークが持続する時間も6秒だ。難解な用語にも、6秒数えて心を落ち着かせる。(健)(山陰中央日報デジタル・2021/06/06)

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 これまでなら「日本語の乱れ、許さん」と一刀両断されてしかるべき、乱雑・乱暴きわまる誤用の氾濫です。今はネットの時代、可能な限りで簡略・省略が求められるのでしょう。まるで極端に短くされた電文のようでもあります。あるいは、ある地方の語「どさ」「ゆさ」と似ていなくもない。簡略語法の普及はなにを意味しているのか。つまらない問題でもあるし、ぼくにはこれという理由も見つけられそうにありません。ただ一つ言えるのは、言葉を尽くすという「礼儀」の欠如、それも決定的な欠如を示すだろうということ。相手はだれであれ、人間であれ、動物であれ、生きている・いないに関わらず、文字数は短略を以て旨とするという時代のど真ん中です。「無礼横行の時代到来して、すでに久しい」というべきか。

 コラム氏が書く「官庁の役人」のメールの目的は何だったのか。今は学校で丁寧語だの尊敬語、あるいは謙譲語などを学ぶ機会があるのでしょうか。この内閣府の一吏員に失われてしまったのは「丁寧語」であり「尊敬語」であり、そのニュアンスを含んだ語を使うという、話し相手を思い遣る能力です。代わって、彼や彼女に満ち満ちているのは「見下し語」「侮辱語」「侮蔑語」「偽装丁寧語」などではないでしょうか。自分と同等ではない、いや自分の方が立場が上という「上等な立場主義」が蔓延し、充満しているのがただ今の、ネット時代に生きる輩(ともがら)の住む世界です。これはネットだけに限りません。いまだに終了を見ないのが「電話魔」の出没です。オレオレ詐欺はその典型でしょう。話す相手を騙す対象としか見ていない、そんな言葉が重宝されているのです。詐欺や騙しが通用しないと、「マジでキレる」から、まあ質が悪いと言うほかない。

 かなり前のできごと、おそらく高校時代の授業の一コマでした。その光景をぼくはいまだに鮮明に覚えています。天井から水が漏れてきて、教室内が水浸しになったというのではない。もっと驚嘆すべき事件でした、ぼくにとっては。教師に指名されて一人の生徒が何かを言った。「それは全然、いいです」とか何とか。教師はそれに対して、いきなり怒り出した。多分、その時代は「怒りの日」はあっても、それを「抑える日」はなかったと思う。教師曰く「『全然』というなら、その次には必ず否定語が来るんや」「そんなアホな使い方をして、どもならん」とか何とか。さすが国語の教師と、ぼくは考えもしなかった。なんというぼけたことを言うおっさんやろか、クラスメートの表現に間違いはないんや、と。「全然」の次に来るはずの「否定語が省略されている」と、その教師は夢にも思わなかったんだね。生徒は意識していなかっただろう。しかし、「全然(文句もいえんほど)いい」といっただけだった、とぼくは直感したんだから。「教師はアホや」というのか、「アホが教師をやってる」とみなしたか、教師に対する信頼感がさらに薄れていったのは確かです。何時からか、その教師は「代用教員じゃ」という噂が流れていました。「資格」がないという意味だったか。

 「リスケ」はどうか。ぼくはこんな手合いに付き合いはないので、何とも言えない。リスケであろうがリスクであろうが、勝手にお使いくださいと言っておきます。このところやたらに耳に聞こえて、いやな気分に襲われる表現に「人流(じんりゅう)」があります。どこかの知事が恥ずかしそうにではない(彼女に恥という感覚はないのは確かだから)、遠慮しがちに使っていたが、やがて大手を振って「人流」がまかり通っている。きっと「物流」への対抗心を燃やした役人が作り出した堕落語の一つだろう。「俗物流行語大賞」の立派な候補になるはず。言葉が乱れるのは、言葉が生きている証拠。脈拍が乱れるのは心臓が活動している証拠だと、そんな乱暴なことを言っているのもつかの間です。明治このかた百五十年、いったいどれだけ「言葉が乱れている」と言われ続けてきたことか。アルタミラの洞窟の壁だったかメソポタミアの穴倉の壁だったかに「近頃の若い者は、どうにも仕方がない」という趣旨の年寄りの小言が残されているという。それでは、現代のアルタミラの洞窟は「新聞コラム」か、あるいは「テレビのワイドショー」か。この「洞窟」の残存期間は数時間という短さもまた、今風ですね。それ以上に、新聞もテレビも「俗流・流行語大賞」の万年候補なんだろうね。

  「最近は難解なビジネス用語が散見される。ウィンウィン(双方に利点がある良好な人間関係)には慣れてきたが、コミットメント(約束、深い関与)、アジェンダ(検討課題)などと自慢げに言われると、『日本語で話せ』と怒りたくもなる 」と言われるが、実はカタカナ語は「日本語」なんです。話し手も聴き手も「カタカナ語」という認識がないのはどうしたことか。カタカナは外国語だというのは「早とちり」「ああ、勘ちがい」です。「アジサイ」は日本語だというのは牧野富太郎さん。

 「いまはちょうどアジサイの時節で諸処人家の庭にそれが咲きほこって、その手毬のような藍色花(時に淡紅色のものもある)が吾らの眼を楽しませている。アジサイを昔はアヅサヰとも称えた。そしてなぜこの花をそういうかというと、彼の大槻先生の『大言海』には「集真藍(アヅサヰ)」とある。すなわちアヅは集まること、サヰは真っ青なこと、それでアヅサヰ、あるいはアヂサヰの名ができたといわれる。谷川士清(コトスガ)の『和訓栞』にはアヂとはほむる詞、サヰとは花の色をいうとある。どっちが本当か。/ サテ、このアジサイを紫陽花と書くほど馬鹿げた名はない(以下略)」(牧野富太郎「花物語」ちくま学芸文庫、2010年)

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  他人の使う言葉にいちいち文句をつけていた日には、「怒り」が全身を包んで火ダルマならぬ怒りダルマになるのが落ち。せいぜい、いい空気を吸って欠伸をして、「怒り」を退散させるに越したことはない。これは昔から、ネコに学んだ「健全な精神性」の養成法だ。猫の欠伸を見ると、何故だか安心するのです。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。